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Ⅲ. 古典文化・芸道等から見えてくる日本人の「隠れた」宗教性― 『かくれ日本教徒』を脱して「人間の時代」への移行が求められている

本稿では、古典文化や伝統芸能などの歴史から
「日本人は【かくれ日本教徒】であること」が見えてくること
そして
「日本人は【かくれ日本教徒】の状態を脱し、人間の意志で統治する真に「人間の時代」を築いていくことが求められていること」を論じました。
 
*既出の情報が再編集され多々使われております、恐縮です。。。


始めに


日本人は、和歌や王朝文化とその後継文化の伝統を千年以上にわたり継続してきました。これは世界の国々の中でも珍しいのではないでしょうか。
例えば昭和の頃、和歌-王朝文化の産物である百人一首は広く嗜まれお正月等の風物でした。令和の今も和歌の一つくらい覚えている人は多いでしょう。明治の教養人、例えば夏目漱石なども幾多の和歌を残しています。江戸時代、上流階級では和歌やその直接の後継文化と言える連歌は重要な教養でした。能は武家の式楽(正式な音楽や舞踏)でしたし茶道は武家の必須教養でした。町人農民を含む広い階層が文芸に親しみ、それらの文芸の多くは和歌や王朝文化の教養の上に成立しています。江戸時代の出版文化の興隆は源氏物語や伊勢物語、徒然草などを広範囲の人々に届け、王朝文学の教養を前提とした庶民向けのパロディ文学も花開きました。
戦国時代末期の関ケ原の戦いで死地にあった細川幽斎は、古今和歌集等の古典の奥義を伝える「古今伝授」の継承者であったことから後陽成(ごようぜい)帝の勅命により一命をとりとめました。織田信長や豊臣秀吉が茶道を政治の場で重用した事は有名です。秀吉は能にも大いにのめり込み過ぎて周囲は辟易としていた模様です。能や連歌は、足利義満や二条良基などを筆頭に室町時代の将軍周辺層の強力な参与の下で文芸として高度に練度を上げました。
「武家は公家の力を利用するために彼らの文化に親しむ必要があった」「武家政権はその正統性を示すために古典文化の守護者の役割を演じる必要があった」等の事情もありましたが、多くの場合は古典文化の保護を命ずるだけで済んだ筈です。支配層の彼等は個人としても、古典文化の後継文化にのめり込んでいるのです。
平安時代の貴族に至っては社会生活を送る上で和歌は必須だったことが記録されています。和歌ができないと恋愛も結婚もできない、出世もできない、和歌の上手下手が人物評価に直結し詠んだ和歌の評価が人生を左右するという今の私たちから見れば異常な状態でした。
 
以上、千年を高速で振り返りました。平安時代の和歌、王朝文化とそれの後継文化を日本の支配階級は、なぜか大事に数百年も護り育て継承し続けました。江戸時代には広く一般の人たちまでそれら文化の継承者に加わり現代に至ります。今でも多くの新聞に俳句投稿の欄があるように俳句の文化は広く生きていますが、季節と人情を渾然一体として歌う俳句は、言うまでもなく和歌の継承文化です。茶道も能も継承され続けています。
 
私たちは、何を継承し続けているのでしょうか。なぜ、継承し続けているのでしょうか。この疑問を解くために、ここからは和歌-王朝文化の、そして連歌や能や茶道などの芸道の文化で私たちと祖先がしてきたことを「二次的自然」「二次的現実-儀礼-演技的空間」「宗教的な-宗教に似たもの」という三つの視点で見ていきます。そこには現代の私たちにも通じる事象が多々あり、それが先の疑問の回答を与えること、そしてそれは和歌や王朝文化、芸道という限られた領域の話ではなく日本文化全体に関わる問題であることを示します
 

1.    和歌-王朝文化と『二次的自然』「二次的現実-儀礼-演技的空間」「宗教的な-宗教に似たもの」


1.-1 和歌-王朝文化と「二次的自然」


最初に「自然との関り」の視点で和歌-王朝文化を見ていきます。
人事と自然が渾融
十世紀に出た最初の勅撰和歌集である「古今和歌集」はそれ以降の王朝文化の基本的な方向を規定し絶大な影響を及ぼしたのですが、「古今和歌集評釈」(窪田空穂先生)によれば
 
『古今和歌集の和歌を通覧して、第一に最も際立って感じられる事は、人事と自然とが一つになり、渾融(こんゆう:一つにまじりあうこと)した状態となつて、何所までが人事で、何所からが自然かといふ見さかひのかなくなつてゐる和歌の多い事である。
 花の香を風のたよりにたぐへてそ鶯(うぐいす)誘ふしるべにはやる 
 紀友則
歌意:梅の花が吹くと、谷間に籠って冬を過してゐた鶯は必ず出て来るべきものとし、その梅の花が咲いたのに鶯の来ないのは、鶯がその事を知らずにゐるからだとし、梅の香を、吹く風に伴はしめて、篤を誘ひ出す案内にやるといふのである。案内にやる風も、誘ひ出さうとする驚も、非情の物を有情として、人間同様の扱ひをしてゐるのである。』

とあります。古今和歌集の世界では、人と自然の一方を主として一方を従とする比喩というレベルではなく、両者がまったく一つになってしまっているのです。
この人事と自然が渾融という特性が日本文化を深く規定することは改めて見て頂きます。

 四季-恋という自然の「モジュール化」
古今和歌集は『四季のあるべき姿』(基本設定)を規定した
「古今和歌集と歌ことば表現」(小町谷照彦先生)によりますと、
 
『四季の推移を、歳時や景物によって、時間的な流れとしてとらえる時間意識は、『古今集』で確立したと言ってよい。』
『「古今集」の四季歌の特徴としては、 季節意識と自然美観の類型や様式の確立ということが指摘できる。四季歌の部立の成立によってもたらされたものとして、
①折々の風物や行事という、歳時的な関心がもたらされたこと、
②季節の変化を、時間的な推移としてとらえる見方をするようになったこと、
③自然美に対する感覚がとぎすまされて、風物を美的に享受する姿勢ができたこと、
④天象や動植物など、景物の範疇や枠が設定されたこと、
⑤四季の推移や景物についての概念が固定化し、自然を理解する共通の基盤が形成されたこと、
⑥擬人というような、自然を人事に結び付ける方法が一般化したこと、
⑦比喩、掛詞や縁語、見立てなど、自然を言語的な次元で把握する修辞技法が深化したこと』
などを挙げられています。
古今和歌集の構成自体により『四季が折々の行事や景物で彩られた時間の流れとして把握されている』のです。
 
