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年末年始の番組によせて - たまにのエッセイ テレビとラジオ no.12

 この年末、久しぶりに電話した叔父に「あの日記みたいなやつ最近更新してへんなぁ〜」という言葉をもらった。親族や海外に暮らす友達もたまにnidone.worksのサイトをチェックするついで、このエッセイも読んでくれているらしい。ちょっと嬉しくなったので更新をしてみる。

 僕自身、ヒコさんという方の「青春ゾンビ」というサイトを知ってこのエッセイを始めたところが少なからずある。誰かが紡いだ言葉に惹かれ、誰かがまた新しく言葉を紡ぐ。悪いことではないはずだ。しかし、ここ数年で視聴したテレビやラジオに関してnoteやTwitterへ長文をしたためる人が増え、考察や批評的な視点で映像コンテンツを観る人も増えた印象がある。それはアメトーークや関ジャムのように芸能界の裏話やメイキング部分を取り上げたコンテンツの増加とSNSでの話題力が背景にあるのでないかと踏んでいる。いや、分析しとるやないかい。

 『岡村隆史のオールナイトニッポン』(現:ナインティナインのオールナイトニッポン)にノンスタイルの石田さんがゲストに登場し、M-1で披露された漫才を分析する「M-1答え合わせ」がここ2年続いていたが、この年末は無かった。ちょっと寂しいが、無かった事自体が2020年には合っていたように思う。僕は何となく「答え合わせ」という表現が適しているのか引っかかってはいたが、「漫才」の認識にしても人それぞれだということは、演芸に答えを求めるのは違うと確信した。言葉選びは繊細で、演芸は楽しむためにあるものだ。

 この年始にテレビを観ていて気に止まる一瞬があった。TBSで放送された『ドリーム東西ネタ合戦2021』で、マヂカルラブリーが師匠と喧嘩する漫才を披露したあとの事。野田クリスタルさんが「つり革のネタやろうか迷ったんですけど、いろんなネットで議論が行われて、あのネタがどれだけ漫才なのか解説してるサイトとかあって。それ見ちゃったらおれあのネタつまらなくなってきちゃって。」と言っていた。これは視聴者ではなく演者自身がつまらなく感じてしまったという話だ。誰かを批判したり馬鹿にするお笑いではないにも関わらず、視聴者がネタを分析することで演者が信じる「面白い」が奪われることもある。僕は単純に野田さん自身が楽しんでいる姿を楽しみたい。野田さんのこの発言の直後、雛壇の上の方で黙って首を横に振るおいでやすこがの2人の姿にこっちが少し救われた。その2人をカメラが捉え、編集で差し込まれたことに芸能のささやかな強さもみえた。

 毎年お正月に放送されているNHK『新春TV放談』も、今年からはコロナ渦の特別版放送を経て『あたらしいテレビ2021』というタイトルで放送された。いま流行っているリアリティーショーというジャンルに対して様々な見解が議論され、ネットとリアリティーショーとの相性や難しさについて話題が上がった。「思った通りを勝手気ままに語ること」という意味の「放談」という文字が番組タイトルから消えたのも、タイミングとして気持ちがよかった。映像コンテンツへお金を払うこと・視聴したものに対して言葉を発信すること、その両方で視聴者に責任が生じる。その認識が少しずつ見えてきたように思う。人によってだが、セックスエデュケーションを観たいが、良く思っていない全裸監督を製作するNetflixに加入するという変な構造ができている。この先、サブスク上にしかない作品にも課金する額を作品別に選んで配当できるシステムに期待したい。ついでにSMAPのサブスク解禁も。

 娯楽としてテレビを観ていてもウゲェ〜と思う事が増えた。しかし、先日のNHK紅白歌合戦で星野源が披露した『うちで踊ろう』の二番の歌詞。「瞳閉じよう 耳を塞ごう それに飽きたら 君と話そう」。嘘のない真実はいつだって身近な人と生まれることを思い出す。俺とお前で、、いつか必ず、、俺とお前で、、いつかは重なりあいたいものだ。2021年も僕は『おげんさんといっしょ』を楽しみに生きている。

2021.1.5

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