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KID VICTORY 2021

 ことの始めは結構前(3月くらい?)、Twitterで上演決定の投稿。

本格的なミュージカルを小劇場の距離感で楽しめる自主興業企画の第一弾として、オフ・ブロードウェイ ミュージカル『キッド・ヴィクトリー』を上演することとなりました。(中略)
あらすじ:アメリカ カンザス州の小さな町に、両親と暮らす高校生のルーカス。1 年間行方不明となっていた彼は家に戻って来るが、行方不明中、自身に降りかかった出来事のフラッシュバックに苦しみ、日常生活に戻れずにいた。忘れることの出来ない経験、心に負った深い傷。ルーカスと両親、彼をとりまく人々の物語。

公式サイトより

これ読んでまず思ったのは
 小劇場でミュージカルとはこれまたな趣向ねえ。
 しかも大手事務所主宰……クオリティこだわってきそうだわねえ。
 これまた結構重そうなお話で……
 私のやりたいネタには取り入れられる事項満載でしょうねえ。
 ……オカジモドデテクレナイカナア……
とか思ってたら

ほ ん と に で た。

しかもこれだけ錚々たるメンバーで出演一組九人。よもやよもやだ!


 劇場で観たのは12/17夜、チームWEST公演。とにかく実力ある俳優さん方の存在感が大きい。大劇場後方と舞台の距離とか大きな装置やスポットライトを飛び越してしまう方々が大劇場のS席よりも近くで演技しているのだから、そりゃあ来るものがありますよ。
 当日は敢えてネタバレ情報にも触れずに「その時起こること/見えるもの」にフォーカス置いて観劇したけど、後から思えば「今どこにいるのか」的なことに結果として重なったのかな。あとは劇場の見取り図持ち込んで装置とか出入り口とか観客がアクセスできた場所とかのメモもしておきました。この情報は後々絶対役に立つ。どういう形でかはまだ読めないけれど。

 観劇直後に連想した言葉:受容、侵犯、思春期の深夜に感じ取る死の予感(from春めざ)、罪を冒さずにいられる可能性。
 そして映画『SNS』。これは童顔の成人女優が12才少女設定のなりすましアカウントでSNSを投稿し、群がる2458人の成人男性とのやりとりを記録した、サイコホラーじみたドキュメンタリー映画。こっちの作品はアカウント開設早々オオカミたちの醜悪さ総開チンな話だったけど、今回描かれたのはもっとその先の、気持ちの積み重ねとかの先について回る、隠微で悪質な何か。

 そしてこの物語の舞台が、『自由の国アメリカ』と呼ばれながらも、中絶とか同性愛とか、聖書の教えに絡む事には途端に不自由さが出てくる国で、バイキング同様に新天地を目指す人々が作り上げた国で、そういう建国経緯から銃を持つ権利が憲法で認められている国で(何なら結構最近までウォルマートとかでも銃が販売されてたレベル)。その中でもザ・アメリカの田舎たるカンザス(『オズ』のドロシーがカンザス出身)が舞台であることがすごく重い。押切蓮介の『ミスミソウ』が日本の寒村の物語であるのと同じ重さ。

 舞台装置はシンプルな灰色。待ち時間のうちは全然見えなくて、照明がついた途端に浮き上がってきて。ルーカスが板付きで閉じ込められていた枠も壁になったりドアになったり、シンプルだけど有効な有為転変を繰り返す。
 しかし第四の壁を舞台上に作り上げるとは思わなかったんだなあ。

(ルークの家庭) /←他キャストの目線(もう一つ作られた第四の壁)
_______/
↑ 客席の私達の目線(通常の第四の壁)