古今和歌集は、その後の和歌や王朝文化でどのような花や動物、自然が歌われるべきかも規定しました。古今和歌集で扱われる自然の題材としては、
 
『春のものとしては鶯・雪・若菜・霞・柳・雁・梅・櫻・山吹・藤などに限り、夏のものとしては時鳥・蓮・床夏・橘などに限って、優美なものばかりを取り一般におし及ぼさない』(「和歌連歌俳諧の研究」福井久藏先生)
のです。
古今集から新古今集に至る時代、月の歌は数多いですが星の歌は天の川と七夕を除けば極めて少ないのです。桜は歌う人が数多くいても、すみれを歌う人は皆無でした。古今和歌集の歌人たちは実際に自然のただ中に赴き歌を詠んだのではなく、行ったことのない「歌枕」の、例えば「白川の関」の秋を想像して歌ったのです。想像の中で、限定された素材を用いて美しい自然や情緒の世界を描いたのです。
古今和歌集では『四季のあるべき姿』(基本設定)が美しく規定されており、和歌-王朝文化では「Virtualな自然の美」を描いている一面があったのです。これがその後の日本文化の方向を規定していきます。
 
古今和歌集は『恋のあるべき姿』(基本設定)も規定した
「古今和歌集と歌ことば表現」(小町谷照彦先生)によりますと、
 
『「古今集」の恋歌は五巻にわたって、恋愛の経緯が、萌芽、発生、進展、成就、破綻、終焉というように順を追って配列され、あたかも一編の恋物語の展開が綴られている感があり、王朝恋愛絵巻の諸相が恋歌五巻の中に集約されている。…
恋歌では、恋の状況や行為、それらに伴う心情についての類型的な発想や表現が確立しており、心情表現という形で一種の体系が形成されている。『古今集』では、恋の情緒が概念化され、やがて仮名散文の物語として発展していく土壌となっているのである。』
 
このように、古今和歌集においては「恋愛のたどるべきプロセス・あるべき姿」も美しく規定されているのです。恋とは本来は人間の思惑通りにならず強い力で人間を振り回す、「人間の内なる自然」とも思われますが、古今和歌集は、「外なる自然」「内なる自然」の双方の描き方-使い方の情報を規定した=「モジュール化」したと言えます。
 
『美の知識-暗黙知DB』-和歌の文化を嗜むための深い教養の蓄積が必要
平安時代、貴族の暮らしに和歌の教養は必須でしたが、和歌を嗜むためには歌語(和歌に詠まれる情趣や美意識が付加した語の体系)、修辞技法(枕詞 序詞 掛詞 縁語 見立て 擬人法 本歌取り 物名 折句・沓冠 等)、文学的時空(それぞれの歌の幅広く奥行の深い作品世界等)、文学作品の知識社会や文化に関わる教養…等が必要でした。
これらは、和歌を自分で詠むときにも、人の和歌を聞いたときにもすぐに思い出せるように記憶されている必要がありました。例えば、
明石(歌枕)と聞けば、「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島がくれゆく舟をぞ思ふ」の歌を藤原公任が絶賛した事、「ほのぼのと・朝霧・島がくれ」、「風・波・千鳥」等が明石と関連し読まれる事、源氏物語「明石」の事象が連想できなければいけませんし、「暗し」と対にして「明し」と詠まれることもあったなども連想できなければいけません。
と言えば、「秋風」「雁」「露」等が秋に寄せて歌われ秋は「悲しい」ものであること、「物ごとに秋ぞ悲しきもみぢつつうつろひゆくを限りと思へば」(古今集)などの歌、「秋」=「飽き」であり過ぎゆく男女の愛、「深き秋・ふけゆく秋」のイメージが豊かに連想できなければいけませんでした。そして、例えば「本歌取り」の和歌の鑑賞では、
 駒とめて袖うちはらふ陰もなし佐野の渡りの雪の夕暮
 (新古今集・冬・六七一・藤原定家)
―私の身体の上に積もる雪を、馬をとめて袖でうちはらおうにも物陰もない。ここは佐野の渡し場の雪の夕暮れ。

という歌を読むとき、同時にこの歌の「本歌」である以下の歌、
 
 苦しくも降りくる雨か三輪の崎佐野の渡りに家もあらなくに
 (万葉集巻三・二六五・長忌寸意吉麻呂)
―つらいな、この雨降りは。この三輪の崎の佐野の渡し場には家もないのだ。
 
という歌を思い出し二つの歌を重ねてしみじみと鑑賞することが求められました。これ以外にも万葉集の知識、王朝の歴史や神仏に関わる様々な知識を、歌を読み聞きした際に即座に思い起こし、和歌で返したり巧みにコメントする等リアクションすることが求められました。このように、自然や恋心、人事に関わる情報がすべて『美の知識-暗黙知DB』に蓄積共有されており、貴族社会の人たちはその中の材料をもちいて自然と人事の混ざりあったVirtualな世界を身の回りに築き続けていたのです。
これは和歌のみならず王朝文化全体に関わることを次に見て頂きます。
 
「二次的自然」と「四季のイデオロギー」
(『四季の創造 日本文化と自然観の系譜』ハルオ・シラネ先生 より) 
平安貴族が愛好したのは人間の手の触れていない自然―一次的自然ではなく、人工的に再現された自然―二次的自然だったのです。
 
『P30日本文化においては二種類の二次的自然が存在する。一つは奈良と京都で貴族が発展させたもので、もう一つは平安時代中期から後期にかけて地方の荘園に現れた「里山の風景」である。この二種類の二次的自然の表現は平安時代から鎌倉時代にかけて出会い、室町時代には多くの文化的ジャンルで重なり合う。』
平安貴族が王朝文化で描いた世界を『自然と人事の混ざりあったVirtualな世界』と先に述べましたが、シラネ先生によればこのVirtualな世界は、天皇の命に依る勅撰和歌集が作り上げた『四季のイデオロギー』により描かれ、造られた自然により形成された世界であり、天皇の支配を寿ぐものと述べられています。
 
『P75「古今集』では、歌人が登山をしたり、川や湖で魚釣りをしたりすることはなく、花の咲く木や草はそのほとんどが、寝殿造の庭、都、あるいは都の郊外に見られるものばかりである。 火災、地震、飢饉、洪水、干ばつも出てこない。つまり、『古今集』の世界は概ね調和のとれた宇宙であり、選りすぐりの動物、虫、花、木、天などの自然が、多くの場合、人間の思考や感情を強く示唆する優雅な表現として機能しているのである。
平安時代に編纂された勅撰和歌集がきわめて重視したこのような世界観は、「四季のイデオロギー」と呼べるかもしれない。天皇が命じ、天皇に献上された和歌集は、畢竟、天皇の支配を寿ぐものであり、自然界における調和と、人間と自然との調和は、天皇の支配のありようをそのまま反映するものであった。この点で、『古今集』における季節の循環は、天皇の支配を慶賀し、国の平和と調和を願って宮廷で行われる五節句のような年中行事のサイクルと似ている。』
 
和歌の文化は自然をありのままには描きませんでした。憂鬱な夏の暑さや厳冬の厳しさは歌われませんでした。平安貴族は和歌で「四季のイデオロギー」に忠実に「二次的自然」を詠み、和歌以外の視覚文化でもそれは同様でした。
 
