旦那さん


#創作大賞2023 #オールカテゴリ部門

#旦那さん#借金#借金問題#酒#アルコール依存症#義理家族#病気#肝硬変

わたしは絶対に義母を許せないんです。

わたしの旦那さんは2021年の夏に
亡くなりました。
49歳でした…。
肝不全、腎不全から肝腎症候群を発症してしまってからは10日で逝ってしまいました。

旦那さんをあんなにも精神的に追い込んだのは、彼の実の母親である義母です。
亡くなってこのまま全てが終わり…だなんてわたしは到底納得できません。
あまりにも可哀想過ぎるし、このまま終わらせたくはなくて、ここに彼への想いを込めて書いてみようと思います。
記憶をたどりながら、あの日々のやるせない想いが湧き出しています…
思い出せば頭が痛くなるし、本当ならあんな日々の記憶なんて消えることなら消してしまいたいです。

『俺、弱虫だから…ダメだったな…
本当にごめん、お前の人生もめちゃくちゃにしちゃった…』

腹水で大きく膨らんだお腹は呼吸を苦しくさせて話す力もどんどん弱々しくしました。

『今さら謝られても、もうどうにもならないよ…でもパパがこうなったのは弱かったからだけじゃないよね。
そんな風にみんなに誤解されたままにはしないからわたしは真実を伝える』

わたしと旦那さんが
家でゆっくりと会話したのはこれが最後だったと思います。

わたしと旦那さんとは子連れ同士の再婚でした。
旦那さんは一回り程歳が離れた、歳の差夫婦でした。
旦那さんとは以前からの知り合いだったのですが、お互いに離婚を経て、何年振りかに連絡をとったことがきっかけになり、その後お付き合いが始まりました。
わたしは大きな裏切りの離婚を経験した後で、心身共にヘトヘトに疲れていました。旦那さんのことがすごく包容力があるように見えていました。
この人はきっとわたしを守ってくれるだろう…あの時はそんな風に思っていました。
旦那さんの気持ちもそうだったに違いありません。
当時4歳のわたしの息子は旦那さんにとても懐き、旦那さんもとても可愛がってくれました。
旦那さんの子どもは16歳でしたが、素直でとてもいい子です。
わたしたちは結婚を決めました。

旦那さんと籍を入れ、一緒の暮らしがはじまりました。しかし、ここでわたしにとって気が重いことがありました。

それは義母と義妹とその娘さん2人も同居していたから…
旦那さんに長男、わたしに息子、そして居候の方々…の大大家族が出来上がりました。
なぜ、居候と呼ぶかというと
実家と呼ぶの?と思うからです。
親の家ではなく、今現在、私たち夫婦がローン返済のこの家は実家ではないと思うからです!
居候と思っていただかないと…

既に他界していた義父は銀行に返済をしていなかったので築30年以上の家に1200万円もの借金が残っていました。

その家を旦那さんが相続したので返済をしているとのことでした。
ローンは誰にでもあることだから仕方ないのかな?とその時は思っていました。

義妹は義父の死後に実家に出戻りをしてきていました。
わたしよりも前から住んでいます。

義妹は、わたしの引っ越しが決まると、その前に慌てて2階の物置き部屋を片付けて中学生になる自分の娘に使わせることにしました。
その時に旦那さんには相談とかはなく、勝手にやったようでした。
その部屋はわたしの息子に使いたかったのに先に取られてしまいました。
なんなんだろう?ずいぶん勝手な義妹だな!と思いました。
敷地内同居で家が建っています。母屋とわたしたちの暮らす建物は、2階の部分で繋がっています。母屋側にお風呂と洗濯機があるのでそれは共同です。
わたしたちの暮らしていた側の建物は結婚時にはローンが既に終わっていたようなので、義母と義妹の暮らしている母屋の返済を旦那さんがしていました。
あちらの母屋の返済は義両親のどちらも払う気がなかったようで放置していたという信じられない家です。
義父が亡くなった時にローンがなくなるような保険には入っていなかったのか?と聞いたことがありました。
この家のローン返済は、それどころではない状態だったらしく後で調べてわかったことは、義父が生きてた時から何度も差押えになった記録があって、返済ローンを払えずに銀行から連絡が来ると利息だけを払って、差押えを解除してもらう家だったのです。

義父が亡くなった数日後に、銀行から担当者が相続の書類を持ってやってきたそうです。
旦那さんによると、息子なんだから相続するのは当たり前だというような話をされたと言っていました。
そして判を押したと言っていました。
その瞬間から、旦那さんの人生が狂い出しました。

わたしには疑問がありました。
義母は、彼の親ですよね?
なぜ相続すると言った息子に、他にもたくさんある借金の事を伝えなかったのでしょうか?
なぜ息子と家のことや、今後についての話し合いをしなかったのでしょう?
義父が亡くなるまでに入退院を繰り返し、1年くらいの猶予があったそうなのですが…

みんなで話し合いをする時間すらとらなかったことが、わたしには全然わからないのです。
そして借金がわかっていながら相続放棄という手段をとらなかったことが謎です。

義母が隠していたからなのか?
旦那さんは騙された…と言ってたから、きっと他の借金は隠したまま旦那さんへ押し付けたんでしょうね…
こんなに借金があることを知らされていたなら…相続放棄したのに。

それまでの旦那さんは交友関係も広く面倒見も良く、たまにお酒で問題児にもなりますが、何かあれば先頭に立って解決しようとすることあり、みんなからも慕われるし、可愛がられ上手でもありました。
とにかく人付き合いは多くて大変なくらいではないかと思うほどです。
でも本人はそれが嬉しいのです。
頼られることが好きでした。

面倒見が良いと言われる旦那さんは周りからの目がありました。
義父が亡くなったあと、
『お袋さん大事にしろよ!』
『お前の親父さんとお袋さんにはガキの頃から世話になったよ!親父さんに頼まれてんだ!今度はお前がお袋さんを守ってやれよ!』
旦那さんには何百回も呪いの呪文のように聞こえていた事でしょう。
家飲みの時だけですらわたしだって何十回と聞いた言葉です。
旦那さんはどんどん重い鎖にがんじがらめに巻き付かれて行ったんだと想像できます。

騙されて相続してしまった借金…
きつい返済金

家の借金1200万円は利息14%です。
毎月の返済に10万円を支払います。
バブルに義父が買ったという土地は
置き場にしていて借金が残り400万円
毎月の返済に4万円支払います。

毎月14万円を親の借金の為に支払っていました。
自分の生活もある中で親に14万という額はそれはそれは大変でした。

籍を入れて数日後、わたしと息子の健康保険証が届きました!
旦那さんは自営業なので国民健康保険証なのですが、なんだか保険証の仕様が普通とは変わっていて、しかも1ヶ月間有効になっていました。

毎月、役所にお金を払いに行って保険証をもらうというシステム?
何それ?

なぜかというと、国保も市民税も滞納をしていたからなのでした。

滞納が始まった日付けを調べると、
前妻がこの家を出て行った時からの滞納のようでした。
後から聞いた話しによると、前妻さんは借金を相続してしまった旦那さんと、このまま一緒に居てもお金は貯められないと離婚を決意したそうです。

『全部が全部、俺が払える訳ないじゃん!』
わたしとの結婚前からローンの返済だけで目一杯だったと…
えー?滞納まで知らなかった…まぢか…

いやいや、払うしかないんだよ!
おかしいよこの家の人たち!
家の借金だけで一杯一杯で無理?
それは違うよね?
だからね、旦那さんだけが払うのではなくて、この家にはいっぱい働き手がいるじゃない?みんなで協力すればなんとかなるでしょ?

しかし、旦那さんは以前に返済の協力要請を義母にはしたと言っていました。

『相続したんだからあんたの借金だ!』
と言われたんだそうです。

騙して相続させたのに?

仕方なく私の実家に相談することにしました。
滞納していた税金の総額の270万円を貸してもらいます。
ちなみに270万円の中には、旦那さんが義妹の元夫へ売った車の名義変更がされてないまま放置されて、姿をくらましたとのことらしく税金も滞納された状態になっていると言っていました。最悪…

結婚してすぐにわかった借金が
1200万円の家の借金
400万円の置き場土地の借金
270万円の市県民税・車税

毎月の家のローンの返済額を減らして
期間を伸ばしてもらい
月6万円にしました。
置き場土地のローン4万円。
わたしの実家へ
返済5万円になりました。
実家に借りることになったのは親の借金のせいなので、義母が安心してこの家に住んでいて、しかも昼間から健康センターでに遊びに行っているのは旦那さんが借金を払ってくれてるおかげなので、わたしの実家に協力をありがとうございます!
くらい伝えて欲しいと言ったところ、義母は渋々わたしの実家へ電話して
『…どうも!』
とだけ言ったそうです。
旦那さんには何で嫁の実家に電話なんかしなきゃいけないのか?と言っていたそうですから、義母にしたら相続したんだからあんたの借金だ!と言った人種なので、
『どうも』なんてことは到底、腹の底から思ってもいなかったでしょう。

ここから旦那さんとわたしは、毎月の借金返済総額が15万円になりました。

この時、義母は63歳くらいでまだ働けるし、義妹は35歳くらいで休みがちの派遣社員だけど実家住みの家賃もかからないです。わたしは短大で資格取得の為1年目でアルバイトをしていました。結婚するなら資格をとりに短大に入る必要はないのではないか?と
実家の両親に言われましたが、結婚しても絶対にココに居る限りは働くことになるから資格は取っておきたいと考えて通いました。

そして、みんなで協力して家のローンを返して行けるのでは?と思ったのですが…甘かった…やはり協力はなしでした。
そしてこのとってもおかしな同居生活がスタートしたのです。

まず驚いたことは
最初のお正月、義母と義妹と娘たちに
旦那さんからお年玉を渡していました。一万円ずつ…?
義母と義妹にはおかしい!と旦那さんに訴えましたが毎年のことだったらしく渡してしまいました。
居候の義妹は家賃として1万円すら入れてくれていなくて、それも入れてもらうようにお願いし、次の年からはお年玉も辞めてもらい、少しずつ変だと感じたことは変えて行かなければ借金で潰れてしまうと感じていました。

