見出し画像

「神霊と魔を鎮めるシステム」として見た日本文化

以下粗いメモではありますが、江戸時代頃の日本と現代の日本を
「神霊と魔を鎮めるシステム」の視点で比較してみましたところ、
現代文明の中に依然として妖怪や魔が跋扈している状況とその問題点
などが少し見えてきたかところを記すものです。https://note.com/nihonos2020/n/ncd123a3b88ec

 https://note.com/nihonos2020/n/nd3376c989b59

などを前提としたメモになります。小松和彦先生の著書「妖怪学新考 妖怪からみる日本人の心」も参考にさせて頂きました。 

1. 人間と神霊、魔のコスモロジー(江戸時代ころ)
先ずは江戸時代の後半、先に「二次的自然-D世界」と呼称したものが日本社会に現れた頃の時代を想定して説明します。今で言う「妖怪」や「魔」が存在する(存在するかもしれない)と思われていた時代。
明治大正、昭和の戦前の頃も入るかと思われます。

その頃人々が妖怪等神霊や魔を感じる場所や状況は概ね決まっていました。
・危険/曖昧な空間/時間に出現:墓場や辻、峠、家の中の夜の闇、夜の山中、黄昏時など。
・危険な-危害を与える人/モノ/自然があるところに出現:過去に人でも自然でも殺され滅ぼされた場所。何かの理由で人に危害を与えるものが潜んでいる場所。化物屋敷など思い浮かびます。現代だと「学校」(学校の怪談)「不思議と事故の多発する交差点」などが想起されるところです。
・事件事故/災害、不思議な現象の背後に神霊、妖怪や魔は居るとも言われました。深夜の川で小豆を洗っているような音がする「小豆洗い」、瞬く間に理由もわからないがお金持ちになったあの家は「犬神憑き」・・・等です。それぞれの場所に、神霊-「妖怪」や「魔」は紐づけられ理解、認識されていました。
なお、これらと並行して「人間を護る存在としての神仏」は存在し神社や寺社などがありました。

「神霊のコスモロジー」の共有
当時、近い環境で生活を営む人々の間では「神霊のコスモロジー」が共有されていました。ある個人が生まれ育った村や町、江戸のような都市部でも周囲の人々との間で、
・「どのような場や状況が危険であり、そこにどのような神霊・妖怪・魔が存在し、人間はどう対処すべきか」に関する知識や感情(畏敬や嫌悪等)、そして神霊や妖怪、魔への対処の方法も不完全ながら存在し共有されていました。危険な存在に対して、護符や呪文等で自衛する、戸口や入口には魔除けの札、注連、鬼の人形、道祖神・・・等の技術-方法が共有され使われ、寺社とその宗教者、そして民間の様々な宗教者が供養-調伏、祀り-祓いの様々な技術-方法を駆使していたようです。
もちろん、神社や寺社は地域の「神霊や妖怪や魔からの護り」の拠点だったでしょう。
 
2. そもそも、なぜ私たちは神霊や妖怪、魔を「感じる」のか
でもそもそも、なぜ江戸時代の人たちは目には見えない神霊や妖怪、魔を「感知した」のでしょうか。原因のわからない音をきいて、姿も見えないのに「小豆洗いの仕業だ」と思い、急にお金持ちになった家を(やっかみもあったでしょうけど)「あれは犬神憑きだ」と言った、「思いたかった」「言いたかった」のでしょうか。

ここで、妖怪や魔から少し離れて神仏の場合を思い出して考えてみます。
中世の時代に遡りますが
・中世の時代、人間には無意識に自然-神霊への巨大な畏怖の念があり、
・人間は無意識に神を探し求め、神を感知した際に喜び(「神快」)を感じる存在でありました。

図の一番下に「深い安堵 救済 幸福感」「活力 自信 万能感」とあります。
中世のこの時代、神仏への深い畏れ-恐怖の感情が通奏低音のようにあり、
人が【祈り】状態にあるとき-「祈ること」には深い安堵や救済、晴れやかな気持ちなどの快さが伴っていた、祈りの義務を果たした満足感・願いが叶えられる期待・また神への感謝の祈りの際には幸福な気持ち-深い感謝の思いなどが伴っていたこと、
また、【化身】状態にあるとき、人は活力の漲り・自信・万能感などを体験していたと推測したのでした。

例えば地獄絵図などを前に深い根源的な恐怖を感じている体験は、表面的な意識としては「幸福」とは程遠い状態です。
しかしその人は、「神仏を前にしたとてつもなく深い濃い心理状態」を体験しています。その人の後の行動や人生に影響を与えるような宗教的体験をしている訳です。彼は心の深い所を神仏にぎゅっ!と鷲掴みにされています。

