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セクシー田中さん 芦原妃名子さん(原作者)に非がないとは言えない。

※あくまで個人の意見であり、本作並びに原作者・脚本家・その他関係者に対して一切の批判、または擁護する旨の記事ではありません。ご了承ください。(追記:これだけ語っておいて無責任な前置きでした。本記事への批判はしかと受けとめます。)
合わせて、大前提として事実は脚本家と芦原先生のみぞ知るため、我々がいくら証言・遺書を参照したところでただの憶測でしかないという点に留意いただきたい所存です。



コンテンツ自体はドラマ・漫画どちらも良かった。

セクシー田中さん騒動が起きた昨日から、私も物語を書く身として一つの才人が亡くなってしまったことが辛く、浮き足立っていた。作品こそ知らなかったものの、悲しく、虚しくもあった。
ただ、メディアやⅩで様々な論争がされる中、内容を知らずしてこの件を考えるべきではない。まず真実を知るべきという思いで、漫画7巻とドラマ10話をすべて視聴した。

まず単純にコンテンツの内容としては、「どちらも良かった」

芦原さんの証言を見ると、1~8話の脚本が提出された時点で自身の理想とはかけ離れていたが故の、修正や加筆の賜物だったのかもしれないが、原作に忠実で、かつ映像でしか表現できないコメディ要素もある。物語の順序の変更や多少のシーン割愛はあっても、キャストの演技力に助けられてもいて、完成度は非常に高かったように感じる。
脚本家の「1~8話は私が脚本、9~10話は仕方なく原作者が脚本」という旨のSNS投稿を見ていたため、1~8話と9~10話を切り離してみてもみたが、特に継ぎ接ぎの違和感は無かった。
結果としてドラマは良いコンテンツに仕上がっている

原作者と脚本家側のエゴの衝突

結果としてはいいコンテンツとして仕上がった。
ただ、9~10話をどうしても原作者自身で書かせてほしいと懇願して折れなかったというところから、やはり脚本家の提出する脚本は元より原作者の意向に沿った脚本ではなかったのだろう。

だろう。としか言えない。

これを事実として捉えることはできない。
というのも、原作者の証言を信じたい気持ちがある一方で、私は原作者に非常に強いエゴを感じる
脚本家にも同じものを感じる。
つまり、本件は互いの強すぎたエゴが招いた結果なのではないかと考えている。
今回、自殺というあまりにも分かりやすい結末を迎えてしまったがために、脚本家やテレビ局を極悪人のように見る目が多いというのは分かる。だからといって、原作者に一切の非がなかったとは言い切れないのではないか

完全な私情だが、私は自分の書いた小説が売れることを夢見ている。
「売れる」ということは、書籍が出版され、重版され、メディアに取り上げられるということだ。映画やドラマへの「映像化」も、もちろんその中の重要項の一つとして存在する。

しかし、私は私の書いた小説が映像化されたいとは微塵も願わない。活字と映像では、まったくもって違う作品になることが分かりきっているからだ。活字であることによって、作者の描く描写が読者の経験で枝付けされ、余白が活かされる。景色一つ、表情一つとってもそうだ。しかし、映像化してしまうといくつかある選択肢が一つに限定されてしまう。
それ故、視聴者側からすると映像は理解しやすいのであるが、小説を完全再現することなど、大前提として不可能である。
原作者の気持ちを丸々理解できると言うつもりは毛頭ないが、こればっかりは至極当然の事実であり、小説家は例外なく留意するべきだ。

原作者は映像に口を挟むべきでない。

前述したように、「映像化」は「売れる」と同義になりうる。
原作者においては、完成された小説の映像化を拒むか否かは非常にセンシティブな課題となるが、つまるところ、映像化を承諾したのであれば、映像に関してあれこれと口を挟むべきではない

ドラマ制作側に立って考えてみる。
予算や放送日時、コンプライアンス、キャストやCG技術などの事情をテレビ局は抱えている。そのため原作者から来る細かい指摘を受け続けていると進むものも進まず、いってしまえば邪魔になってしまう。
本件もテレビ局、脚本家側からすれば、正直めんどくさいクライアントと言ったところだっただろう。
芦原さんは、映像化を承諾した上で原作者としての自我を出しすぎた。
原作を100%再現することが出来ないことが自明である以上、別の作品として割り切って作成を任せるべきである。

かといって、下手に映像化させて全く意図しないものが出来上がってしまった場合はその風評被害は原作そのものにも及ぶ。ドラマが面白くなかったという評価が先走り、今後の作家人生にも影響を及ぼしかねない。
風評被害や完成された作品を守るためにも「あくまで原作に忠実に」という要望はもっとも原作者が持つべき権利だ。

ましてや未完の作品であるというから、終わり方には強いこだわりをもつだろう。下手に決定的な終わり方をしてしまえば今後のストーリーの進捗にドラマの展開が足枷となりうる。
一方、脚本家側はドラマを一つの作品として仕上げたいのでなにかしらのはっきりした結末を求める。衝突して当然だ。

過去を辿っても、実写化が失敗した作品などいくらでもあろう。十中八九、実写化は原作を愛する読者にとって駄作となる。か、原作ほどではないという評価になる。
これらは分かりきっているのだ。
原作者は映像にすべてを求めすぎた

そのため、映像化させるのであれば任せる、させないのであればさせない。この辺はさっぱりするべきであったと考える。

まとめ

いずれにしても今回の騒動は小説の映像化に関して一石を投じることになった。過去を遡っても映像化は失敗が多いとされる中、テレビ局はより一層慎重に動くことになるだろう。
原作者側に関しても、自分の作品をまがい物にしてしまう可能性がある中、映像化に踏み込むことについて今一度踏みとどまって考えてみる必要が出てきそうだ。

一概に映像化は悪であるとは言わない。言うまでもなく良い側面も持っている。むしろ駆け出しにとっては良い側面の方が多いかもしれない。
ただ、その分リスクも潜んでいるということを認識せずに決断してはならない。


改めて、芦原妃名子さんに素晴らしい作品を見せてくださったことに感謝し、敬意と哀悼の意を表します。

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