そうなると今度はわたしへの嫌がらせとなって返ってきました。

ある夜、お風呂に入って5分くらいでした。廊下から聞こえてきたのは義妹の声です。
『誰が入ってんの?』
義母『あぁ、まーだ入ってんだわ!』完全に意地悪です。
入ったばかりなのはわかるはずなのに…
お風呂へ行く廊下を歩くと義母の居る居間から見えるから私がお風呂に入ったことはわかってるくせに。
だから心底意地悪なんです。
2階に戻り旦那さんに話をすると、怒鳴り込みに行ってしまった…
それしかやり方を知らない旦那さん…
やめて…もっと考えて話して欲しい。
しかし義母は最強ですから
『え〜?誰がそんなこと言ってんの?
あたしそんな事言ってないよ〜』と
旦那さんの怒鳴り合いの声が聞こえてくるだけで、毎回解決はされません。

それからのお風呂はささっとシャワーだけで済ませるようになりました。
ゆっくりとお風呂に入り、湯船に浸かることは6年間しませんでした。
そして入る前には居間に顔を出し、
お風呂入ります!とわたしから申告して入るようになりました。
わたしはこの家に後から来た人間なので仕方ないと思いました。
嫌がらせもされたくないので、そうしました。

こちらが借金を払ってあげている。
安心して住めていても
感謝の心すらないこの人達。
借金払ってくれてありがとう!
なんて義母からなんて1度足りとも言われたことはありません。
何か変だなと、ずっとずっと思ってきました。

結婚してから2年、わたしは無事に資格取得をして実習でも経験した施設への就職をすることに決めました。
夜勤があるので、お給料が少し高かったので決めました。
このとき息子は小学2年生でした。
施設勤務は時間が少し特殊です
朝も始まりが早いので家の住人の誰よりも早い6:50分には家を出ます。
息子に声をかけ起こしてから、おにぎりや菓子パン、ヨーグルトをテーブルに並べて、起きてきた息子が食べ始まる頃には、家を出ます。
7:30から仕事が始まって終わりは17:00くらいで施設を出ます。買い物をして帰ると18:30です。
息子は学童に行っていましたが、自由に動ける旦那さんが迎えに行っていました。
たまに買い物をしない時や夜勤前は早く帰るのでわたしが迎えに行けることがあったのですが、学童の先生は母親だと認識していませんでした。
お姉さんが迎えに来たよ!と何度か言われていましたし、その程度しか迎えに行けなかったということでもあります。
夜勤の日は朝7:30から勤務して、16:30に施設を出ていったん家に帰りシャワーを浴びます。
軽く夕飯の準備してから
18:30までにまた施設に戻ります。
とにかくハードです。今思うと若かったから出来たんだと思います。

夜勤の体制は基本1人勤務なので
朝、5:30に施設の世話人が交代で出勤してきて引き継ぎをして6:00に退社するまでは拘束された状態です。

緊急時は経営者側に連絡をすれば
来てくれますが、そんな事はよっぽどの緊急時にしか出来ません。

夜勤までして、わたしはこんな家族の為に、一生懸命に働きました。
少しでも家計を助ける為です。
夜勤時に旦那さんと約束をしました。
普段からお酒を凄く飲む人なので、
わたしが夜勤の時は何か起きたら困るから、週に1日だけは飲まないで欲しいことを伝えました。3年間の夜勤の間、約束が守られたことはほぼありませんでした。
帰宅すると缶や瓶、タバコの吸い殻が散乱している部屋をみて、何度ガッカリしたことでしょう。
何度も裏切られました。飲まないようにするどころか人を呼ぶ?誘われるから?家で飲み会してたんだ?ということが何度もありました。子どもが具合が悪くなったらどうするの??
何度も喧嘩になり、話し合いましたがその時だけの、ごめんもうしません。
しかしお酒が入るとブレーキは効きません。わたしが居ないと羽を伸ばしハメを外します。

ある日、夜勤明けでクタクタで帰ってきました。
息子のサッカー送迎前に洗濯機を回す為に母屋の玄関から中に入ると廊下でバッタリ義妹に会ってしまいました。
わたしの顔をみた義妹がニヤニヤ笑いながら言います。
『目の下クマできてるよ』笑

『あ、寝ていないので…』

声かけてくるなよ…

あなたは夕方普通に帰ってきて、
庭に車停めて降りた瞬間にビールをプシュっとあけて飲んで22時くらいには寝て、今起きたんでしょ?

わたしはね…
施設内で利用者がトラブルや問題を起こせば仮眠すらとれません。
24時間寝ていないんです。

義妹よ、早くいなくなれ、いなくなれと心の中で言っていました。

洗濯機も朝に2回使う義妹。わたしは平日は夜のうち洗濯し、真っ暗な中で干していました。義妹の洗濯リズムは変えることもなく、後から来たわたしが夜に使うという気使いをしました。
おかしいな?おかしいな!とは感じながらいました。
でも、わたしが後からこの家に来たので我慢をしていました。

結婚して3年目くらいの時、義母が目が見えないと言って緊急入院になりました。
脳に良性の腫瘍があり目の神経に触り見えなくなったようです。
手術をし無事に見えるようになりました。2ヶ月入院していました。
保険など、もちろん入ってません。
生活費、借金で支払いいっぱいの旦那さんは払えません。義妹は5万円までなら協力すると言い、残りの25万円の支払いをわたしが立替えて払いました。
10年経ちましたが返ってきていません。
あげてないから返して下さい。

週に3回くらい行っていた
お弁当屋さんの仕分けの仕事がクビになっていた義母は収入がなくなりました。それはそれは大女優のようになっていきます。
わたしや旦那さんの前で具合の悪いアピールをしました。
ごはんを運んであげていたので義母のところに行きました。
すると、首に保冷剤を当てて、
『ズキンズキン響くのよ…
頭が痛いの…健康センターに行って温めたいの』

いやいや、家風呂にでも入りなよ!

健康センター代までせびってくるようになりました。
定期通院の度、毎回2万円かかるとせびられ…
お通夜行くから5000円とせびられ…
女優は演技を見せつけてきます。

半年経った頃、さすがに病院代の半分を
義妹に協力して欲しいので、
義母からご自分で娘に頼んでみて下さいと言ってみました。

数時間後、ブチキレた妹から電話がかかってきました。
『お金がない人に良くそんな事言えるよね!金、金、言ってんじゃねーよ』

『旦那さんに伝えておきます』

ガチャっ

次の月、娘を連れて義妹は
歩いて3分の借家に出て行きました。

なんだ!借家を借りれるお金があるなら
旦那さんに協力できたんじゃない??

お世話になりました!なんて言葉もなくて、最後の光熱費代も未払いのままにして出て行きました。

義母にかかるお金は折半にしましょうと!提案しただけなのにね…
あなたの母親なのに…

やっとです!
お風呂にゆっくりと入れるようになりました。義妹がいたときは
シャワーだけで短時間で済ませていましたからやっとです。
義妹の娘さんたちは、カラダに掛け湯もしないでドボンとする人たちだったので
わたしが入る頃には
お湯があまりにも汚くて入れる状態ではなかったこともありますが…
やっと温まれる…

義母の嫌味は続いていたので、わたしがお風呂に入りに行く時は、暇な旦那さんは玄関で携帯を見ながら座って義母の監視をするようになりました。

『そんなとこで何やってんの?』
『うるせーな』
ほとんど会話のない母と息子…

これだけでも話せる義母は嬉しそうでした。

わたしがあまりにも我慢できなかった事が起こります。
その日、小学生の息子が学校から持ち帰ってきた上靴をお風呂に入りながら洗っていました。
シャワーにあたりながら、数分の事です。ガチャっとお風呂のドアを開けられて
『シャワー出しっぱなしにするな!』と義母が怒鳴ったんです。
2階に戻ってきた息子は、バァさんに怒られた…とショックを受けていました。
わたしはこの件には怒りました。自分ではなく息子にまで嫌がらせされるのは許せません。
旦那もそれを聞くとまた、怒鳴り込みに行ってしまいました。最強義母は
『そんな事、言ってないよ〜』
だそうです。
光熱費も母屋のあなたの分まできちんとこちらで払ってますし、あなたの車の保険も払ってますし、夕飯も運んでます。
シャワーを数分間出しているくらいで、あなたに怒られる筋合いはありません。
あなたにかかってるお金のほうがよっぽど大金です。毎月15万ですから。
義母の性格が悪すぎて、相手にするのをやめました。

ある日、わたしが洗濯機から服を取り出してカゴに入れていました。義母がやってきて無理やりカゴを持って行ってしまいました。
『わたしの仕事だから!』

いやいや、ちゃんとしたお金になる仕事を見つけて下さい。
手術から半年以上経ちました。
大女優義母は洗濯干しを自分の仕事と言い出して、また小遣いをせびろうとしていました。

もう、早く働いて下さい。

短時間の掃除の仕事が決まりました。
収入を得ると、こんどは堂々と健康センター通いが始まりました。
やっぱり、借金の協力などしませんし、わたしが貸した入院費も返ってきませんでした。
旦那さんから義母に言ってよ?
入院費返すようにと!
わたしの話は軽く聞き流され、言っとくよ!とイラつかれていました。

その日は朝から雨でした。忙しくてコインランドリーに行けなかったわたしは下の空いてる部屋に、洗濯を干していました。そこへ義母がやってきて

『部屋が湿気っぽくなるだろ!』と
怒って言ってきました。
もう、無視することにしました。
無視…干し終えてその場を去りました。
義母はまだなんだかブツブツ文句を言っていました。無視無視。

それから母屋側に行く時や、庭で洗濯を干す時など、わたしは、イヤホンをして音楽をかけるようにしました。
義母が近づいてきても、声をかけてきても聞こえないフリをしていました。
何より義母の気配がある時はこちらからは近づきません。
いなくなるまで動かず隠れたりしていました。
気配がなかったのに洗濯を干していると現れたりすることもありましたが無視です。
何か話しかけてきても音楽を聴いてて聞こえませんよ!のアピールをしました。