彼は、表面的な恐怖、不快、嫌悪と並行して、神仏に鷲掴みにされ一体化したような、無意識の濃い充実した快さのようなものを体験している・・・と推測したのでした。

またある武将が親族を殺され悲しみ怒り、不幸の極致の中で復讐を誓う時、「不動明王の如く敵-かたきを討ち滅ぼすぞ」と不動明王の化身のようになっている時。
彼は表面的な悲しみや忿怒と並行して、神仏と一体化したかのような、無意識の充実した高揚を体験している・・・と推測するものです。

このような神仏に関わる、深く-強く-恐ろしくも感じられる特別な「心の快さ」があると考え、これを「神快Ⅰ(祈)」「神快Ⅱ(化身)」と呼称したのでした。

中世の時代、数百年にわたり人々は 「神快Ⅰ(祈)」「神快Ⅱ(化身)」 の心の体験の習慣を続けていたと推測します。
神仏を感じることは、意識の表面とは別個に、無意識、心の奥底に特殊な「心の快さ」をもたらしたと推測するものです。

ここで江戸時代の神霊-妖怪-魔に対する意識と、中世の浄土教の時代の宗教意識とを接続して考えます。
私たちは無意識の裡に神ならぬ神霊、妖怪、魔を探し喜び=「神快」「準神快」を感じてしまう、神霊や魔を探し求めてしまう存在なのではないでしょうか。
浄土教の信仰の中の人たちは地獄絵図を見て恐怖したり悲しみと憤怒の中で不動明王の化身のような怒りに包まれている時、
意識の上での恐怖や憤怒など「不快」な感情の海の底に、一方で無意識、心の奥底に特殊な「心の快さ」があったと推定しました。
それを「神快Ⅰ(祈)」「神快Ⅱ(化身)」と呼称したのでした。

それと同じように
私たちの祖先たちは暗闇に蠢く妖怪・魔の気配や噂に恐怖や嫌悪など不快を感じつつも、ある種の「心の快さ」を感じていたのではないでしょうか。

神霊-妖怪-魔などの存在に感じる快さに「神快Ⅰ(祈)」「神快Ⅱ(化身)」の語はふさわしくないかもしれないので、先にこれらを
「準神快Ⅰ(祈)」「準神快Ⅱ(化身)」と呼称し区別したのでした。 

私たちの祖先は心の奥底で・偉大なる神仏に触れた時に「神快」を感じ、
小さな神霊・姿形もわからぬ神霊に触れた時には「準神快」を感じた 
と改めてここに推測するものです。
 
日本古代の三大怨霊と言えば菅原道真・平将門・崇徳天皇ですが、それらの描かれ方はあるときは妖怪や魔、またあるときには神のようです。日本文化においては、(阿弥陀仏など一部の神仏を除いては)神と怨霊-妖怪-魔は、人間との関係に依存して変遷するもののようです。神と怨霊-妖怪-魔は似たものなのです。そのことも踏まえ

偉大なる神仏に触れた時に「神快」を感じ、
小さな神霊・姿形もわからぬ神霊に触れた時には「準神快」を感じた

のではないか、と推測するものです。
人間は-私たちは小さな神霊・姿形もわからぬ神霊に触れた時には「準神快」を「感じたい」のです。だから、原因不明の川音を聞いて「小豆洗いだ」と言いたい話したい。急にお金持ちになった家を指して「あれは犬神憑きだ」と言いたい話したい。そのような「準神快」の欲求があり、その底には、自然や神霊に対する畏怖の念が無意識に、濃厚に在ったと推測するものです。

「神快」「準神快」の両者が異なるものか本質的に同一なものかは保留し先に進みます。 

3. 江戸時代の「D表現・D感情の生活文化」は「神霊や魔に対する護り」として機能ここで

の図と文章を再掲させてください。
江戸時代の人たちは、自然も人工物も文化も町もその賑いも、その総体を人間にとって尊い「二次的自然」として見出したこと、東海道の道中でも新橋の町中でも、子育ての場でも何かの守り神、何か大きなものに見守られ祝福されていることを見ました。そしてこの「二次的自然」のもとで台所仕事、職人の仕事、子育て、町の祭りに心を込め精を出すことをD表現の営為とすることができること、私たちは、その場をそのまま(浄土ならぬ)宗教に擬せられるようなDeepな「二次的D世界」にできること、それを「二次的自然-D世界」と呼称しました。』

「二次的自然-D世界」に生きることとは、何かの守り神、大きなものに見守られ祝福されつつ、日常の所作も仕事も人間関係も、全て宗教に擬せられるようなD表現、D感情の営為に取り囲まれて生きる事でした。これは、
日常の全方位に「護符」を巡らしていることに近いのではないでしょうか。もう一つ引用させて頂きます。