こんな感じ。

作中で思うことはたくさんあったけれど、キャラクターで色々と。

ルーク ザ・アメリカな高校生。カンペキな男の子であるはずだったのに、齟齬がでてきたのは思春期入って早々だったのだろうな。反発しがちな家族にもきちんとお礼を言ったり、マイケルが社会人であるのに「すげえ!」って目を輝かせたりしたり、そのくせ微妙に世の中舐めくさっているあたりがすごいリアル(笑) マイケルへの感情に、ストックホルム症候群という言葉を思い出した。銃を持ってニューファンドランドに向けて旅立つ最後の最後まで足取りがおぼつかないけれど、エミリー相手に手違いができて、帰れる場所もあって、マイケルの最後の問いに「行かない」と答えたのだから、きっと大丈夫。持ち出した拳銃も自分や誰かを傷つけるためでなく自分を守るために使ってくれることでしょう。
ジョセフ 作中最大の隠し玉の持ち主だった!配信で改めて見てみると細かい動きが見えて楽しい!何よりひのあらたさんのイケオジっぷり最高!←
アイリーン 口うるさくて、部屋漁るとか手紙を本人より先に読むとか二人のはずの会話に口挟んでくとか、他者のテリトリー侵犯する様が本当にいたたまれない……(※そういう演技が圧巻ってことです)でも根は悪い人じゃなく、いかにも素朴、凡庸、愛情深い、田舎のお母さんってことなんだろうな。ルークが出ていくとき、彼女は何を言って、どんな顔をしたのだろう。
スーズ ヒロインになりきれないヒロイン、みたいな田舎の女の子。彼女の「待っているわ」は受容のつもりだろうけど多分違う。きっと、良くも悪くもアイリーンやゲイルのような女性になっていくのだろうな。
エミリー カンザスの変わり者。自覚あるクズ母。自覚があったからこそ、ルークを受け容れて関係構築して、娘とも関係修復に向かえたのかな。多分娘もそれを感じ取ってて呪いの手紙とかよこしてたんだろうし。ていうか、ソフィがドナにステージアップしてるーーーー‼‼‼(マンマ観てました!)
アンドリュー わが大本命、と個人的主観はここまでにして。このヘビーな物語の中に懐中電灯みたいな明るい光を引き込む人物。バレエMayerlingの
Brattfischみたいな。でも彼が見せる底抜けの明るさだけに気を取られているのも違う気がするんだよね。彼もルークのような鬱屈を地元で抱えている可能性だってあるし、そもそもアンドリューって名前が本名なのかもわからない。それでも。真贋定まらない誰かの、言葉とか在り方とかに一喜一憂して時には救われるのも私達。
マイケル 辿り着きましたよ。ついにこいつの所まで。
さっきルークの所で書いたみたいな、大学生くらいまでの「社会人!大人!キラキラ」的な気持ちは私にも覚えがあって、今は自分がその視線を受けとめる立場かも知らんと思っている身として。「どうしてこうなったよ……」ってやるせない気持ちと、自分もどこかで何かを踏み外したらこうなってしまうのではないかという怖さが迫ってきた。ルークが「一緒に過ごすのは天国みたいだったのに、途中からおかしくなり始めた」のはマイケルの中でのルークとの境界線がおかしくなって侵犯がエスカレートした結果だったのかな。対照的にエミリーがルークの”ボランティア”の申し出をブラッシュアップさせたのは、お互いを守る方法だったのかも。
 それこそこんな救いようのない奴の有様を、ただ傍観していることで惨めさに頭を抱えたり、時には情がわいたりする。そんなことができることこそ映画でもドラマでもなく舞台配信でもなく、劇場で舞台を観るという行為が特権的に持っている要素と改めて実感したからには、自分がそれをやる方法を模索していく後押しになったな。あとやっぱイケオジいいっす(もういい

そして登場人物の年齢構成。
実は結構重要な要素なのかもしれないので、羅列してみましょう。
  エミリー、ジョセフ
  (マイケル)、(フランクリン)、(ゲイル)※この辺?
  アイリーン
  ルーカス、スーズ、アンドリュー、マーラ

 エミリー/ジョセフとそれ以外の登場人物の間に見えた一線は、この二人に加害者(あるいは侵犯者)としての自覚があることかも。人が生きていくためにせずにはいられない、時にはやらかしてしまう、原罪のような何かに、手を染めてしまっている自覚。
 アイリーンとエミリーがそれぞれ冒頭で歌う庭、ルーカスの家庭と、彼が作り上げた模型の庭。どれもこれもエデンの園の幻影なのだろうけど、そう思えば手違いで誰かを侵犯し、出奔して東に向かう結末も然るべきものだろう。それでも望めばその『庭』に帰ることができることこそが、希望なのかもしれない。
 
 とりあえず私も年始くらいはきちんと”庭仕事”してこようかな。


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