義母から隠れて動くわたしはまるで自分で忍者のようだなと思っていました。

色々な嫌がらせがありましたが、それでも頑張って働く毎日でした。
息子が2年生から4年生が終わる3年間に
わたしが行けた授業参観は年に1回程度。親子給食は1度も行けませんでした。
自由に動ける旦那さんがわたしの代わりに行っていました。

わたしの仕事が施設勤務で担当が少し珍しいことを任されていたのですが、入所者の医療に関わる全般を管理していました。病院の引率から薬をもらいに行くまで。薬の在庫確認。
一人一人の病気の状態の把握。
グループホームの世話人との連絡連携をして入所者の情報をもらって病院へ伝えるといった内容だったので平日に簡単には休めない仕事でした。
有給があるので休む事もできましたが、わたしは仕事に責任感を持ってやっていましたし、病院は平日に引率しなければいけないので、自分が休むことを選ばなかっただけになりますけどね…。

義妹は中学の娘、小学の娘の学校行事は欠かさずどちらにも参加。日にちが違う日なら両日休む。
仕事を簡単に休み、お金は稼げなくても実家住みだし、名前が違うからなのか市からの母子手当てをもらっていたようで
生活できていたんだと旦那さんが言っていました。

わたしも、授業参観や親子給食を優先して行っていればよかったな…

精神的にだんだんと疲れてきていました。会社に勤めて3年目の12月
連日の忘年会から帰宅した旦那さん。
後輩が車庫までは送ってきてくれました。
お礼と挨拶の為、下へ降りて出迎えまました。毎度の事でベロベロに酔っ払っています。酔って入る旦那さんは階段を上がります。
2階まで上ったのを確認し、わたしは階段下に居て車庫の電気を消して階段を一歩上がり始めました。その瞬間2階踊り場に上がって玄関のドアノブを握ったはずの手が外れた旦那さんが階段を落ちてきました。
わたしは下敷きになり、鉄製の階段に足が挟まり鉄角で足の甲の一部がエグれて白い肉みたいなのが見え血がでていました。
旦那さんは落下したこともわかっていなければわたしに怪我させた事にも気付いていません。何もなかったかのように階段をあがり、ドアを開けてこたつに入って寝ました。
捻挫とキズができましたが、次の日も会社を休む訳にはいかず、通院がバッチリ詰まっています。年末なので病院が休みになる前に通院させないといけなかったからです。
幸い利き足ではなかったので、わたしは絆創膏と湿布とサポーターをして会社へ出社しました。
その日、昼過ぎまで寝ていただろう旦那さんはわたしが帰宅して、昨日の状況を話しても覚えていませんでした。
そして、急に誘われた忘年会という名の飲み会へ出かけて行きました。

わたしは会社を辞める気持ちがまとまりました。
もう、わたしだけ頑張るのやめよう…

年が明け、会社には子どもとの距離を感じるとの嘘の理由で辞めると伝えました。3月一杯で退職しました。

息子が5年生です。わたしは少し頑張りすぎました。少しゆっくり職探しをしようとしました。
久しぶりの授業参観に行きました。
教室の後ろでみていました。
休み時間になると女子3人がやってきて言いました。
『誰のママ?』
結構ショックでした。
その年は初めて親子給食にも参加することができました。
今までは旦那さんが出席していて、クラスに2、3人お父さんが参加する家庭があるうちのひと家庭だった息子さん。5年生となり、わたしが参加すると今までになかったので恥ずかしそうでした。
可愛い時期の色んな姿を見逃してきているのだと感じて、息子には申し訳ないと思っています。

その夏でした…
義父さんが亡くなってから10年が経ち相続税が未払いだったと通知が届きました。
義母と旦那とに来ていた相続税を払っていなかったようですが、相続したら税金が発生する通知が来ていたはずなのにそれを義母は旦那さんに言わなかったのでしょうか?
その時点では、わたしはまだこの家にはいなかったのでわかりませんが、
わたしが予想するにはこうです。

相続税の支払い用紙が届きました。

『相続税、払えって来たよ』と義母

『あれもこれも俺が払ってんのに払う金なんかねぇよ』旦那さん

『じゃ、仕方ないわね』義母

いくら払うのか?どうするか?などの話し合いをしないままにした。
だって義母は払う気は最初からないので、旦那さんが払えないって言ったんだから仕方ないね!と、そんな程度にしか思ってません。相続したのは息子だし、もう自分は関係ないわ!と…
配偶者の義母と息子の旦那さん宛に届いた相続税は合わせて145万円。税金支払いがやっと半分まで返済してきた
のに、わたしの実家からまたお金を借りることになりました。

旦那さんは実家に借りに行くと決まる前までの期間は、わたしに相談ができずにイライラする毎日。期限が迫り迫って、ついにわたしに相談してくる。その間、ずっとお酒に逃げて逃げた挙句に頼るのは妻の実家しかない旦那さん。下げたくない頭を嫁に下げる。
実家にお金を借りに行った旦那さんは
お酒の匂いがしていたようだったと、後から実家の親に言われました。

勢いをつけてからお金を借りに行ったのでしょう…気が弱くて気が小さすぎて、お酒の力を借りないともう何も出来なくなってきていました。
ギリギリまで悩み悩んで、借金の事も忘れたくて酒を飲んで。期限が迫りまた飲んで飲んで飲んで…

ブラックリスト入りのこの家なので、旦那さんは銀行にお金を借りることができません。親戚か知り合いかに頼るしかありません。

わたしは自己破産も考えてはどうかと提案します。こんなに苦しい生活する必要があるのでしょうか?
どこか違う土地に小さい家建てて暮らそうよ!
あたしだってしっかり働いているから銀行からお金借りて新しい生活をしようと何度も訴えました。
自己破産したって何年か経てばまた普通に暮らせるんだから、何も悪いことをするわけじゃないんだから。
旦那さんはこんな話し合いはしたくないのです。もう何も考えられない状態になっていました。精神的に病み始めてしまっていたと思います。

少しでも借金の話や、自己破産の話を持ちかけても今その話しをしたくない。
酒が不味くなる。あーうるさい。
その場から居なくなります。
1人にさせて…と言います。
何とか聞いて欲しくて言えば言うほど、イライラされました。

実家に返済してくれているならもういいや…とわたしも半ばあきらめていました。

親の為に借金をかぶり、それでも親を養い、次から次と出てくる借金を苦に酒に溺れていく…

次の年には義母が県税を滞納していたことと、銀行から借りたまま踏み倒していたことも発覚してきました。
相続税は145万円

県税は   170万円
銀行踏み倒し880万円

毎回、桁が違いますよね…
義母が旦那さんに内緒にしてた借金。

旦那へ相続させた時にはこの借金を隠していたので、はじめから息子に被せる予定だったのでしょう。
今まで10年間で義母が返済の為に必死で働いている姿を見ていません。相続した旦那さんの借金なのだから。
当の本人は、昼間から酒を飲んで健康センター通いをし、おじさんらと楽しんでいたのですから。
利息だけ返して借金が減るはずもないものをはじめから全部押し付ける予定だったのでしょう。

10年は回収側も必死に動かないんだそうです。むしろ利息を増やします。
そして10年目に膨らんだ分をガッツリと回収するそうです。

義母は旦那さんに内緒にしたまま利息だけを払いながら、見つからないようにしてきていました。

いったい何がしたかったのでしょう?
膨らんで大きく膨らんだ借金を自分のかわいい?息子に押し付けた。
そんなことって母親のすることなのでしょうか?
信じられません。

銀行から借りた借金は膨らみ、4倍近くの額になっていました。
本当に何も知らなかった旦那さんは、お世話になっていた商工会議所というところに相談して、弁護士さんを紹介してもらいました。

銀行が委託した債権会社との裁判をして膨れた借金は元金の220万円を支払う形で決着しました。

わたしは義母に聞きました。
なぜ銀行からお金を借りたのか?

『銀行が借りてくれって来たのよ!』
と言いました。
借りてくれってそれは返してくれることを前提で貸すのですよね…?
お金はもらったとでも思ったのですか?

話し合いの為に何度か足を運んだ債権会社からの帰り道…
義母は旦那さんに言ったそうです…
『あたしなんて生きてたって仕方ないわね…』
女優ですね…それ、横向いてアッカンベーしながら言ってますよね…
で、旦那さんは何て答えたか?
『死んだって金になんかなんないんだから別に生きてろよ』
…?
いやいや、死んだら義母の分の光熱費も義母の車の保険代も、もう払わなくて済むようになるんだから!
旦那さん何を言っているの?
現実わかっていますか?

大切にされていない子どもほど、母親への愛を求めてしまうようになりますよね?まさにこの親子がそうなのかなと思いました。

またわたしの実家からお金を借ります。
減っては増える実家への借金。

私の実家の両親は
わたしと息子が幸せに暮らす為ならと快く貸してくれました。

冗談で旦那さんに言っていたのが、実家の両親は自分たちがよぼよぼになった時は面倒みてくれればいいから!
借金は両親が死んだらその時はチャラよ!と言っていました。

毎月の返済…
従業員への給料…
雨続きなどあれば入金が遅れます。
わたしの給料がなければ回らない月も何度もありました。

わたしはまた正社員の仕事をみつけます。10ヶ月程休ませてもらいましたが早く稼ぎ出さないといけません。
この10ヶ月の間、気持ちが休まることはありませんでした。
さらなる借金発覚や裁判などがあったので気なんか休まりません。

幸い、次の職場は働く環境としてはとても良かったので、子どもの行事に参加ができました。一生懸命働きました。

そんなある日の21:00頃だったでしょうか…
その少し前に義母が帰ってきていたようです。

バタン、バタンとやたら車のドア音がしたのでこんな時間に誰がきたのかと
わたしと旦那さんはカーテンを開けて外をみました。何やら赤い回転灯がみえます。急いで庭に出ると警察官が言いました。
『近付かないで下さい』

義母が1人の警察官と話していて、他の警察官は義母の車を調べています。

旦那さんとわたしはいったい何が起きたの??と驚いていました。

警察官が、旦那さんのところに来ました。『息子さんですか?お母さん、飲酒運転で轢き逃げしました。』

…?
はい?
何?