『二次的自然-D世界』の『生活アニミズム』とは、生活世界・経済社会・封建社会のすべてにおいて人間と集団の心の潜在力を引き出し精神の安定を供給する修養的な要素を付与し、現世的な経済社会の発展に接続した。それがポジティブフィードバック的サイクルで社会全体発展のエンジン-システムとして稼働したのです。

日本文化とは『「自我」「アイデンティティ」という目に見えない心の在り方を直に扱う-修行する代わりに「芸道」『二次的自然-D世界』などモノ・形・身体性・集団性・外部評価など外部から見え評価できるものに仮託して修行することで、個や集団の心を鎮め救済し、社会を発展させるシステム』という側面があるかに見えるところです。』

江戸時代、この日常の全方位に張り巡らされた「護符」の体系は、経済社会全体を組織化し維持発展させるシステムとして機能していた
かに思われます。つまり
「D表現・D感情の生活文化」が個人や集団の心のみならず、経済社会全体を稼働させつつ、「神霊や魔に対する護り」としても機能していた 
と思われるのです。




4. 現代社会における「神霊や魔に対する護り」はどうか
翻って、令和の現代日本の「神霊や魔に対する護り」がどうなっているか見てみましょう。
 
現代社会:共有されたコスモロジーが存在しない世界
現代社会においては、江戸時代にあったような、近い環境で共同生活を営む人々の間における「神霊のコスモロジー」の共有は消失しています。
神霊や魔が出現するような「危険な空間/時間」は抹消漂泊無害化され、
人間が住む領域においては深夜でも煌々と灯りに照らされています。
危険な人/モノ/自然などは存在しないことにされ、あるいは存在が不確定にされています。事件や事故/災害の背後に神霊などがいるかいないかも
「不確定」になりました。
現在、妖怪や魔のような「原因不明なもの」「恐ろしいもの」を、不安を率直に表に出し皆で話し合うような場は消失したのではないでしょうか。
例外的に小中学校の子どもたちは「学校の怪談」を共有しているかも知れませんが、それは親たちとはまったく共有されず、また小中学校を卒業した後にはそのような「怪談」を共有する機会は殆ど無いかと思えます。

しかし現代社会においても、学校の怪談、口裂け女、人面魚のような怪異の話題は昭和の時代多く在りました。令和の現在、ネットを検索すれば神霊や魔、怪異に関する都市伝説のような物語は莫大な数が流布されています。
ネット上に溢れている神霊や魔や怪異の物語の全体像は計り知れないものがあります。「どのような場にどのような神霊・魔が存在するか」の情報は、拡散というより「爆散」と言えるほど多種多様で日々増殖変化しているかに見えます。それらの神霊・魔に対処する方法も、それらに対する知識や感情-畏敬や嫌悪なども一人ひとりまったく違うものに「発散」している状態です。それらは周囲の人々と共有されることはありません。

下図のように、現代のわれわれは、一人ひとりが全然異質の「神霊や妖怪、魔に関する一人だけのコスモロジー」を抱えているのです。

江戸時代の人たちは村や集落、近所の人たちで常に不安や怪異について話し合い共有していたことに比べると、現代の私たちは、一人ひとりが孤軍奮闘で「神霊-妖怪-魔-闇」と向き合っている部分があります。

また江戸時代のように、護符 呪文等:戸口-入口の魔除けの札、注連、鬼の人形、道祖神も、供養-調伏 祀り-祓いもありません。寺社とその宗教者、民間の宗教と宗教者も、江戸時代のような「神霊や魔からの護り」の拠点ではないかに思われます。

そして、江戸時代から昭和に至る時代にはあったと推定しております
『「神霊や魔に対する護り」としての「D表現・D感情の生活文化」』も、
令和の現代においてはその存在領域を大幅に縮小し、神霊や魔に対する防御としての機能は大きく弱まっているのではないか。


現代の私たちは:
江戸時代の「神霊・妖怪・魔が日常的に跋扈していた状態」と現代の私たちの状態とは比べるべくもない、とも思います。
しかしネットで検索すれば、神霊・妖怪・魔の現代における代替物は無限と言えるほど存在し人々の耳目を集め続けていることは簡単に確認できます。
 
そして、現代では、人々は集団から切り離され、孤立した状態で「神霊や妖怪、魔に関する一人だけのコスモロジー」を抱えている、
「闇」と孤立した状態で対峙しているのです。
 
江戸時代にあって機能していた護符や呪文等の体系、供養-調伏、祀り-祓いの技法、寺社や宗教者の護りは姿を消し、おそらく神霊などに対する護りとして機能していた「D表現・D感情の生活文化」も大幅に機能を縮小しています。

このような現在地に私たちはいるのかも知れない、と思うものです。

以上です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?