自然の屋内化(『四季の創造』より)
自然は「二次的自然」の形で屋内に持ち込まれました。寝殿造の屋敷の調度品である宮廷の物語を描いた絵巻、四季絵、月次絵、名所絵は四季を重視して設えられました。女性の衣裳-十二単は四季それぞれを特定の色の組み合わせ(色目)で表現しました。
庭は、屋内に自然を導き入れる機能を果たしていました。
 
『P113庭の持つ文化的、詩的機能は、平安時代の貴族が自分たちが和歌によく詠む花や木々を寝殿造の庭に植え、虫を放ったことにも明らかに見てとれる。たとえば、秋になると、秋の和歌によく詠まれた、女郎花、撫子、萩が庭に植えられた。また、天禄三(九七二)年八月二八日に行われた規子内親王主催の前栽歌合では、松虫や鈴虫などの虫が庭に放たれた。』
和歌の歌合とは左右二組に歌人を分け双方で短歌を出し勝敗を競う文学的な遊戯で、時にかなり本格的な公的行事でもありましたが
 
『この歌合では、内親王が庭に薄や蘭などの植物を植えさせ、松虫や鈴虫などの秋の虫を放たせた。さらに、歌合の左方、右方双方がそれぞれ、州浜(島台)に山里や磯などを作り、草や虫も飾られた。州浜は祝儀や饗宴のための飾り物であり、洲が入り組んだ浜辺の形にかたどられた台の上に松竹梅や鶴亀などが置かれた。また、この歌合のように、和歌における「自然」の要素である山里や野を表現するのにも用いられた。歌合では鶯や鶴などの小さな模型が飾られた州浜が中央の空間に据えられ、歌合の参加者たちは、州浜に置かれた事物に関連する題で歌を詠んだ。そして歌合の最後に和歌を書いた短冊が州浜に飾られることで、文字通り、和歌と風景とが渾然一体となったのである。』
 
以上、和歌-王朝文化とは自然と人事の渾融したVirtualな世界でした。自然や恋心、人事に関わる情報がすべて『美の知識-暗黙知DB』にモジュール化―標準化・蓄積共有され、本来の自然ではなく「二次的自然」の美、言葉で・人工物で作られた人工の美を「あたかも本来の自然であるかのように」愛(め)で感動し涙する感受性を磨き上げていきました。
自然と人事の渾融した情報を和歌-扇-屏風といったメディアに移し替えつつそれら人工物-『二次的自然』は増殖し身の回りを埋め尽くさんとしていたのが和歌-王朝文化なのです。
 

1.-2 和歌-王朝文化と「二次的現実-儀礼-演技的空間」


ここからは渡部泰明先生の「和歌とは何か」の「序章-和歌は演技している」や「儀礼的空間」という概念などを参考にさせて頂きつつ和歌-王朝文化を見ていきます。
現代の日本人は和歌を詠む(作る)と言えば一人で詠む情景をイメージするでしょう。でも平安貴族の和歌とは、多くの場合は他人と共に詠まれ歌われるライブなものでした。和歌は、四季を通じて数多くある年中行事の中で詠まれ、祝い事など宴集の席や行幸(天皇の外出)の際、そして歌会、先ほども少し触れた歌合など集団の中で詠まれました。また恋人などと、日常の中での一対一の関係の中で詠まれることも多かったのです。
一個人が一人で詠む歌(独詠歌)は古今和歌集でも意外と少ないのです。
 
儀礼-演技的空間とは
まず「儀礼的空間」の筆頭としては前掲の歌合の「二次的自然」の要素で豪奢に飾り尽くされた記述を見てください。歌合とは時にかなり大規模な公的行事でその競い合いは真剣勝負でした。和歌とは歌合や公的な行事、天皇の行幸などの平安貴族社会の儀礼的な空間における重要な構成要素として在ったのです。
次いで「演技的空間」を説明します。古典で和歌を交わす場はしばしば「美的・演技的」な空間になります。以下は伊勢物語の男女のやりとりです。
 
 年を経て住み来し里を出でていなばいとど深草野とやなりなむ          
 (伊勢物語 男)
―幾年も住んでいたこの里を自分が出て行ったなら、ここはいよいよ深草の地名のごとく草深い野原になってしまうのだろうか。
 
 野とならば鶉(うずら)となりて鳴きをらむかりにだにやは君は来ざらむ
 (伊勢物語 女)
ー野原となったならば、私は鶉となって鳴きましょう。そうすれば、かりそめにても、狩りにあなたがいらっしゃるでしょう。

 男のつれない歌に対して女がいじらしくも巧みな返事を和歌で返したことにより男が感動し、冷めかけていた関係に愛情が戻ったのです。

続いて同じく伊勢物語の第九段「かきつばた」です。
伊勢物語の中で、京を遠く離れた旅でかきつばたを見て、戯れに

 唐衣 きつつなれにし つましあればはるばる来(き)ぬる 旅をしぞ思ふ
 (在原業平)
―長年着慣れた唐衣のように、身に親しんだ妻が都にいるので、はるばる来た旅をしみじみわびしく思うものだ。
《伊勢物語 第九段「かきつばた」》

このように詠んだところ、旅の一同もろとも涙を流したとあります。
これらの場面は非常に「演技的」です。「冷めかけた夫婦の愛情を取り戻す場面」「旅の中で、不意に妻を、都を離れたさびしさに感極まる場面」を美的に演じているごとくです。和歌を詠むことによって、普通の空間がふっと「演技的空間」に変質しているのです。
 
俵万智先生の「愛する源氏物語」では男女間での様々な和歌の交換が紹介されています。
夕顔はなよなよとおとなしくて頼りない女性ですが、和歌を詠む際には自分よりはるかに高い位にいる光源氏に対して大胆に挑発的な和歌を詠みます。これは和歌という演技的空間の中でこそ許され、また機能するコミュニケーションです。
夫婦喧嘩ですらも和歌で交わされる様子が源氏物語では描かれます。匂宮と中の君はお互いかなり露骨な言葉で、和歌でなじり合うのですがそれが真意が通じる契機になります。 
これらの和歌を詠む人たちは、「和歌というプロトコル-儀礼や約束事」に則って、恋する男女、喧嘩をしている夫婦を「美的に演じている」部分があるのです。
 
先に述べたように和歌では人事と自然の描写とが一つに渾融していました。男女の恋文の和歌(贈答歌)の場合など、贈られた恋文の和歌の人事(恋の部分)を敢えて読み取らず自然の描写の部分にだけ答える(恋の部分はやり過ごす)という高等テクニックも源氏物語には見られますが、これも演技的空間ならではです。
普通の暮らしの中で和歌を契機にふっと演技的空間に入り、和歌を詠む際には松や桜の枝や花を添えたり美しい紙を用いたり香をたきしめるなど広範な美的感覚を動員し、ときに過剰なほど工夫し和歌の世界の美的な規範に従いつつ、本当の現実とは微妙に位相のずれた演技的空間で、各人に与えられた「役回り」を美的に演じている部分があるのです。
 
