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零戦 その誕生と栄光の記録

 先日、恥ずかしながら初めて「風立ちぬ」を見た。とても感動する内容であった。しかし、同時に戦争に携わった技術者について、より細部まで知りたいと感じた。
 そこで、零戦の設計者である堀越二郎の「零戦 その栄光と誕生」を読んでみることにした。その内容は、零戦の設計に至る過程や、技術的課題、民間会社である三菱重工と大日本帝国海軍との関係性、零戦の活躍を設計者はどう感じていたのか、など、零戦の設計主任を務めた堀越二郎にしか書けない、とても興味深いものであった。
 本記事では、本書の内容と感想を述べようと思う。

零戦とは

 歴史に興味が無い方でも、零戦の名は聞いたことがあると思う。それは日中戦争から第二次世界大戦で活躍した大日本帝国海軍の艦上戦闘機であり、当時、日本の航空技術が欧米に遅れていた中で、満を持して開発されたものである。
 艦上戦闘機(艦戦)とは、その名のとおり航空母艦(空母)での離発着を想定して造られた戦闘機であり、通常の陸上戦闘機と比べて、空母という限られたスペース内での取り回しや、短い滑走路での離発着という様々な制約をクリアしなければならない技術的な難しさがある。
 なぜ、零戦という名が付いたのか?これは、零戦が軍に正式採用された年に由来する。当時の日本の軍用機には、正式採用された年の「皇紀」の下2桁を冠する規定があり、零戦が正式採用された昭和15年(1940年)は、皇紀2600年であったことから、「零式艦上戦闘機(零戦)」と命名されたのである。
 零戦は、当時の戦闘機とは一線を画したハイスペックであり、向かうところ敵無しであった。日本国内はもちろん欧米諸国においてもその名は語り継がれており、当時のインパクトの強さが伺い知れる。

零戦をつくった会社

 零戦をつくった会社は、三菱重工業株式会社である。当時、国内の軍用機メーカーは、この三菱重工業と中島飛行機が双璧を成していた。
 三菱重工業の歴史は、高知藩の地下浪人であった岩崎弥太郎が創立した三菱が、明治17年(1884年)に長崎で本格的な造船事業に乗り出したところから始まった。その後、自動車や航空機、タービン、内燃機関などの製作を行う重厚長大を牽引する会社となっていく。
 三菱重工業の航空機関連の事業所は、1920年の三菱内燃機製造株式会社名古屋工場の開設を皮切りに、現在の三菱重工業株式会社名古屋航空宇宙システム製作所まで、ずっと名古屋に置かれている。
 ちなみに中島飛行機は、群馬県太田市に本拠を構えていた航空機メーカーで、戦後は12社に解体された。その内の一つが現在のSUBARUの前身である富士重工業である。

零戦が生まれるまで

 軍が戦闘機の設計を民間会社に発注するにあたっては、「計画要求書」というものが交付される。そこには、戦闘機の用途やサイズ、性能について、事細かく要求事項が記載されており、民間会社は、それを満たすように設計を行う。零戦の計画要求書が海軍から送られてきたのが、昭和12年10月であった。その内容について、本書で触れられているものを紹介すると以下のとおりである。

・用途:掩護戦闘機として、敵の戦闘機よりもすぐれた空戦性能をそなえ、迎撃戦闘機として、敵の攻撃機をとらえ、撃滅できるもの。
・大きさ:全幅、つまり主翼のはしからはしまでの長さが十二メートル以内。
・最高速度:高度四千メートルで、時速五百キロ以上。
・上昇力:高度三千メートルまで三分三十秒以内で上昇できること。
・航続力:機体内にそなえつけられたタンクの燃料だけで、高度三千メートルを全馬力で飛んだ場合、一・二時間ないし一・五時間。増設燃料タンクを付けた過重状態で、同じく一・五時間ないし二・〇時間。ふつうの巡航速度で飛んだ場合、六時間ないし八時間。
・離陸滑走距離:航空母艦上から発進できるようにするため、むかい風風速十二メートルのとき七十メートル以下。
機銃:二十ミリ機銃二挺。七・七ミリ機銃二挺。
無線機:ふつうの無線機のほかに、電波によって帰りの方向を正確にさぐりあてる無線帰投方位測定器を積むこと。
エンジン:三菱瑞星一三型か、三菱金星四六型を使用のこと。

 私は航空機の専門家ではないため、これらの数値がどの程度厳しいものであったのか、感覚的には分からないが、これらを同時に全て満たすということは、相当なことであったらしい。
 まず、掩護戦闘機であり、かつ迎撃戦闘機でもあるということ。掩護戦闘機とは、適地深く進入し、爆撃を行う味方の攻撃機を、敵の戦闘機から守る役目を負う。そのため、掩護戦闘機には、適地深く進入する長い航続力と、敵の戦闘機に打ち勝つ速度と空戦性能が要求される。逆に、迎撃戦闘機とは、敵の攻撃機や掩護戦闘機を迎え撃つ役目を負う。そのため、速度や上昇力、空戦性能、さらには機銃などの火力も大きいことが要求される。
 特に、空戦性能と長大な航続力、二十ミリ機銃などの要求は、お互いに相容れない要素である。空戦性能を高くするためには、機体を軽くし、身軽に飛べるようにする。しかし、航続力を伸ばすためには、より多くの燃料を積まなければならない。二十ミリ機銃の積載も同様に重量を重くする方向に作用する。
 しかも、要求されている速度や上昇力、航続距離などの各要素の水準は、どれも当時の世界最高レベルである。

 この難題に立ち向かったのが、三菱重工業名古屋航空機製作所の設計グループに所属していた堀越二郎である。細かな設計の話については本書を読んでいただきたいが、堀越二郎が一つ一つの問題に向き合い、様々な関係者の協力を得ながら、時には革新的なアイデアを取り入れ、無理難題と思われた戦闘機を形にしていくプロセスがよく分かる内容となっている。

 結果的に零戦は、当初の要求を全て満たす世界最高の戦闘機として、昭和15年7月に海軍に正式採用された。同月に初めて投入された中国戦線では、旧式の戦闘機(ソ連製)を相手に大規模な戦果を上げた。零戦の速度、航続力、空戦性能、火力は敵戦闘機と全くかけ離れたレベルに達しており、当然の戦果であった。
 その後、零戦は大日本帝国海軍の主力戦闘機として、真珠湾攻撃から始まる太平洋戦争において大いに活躍することになる。

技術者とは

 本書は、零戦の歴史を学ぶための書籍としてとても面白いものであった。しかし、本書からはそれ以外に多くの気づきを得られた気がする。それは技術者としての生き方である。
 戦闘機の設計者は、軍からの過大な要求と技術的課題の板挟みの中で仕事を遂行しなければならない。さらに、自分の仕事いかんによって国の命運が左右されるという強大なプレッシャーに晒される。そんな中で、堀越二郎を突き動かしていたのは、日本のためにより強く美しい飛行機をつくりたいという一事である。本書からは、「私は今、大好きな飛行機を作っているのだ」という実感が、ひしひしと伝わってくる。
 現代は、様々な情報に溢れており、ともすれば自分の生き方を見失いがちである。そんな中で、良い仕事をするため、良い人生を送るためには、自分の大好きなことは何か、生涯を通して何を成し遂げたいのか、といった自分の芯となる部分を常に確認し、見失わないようにしなければならないと感じた。
 私も技術者の端くれとして、堀越二郎のような、情熱にあふれた技術者を目指し、今後も精進したいと思う。

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