健康センターでお酒を飲み、帰り道、走ってた自転車を轢き逃げして帰ってきたと言われました。

そのまま警察署に連行。
あとで、連絡が来るとのこと。

24:00を過ぎた頃、警察署から迎えに来るように連絡がありました。
逃亡の恐れがないので帰しますとのことで、迎えに来るように言われました。すでにお酒を飲んでいた旦那さんは車を出せないので、わたしが運転して迎えに行きました。

車の中で、いい訳が始まります。

旦那さんが一喝しました。
『黙ってろ!』

次の日、警察と現場検証がはじまりました。

轢き逃げした車は、わたしがあげた軽自動車です。
義母が前に乗っていた車が車検切れになり、乗用車より税金も安いので、わたしが嫁に来たときに持ってきた車です。

フロントガラスに人の頭がぶつかったのでしょう、ヒビが入ったガラスには髪の毛が数本絡まってました。

新聞にも載ったようです。
飲酒運転を隠蔽する為に、帰宅してから飲んだと供述したと書かれていました。

義母の年齢考慮と免許返納で3ヶ月の留置所だか拘置所で帰ってきてしまいました。

帰ってくる前にわたしは限界だと旦那さんに伝えました。旦那さんは義妹に引き取ってもらうことにしました。

義母の住所変更はしておらず、あくまでカラダだけあちらで過ごしてほしい。保険証はこちらで払ってあげていました。
もう顔をみたくありませんでした。

1ヶ月後、旦那さんに義妹から電話がありました。
光熱費が上がって困るそっちに戻したいと。
旦那さんはお断りしました。
義母の国民健康保険代はこちらで払ってあげているからと義妹も面倒見てくれと阻止しました。

事件後に警察署や裁判所に出向くことが何度か続いた夜、旦那さんは寝ながら叫び始めました。
もちろん本人は覚えていません。
寝言というよりは、怒鳴り声です。
ついに壊れました…

とにかく大声で誰かと話したり喧嘩をしたりしているようでした。

何度か録音して聴かせてみましたが、嫌な顔をして何で録音とかするんだよとやめてくれと言います。
私は心配でしたから、病院に連れて行きたくて1度無理矢理、脳外科へ連れて行きました。
脳をみたところ異常はみられませんでした。寝ながら怒鳴るのはなぜか?
医者に尋ねると、ストレスだと言われました。
ストレス…ね。心配なら精神科へ行くようにと勧められました。

それからも毎晩ではなかったのですが寝てしばらくすると怒鳴るという状況は何度もありました。

ストレス…

そうこうしたまま月日は流れます。

息子が中学3年にあがる前の春休みが終わる頃でした…
何日か前から調子が悪いと旦那さんが言い出しました。
まだそんなに暑い季節でもないのになんだか、脱水の時みたいなつっぱる感じが両腕にあると言います。
前の年、夏に脱水疑いで体が攣り、病院で点滴をしてもらったことがあったので、その時と似たように脱水みたいだと言っていました。

大声や怒鳴り声が始まってからは、時々、休肝日を作ってはどうかと提案して、ノンアルコール飲料を飲むようにさせていました。
心配してそうしましたが、本人はこんな飲み物にお金を払うなんて!と言っていました。
脱水時にアルコールは良くないし、
そんな症状も何度か起きるようになっていた事もあったので、ノンアルを勧めていました。あの日も夕食時にノンアルを半分くらい飲んだのですが、指先が攣るから箸が持てないとイラつき、ごはんもほとんど食べずに寝室へ行ってしまいました。

寝てから2時間くらいが経った頃でしょうか、苦しくて心臓まで止まりそうな感じがするから救急車を呼んでくれと起きてきました。

119番に状況を説明しました。10分もすると救急車が到着し旦那さんは病院へ運ばれて行きます。

義母へ状況の説明をする為に電話を入れました。

するとどうでしょう!
ビックリしました。
『あたしも、今やっと薬まで飲んで寝ついたところだったのよ…義妹にお客さんがきてて子どもたちが騒いでて、やっと静かになったところだったからやっと寝付けそうだったのよ』

どうでもいいよそんなの…
とにかくお宅の息子が運ばれてますと伝えて電話を切りました。

思ってもみないことを言われると、こちらの思考も一旦停止するというか固まります。今、何とおっしゃいましたか?思い掛けない事なので言われたことをよく考えてしまうからです。

なんなんだろうこの家族って??
変なの、変なの、変な人たち!

病院で処置されて血液検査などからわかってきたことは、相当なお酒を飲んでいるのではないか?という診断でした。

そこでわかってきたことは、今まで、仕事をしていたはずの昼間にも飲んでいたのでは?ということです。
仕事は、従業員がいてしっかりやってくれているので回るし集金も上がります。
わたしはてっきり旦那さんも一緒に仕事しているものだとばかり思い込んでいたのでとても驚きました。
詳しく聞いたところ、朝だけ現場に顔を出してすぐに居なくなっていたんだそうです。では日中何をしているの?

すでに精神状態が狂い始まっていたんですね。
お酒を飲んだら落ち着くとか、気持ちがラクになる為に飲むとか、何かを忘れたい為に飲むといった感じだったのでしょう…

入院は2週間程度でした。
最初は面会に行ってもなんだか上の空です。わたしが病室に居てもイヤホンをしてテレビを見ています。差し入れも、わたしの会社からいちごをいただき洗って旦那さんに食べさせましたがいちごを食べた事は後で聞いても覚えていませんでした。
それらの状態はアルコールからの離脱症状からだったというのは後になってから知りましたが、あの時のわたしは仕事を早退させてもらって入院手続きに行ったり、洗濯物も取りに行ってあげたりしてるのに、この人はなんという非常識な人なんだろうと感じました。本当におかしな人間なんだと心底嫌になりました。
カラダの数値がすっかり良くなり退院となります。
この退院の時点では肝臓の所々に繊維質がみられるのと、脂肪肝だと言われます。
断酒と運動をすれば健康を取り戻せると言われていました。

定期通院が始まりますが、すぐにお酒を隠れて飲み始めてしまいます。
夕方に帰ってこないので電話をすると、帰ってる途中とか道が混んでる!
そうは言っても1時間くらいの距離をすでに2時間かかっていたりしました。

これはおかしい…何度かけても、今帰っている、運転中だから電話できないと、切られます。
23:00になりました。
家電が鳴り、嫌な予感しかしません。出ると相手は旦那さんです。

車が壊れた!スマホも調子が悪くて使えない!
コンビニに寄ったらエンジンがかからなくなり、2時間くらいエンジンかけるのをやってる!コンビニ店内から電話借りてかけていると言うのです。
車を置かせてもらって帰るから迎えに来てほしい!

何?どうなってるの?

言われたコンビニへ迎えに行きました。車の鍵は車内の足元に落ちたままライトの部分を回します!ほら、エンジンがかからないだろ?と…

え?何しているの?
しかし、口調は電話の時も今も普通に話せています。呂律も回っていないような感じはしません。コンビニに入って電話を借りてかけてきたし…店員さんもあまりにもおかしいと感じたら警察を呼ぶだろうけど…?
何が起きたのでしょう。

でも、車の中を覗くとお酒の缶を見つけました。半分くらい残っています。
その前からどのくらい飲んだのかわかりません。もしかしたら半分でおかしくなったのかもしれないし、昼間からずっと飲んでいたのかもしれない。

しかし、口調はしっかりしています。
今までの旦那さんの酔っている時の話し方や歩き方とは全く違いました。

車はコンビニに置かせてもらい帰ることになりました。

次の朝、車どうするべ?と言います。
壊れたからコンビニから車屋呼ぶしかないか?と
車は壊れてないし、エンジンもかかるから大丈夫と言っても、いや壊れた!と思っていました。
とにかく、コンビニに乗せて行くからみてみて!と言って連れて行きました。エンジンはもちろんかかります!
おかしいな?昨日は壊れてたんだけど?と不思議がって言っていました。

何かが起きていました。
何だか怖くなりました。

数日後、数年前に結婚して家を出た長男から今まで一緒に仕事をしてきたけど独立をしたいと話しがあると言われて、夕方に事務所で話し合いをする約束をしたのに旦那さんは、時間になっても帰ってきませんでした。

約束時間をだいぶ過ぎて帰ってくると様子が変です。
確実にお酒を飲んでいます!
呂律も回らず千鳥足…
いきなりキレ出しました。
大事な話し合いなのにお酒を飲む。
息子に何と言われるかが不安でお酒を飲んだのでしょう。

そのままわたしと長男とで旦那を車に乗せて病院へ連れて行きました。

夜間診療で担当医ではなかったのですが、最近の様子がおかしいことを伝えました。酒を飲んでいるのか、薬物でもやっているのかもしれないですね?と言われてしまいました。
薬物検査をすることは可能ですが、結果次第で、即逮捕になるけどどうしますか?と言われました。

冷たく言われます。親身になっていただけないと感じました。
そのまま帰って来ました。

次の定期通院に一緒についていき、最近の様子を説明しました。

エンジンの件やスマホとタバコの取り違えなどもあったので、その時を動画に残していたものを見せました。
見当識障害というものでした。やはりお酒のせいです。
本人は飲んでいません!断酒を続けていますとしか言いません…飲んでいないなら、このまま断酒を続けて下さいと医者も言うしかありません。

定期通院と処方薬…
一度にかかる金額も2万円から3万円

それでも隠れて飲み続ける酒。

昼間に飲んで、夜は家ではお酒を我慢するというスタイルにしたのでしょう。
それでも時々、夜まで連絡が取れなくなることもあり、どこで何をしているのか謎な日もありました。帰りが、遅いから連絡すると、だいたいが打ち合わせ!そう言います。
あとは関係会社の会議に参加。
そう言っておけばいいのです。
わたしからの電話がないからです。

わたしが何か言えば、
「じゃあ、ずっと家に居るよ!
仕事も、もうできないからな!』
と返してきます。

そんな時はだいたいが、お酒が入っていた状態だったということです。
次の日はケロッとしています。

毎日があの状態、何か言えばキレるので、わたしも普通じゃないことが普通になって行きました。
何を言っても通じない、響かない。
わかってもらえない。
病気だから旦那さんにはもうわかる訳がないんです。