なお平安後期になると和歌はあらかじめ決められた課題に沿って詠む「題詠」が普通になります。四季の風物や恋,名所など様々な「題」が定められ、「恋」の題では女性が男性の役を演じて詠んだり、行ったことのない明石の浦にいて感じ入って和歌を詠む役を演じたりするのです。
歌合でも生活の中で歌を読むときも題詠の際にも「和歌という文化を尊び和歌のプロトコル-儀礼や約束-に従い、他者の詠む和歌に心を開き積極的に感じ入り、自分も真剣に自由に創造的に和歌を詠む」というルールに従い、現実の世界と重なりつつ位相の異なる「二次的現実-儀礼-演技的空間」に遊ぶ-居るのが和歌の文化なのです。
なお、今に伝えられる和歌のやりとりの中には、「かきつばた」の例のように「感極まって」というシーンが多々あります。また贈答歌には和歌の力で男女の関係が修復されたものも多いです。和歌のプロトコルに従いコミュニケーションする中で、和歌の醸す「二次的現実-儀礼-演技的空間」の不思議な力が、男女の心を再び通い合わせたり、人びとの心を開き強く動かす瞬間が多々あったようです。
 

1.-3 和歌-王朝文化と「宗教的な-宗教に似たもの」


中世の歌論書には歌道と仏道を紐づけたものが多々見られます。また、神を歌った和歌も無数にあります。王朝文化の、浄土信仰に紐づく仏教芸術を想起する方も多いでしょう。ここでは末法思想や浄土信仰とは違う角度で、和歌-王朝文化にある広い意味での「宗教的な-宗教に似たもの」を示したいと思います。
 
古今和歌集の「いまだ来ぬものを待つ」「既に去った・失われたものを惜しむ」、いまはこの場に無い-あるべき美しいものの完全な美を想起し「思う・偲ぶ」美意識と「宗教意識」
片桐洋一先生の「古今和歌集 全注釈」には古今和歌集では『事物に託して、移ろいゆくものを我が身のこととして嘆き惜しむところに抒情の中心がある。』とあります。
 
『春上は「春を待つ情の歌」で始まったが、同じ春上の四五四六番歌になると、
 暮ると明くと目かれぬものを梅の花いつの人間にうつろひぬらむ
 梅が香を袖にうつして留めては春は過ぐとも形見ならまし
 
と、早くも「散るのを惜しむ情」が表面に出てくる。以下、四七四八・四九番歌と「散る」を惜しむ歌が並び、その後、六四以下六八番歌まで、再び「散る」が主題となって巻・春上は終り、巻二・春下に入る。春下は冒頭の数首を除いて、花の散るのを惜しみ、春の過ぎゆくのを惜しむ歌ばかりである。つまり、春の上下は春を待ち望む歌と春を惜しむ歌、特に後者が圧倒的に多いということである。』
同じことは、他の季節についても言えることであり、
 
『「古今集」の四季の歌は「待つ心」と「惜しむ心」の表現に終始しているというほかはないのであるが、同じことは、四季歌のみならず、君の長寿を願う賀の歌においても、世を去った人を惜しむ哀傷歌においても、また別れゆく人を惜しむ離別歌や、遠く旅に出て家を思う旅歌についても言える。離れゆくもの、過ぎ去りゆくものを惜しみ、心安らぐものの到来を待ち望む思いがそのまま歌になっているのである。』
『同様のことは、五巻をとっている恋部の場合に、もっとはっきり言える。
恋一恋二と恋三の途中までは、「まだ見ぬ恋」の歌、つまり「まだ見ぬ人」を待ち、逢うことを願う歌である。恋三になって、逢った喜びの心を出した歌が幾首か並ぶが、ごく僅かで終ってしまって、すぐに「おきて別れし暁」を惜しみ(六四一)、「思ひおうせ出づるぞ消えて悲しき」(六四三)とその逢瀬を回想し、過ぎ去ってゆく時を惜しむ歌となるのだが、以下、恋五の末尾まで、失った人、失った恋、失った時を惜しむ歌、そしてそのすべてを諦観する思いを抒べる歌が並ぶのである。
実際、古今集の和歌は、外界の事物を事物のままに詠む〈写生〉の歌ではなく、事物に託して、移ろいゆくものを我が身のこととして嘆き惜しむところに抒情の中心がある。
花は待たれて咲き、惜しまれて散る。ほととぎすは鳴くのを待たれ、やがて惜しまれて山へ帰る。秋は涼しい風を待望することから始まり、紅葉が散り敷くのを惜しむことによって終る。冬はすべて嘆きの対象、降る雪のように我が思いも我が身も消えんばかりであると嘆くのである。人も同じ。「我が身世にふるながめ」(春下・一一三)を愁え、人の心が花のように移ろいゆくことを嘆き、惜しむのである。』
 
以上、古今和歌集の特徴として
抒(の)べるは「物」ではなく「心」であり、「待つ心」と「惜しむ心」を歌い、移ろいゆくものを我が身のこととして嘆き悲しむところに抒情の中心がある
と説かれています。
「いまだ来ぬものを待つ」「既に去った・失われたものを惜しむ」、いまはこの場に無い-あるべき美しいものの完全な美を想起し「思う・偲ぶ」美意識が古今和歌集、和歌の文化にはあるのです。
これを継承した美意識が吉田兼好の「徒然草」に見られます。
消え去るもの、儚いものだからこそ美しい 
あだし野の露消ゆるときなく、鳥部山の煙立ち去らでのみ、住み果つるならひならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそいみじけれ(徒然草七段)
美しきもの、華やかなもの亡き後の「面影」が真に美しい
花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。雨に向かひて月を恋ひ、垂れ籠めて春の行方知らぬも、なほあはれに情け深し。咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見どころ多けれ。(徒然草百三十七段)
 
これらの美意識-感情の動きは、「亡きものを弔う」「亡きものを偲ぶ」「死にゆくものを惜しむ」心の動きと似ている部分はないでしょうか。亡き人や神霊を弔う、偲ぶ、惜しむ宗教的な感情の動きと、古今和歌集-和歌-王朝文化の美意識-感情の動きは似ているのです。
神霊の姿を出さず、しかし神霊に対するコミュニケーションを行い、心や感受性はそのように動いている、そのような情報行動-感情が、和歌-王朝文化にはあるかに見えるのです。
 
中世の歌論書には歌道と仏道を紐づけたものが多々あるのですが、現代の池永三郎先生の「日本思想史に於ける否定の論理の発達」でも新古今和歌集の時代の貴族の間で和歌の文化を究め没入することが宗教的な救済の行為であったと論じられています。
 
