どこまでが私で、どこからが決められた枠なのかなんて

可愛くなりたいな、と思う。

もうちょっと痩せたいな、と思う。

もう少し鼻が高かったら良いかもしれないと携帯画面に表示される女の子と、鏡に映る自分を見て思う。

真面目に授業に出て、ちゃんとレポートを出す。

自分を典型的な真面目な学生だなとか思ってみる。

授業を休んで遊ぶ友達のインスタを見て、私はそっち側になることなんてあるのかなとも。

ネットの「女の子が可愛いという枠に収まるのは違う」みたいな主張を目にして、携帯の画面をスクロールしていた指が止まる。

そうだなあ、と息をはいた。
可愛いって尺度だけで自分が測られたり、女ってだけで枠を指定されるのはだるいなあって思う。今まで型にはめこまれたイメージやこうであるべき!ということを散々私たちは信じてきてたかも、と思う。

あー、でも私が可愛くなりたいって思うのはどこまでが私の意思で、どこからが決められた枠なのか。

真面目な大学生でいようと思ったけれど、どこまでが私の意思で、どこからが決められた枠なのかな。

自分の意思で決めた!と思っても、その決定全てが私自身で、私が心から望んだと言い切れるのだろうか。

私がなりたいと思う容姿が、偶然に社会が褒める容姿と合致していたわけがなくて、もし体重が重い方が良いとされる社会だったら私は細くなりたいと思わなかったと思う。

ありのままでいる方が良いとされても、それって難しくて、私が社会の褒める容姿、学生になりたいと思うのが私の欲だとすればそれは「私のありのまま」なのだろうか。

私の褒められたいという欲は何パーセントが私の心から出た素直な意思で、何パーセントが褒められることが良いとする社会がつくったものなんだろう。

そんなことを考えるのさえ、どこからが、どこまでが私なんだろう。

何からの影響も受けてない、まっさらな私なんて何の意思もない人間なのかもしれないと思って授業開始の鐘が私を呼び戻した。

ちょろい女子大生の川添理来です。