わたしの心配はウザいだけで、優しい言葉をくれる人だけが良い人でした。

わたしは何を言っても、俺に文句を言ってくる奴!と言われます。
それどこれか、お前がおかしい…
誰からも今までそんな事を言われた事なんかない!お前くらいだそんな事言う奴は!
わたしがおかしい人のように言われました。
とにかくわたし自身も毎日が苦しい日々でした。

2020年1月、コロナが騒がれ始まりました。フェリー乗客の感染者が入院したという病院へ定期通院していた旦那さん。自分の判断で通院をやめました。

診察や検査はしないで薬だけもらえないかと聞きましたがダメだったようです。

その年の5月、わたしが4年勤めた会社が会社都合で閉所しました。
家にいる時間が出来たので、旦那さんの様子が良く見えてきました。
この頃から夜中に何度もトイレに行くから起こしては迷惑をかけると言って母屋で寝起きする家庭内別居状態が始まりました。

だんだんわたしを避け始めます。

朝は一度出かけて行きます。軽く飲んでいたんだと思います。あくまでも仕事をしている振りをしていました。昼に戻ってくるのですがわたしのいる2階にはあがってこようとしません。
昼帰宅したら昼食をとり昼寝を15時過ぎまでします。
寝過ぎだよね?と言うと、夜中に目が覚めて不眠なのと退院後の体力がないという理由でした。
16時前に打ち合わせと言って出掛けて行きました。
位置情報サービスでは打ち合わせと言っていた場所まで確かに行っています。そうです、今度はコンビニにではないところで飲むようにしただけだったのです。わざわざ打ち合わせや会議と言ってそこまで行って車の中で飲んでいたのでしょう。

本人が禁酒したと周りに話してから、1年半くらい経った頃です。

ズボンの股間を濡らして帰ってくるようになりました。
本人はわかっていません。
指摘するとやっと気付く。

次第に便も漏らすようになりました。
お酒を飲んでないのに下痢になるなら他に病気があるかもしれないので、もちろん病院を勧めました。無意識で垂れ流れてしまっていたようです。
後々は簡単なオムツをさせるようにもなって行きます。

本人は病院には忙しいから行けないんだそうです。

洗ったはずの洗濯物に便が残っていて干す時に発見しました。
濃い色のデニムだったので一瞬わかりませんか、内側をよく見ると残っていました。
そうすると、下着のパンツにもびっちりついていて、洗濯機だけでは汚れが落ちていません。
他の服も全部洗い直しだ…
旦那さんに伝えると、嘘だ?と驚いていました。
毎日、パンツはお風呂で手洗いをさせるようにしました。最初は嫌な顔をされましたが仕方なく手洗いをしていました。それから外の汚れ物用の洗濯機で洗うようになりました。

しばらくして廊下や脱衣所にも点々と下痢の便が落ちているようになりました。
彼は母屋の下の部屋で生活しているので、昼間のうちに廊下を歩いて無意識のうちに汚しています。夕方は出掛けていなくなるので、わたしがお風呂の準備で下に降りて行くとそれを発見します。

わたしや息子が踏んだら大変なので
消毒液を撒いて掃除をするのはわたしです。
廊下に点々と何かがあり、最初は何が点々としているのかわかりませんでした。
息子はカレーかな?と匂い嗅いでしまったと言っていました…
なんだかんだと理由をつけて、帰ってくるのが遅いので、旦那さんが掃除をすることはありません。
指摘しても何のこと?というような感じで自分が便を垂らしている事もわかっていないようだったので、こちらもかなり参っていました。
おかしい、おかしい…嫌だ…

旦那さんの目撃情報は何度もあったようです。どこどこにいたよ!車の中にいたよ!またいるよ!
長男や義妹は地元なので、周りから連絡が来ては聞いていたようでした。
だからと言ってわたしには教えてくれません。
恥ずかしい兄の実態、わたしになんて教えないでしょう。
長男は呆れ返っていたことと、わたしと父親が揉めて、また酒に逃げてしまうことを危惧していました。

わたしは位置情報アプリと旦那さんの帰ってきたその時の状態で判断するしかなかったのですが、あの頃は酔いが覚めた頃に帰宅するということをしていたんです。意志があってやっていたということになります。
しかし、飲んではいけないのはわかっていてもやめることはできない。

8月、わたしは仕事に復帰しました。
旦那さんはさらに自由になります。

夏が過ぎて、9月頃になると旦那さんは腰の痛みを訴え出しました…
歩けない程の痛みのようです。
接骨院に行くと松葉杖になりました。
腰?というより内臓からの痛みだったのだろうということも後から気付きます。
その時ももちろん内科に行けと、わたしと長男は何度も言いましたが無視されます。

10月、位置情報アプリで旦那さんは同じコンビニに3時間も停車していました。わたしは、もう嫌な予感しかしません。
たまたま仕事の帰りに発見し、コンビニへ向かいました。
車をみるとドアの下に水溜り?なのか
車からの排水なのかか?もしくは尿かもしれない水溜まり。
ドア開けて排尿したかのような…?

そして丁度コンビニから旦那さんがでてきました。
手にはお酒を持っています。
3時間で何本目のお酒でしょう。
わりと涼しい顔をしています。
何で居るの?みたいな顔をしています。
何やってんの?いい加減にしてくれ…
旦那さんの車は駐車場の隅へ移動し、
そのまま車に乗せて連れて帰りました。車は長男が取りに行きます。
こんなこともう、何度目だろう…

飲んでは行けないカラダで飲み続けてカラダが壊れて行く。でも、毎月の返済は待ってくれませんよ。
いったい何をしているの?
自分がしていることわかっているの?
旦那さんは、既に自分が何をしてるのか分からなくなっていたんでしょうか…

さすがに、もうわたしだけではダメだと思い親戚のおじさんに連絡をしました。
今の旦那さんの状況と借金まみれの状況を話すと、自宅に来てくれると言って義父の兄弟である、2人のおじさんとわたしの実家の母と長男とが集まりました。

話し合いの結果は、酒をやめて病院へ行くこと。
借金が大変ならこの実家が無くなってもいいだろうということ。
で話がまとまりました。

おじさんと母が帰っりました。
旦那さんの第一声が、
『ノンアルある?』でした。

おじさんからめちゃくちゃ怒られると思っていたけど、そうでもなかったことと、みんなが居なくなってホッとして飲みたくなりました。

え?まじか…もうダメだなこの人は。

もう、脳が欲求してきてどうしようもなくなっているのでしょう。

わたしはこんな状況になって、ノンアルある?と言える神経がわかりませんでしたし、いい加減にしてくれと怒りました。

しかし、なぜノンアルで怒られなきゃいけないのかと逆ギレまでされました。

もう、飲んだらいいよ…

はい、もちろん飲んでいました。

次の日は何もなかったように接してきます。
それがまた、さらにわたしの精神状態を病ませる原因にもなっています。
旦那さんは昨日のやりとりなど覚えていない。
わたしが怒ろうが泣こうが、何を訴えても、もう前日のケンカも覚えていません。

数日後、おじさんの1人から旦那さんに連絡が来ました。義母の面倒はもう見れないんだろ?との確認の電話でした。

義妹の借家に義母が世話になっていましたが、ついに義妹が出て行くことになります。義母を養うことが限界になったのか、元々折り合いが悪い母娘。義母が1人で住んで、生活保護を受けることにするという電話だったそうです。

実の親子だって一緒に住めないんだから、嫁のわたしはもっとムリですよね?
これで結果が見えましたよね?
と思いました。

年末になるにつれ、旦那さんのだらしなさがもっと目立ってきました。
今まではお風呂も毎日入っていた人が頭から足の指先まで綺麗に洗っていた人が、寒いから今日は入らないとか、風邪っぽいから今日はやめとくと言い出します。4日も入らないなんてことにもなっていきました。さすがに入るようにしつこく言うと、キレながら面倒臭さそうに入っていました。
しかも、洗わずいきなり湯船にドボンと…

外出して戻ってくると、部屋に敷きっぱなしの布団の上にそのまま座り、テレビをボーッと見ています。
わたしがお風呂に入ろうと、下に降りてきて指摘します。汚いからズボンくらいパジャマに替えてと言えば、たちまち嫌な顔をされます。

酷い日は、外出したダウンを着たままそのまま布団をかぶって寝てしまうこともありました。

肝性脳症というのが、夕方から夜間にかけて出やすいそうで、それだったのだろうと思います。

肝性脳症は肝臓の機能低下でアンモニアが解毒されず脳に達して脳症をおこします。
睡眠リズムが崩れ、だらしなくなっても気に留めないなど、症状がこれかな?と検索していくうちになんとなくでてきました。本人は全くわかっていないんだそうです。
とにかく病院へ行ってと言っても渋っています。
なぜかというと、すでに脚が異常に浮腫み始めていたからです。
旦那さん自身が、もう怖くて病院に行きたがらなくなっていたんだと思います。

年が明けても、変わらないそんな症状は続いています。
昼寝すると症状が落ち着くのか、ガッツリ夕方まで寝ます。打ち合わせと言ってはまた出かけていきます。
夕方出掛けて疲れたりするのか、アルコールを飲んできたせいかはわかりません。解毒作用が効かない肝臓は悲鳴をあげていたハズです。
帰ってくると、また肝性脳症が現れてきたりしていました。

どんどんだらしなくなってます。

夕飯はダイエットするなんて言いだして、スープ系なら食べるといいます。
他の食事は、一度見てから好みじゃないとお腹空いてないと言って食べませんでした。

3月1日、19:30頃です。庭に旦那さんの車が戻ってきました。
わたしは、たまたま風呂に入ろうと降りて来ていて旦那さんが帰宅したのに気付きました。
脱衣所のバケツには、昼間に便を漏らして着替えたパンツを投げ入れたみたいでした。その時に脱衣場の床に点々と便が落ちたようです。
それを注意するためにわたしは外へ出て行きました。
しかし、なかなか車から降りてきません。
やっとドアをあけてゆっくりと脚を地面ついて立ちました。
旦那さんが言います。