『P164彼等とて顕落し行く貴族の一員として、ひし〱と身辺に迫り来る憂世の波浪に無感覚ですまされる道理はなかった。かくて彼等は和歌の世界の内に幽玄なる別天地を創造することによって、わづかにその苦痛から免れることが出来たのであり、さうしてその別天地とはやはり一切の現実的な苦楽から遮断された自然の世界であったのである。』…
『新古今の歌人たちにとって自然はもはや単なる作歌の素材にとどまるものではなく、西行や長明に於ける山里と同じく(更に法然や親鸞に於ける西方浄土と同じく) 憂世の厭相を完全に遮断した救ひの世界たる役割を有したのである。』
古今と新古今をまたぎますが、和歌の文化、和歌に詠まれる自然は宗教的な救済につながるものとして希求された部分があるのです。
 
なおここで「古今和歌集」の序文「仮名序」の書き出しを見て頂きますと
 
『やまとうたは、人のこゝろをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける。よの中にあるひとことわざしげきものなれば、心におもふ事を、みるものきくものにつけていひいだせるなり。はなになくうぐひす、みづにすむかはづのこゑをきけば、いきとしいけるものいづれかうたをよまざりける。ちからをもいれずしてあめつちをうごかし、めに見えぬおにかみをもあはれとおもはせ、をとこをむなのなかをもやはらげ、たけきものゝふのこゝろをもなぐさむるはうたなり。…』
自然の生けるものすべてに心があり「うた」をよみ、「うた」には神秘的な力があることを伝えています。「仮名序」には動植物や無機物にも霊があるという「アニミズム」に近い宗教性が感じられるものです。
 
以上和歌-王朝文化には「宗教的な-宗教に似たもの-救済の要素」があることをご記憶頂ければ幸いです。
 

2. 芸道-能・連歌・茶道と『二次的自然』「二次的現実-儀礼-演技的空間」「宗教的な-宗教に似たもの」

ここからは、能・連歌・茶道の三つを「芸道」と総称し見ていきます。これらの芸道は当時の支配階層である幕府や武家・貴族、信長や秀吉周辺の層が積極的に関与し発展させました。この三つの芸道は和歌-王朝文化を継承していると共に、能と茶道は現在に至るも伝統文化、生活文化として生命力を保ち続けています。
武家政権の時代の日本美術史を見ると和歌-王朝文化に見た「二次的自然」の芸術表現に満ちており、能・連歌・茶道も当然のように「二次的自然」の基盤上に作られています。
 

2.-1 能と「二次的自然」「二次的現実-儀礼-演技的空間」「宗教的な-宗教に似たもの」


能と「二次的自然」
現代に至る能の原型は観阿弥・世阿弥父子二代により作られました。世阿弥の編み出した複式夢幻能は能の主要な形式の一つで、
 
旅の僧のもとに土地の者が現れその地の物語を語り、自分がその物語の主(死者の霊)であることを示唆し姿を消す。なおも僧がその地に留まっていると、土地の者-死者の霊が昔の姿で夢幻の中に現れ過去を語り踊り、僧の供養とともに消えていく…
 
といった戯曲形式であり、鎮魂、呪鎮の意味合いが強い形式です。
能の観客であった当時の知識階層においては古典注釈や和歌の学による古典文学に対する関心と理解が相当高い水準に達していました。世阿弥の複式夢幻能は死者や神霊を舞台の上に登場させ、過去の物語を美しく語らせ舞わせることにより、古典文化の様々な物語を豊かな解釈、新たな解釈を添えて提示することを可能にしました。この知的・心情的に豊かな物語世界は当時の知識階級を惹きつけ、能は王朝文化を含むそれまでの日本の芸術教養を集大成したものとなりました。
複式夢幻能においては現実と異界のものである死者や神霊や鬼が舞う幽玄美にあふれる舞台が展開されます。観客も、演ずる側も、豊かな古典芸能の知識と高度な感受性能力がベースにあっての芸術舞台が完成したのです。
 
能では、一例をあげれば
『さなきだに物の淋しき秋の夜の、人目まれなる古寺の庭の松風更け過ぎて、月も傾く軒端の草、忘れて過ぎしいにしへを、忍ぶ顔にていつまでか、待つことなくてながらへん、げになにごとも思ひ出の人には残る世の中かな』(「井筒」)
のような「言葉」(役者や囃子のセリフ)だけで観客は美しい自然と世界観を想像できなければいけません。和歌は歌ひとつで「二次的自然」の夢幻の世界を紡ぎ出したのですが、能はそれを継承し発展させているのです。能は旅や花見などの自然を背景-舞台とした物語も多く、観客は和歌-王朝文化を継承する言葉の自然描写で「二次的自然」を体験するのです。
 
能と「二次的現実-儀礼-演技的空間」
能は演劇でありまさしく「演技的空間」です。
世阿弥は苦しい競争の中でよく芸の工夫を重ね、六十歳を超えて書かれた「花鏡」などには肉体的な動きを抑制した精神の集中による能の芸術の深化の跡が見えます。
能舞台と言えば張り詰めた、演者も観客も一体化した空間が想起されますが世阿弥の頃はどうだったのでしょう。世阿弥が嫡男の元雅に秘伝として伝えた「花鏡」を見てみます。
 
【動十分心 動七分身】
『「心を十分に動かして身を七分に動かせ」とは、習ふ所の手を指し、足を動かすこと、師の教へのままに動かして、その分をよくよくし極めてのち、指し引く手を、ちちと、心ほどには動かさで、心より内に控ふるなり。これは、必ず、舞・はたらきに限るべからず。立ち振舞ふ身づかひまでも、心よりは身を惜しみて立ち働けば、身は体になり、心は用になりて、面白き感あるべし。』
師の教える動きをよく極め、その上で動きを抑える、というのです。世阿弥は肉体の若さが失われる中で、内心の緊張を上げつつ身体的な動きは抑制することにより、それが面白味となり観客に伝わる境地を見出します。
 
