一億総クリエイター時代を目指してー素人でも投稿を工夫するメリット
以前、アメブロのアカウントを削除してからnoteでの更新を始めた、と書きました。
そのキッカケとして中傷メッセージがきた事を述べましたが、それは理由の一部でしかありません。
しかし実のところ、開示請求したい気持ちが全く無いワケではありません。
心の傷の多寡はともかく、
「(毒親だからではなく)私が発達障害だから、親に絶縁されたのだと思った」
というメッセージを、送った本人・Bさんは個人の意見と捉えていて、
これを、誹謗中傷だとは思わず看過される世の中というのは、不気味だと思います。
ともあれ、アメーバブログのアカウント自体に執着していたワケではないため、名誉毀損罪や侮辱罪に問える可能性が薄く、モチベーションが低いです。
それに、四年間更新してきて、まだまだ学べるところはあったと思うのですが…メリットやデメリットを、自分にそれなりに、落とし込む事が出来たと思います。
メリットその一
アクセス数や「イイネ!」数による分析。
読む専門、イイネ!を押す専門、またはコメントするだけ、自分の好きな事を投稿するだけ…では、先の「中傷メッセージ」を送る人のように、どうしても、
「お客様根性」
が染みついています。
彼女からは、中傷メッセージだけでなく、
実はブログで
「構ってちゃん」
「構うと、つけあがる」という悪口を書き込まれるという、嫌がらせを受けていました。
その中で彼女は、自分の事を、私の「読者」だと言い、
「過去の事である毒親や、離婚歴をいつまでも書けば、読者は心配するに決まっている」
という主張の持ち主でした。
私の考えとしては、
もし自分に「構ってほしくない」のなら、日々の買い物や自分の使用する化粧品の事など、現実の友人に話せば良いだけのことで、何一つブログにアップする必要は無いと思います。
SNSのアカウントを持つ限りは
誰もが「構ってほしい」という気持ちを抱えており、悪口として「構ってちゃん」ということばを使う、自分を例外にできるBさんの気持ちが、全くわかりません。
アクセス数や「イイネ」の数にこだわらないという事は、達観しているようで、
他のアカウントが注目を浴びインフルエンサーと呼ばれていく中、
内容的には
「遜色ないはずの自分のアカウント」
が冴えない理由を、
考えないままに不満だけを溜める、ということが起こり得ます。
受動的に自分が楽しむ事を最優先にすると、
アクセス数やイイネ数
=
投稿者の性格や人間性が反映されるべきもの
という安直な考え方が染みつきます。
事実、Bさんはアクセス数にもイイネの数にも興味が無いし、アフィリエイトもくだらないと言っていながら、私や、他の人への悪口をブログ内で共有しようとする、という、矛盾した行動を取っていました。
確かにYouTubeなどにも「ネガティブ」なタイトルの方が、視聴者のクリック率が上がる、という特徴がありながら、それを続ける発信者を敬遠したり、嫌う人間もいる、という
人の気持ちと
起こる事実に
矛盾があります。
故に、
Bさんに私という人間や発信が
ハマらなかったのは仕方ない。
好みの問題です。
SNSは、到底自分の受け入れられないような幅広いコンテンツが公開されているため、受け取る側が、直観に頼り、
直情的に「拒否」するコンテンツを決めるのは、仕方がないと言えます。
けれど、それは「配信者が人としてダメ、性格がダメ」という曖昧な話ではなく、
あくまで、「自分の好みに合わない」という捉え方が、広まるべきです。
「自分が楽しむアカウント」と
「相手を楽しませるアカウント」は別物でありながら、
「自分が楽しむアカウント」を「相手を楽しませるアカウント」にするという、
全てのツールにこの素晴らしい機能があり、結果はユーザーの創意工夫に委ねられています。
前回、Bさんは「審判」として、アメーバブログのアカウントを持っていると書きましたが、プレイヤーとして楽しまないのなら、審判ではなく、せめて「観客」としての姿勢を貫かなければ、誹謗中傷を行う側が、
「自分のこれは誹謗中傷だ」と自発的に考えられる未来は、遠いでしょう。
メリットその二
趣味を思い切り楽しむ事ができる。
アカウントを「お客様根性」で楽しむのではなく、人を楽しませるものとして、真剣に考えることで、たとえ遊びでも、日々自分の能力を活かし、得た情報(インプット)を、アウトプットに繋げて考える思考回路が開きます。
音楽が良い例です。
練習だけでなく、録音や編集。
実際に自分で聞いてみて、どうか? など
恥ずかしくとも、一回「配信してみる」だけで、「恥ずかしい」なんて取るに足らないほど、良い経験になるはずです。
メリットその三
収入のパイプを増やすことにつながる。
副業解禁、自由の時代と言われながら、昨年より女性の自死率は三割も上昇したそうです。
なぜ、こんなにも「生きづらい」のでしょうか。
「メリットその三」の「収入のパイプを増やす」というのは、
自分が楽しみ、相手を楽しませる。
それができた後、最後に尾いてくるモノです。
誹謗中傷を誹謗中傷と分からず行ってしまう人の多くは、
アクセス数やイイネ数=投稿者の性格や人間性が反映されるべきもの
と考え、
人間的に、自分より劣る人間が、
多くのお金を得ている事が
許せない
という思考に陥っています。
格差社会は
「セコい手を使ってお金を稼いでいる人間」に責任があると考えている。
そのため、誹謗中傷も正義になるというわけです。
前者の「人間性」は数字で測れませんが
後者の「お金」は数字で測れます。
だから 不公平感を持ちやすい。
今さらですが、
あるアカウントが人気であることと、発信者の人間性や性格には、相関がありません。
メンタリストDaiGoさんの炎上が、今年の夏に話題になりました。
私も彼の発言に嫌悪を感じた一人ですが、彼の「本性」と「言動」が、必ずしも一致しているとは思いません。
と、言うか、人の本性など他者が正確に捉えられるはずがないのです。
芸能人がスキャンダルを起こし、自粛のあと復帰しようと言うとき
必ず、どこからともなく
「本当に反省しているか」
ということばが聞こえてきます。
けれど、本当に反省しているか、を、言動から他者が正確に判断するのは可能でしょうか。
マナー講師が、「反省ファッション」や「反省の態度」をレクチャーする記事や動画をたまに見かけますが、では、その通りすれば、「本当に反省している」ということになるのでしょうか。
そうではなくて、
具体的なメソッドが教えるのは
他者が望むよう「見せる」事です。
人間の本質、のような、哲学的なことは、問題になっていません。
テレビのように、お客様根性のまま、この情報社会を生きてSNSを楽しむと、
発信者の発信で、「人間性」を見た気分になり、
それを「広告収入」などと照らし合わせて考える事で、不公平感が生まれ
「観客」ではなく「審判」として
誹謗中傷をも、単なる「個人の意見」と捉えるという、パターンができます。
人と人とを比較すると良くない、という道徳的な文言はありますが、
比較しなければ、人は決して「他者」を認識できません。
この場合の思考の最も大きな陥穽は、
「人間性」という比較不可能なものを、ムリヤリ、お金やイイネ!、フォロワー数で、比較していることです。
もし人を楽しませるアカウントにする姿勢を全員が持てば、一億総批評家社会などという世知辛い社会は消え、一億総クリエイター社会となる。
マインドセットだけという、最も低コスパな世界平和が実現するということです。
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