見出し画像


体の一部が、赤く腫れている。

直径4センチほどのそれは、今朝目が覚めたら太ももに現れていた。
触ってみると周りの皮膚より少し硬く、少しだけ熱を帯びていて、うっすらと痒みもある。虫に喰われたのかも知れない。
みぞおちの横にも、同じような痕があった。


先日は背中に2か所、吹き出物を見つけた。
私は吹き出物の中身を出すための器具を持っていて、ぎりぎり届く範囲だったのでそれを使って潰してみた。手応えは無かったが、血液と体液がでて、おそらく“中身”も出せたようだった。
先ほど確認したら平らな感触にかわっていたので、やはり中身は出せたのだろう。それは良かったのだが、しばらく痕は残ることになる。錆色の小さな点が持つ存在感を、私は到底、見過ごせない。


自分の体に痕ができるたびに落ち込む。それは単純に体がきれいな状態ではなくなってしまったという落ち込みと、まともな生活を送れていないことに対する落ち込みである。

太ももや、みぞおちの横や背中は、普段生活している中で別に誰に見られることもない。それなのに落ち込んでしまうのは、そうした痕がなるべく無い方が良いという価値観が自分の中にあり、その価値観に由来するいくつかの気持ちが、心をぐるぐるとかき回すからだ。


またこうした痕ができた場合に私は、それは一定基準以上の清潔さを保てていないということで、だらしのない自分が引き起こしたものだと判断する。シーツを洗濯しなかったからかもしれない。体をきちんと洗えていないからかも知れない。食生活が悪いのかも知れない。或いは、その全て。


定期的にシーツを替えることも、毎日の入浴も、野菜を摂取することも、習慣化もされていないし興味も無い。面倒くさいという気持ちが勝ち、まぁ平気だろうといつも高を括っている。


“努力できないこと”が、子どもの頃からずっとコンプレックスだった。どうして私は努力ができないのか、どうして私は頑張れないのか。
そしてそれは、“どうして私には好きなものがないのか”とおよそ同義である。私の好きはいつも、持続しなくて薄っぺらい。


私のことも、私以外のことも、好きになれず大事にできない人生だった。
“私”に関しては最近になってようやく、ほんの少しばかりだけれども、好きになれるところにも目を向けられるようになってきたと思う。認められるようになってきた気がしている。まだまだ好きでは無いところの方が、圧倒的に多いけれど。
“私以外”のことに関しては、やはり持続せずに薄っぺらいけれど、好きである時は好きだと言うようにしている。一時のことかも知れないけれど、それは嘘ではないと思うから。

(念のため書いておくと、私が生まれてから今日までの間に楽しく生き生きと過ごせていた時間があったことと、上記のように感じることは両立しうる。生身の人生とは0か100かではない。)



午前3時まで眠れないことや、出かける10分前にしか起きれないこと。自炊ができなかったり、ものを知らないこと。研鑽を積めず、仕事が上達しないこと。そういった事実を認識して、惨めな気分になって身動きが取れなくなる。

では、早く寝れば良いのだけれど、それはできない。不眠とかそういうことではなく、なんというか、できない仕組みが出来上がってしまっている。(或いはそう思い込んでいる。)だから変えることがとても難しい。
しかし、この状態を理解してもらうこともまた難しい。できる人にできない感じを分かってもらうことは難しいし、それは無理なんじゃないかと思う。


体についた無数の痕が、今日も私の嫌いな私を突きつけている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?