そして内心の緊張を高め動きを絞っていけば、その先には「何もせぬ」所に至ります。
【万能綰一心事】
『見所の批判に云はく、「せぬ所が面白き」など云ふ事あり。これは、為手の秘する所の安心なり。」「せぬ所と申すは、その隙なり。このせぬ隙は何とて面白きぞと見る所、これは、油断なく心を綰(つな)ぐ性根なり。舞を舞ひやむ隙、音曲を詠ひやむ所、その外、言葉・物まね、あらゆる品々の隙々に、心を捨てずして、用心を持つ内心なり。この内心の感、外に匂ひて面白きなり。かやうなれど、この内心ありと、よそに見えては悪かるべし。もし見えば、それは態になるべし。せぬにてはあるべからず。無心の位にて、我が心を我にも隠す安心にて、せぬ隙の前後を綰ぐべし。これすなはち、万能を一心にて綰ぐ感力なり。」「日々夜々、行状坐臥に、この心を忘れずして、定心に綰ぐべし。かやうに油断なく工夫せば、能いや増しになるべし。」
何もせず、じっとしているところが何とも言えずおもしろい境地がある。能役者の内心の緊張が保たれ、油断無く心を繋がれることで、それが外に匂いておもしろい。しかしその内心も「無心の位」にて演じる自分にも隠すように繋ぐべし。日々夜々、行状坐臥の日常すべてに繋ぐべしとあります。これ以外にも「花鏡」には「なす所の態に少しもかかはらで、無心無風の位に至る見風」:自意識を離れ無心無風の境地にて「妙所」言いようのない最高の境地に達することや「時節当感」:観客全員の心をとらえ引き込む瞬間を捉えよ、等々あります。
これらからは緊張感ある演者と観客が一体化した当時の能の「演技的空間」が垣間見えるのです。
 
能と「宗教的な-宗教に似たもの」
呪鎮 そして「死者や人間の力を超えた神霊に関わる」能
能を呪鎮の芸能と論じる人もいますが、個々の作品を見るとどうでしょうか。能には複式夢幻能など死者の霊や神霊が現れ語り舞う作品が多いです。
『敦盛』『砧』『通小町』『海士』等は未練妄執を抱える死者の霊を回向し成仏に至らせる呪鎮の物語です。
回向はせずに死者や神霊の語りを受け止める物語も多いです。死者の霊が懐古する『井筒』、植物の精が仏の教えを説く『芭蕉』、遊女じつは普賢菩薩の顕現する『江口』。
畏れ崇めるべき神霊の登場するのは老女の霊-山の精の語る『姨捨』『山姥』、葛城の神が舞う『葛城』、鬼神の威を描く『野守』、天上の天女の舞を描く『羽衣』などです。
そして古来より神聖視されている『翁』、『高砂』。
人に害をなす神霊や鬼などの物語では、妄執の六条御息所の生霊を成仏させる『葵上』、鉄輪を戴いた女の生霊を安倍晴明が退散させる『鉄輪』、鬼女を祈り伏せる『安達原』、女の変じた蛇体を祈り伏せる『道成寺』、鬼神を退治する『紅葉狩』等々があります。
これらの物語には、死者や神霊などこの世ならぬものに遭遇したときの、呪鎮を含んだ人間の対峙の在り方、死者や神霊に対する宗教的な振る舞い方が描かれていると言えます。
人間や神霊の悲痛な物語も多いです。祈りを主題としつつ救いの無い悲話の『隅田川』。老残の小町の嘆きを描く『関寺小町』。薬草喩品の読経でも死後も邪淫の妄執から離れられぬ式子内親王の無惨を描く『定家』。白拍子が驕慢の罪で死後も苦しみ続ける『檜垣』。あの世の闇の中浮かばれぬ悲哀の『鵺』。これらの物語には、観客は悲惨な死を遂げた人の弔いの際に感じるような悼み、救い祈るような感情を抱くのではないでしょうか。
一方で悲痛ではない物語もあります。義経と弁慶の物語は『安宅』『烏帽子折』『鞍馬天狗』『橋弁慶』『船弁慶』など多いですが、これらの物語に触れるとき、観客は若くして非業の死を遂げた英雄、義経のイメージと重ね、「在りし日の義経と弁慶の雄姿」を亡き人を偲ぶように観劇するゆえに、深い感動とあはれを感じるのです。
西行と花の精の『西行桜』、亡き楊貴妃が玄宗皇帝との日々を語り舞う『楊貴妃』なども同様です。「あの西行/楊貴妃の在りし日の姿」として偲ぶような気持ちがあるので味わい深い物語となっているのです。
このように、能には「死者や神霊に対峙する宗教的な振る舞い」が描かれる作品、「死者や神霊を悼む-偲ぶような感情」が喚起される作品が多いのです。「死者や人間の力を超えた神霊に関わる」という意味での宗教性が能にはある、と言えるのではないでしょうか。
 
仏教の教義、概念と「二次的現実」 禅の影響
能では多くの作品で仏教の教義や概念が現れます。例えば『大原御幸』では建礼門院は自分の体験を、平家の栄華のもとで体験した天人のような暮らし-天上界を始め、平家が都を追われて後の苦難の中で餓鬼道、叫喚地獄、修羅道、畜生道を体験した等、仏教で言う六道世界を巡った果てに今の悲しい境遇があると語ります。建礼門院の体験した「生の現実」が仏教の教義と概念を経由して俯瞰され深められ、美しく『二次的現実』として解釈、意味づけされているのです。
能には、登場人物が自分の境遇とその悲苦や無常を嘆き、それが仏教の教義や概念で普遍化され深められ語られ、仏への祈りが付加される例など多々見ることができます。
当時の仏教は知識階級に最高度の知-世界観や哲学、心理学、宗教的な知を提供するものでした。能に現れる仏教の教義や概念からは、この時代に生きる人たちが悲苦、無常に満ちた自分たちの生を仏教の教義や概念を用いて『二次的現実』の形で美的に深めていったことが垣間見えるのです。
そして世阿弥の能楽書には禅の影響が多々見られます。当時、禅は知識階級にとって最高度の知の体系であり将軍の足利義持も禅に傾倒していました。このような中で世阿弥も自身の能楽の理論を禅の概念も用いて深化させていったことが伺われます。
 

2.-2 連歌と「二次的自然」「二次的現実-儀礼-演技的空間」「宗教的な-宗教に似たもの」

 

連歌と「二次的自然」
連歌は和歌の五・七・五の長句と七・七の短句を交互に連続して付けていく文芸です。現代はあまり行われていない連歌ですが、中世には時代の文芸の中心にありました。室町幕府では連歌会所奉行が設けられ、公家でも菟玖波集が准勅撰となるなど、連歌は武家及び公家の公式な文芸の位置づけを獲得します。
連歌が和歌の言葉の文化-「二次的自然」を継承していることは、「連歌寄合」等の連歌の手引書で植物など自然に関する記述が重視されていることなどを見ても明らかです。なお「季題」とは明治以降にできた用語で、連歌や俳句などで詠みこまれる季節感を持つ特定の言葉を指しますが、「四季の創造」(ハルオ・シラネ先生)によればこの「季題」に相当する言葉の分類は平安時代以前から連歌、現代の俳句歳時記に至るまで基本的に継承されています。人工的な「二次的自然」の構成のモジュールは和歌、連歌、俳諧などを通じて、千数百年継承されているのです。
 
連歌と「二次的現実-儀礼-演技的空間」
連歌の会は成功すればその場を熱狂的な興奮に導き、武家と公家、さらに広く民衆の間でも非常に流行しました。集団で一つになり熱狂的に進む連歌は武家の家臣など仲間の紐帯を強くするものでもありました。
「連歌とは何か」(綿抜豊昭先生)によれば室町時代には、
 