「脚に力が入らないんだ』
と言った瞬間にドアをバチンと閉めました。するとその反動で後ろ方向におっとっととなります。何歩か下がったと思ったら直立した感じのカラダが固まったような状態で頭からバターンと倒れました。
庭のコンクリート部分に後頭部から倒れました。鈍い音。ゴッ!
そのまま動きません。
スマホのライトで顔をテラスと後頭部から血がコンクリートへ流れだします。

ドラマみたいなシーンでした。

すぐに救急車を呼びました。
病院へ運ばれます。

処置と血液検査が行われます。医者に言われたのは、肝機能低下、腎機能低下からあと1日か2日、病院に来るのが遅かったら、心不全を起こして死んでいたと言われました。

偶然に帰ってきたことに気付き、倒れた瞬間に出くわして、すぐに救急車を呼び病院へ運べた…

そうじゃなかったら…
あの日はあの後に、雨が降り出していました。3月の冷たい夜の雨…
誰も気付かずに倒れたまま雨に打たれていたら…
いつものように寒いから寝ると布団に入って寝ていたら…と思うとぞっとしました。

入院になって運ばれた部屋は、ICUでした。
この日から4日間は旦那さんは意識不明になりました。
いつ何が起こるかわからないと言われます。わたしも長男もどうしたら良いかわからないし精神的に参ってしまいました。

病院から来る電話は、意識混濁で暴れるかもしれないので拘束の許可をもらいたいと言う内容だったり、錯乱状態で大声を出したといった連絡です。

5日目、ICUから一般病棟へ移ることができました。奇跡だ…と思ったのも束の間…
『迎えに来てー』
『何時に帰れるー?』
『お金送ってーコンビニ行く!』
『おーい!』
『アイコス持ってきてー』
と、夜中だろうが関係なくラインや電話をしてきます。

アルコール性の認知症だそうです。

担当医にアルコール性の認知症は治るのか聞いてみましたが、わからないと言われます。脳がアルコールでダメージをどの程度受けたのか?というのがわからないからだそうです。
栄養も脳にいっていませんでした。
ビタミンB郡の不足でダメージを受けます。
回復を願うしかありません。

自宅に義母がやってきました。旦那さんの状態は長男から報告していました。

『玄関あけてくれる?』
何しに来たのかというと、となりの家の人の髪を切りに来たと言うのです。

お金を頂いてやっていたのか、無償でやっていたのかはわたしはわかりません。

となりの人に聞けばわかるかな…
義母が生活保護だと知らない可能性がありますからね。

義母に旦那さんの今の状態を説明しました。
ICUからは出れて、一般病棟に移れましたが認知症の症状がでています。
今後、認知症が良くなるかはわからないけれど、カラダの数値が落ち着いた場合は認知症が残っていても退院をしてくると伝えました!

『あら!良かったじゃない!意識戻って!』

え?こいつ親か?それだけ?
ちゃんと話聞いていましたか?

義母はもう生活保護を受けています。自分の生活も安定しています。
息子にお金を貰わなくても生きていく手段を手に入れました。
使えない息子はもうどうでもいいんだなと感じた瞬間でした。
今までは一緒に暮らしてきたから、息子が借金払わないと住む家がなくなるけど義母はもう安泰なんです。

あなた、まだ働けるのに…元気にしかみえないですけど、国が保障してくれているんですね。

やることが終わると、下から義母の声がしました!
『帰るねー鍵しめたらー』

後ろ姿を写真に収め、インスタで消えろー!と投稿しました。

わたしの今できる最大の反撃でした。
ほんとはビンタくらいしたかった。
親かよアンタ!って…

旦那さんは動けるまでに回復しました。院内を歩けるまで回復します。
しかし入院していることがわかっていないみたいでした。脱走防止に虫と呼ばれるランプをつけますと病院から電話がきました。

わたしはおかしくなりそうでした。
ねぇ?認知症が治らなかったらどうしたらいいの…?

長男が義母、義妹、おじさんへ連絡をとりわたしも母と姉に来てもらい家族会議をすることになりました。

その会議の日、おじさんが最初にきました。酒がやめられなかったことを残念がっていました。
おじさんから、義母の話を少し聞く事ができました。
義母は義父が旦那さんと同じような病気で入退院していた時に、家に戻ってくると一緒に酒を飲んでいた人間だと教えてくれました。
なんだ、義父の事も使えないって思ったら、酒を飲ませてたんだ!
義父が使えなくなったから、酒飲ませて殺したようなものじゃん。
そして、息子に借金押し付けたんだとはっきりしました。

次に義妹と義母がきました。
義妹は部屋に入る時に
『あー話し合いなんかめんどくせぇー!』と言いながら勢いよく入ってきました。
そして、わたしに言います!
『ババア死ね!なんてSNSなんかに載せてんじゃねーよ』

義妹の娘がみていたそうです!

『死ね!』なんて載せてませんと反論。わたしが載せたのは消えてー!
だから。わたしの目の前から消えて!

続いて義母が発言!
『そんなこと、何?SNSとかいうのにあたしのこと書いてんだって?』
と笑いながら言ってきました。

とにかく家のことを外部に漏らすな!恥ずかしいことをするなと言われました。
恥ずかしいこと?
義母さんの新聞に載った事件は恥ずかしくないの?
旦那さんがその辺で車の中で酒飲んでいるのをみんなに目撃されているのは恥ずかしいことじゃないの?

わたしだけが恥ずかしいの?
恥ずかしいことしているのは、あなたがた一族ではないの?

おじさんには、気持ちはわかるが
それはやめろと言われました。

母と姉が到着しました。
義母と久しぶりなので軽く会釈だけの挨拶をしました。
わたしの母へ義母からの謝罪があるものかと思いましたが、やはりありませんでした。わたしの実家から自分の為にお金を借りてる息子がこんなことになってすいません…くらいはあるかな?…あるはずがないですね。

長男が到着すると話し合いが始まります。義母だけ、腰が痛いとか言って立ったままでした。

まず、旦那さんの状態説明。
この家の借金もどうするか。
退院後はどうするか。

認知症の症状があるのに、カラダの数値が落ち着いたら退院はしてくる。

認知症が良くならないまま退院した場合どうするか。
働けなくなったら、この家はどうするか。
わたしの力では3ヶ月しか借金を返す体力はないし、入院が長引いたりまたは精神科に入れるとなるとみんなの協力は必要になると話しました。

誰が昼間監視をするのか…
わたしも長男も仕事をしています。

義母が第一声を発しました!
『あたしは無理だから!』

はい?
今、何て?

診たくないってことですか?
みんな固まりました。

で、続いて
『腰が痛いからじゃあ、帰りますね!』
と帰って行きました!

わたしも、母も姉も…?
???です。

え?母親じゃなかったんだ、あの人?
おじさんたちも止めませんでした。

続いて義妹は、
『お金の協力はできません』
といいました。

ひっどい親にひどい妹。
話し合いの結果は、良くならなかったら自己破産させて精神科に入れる。

血も涙もないとはこの事です。
どんだけ面倒みてあげたの?
それなのにこの仕打ち…

奇跡が起きました。
入院から2週間が経ちました。認知症の症状が落ち着き、普通の会話ができるようになりました。良かった…

人間の回復力って凄い。
脳って凄い。

エコー検査では大腸にも何かがあったみたいなのですが、腸がブヨブヨでカメラが入っていかないような状態になっていると説明されました。カメラを入れようとすると、腸の壁が突き破れて大量出血で死につながるので、無理に進めないで定期通院時に経過を診ていくと言われました。

4週間ほどの入院で奇跡的な回復をした旦那さんは退院しました。

そのまま長男と親戚のおじさんとわたしの母と旦那さんとで話し合いをしました。

今後いっさいお酒をやめる事。
やめられないなら精神科へ行くこと。
飲んだら離婚する…と離婚届も書きました。最終的に裏切ったら提出すると約束しました。

次の日から旦那さんは変わろうと頑張りました。体力が戻るまでは家の片付けや置き場の片付けを一生懸命やっていました。
本人も変わりたかったんだと思います。

夕方、わたしの帰りを待つようになり
ました。夕飯の買い出しに一緒に行きたいと言い出します。

ごはんが美味しい、美味しいと、高校生の息子と張り合うように食べていました。急にそんなに食べて大丈夫なのかなと心配で聞くと嫌そうな顔をして、食べることしか楽しみがなくなったんだからたくさん食べたいと言います。

極端な人でした。

体力も徐々に戻ってきました。
2週間おきの通院が1ヶ月おきになりました。
肝臓の数値が少し良くなったと言われたと言っていました。

現場に出るのはキツいので、営業を頑張ると言って中古車を購入しました。

しかし、彼の中でまた何かが起きるんです。
その何かがいつもわかりません。
きっかけとしてまた何かがあったのでしょうか?
なぜ飲もうと思ったのでしょうか?
わたしにはわかりません。

用事もないのにフラフラ出て歩く事が増えたような気がしてきました。

また夕方から打ち合わせと言うようになりました!
あれ?何かおかしいと感じます。

会社から昼間に電話を入れたとき感じました。あれ?呂律がまわっていない感じがする!

まただ…

問いただしても飲んでいないと言います。
現場をおさえないことには言い逃れができてしまいます。

おかしいな?
絶対飲んでるよな?と思いながら確証もないし、まさか生死彷徨ったのに、飲まないよな?と信じたかった。

食事を食べなくなってきました。
なぜ食べないか聞いたら、最近までは少し食べ過ぎていた!食べ飽きたと言いました…おかしい。

また、わたしを避けるような動きが始まりました。スーパーへの買い物を誘っても、今から呼ばれてる会議があるとか打ち合わせがあると出かけてしまいます。
土日も見に行く現場が出来たと言って出掛けてしまいます。
まさか…そのまさかだったのです。

6月の定期通院でした。
心電図と、血液検査で病院へ行って自宅に帰ってきていました。
少し疲れていたのでしょうか、16:00くらいまで寝ていたようで、わたしが帰宅すると起きてきました。

庭にいたわたしに、今から打ち合わせだからと言いにきた旦那さんの目を見た時!ドキっとしました!
え?白目の色が…おかしい!

