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水位先生と方全先生(1) -方全霊寿真-

#00636 2020.1.26

(清風道人云、この「水位先生と方全先生」は、宮地神仙道道統第四代・清水宗徳先生が神仙道広報誌第一号及び第二号(昭和二十五年)に掲載された論考です。 #0382【水位先生の門流(4) -道統第四代・南岳先生-】>> )
 
 宮地水位先生に就ては旧著にもその小伝を申し述べておいたことでもあり、他日詳密に亘る伝記の集成を期してゐるので、本稿に於ては方全先生の霊的御蹤跡(しょうせき)を主題として水位先生との御関係を発表し得る範囲内に於て概述致したいと思ふ。
 
 方全先生と突然申し上げても全く耳新しい方が大部分であらうと考へる。元宮中掌典で、『本朝神仙記伝』の著ある宮地厳夫先生で東岳と号せられた御仁であるといへば凡そ神仙道を研究するほどの士は、「あゝあの方か」と頷かれる筈である。 #0383【『本朝神仙記伝』の研究(1) -饒速日命-】>>
 方全先生とは厳夫先生の幽名(仙名)を方全霊寿真と申し上げるところから左様に御呼びしてゐるので、水位霊寿真を水位先生と御呼びするのと同様である。
 
 厳夫先生の普通の伝記といったものは、昭和四年夏に上木された『本朝神仙記伝』の巻尾に大久保千濤(ちなみ)氏が執筆されて居り、その履歴なども詳密を極めてゐるが、私をして忌憚なく言はしむればこの大久保氏の筆になれるところの伝記なるものは厳夫先生の伝記としては洵にふさはしからぬもので、むしろ先生に対する一種の冒涜とさへ感ぜられるほどで、なきにしもがなの嘆息を洩らすのは豈(あに)私一人のみではあるまいと思はれる。
 それは畢竟(ひっきょう)するに大久保氏に神仙道研究の造詣が乏しかったことゝ、神仙の実在に対する信念が欠如してゐる結果で、言辞は過激に似たれども筆執るべからざる者がお門違ひの方向に筆管を弄したといふ憾(うら)みが深い。
 
 この昭和四年版の『本朝神仙記伝』二巻は装幀(そうてい)も比較的整ひ良心的な出版とは言ひ得るが、校正が無茶苦茶なことゝ著者の真骨頂を逸脱した伝記を附したこと、著書の本領にそぐはぬ序文・跋文(ばつぶん)を載せたことで、折角の名著を台無しにしてゐることは返す返すも遺憾なことである。
 もしこの刊行本にかゝる序文・跋文・伝記が掲載されなかったとせば、それは著者の清潔なる名誉の為にも、この名著の正当なる評価の為にも幸甚(こうじん)であったと考へるのである。
 
 厳夫先生の斯道(しどう)に対する御造詣は、彼(か)の『本朝神仙記伝』の注釈によりてもその一班が窺へると思はれるが、先生が最も攻学上の主力を注がれたのは『雲笈七籤』の研究で、この分野に就て他日稿を改めて御紹介したいと考へてゐるが、今こゝに主題として取り上げたいのは先生の内面生活即ち霊的御蹤跡である。
 私が格別関り合ひもない大久保氏やその他の諸氏の論旨に遺憾の意を表明するのも、方全先生の霊的内面的御生涯に誤りたる印象を残したくないと考へるからで、人一人の魂を打ち込んだその人の生涯の業績を代表するやうな名著を扱ふ上の態度に就て、門末後学の一人として聊(いささ)かの義憤を洩らしてゐるのである。
 
 要言せば、巨大なる有神論の炎を掻き立てゝゐるこの不朽の名著さへ無神論的濕(しめ)りをくれてゐるのがこの序文であり跋文であり伝記である。
 この伝記から受ける印象は、要するに厳夫先生は篤学で講演に巧みな勤皇派の神道家で、その神仙信仰を以て某年某月某日安らかに神道宣布の生涯の幕を閉じたといふ極めて有りふれた上すべりのもので、先生の真面目(しんめんぼく)を相去ること千万里である。
 
 先生は弘化四年九月三日、土佐国高知、旧高阪城西之河原町に手嶋増魚大人の三男として生誕された。幼名を竹馬、後に功と呼び、太左衛門と改め、更に厳夫と改名せられ、道号を東岳と称せられた。(水位先生より五歳の年長に当る。)
 先生長じて十七歳にして高知藩山内家に仕官し、その傍ら藩学致道館に通学された。この間、城内八幡宮祀官・宮地伊勢守(いせのかみ)にその人物を見込まれ、入りて養子となり宮地姓を継がれたのであるが、この伊勢守の宮地家が水位先生の潮江宮地家とは同族で、その祖は同じく宮地若左衛門大人より発してゐる。
 
 先生が水位先生に先立つこと五年にして土佐国高知に生を享け、入りて宮地家を継ぎ親族として水位先生に交遊されたことは洵に奇霊(くしび)なる因縁で、私をして言はしむれば正に天意の存してこの二仙を人間界に再生し親族として交遊せしめられたので、水位先生御帰天の後を承けてその道統を継ぎその学流を集成し、正統の神仙道をして今日あらしむべく用意されて出現された仙真こそ方全霊寿真宮地厳夫先生であったのである。
 
 水位先生が神仙界に交通されたのは幼少十歳の頃からであるが、方全先生が神仙界に出入されたのは恐らく中年以後であらうと思はれる。 #0380【水位先生の門流(2) -方全先生の幽顕往来-】>>
 その頃、神仙界から特に使命を帯びてこの人間界に再生された方が六人あり、その内の一人は水位先生であるが、厳夫先生もその一人で、仙名を方全霊寿真と称せられるのは、既に現界再生以前に霊寿真の真位を得て居られたからで、勿論先生は御在世中も用ふべきところへはこの仙名を使用して居られるのである。
 
(因みにこの再生六真人の内で現界在世中互ひにその前身を認識の上で相来往されたのは両先生の外にもう一人あり、仙名を水火勢真人と申し上げる方である。水位先生、方全先生、水火勢先生の三仙は互ひに明確なる認識の下に交遊され、各自神仙界へも出入されたのであるが、爾余(じよ)の三仙の現界に於ける御蹤跡は――仙名等は判明してゐるが――不明で、両先生とも没交渉であったらしい。 #0337【『異境備忘録』の研究(22) -紫房宮の七神仙-】>> )

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