『歴代将軍は、頻繁に北野神社に参詣・参籠し、法楽連歌がさかんにおこなわれた。明徳二年(一三九一)二月十一日には、義満が一日万句の法楽連歌をおこなっている。このときは北野社境内に二十ヵ所の会席が設けられた。こうして北野社に連歌会所がもうけられることになるのである。現在も連歌会所跡の井戸が残っている。そして、義教の時代には、室町殿新造会所で幕府月次連歌がおこなわれるようになるのである。』のです。
 
連歌は13世紀に百句単位の形式が、その以降は千句万句という形式まで生まれました。
戦国時代には幾多の戦勝祈願の連歌、戦の手持無沙汰の際の連歌、戦のあとの追悼連歌の記録が残されています。明智光秀が本能寺の変の前に開いた連歌会は本能寺の変の戦勝祈願であったとも言われています。
一般大衆の間でも13~14世紀には枝垂れ桜などの下での「花の下連歌」が流行しました。酒を飲んだり連歌をしたりして熱狂すると喧嘩が起きたり大変なのですが、連歌などで熱狂するほど桜の木の下の現世に恨みを持っている怨霊たちが慰められる、という信仰もあったのです
(松岡心平先生「中世芸能講義」より)。
このように、「連歌という文化を尊いものと認識し連歌のプロトコル-儀礼や約束-に従い、他者の詠む句に心を開き積極的に感じ入り、自分も真剣に、自由に創造的に句を詠み連ねていく」というルールに従う中で、現実の世界と重なりつつ位相の異なる「二次的現実-儀礼-演技的空間」に遊ぶ-居るのが連歌の文化なのです。
 
連歌と『宗教的な-宗教に似たもの』 呪鎮 神々や死者の霊とのコミュニケーション
前述のとおり室町時代には『歴代将軍は、頻繁に北野神社に参詣・参籠し、法楽連歌がさかんにおこなわれ』、戦国時代には幾多の武将による戦勝祈願の連歌、戦のあとの追悼連歌が行われ、一般大衆の「花の下連歌」では連歌などで熱狂するほど桜の木の下の怨霊たちが慰められる、という信仰もありました。
連歌の場は、神々や死者の霊にコミュニケーションする場という性質があったのです。
 
仏教と連歌 あはれと禅
ここで応仁の乱の時代の連歌師、心敬の到達した「冷え寂び」の美を紹介します。心敬は「ささめごと」の中で「歌の姿」について以下のように説いています。
 
『水精の物に琉璃をもりたるやうにといへり。これは寒く清かれとなり。』心敬の「冷え寂び」とは、姿の美しい言葉や句とは異なる、「心の艶」なるものです。胸の内の執着を捨てること、すべてのものの無常であることを透徹したまなざしで見ること。その上で人の恩を忘れず命に代えても応えようとするような人の胸から出るのが艶なる句である、心を飾りたる輩の句はまことの耳には偽りとのみ聞こえると記しています。
応仁の乱で京は灰燼に帰し心敬は乱を避け東国に下り「ひとりごと」を執筆しました。心敬の生きた時代は、まさしく無常が無常そのものに吹き荒れていた時代でした。それまでの前例やあるべき論、権威がことごとく踏みにじられる一方で新たな勢力が台頭し、明日の見えぬ苦難の中に心敬もいました。
応仁の乱を避け関東を漂泊し東国武士を相手に芸道を続けた心敬は京に戻れぬまま相模の国で歿します。
 
『氷ばかり艶なるはなし。苅田の原などの朝薄氷、古りたる檜皮の軒などのつらら、枯野の草木など露霜のとぢたる風情、面白くも艶に侍らずや。』(『ひとりごと』)
「冷え寂び」と言われる境地は、芸術や美の意識というよりも、『人間の自己執着の熱気が洗はれ、自己、対象ともに、露はにその実相を示現して自若といふ境である』(「日本人の心の歴史」(唐木順三先生)という、無心が行きついた仏道の宗教的境地として理解すべきものなのでしょう。氷や荒涼とした景色が「美しい」のではありません。ここにおいては芸術とは見る人が自由に感じとれるものではありません。見る人の「境地」が試される、境地が必要なのです。
心敬の「冷えさび」には王朝文化と禅の文化の高度な統合が見えるようです。そしてそこに見える美意識-感情の動きには、和歌と同様に『「亡きものを弔う」「亡きものを偲ぶ」「死にゆくものを惜しむ」心の動き、神霊に対するコミュニケーション』と似たものを感じて頂けると思います。
 

2.-3 茶道と「二次的自然」「二次的現実-儀礼-演技的空間」「宗教的な-宗教に似たもの」


室町時代、唐物と和物を調和させて渾然一体となった境地を求めた珠光は後世侘茶の祖と言われます。珠光の教えは武野紹鴎、千利休に受け継がれ花開き今に至ります。
 
茶道と「二次的自然」「二次的現実-儀礼-演技的空間」
茶道と言えば、自然の中にあり四季の風物を活かす「二次的自然」的在り方は明らかに思われますが千利休や秀吉の時代はどうだったのでしょうか。
秀吉や家康、秀忠とも面識があったポルトガル人のジョアン・ロドリーゲスの「日本教会史」には、彼の接した当時の日本人が茶道に傾倒し茶室や露地造りに丹精をこらし、粗末な樹皮や木材を自然のままに使っている等の記載に続き、以下記しています。
 
『その小屋(茶室のこと)は、あたかもひとりでに自然に出来たかのようにし、あるいはまた、普通は僻地や茂みの中で生活している者が造る家のようにして、すべての点で自然を模倣し、すなわち家そのものが自然のままに造られ、そして、自然に生じた物の中に自然そのままの形が保たれているように、すぐれた均衡と調和が保たれるようにする。…」
『家、そこへ至る道、招待、さらに道具類、またそのような家に入る時の衣類は、その家と完全に調和がとれ、適応していなければならない。すなわち、それらは華美なるのや、贅沢な外観を持ったものでもなく、また優秀で珍奇な工夫をしたものでもなく、自然であり、雅趣を備え、孤独であり、懐旧の情をそそるものであり、独特な興趣があるもののようでなければならない。』
ロドリーゲスが見た当時の茶道は、まさしく「二次的自然」そして「二次的現実-儀礼-演技的空間」の世界でした。
江戸時代に千利休の言葉を遺すものと目されていた「南方録」(現代では立花実山の創作と見られている)でも、茶会の露地に水をうつこと・露地の出入に下駄を履くこと・小座敷の花の生け方・夜会に花を生けることの是非・暁の会、夜の会では腰掛に行燈を置くこと・雪の日の茶会の心得など、一見些事に見えることすべてが仏道修行であり、深い意味があり心構えが必要なことを説いています。さらに「南方録」には、そのままのようで、しかし細部まで心を尽くした空間づくりの心(茶会の道具は足りぬくらいで良い、花はかろく生けるのが良い、など)を多々見ることができます。
自然を活かしつつそこに心を入れる-自然と人事が混淆した「二次的自然」、無作為と作為が混淆した「二次的現実-儀礼-演技的空間」の在り方が利休の教えと目されていたのです。
 