白目が真っ黄色だったのです!
『ねぇ?おかしいよ!黄疸じゃないのそれって、昼間病院で何も指摘されてないの?』
『今日は検査だけで、先生の診察はあさってだから!』

これは絶対におかしいと思いました。気味悪い目をしています!確認させるために白目の写真を撮って見せてあげました。

そうかな?とあまりピンときてない旦那さん。あさって詳しく聞いてくるからと言ってまた出掛けていきました。

診察の日、今まで安定していた値がいきなり上がっていると言われました。即入院と言われたのですが、旦那さん明日入院しますと言って帰ってきました。

何日か検査入院になるから入院準備の手伝いをして欲しいと言われ、一緒に下着やタオルや着替えをバックに詰めました。
朝になり病院へ向かう旦那さんを見送りました。
『行ってくるね!』
わりと元気な声で出掛けました。
旦那さんの車を見送った日、わたしはきっとまた数値が安定したら帰ってくると信じていました。

旦那さん自身も、数日の入院だろうと思っていたはずです。

しかし、入院して病院から来る電話はいつ死んでもおかしくないというような内容ばかりでした。
なぜ急にそんな事態になってしまったのでしょう?

ビリルビンという数値が上がって黄疸が出ています。
健康であれば0.2〜1.2mg
旦那さんは3→8→13→17と増えて行きました。

検査と治療が連日行われました。
どうしてこうなったのか、原因がわかりません。
断酒していると本人が言ったからです。
肝臓の細胞を採り、何が起きているのか調べる為に肝生検をしました。
しかし結果が出るまで命が持つかもわからないと言われてしまいました。

状態は悪化をたどり、病院に長男、次男、わたしが呼ばれました。
全く回復していかない数値の結果からこのままでは命の危機だと説明がありました。
旦那さんはついに、お酒を飲んでしまったと告白しました。
担当医はそのお酒が、それがたとえ、一口だったかもしれないが弱っている肝臓にはトドメをさしてしまったことになったんです…とおっしゃいました。
やっぱり…
自分で自分を…

肝臓を回復させる為に集中的にステロイドを投与し、肝臓への輸血もしたり可能な限りの処置をしてもらいました。
しかし、何をしてもビリルビンの数値は悪化をしていきます。
肝臓も腎臓も機能停止状態。
肝不全から腎不全になり、一気に腎臓の数値が悪化してしまいました。

担当医から、あの電話がかかってきたのは会社からの帰宅中でした。
病院からの着信で急いでコンビニの駐車場に入ります。
病院でわたしに直接お話しをしなければいけないのですが、もう時間がないので電話での説明になりすみませんと言われました。今病室でこちらには旦那さんもいるので、お二人に同時に説明させてもらいますと始まりました。
旦那さんは肝腎症候群というものを発症してしまいました。
そして余命を告げられます…
『あと2週間です…。』
旦那さんも聞いています。
自分の余命を聞かされる瞬間ってどんな心境だったのでしょう。
怖かっただろうなと思います。

わたしは気が遠くなるといいますか、何か言われてるのはわかりますが、理解しようとしてるのに頭が固まって止まってしまったような感じがしていたような気がします。
入院したあの日から連日、いつこうなるかわからないと言われ続けていましたが、やっぱり覚悟なんてできていません。
スマホを持つ手は震えていました。

すぐにでも退院してご自宅で大切な家族と過ごして欲しいと医者は言っています。

もう、本当に時間がないんだ…

すぐに退院日が決まりました。
退院の日、旦那さんは病院から駐車場までも歩くのはもう難しくなっていたので車椅子で移動してきて車に乗せました。自宅に帰ってきました。
あの日はお風呂に入りたいと言ったので湯船につかることができました。
これが最後の入浴になります。

着替えも手伝いながらゆっくりと自分でできました。久しぶりに見たお腹はパンパンにふくらんでいて苦しそうでした。

その晩はとても疲れていたのかすぐに寝ました。
わたしはいつ何が起こるかわからないと言われているので、1時間置きに旦那さんの様子を見る為に寝ているのを確認します。

朝になり、長男と交代しわたしは会社へ行きました。
長男は自営業なので仕事をしばらく従業員に任せて自分はお休みできたので日中は旦那さんを見守りしてくれました。

父と息子、2人で色んなことを会話出来た事でしょう…

長男は父親がここまで頑張って返した借金が残りもあと少しだからと、相続してあげたいという気持ちがありました。旦那さんも、長男にこの家は残したいと言ってずっと借金を払ってきました。

しかし長男は親戚から反対されました。
親父と同じ目に遭うぞと…

長男が相続を悩んでいる時でした。
義母から旦那さんに合わせろと電話がありました。長男は言いました。
『親父がこんなになるまで苦しんだのはバァのせいでもあるだろ?
会いたくないって気持ち汲んでくれよ。
親父に借金押し付けて、それを孫の俺が引き継ぐかもしれないんだよ?』

祖母から孫への言葉です。
『働いてりゃ返せるでしょ!』

働いて返さなかったのは誰ですか?

長男も今までバァ、バァ、と何も知らずに暮らしてきていたので、はじめて思い知らされる出来事だったと思います。

長男は退院の連絡を旦那さんの友人へします。みなさん会いに来てくださいました。

中には、元気になって退院してきたのだと思っていて、姿をみてショックを受けておられる方もいました。

毎日お見舞いに来てくれて、朝も8時から夜8時くらいまでひっきりなしでした。毎日顔を見るだけでいいと言って、一瞬でもいいと来てくれる人もいました。
旦那さんもだんだんカラダを起こせなくなりました。横になったまま目を閉じたまま、みんなの声を聞いています。
6日間のあいだ本当にたくさんの方々が来てくれました。
残念ながら寝てしまった後で会えなかった方もいました。

5日目、仕事中に長男から連絡がきます。なんだか旦那さんの様子がどんどん悪くなっていて1人で診ているのは怖いから戻ってきて欲しいと言われました。
早退して帰りました。
そして対峙します。
あの義母が現れました。

しかし旦那さんはもう会わないと決めていました。
理由は前回の入院中のあの出来事です。アルコール性の認知症かもしれないまま退院した場合、義母は旦那さんを診ない!とおっしゃいました。

それを聞いた旦那さんはそうとうショックを受けていました。
あの日、長男は夜は自分が玄関に布団敷いてでも見張る。昼間は仕事に連れて行くと言いました。
それを旦那さんに話した時、涙を流していました。
だから、旦那さんも変わろうとしたはずなのに…
あの時の長男の意見は、おじさんたちに無理だろうと反対されました。
あの日の話し合いの結果はわたしとは離婚。旦那さんは自己破産させて精神科でした。
誰も協力も助けてもくれないというのが話し合いの結果でした…

義妹に、あーめんどくさい!と言われたあの話し合い…結果的にはめんどくさい発言の通りどうにでもなれよ!な結果でしたね。

あんな勢いで、診ないと言った義母が今更何しに来たのでしょうか?
旦那さんは義母には会わないと言っていることを伝えました。
ブチ切れした義母は言いました。
『親が子供に会えないなんて話しはないだろ!』
親?母親?誰がですか?
わたしと長男の静止を振り切り玄関から入って行ってしまいました。
幸い…少し前に眠りについたところで旦那さんは義母が来たことは最期まで知りません。

帰り際に、義母がわたしと長男に向けて言いました。

『これから人がいっぱい来るんだから、庭の草むしりくらいやりな』

草むしり?今やることじゃないですよね?
何を言っているのか全くわかりません。
長男が言いました。絶対酒飲んでから来ただろうと…
顔もパンパンに太っていました。
生活保護を受け、美味しいものを飲み食いしているんですね義母さん。
息子をこんな姿にしておきながら。

旦那さんは音声の遺言を遺しました。義母に対して、二度とこの家に入らない事と死ぬまで会うつもりもないこと、面倒見てもらうつもりもないという言葉でした。

そして義父、義母を崇拝していた先輩方へも遺していました

先輩方はとにかく義父には世話になったと言います。
毎日、毎晩、ご飯を食べさせてもらった!毎日ご飯を食わせてのどんちゃん騒ぎ!
恩義があるという先輩方は、うちに来て飲む度に旦那さんに言って聞かせていたのをわたしも聞いたことがありました。
そうやって毎日、毎晩やっていたらそれはそれは借金やローンを返せませんでしたね。

旦那の元へ、先輩たちは義母を何度も連れてこようとしていました。
旦那さんは会わないですよ!もう会いたくないんですよ…事情があって…と断り続けていました。

親だろう?連れて来てやるよ!
何度かやりとりした後、最後の力を振り絞り、旦那さんは先輩に伝えます…
『音声のデータを…先輩たちに聞いてほしいです』と…

あの遺言が動きだしました。

あの日に強行突破で寝ている旦那さんの顔を見た以降は二度と来ることはありませんでした。
あれからみなさんが協力してくれました。

友達や先輩たち、旦那さんのお酒の飲み方が年々酷くなることはわかっていました。
義父が亡くなり、旦那さんの心の支えがなくなり弱かった旦那さんだからあんな風になってしまっていったんだと思われていました。
誤解が解け始まります。

毎日来てくれる同級生、先輩…
本当に旦那さんは友達には恵まれていました。でも、誰にも話せなかった。
かっこ悪い自分を隠したかった…

6日目の夜、心臓が苦しいと言って救急車で病院へ戻ることになりました。
わたしは救急車の後ろを走りながら病院につくまでに心臓が止まってしまうのではないかとても怖かったです。
病院につき処置が終わり診察室に呼ばれた時は、まだ生きていて良かった…と思いました。

旦那さんだけ、病室へ移動して行きました。わたしは再入院の手続きをして、コロナ渦なので病室には入れませんでした、あとで書類や検温と問診を受けてから面会ができるようになると説明されました。窓の方へ目をやると外はもう朝が近づき明るくなっていました。真夏の容赦ない暑さになるちょっと前の静かな朝焼けでした。

わたしは荷物を取りに戻って午後から息子と病院へ向かいました。
コロナ渦で色々と制限があり面会も厳しい条件がありました。
患者の配偶者か親か子、小学生未満は入れませんし、1日2組で1度の入室は2人まで時間は15分程度。
旦那さんと一緒にいられる時間は少ししかありません。
この時点で旦那さんは、まだ意識はありました。
お腹が空いたと言っていたので、面会時に持ってきていたゼリー飲料を渡すと勢いよく一気飲みをしました。

『めちゃくちゃ腹減ってるんだよ!』

空腹で、お腹も空いています。
しかし普通の食事はもう喉が通りませんでした。
ゼリーだけは喉を通ったようです。
これが彼の最後の食事になりました…

尿意、便意もあるのに前日から全く出ていません。

どんどんと膨れていくお腹…

ゼリーを飲んだ後、少し寝ると言って寝てしまいました。
カラダを起こすのも辛いようです。旦那さんの眠っている顔を見ていましたが、時間があっという間に過ぎました。

看護師さんが来て面会の終わりを告げられます。
あと何回面会に来れるんだろうか…

帰ってからもずっと心配でした。
何かあったら病院から電話がくる…
眠れない日がもう何日もずっと続いています。
旦那さんが3週間前に入院してから、連日のように担当医からはいつ亡くなってもおかしくない状態ですと言われ続け、そんな電話を受けるたびに緊張で動悸がするようになっていました。

次の日の朝、旦那さんからの着信がありました。何か向こう側で話しているような声がしていますが会話はできずに切れてしまいました。

数日前から目が見えにくくなっていたので、スマホの表示を大きくしていたのですがそれでも操作ができなくなっていたようです。
ラインも送ってきたのですが言葉にならずに意味不明な文字が打ってありました。
『さやんらわわやわ』

何て打った言葉だったの…?

そのあとはスマホを手から落としてしまったのか、何度かけ直してもつながりませんでした。

胸騒ぎがしたので午後から行く予定を早め病院へ向かいました。
病室に入ると昨日よりずいぶんと状態の悪化した旦那さんがいました。
肝性脳症です。
意識が朦朧としているのか、声かけに反応することもあるのですが妄想の中にいるような状態です。
天井を見たまま目を開いたままでいることもあります。
タバコを吸っている仕草しています。思いっきり吸い込んで
『火がつかないんだよなぁ…』
と言っています。
何度も何度もエアータバコをふかしています。
『全然、吸えないんだよなぁ』
しばらくはその繰り返しをしていました。

『喉が渇いた…』
と言いました。

咽せると怖いので、看護師さんに手伝ってもらい体を横にして水を飲ませてあげました。

『冷たいね…もっとゴクゴク飲みたい
な…』と言いました。

そしてまた天井を見ていました。

冷たいお水を飲ませてあげることができてよかった…

この時の旦那さんの様子を見ているのはもの凄く辛かったです。
一緒に病室にいた次男も相当キツかっただろうし、あとから面会にきた長男は可哀想過ぎてみていられなかったと言ってました。

面会の時間が終わります。
『また明日ね』
と病室を出ました。

もう、残された時間がないのはわかっています。
今日か明日か…旦那さん頑張れ…
コロナ渦でなければ面会時間も制限されずにもっと一緒にいられたのに…
1人にして可哀想だと思いました。
でも、肝性脳症でこの状態になってしまってからは色んなことを考えたりすることはもうないし、恐怖心も寂しさも悲しみもなかったんだろうと思います。

病院から呼び出しの電話が鳴ったのは次の日の朝4:00頃でした。
『患者さん、相当な痛みで苦しんでいますので、痛みをなくす為に医療用麻薬を投与します。
その後は意識がなくなり会話もできなくなって眠ってるような状態が続くと思いますので最後の会話ができるうちに病院へ来て下さい』

わたしはすぐ病院へ向かいました。

病室に入るとベッドの上には、痛みにもがき苦しんでいる旦那さんがいました。

『痛いー痛ぇよー
  助けてー助けてくれよー』

え?何コレ?
この状態はいつからなの?
こんなに痛い痛いって何時間言ってるの?

足をつっぱり、上へ上へ移動したのでしょうか、ベッドの柵に頭がぶつかり
、それでも上へ上へとつっぱって行くのです。
相当な痛みを堪えてるのか、ギュッと力一杯閉じた瞼からは内側の肉がはみ出していました。あぁ、凄い様だ…
全身のこむらがえりや血管の破裂している痛みなんだそうです…
息子たちを呼ばなきゃ!!病院にすぐ来るようにと電話をしました。

『パパ!もう痛くなくなるんだって!
楽になれるから…』
わたしはカラダをさすりながら声をかけ続けました。
到着した時には医療用麻薬はすでに投与が始まっていて1本目が終わるころでした。
『痛ぇーよ!たすけてくれよ』

わたしもこの状況に訳がわからなくて
パニックです。
電話で説明された、想像していた旦那さんの状態よりも酷すぎたからです。
早く息子たち!!

旦那さんは
『痛いー、助けてくれー』と
まだ苦しんでいます。

こんな姿を見せられ、今までどれだけ心配してきてあんなにお酒の事を注意してきたのに!と怒りもありました。

『こうなる(死ぬ)のはわかってたんじゃないの?何で酒なんか飲んだんだよ!』

旦那さんを怒っていました。

『わかってるから!もう言わないでくれよ!』

あっ…答えた!

これが旦那さんとの本当に最後の会話になりました。

わかっていたなら、こんな姿で苦しんでいるはずないよ…旦那さん。

看護師さんがやってきました。
1本目の投与から30分が経ちましたが、まだ痛みに苦しんでいる状態だったので2本目の医療用麻薬の投与が始まりました。

すると数分も経たないうちでした。
あれ?旦那さんの声が止まった…
あれ?ギュッと閉じてたはずの目が、カッと見開いてます。

『あ…なんか瞳孔開いてませんか?』

と看護師さんに尋ねました。
看護師さんは投与していた点滴を止めました。
ご家族が到着するまで、奥さんは声をかけ続けて下さいと言われました。

旦那さんの心臓は2本目の麻薬には
もう耐えることが出来ませんでした。

わたしにだけ見せたあの凄まじい姿…
わたしの脳裏には今も鮮明に焼き付いていて消える事はありません。

一生、俺を忘れないで!
と言われているかのようです

本人が延命措置はしないと決めたので(助からないからです)心電図モニターの心拍数が0に近づいていくのをみながらカラダをさすって声をかけ続けました。
次男が到着します!
『親父頑張れ!』

長男が到着するまではどうかまだ逝かないで!待ってよ!
と願いは届いたかどうか?でも耳だけは最後まで聞こえていると聞いたことがあったので声をかけ続けていました。
長男が到着しお別れの言葉をかけましたが、声が届いたといいですね。

父親として、息子たちにはあの最後の苦しむ姿は見せたくはなかったのでしょう。

足も手もどんどん冷たくなっていきます。旦那さんは本当に死んでしまったの?
さっきまで助けてくれーって声でてたじゃん!?
まだ信じられないし、変な感覚がしていました。

それからは悲しむ時間もないまま、家に帰ります。バタバタと葬儀屋さんと打ち合わせが始まったり式までの段取りが決まり、気付いたらお葬式の日です。

棺の中の旦那さんの顔を見ている間は悲しかったのかどんな感情だったかもよく覚えていませんが辛かったんだと思います。
しかし、骨になってしまった旦那さんをみた瞬間…
『あ、もう本当にいなくなっちゃったんだ』
と頭が理解した気がします。

この日、旦那さんの告別式はわたしの誕生日でした。
最後までわたしの記憶に残り続ける。

これで何もかも…終わってしまった。
悔しさとやるせなさだけが残りました。

葬儀後、家から自分の物だけ取り出し旦那さんのものはそのままにして、念の為に家の中の写真も撮りました。
義母たちがどんな動きをしてくるのかわからなかったからです。

家の鍵を返せと言われ、この家に未練なんかないだろ?と酷い事を平気で言っている事にすら気づいていない人たちなのです。

あちら側の言いたい事は、早く自分のもの取り出したい!
家の中に入りたい!

少し待っていて下さい。
手続きもこの家の権利もあなたたちに移りますと伝えました。
最後まで勝手で笑えます。

近所の方に会いました。
この家の事を聞かされました。
ここに義父、義母が引っ越して暮らし始めてから毎日毎晩、どんちゃん騒ぎだった。良く招かれてご馳走になったんだよと!いつも客人は10人とかは居たということ。
良く金が続くなと思っていたこと。
そのうちに、その方の亡くなった親のところにお金を借りに来ていたこと。
この近所の他の家からも借りてたみたいだということ。
義母が、義父に借りてこいと言って、しかも借り方は義母に内緒で借りに来ているんだと言わせていたということを教えてくれました。

近所の方も義母が会ったときにする、あの挨拶が心がない挨拶する人だと感じていたみたいです。だからといって、わたしが嫁に来たときに、この家の義母は酷いぞとは言えないしな…あんたら若い夫婦を悪く言う人は居ないから大丈夫だと言ってくれました。この後も色々と頑張れよな!と言ってくれました。

それからは、役所、銀行、裁判所へと連日のように通いました。

わたしたちは相続放棄を選びます。
全てがなくなりました。

1ヶ月後…1通のハガキが届きました。
義父が借りていた120万円の借金の通知でした。
1年前から利息すら払われていませんよ!というハガキでした!
義母が生活保護になり利息も払わなくなったようです。

死んだ旦那さんは新たなる借金を知らずに亡くなりました。

わたしたちは相続放棄を選び正解でした。

長男は父親がここまで頑張って借金を返したのだから残りは相続したいという気持ちがありました。
しかし放棄をして大正解でした。

こうしてこの家は旦那さんと共に終わります。
わたしも長男も次男も新たなスタートを切ります。生きている限り前に進みたいと思います。

旦那さんを救えなかったことだけが心残りではありますが、わたしが出来ることはやりきりました。

こうやって振り返って言葉にしてみると辛かった日々が鮮明に蘇ってきます。
わたしの記憶から、いつかは消えて欲しいと願っています。

旦那さん安らかに…
今までありがとう。

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