利休の朝顔の茶会の逸話は有名です。利休の庭に朝顔の見事に咲いていることを聞いた秀吉が利休の朝会に行ったのですが、庭には朝顔が一輪も咲いていない。興ざめと思いつつ秀吉が小座敷に入ると、そこには色鮮やかな朝顔の一輪だけが床に活けてあり、秀吉はじめ共の人々も目が覚める心地であったといいます。庭一面の朝顔より鮮烈な小座敷の一輪だけの朝顔。現実の自然より鮮烈な「二次的自然」「二次的現実」です。
そのような茶道の「二次的現実」空間での、人と人の関りはどのようなものでしょうか。
茶会における客と亭主の心の持ちようを聞かれた利休は『いかにも互の心にかなふがよし、しかれどもかないたがるはあしゝ、得道の客・亭主なれば、をのづからこゝろよきもの也、未煉の人互に心にかなはうとのみすれば、一方、道にちがへばとも〱にあやまちする也、さればこそ、かなふはよし、かないたがるはあしゝ、』と答えます。(南方録)

良い茶会とは、客と亭主のお互いの心に叶うのが良いと述べつつ「自然に叶うのは良いが互いに叶おうと迎合するのは良くない」と説いているのです。
無心の境地にも似た中、深く「互いの心にかなふ」「二次的現実」の空間の在り方です。
 
茶道と「宗教的な-宗教に似たもの」
茶道には禅林文化の影響が多大にありますがここでは禅と異なる方向の宗教性を見てみましょう。茶道には、和歌-古今和歌集と近い意味で宗教的な部分があると思われるのです。
先に片桐洋一先生の「古今和歌集 全注釈」の引用に基づき以下のように論じました。
 
『以上、古今和歌集の特徴として抒(の)べるは「物」ではなく「心」であり、「待つ心」と「惜しむ心」を歌い、移ろいゆくものを我が身のこととして嘆き悲しむところに抒情の中心がある』
そして
これらの美意識-感情の動きは、「亡きものを弔う」「亡きものを偲ぶ」「死にゆくものを惜しむ」心の動きと似ている部分があること、『亡き人や神霊を弔う、偲ぶ、惜しむ宗教的な感情の動きと、古今和歌集-和歌-王朝文化の美意識-感情の動きは似ているのです。神霊の姿を出さず、しかし神霊に対するコミュニケーションを行い、心や感受性はそのように動いているような、そのような情報行動-感情が、和歌-王朝文化にはあるかに見える、
と和歌-王朝文化を論じました。

ここで茶道、南方録の記述を見てみましょう。千利休の師である武野紹鴎は「わび茶(茶道)の心とは新古今集の中の藤原定家の歌にある」と言ったとあります。

  見わたせば花も紅葉もなかりけり 浦のとまやの秋の夕ぐれ 
花や紅葉は書院台子の王朝宮廷の茶、浦のとまやは無一物のわびの茶です。花や紅葉の世界をはじめから知らない人にはわび茶は理解できない、花や紅葉をじっくりと眺め体得し尽くしてこそ、苫屋の錆びきったわび茶の世界を見出すことができるとのことです。
同じく「南方録」には、利休は紹鴎の示した定家の歌に加えて、新古今集の藤原家隆の

  花をのみ待らん人に山里の 雪間の草の春を見せばや

を茶の信条としていたと記されています。この歌の「山里」は定家の歌の「浦のとまや」と同じ無一物の寂びれきった状態をさし、その雪間からほつほつと草の青が自ずと姿を現す、それを茶道の求める境地に例えたのです。
南方録のこの挿話からは、
「見わたせば」の歌は、既に消えたものを悲しみ悼む美意識、
「花をのみ」の歌は、過ぎ去った季節の花を思い出し(偲び)訪れる春を待つ偲ぶ美意識を観ることができます。それは去った人や神霊を偲ぶ心、死にゆくものを惜しみ悼む心の働きに似ているのです。
 
これに近いもので井伊直弼の「茶話一会集」には茶道の「思い・偲ぶ」構えが伺えます。桜田門外の変で散った大老の井伊直弼は茶人としても知られており、「茶話一会集」は茶道の文献で必読の名文と言われています。以下はその中でも重要視されている個所です。
 
『主客とも余情残心を催し、退出の挨拶終れハ、客も露地を出るに、高声ニ咄さす、静ニあと見かへり出行は、亭主ハ猶更のこと、客の見へさるまても見送る也、扱、中潜り・猿戸、その外戸障子なと、早々〆立 なといたすハ、不興千万、一日の饗応も無ニなる事なれハ、…』
 
ここには、亭主も客も余情残心を持ち、茶会が終わり露地から帰る際も客は大声で話したりせず静かに振り返りつつ去り、亭主も客が見えなくなっても見送る。亭主が露地の門など早々にしめるのは興ざめであり、心静かに今日の茶会が再びかえらないことを思い、一人で茶をたてて飲むことなどが茶の道の極意であることなどが書かれています。「思い・偲ぶ」構えの重要性が縷々説かれているのです。
ここで先の南方録の記述、「茶会の露地に水をうつこと…雪の日の茶会の心得など、一見些事に見えることすべてが仏道修行であり、深い意味があり心構えが必要なこと」を見返すと、この茶会の準備、すなわち客を待ち、客のことを想いつつ行う準備とは「うつろいゆく時を慈しみ、待つ心」を形にする行為に他なりません。
茶道の「もてなし」を(仮に)心を込めて準備し客を待ち-客と「互の心にかなふ」時を持ち-終わった茶会を偲ぶ総体と見るならば、この「もてなし」の総体には、神霊の姿を出さず、しかし神霊に対するコミュニケーションを行い、心や感受性はそのように動いているような情報行動-感情があるかに見えるのです。
 
ここで次の上下二つの図を見てください。

上の図に示しましたが、複式夢幻能では旅の僧の「ワキ」が待っているところに神々や死者の霊や鬼等が「シテ」に降りてきます。降りてきた者の思いをワキが聴き受け止め、最後にその者が帰っていく構成になっています。
神々や死者の霊を「お招きして」「もてなし」「お帰り頂く」構成になっているのです。
一方でこれに対照して茶道-茶会を考えるなら、下の図のように亭主は、客のことを思い浮かべながら趣向を凝らして準備をして客を「お招きして」「もてなし」「お帰り頂く」ことになります。あたかもお客を「神霊や死者の霊」のように、「お招きして・もてなして・お帰り頂く来訪神」のように遇しているのではないでしょうか。茶道の茶会とは、神霊や死者の霊を「お招きして」「もてなし」「お帰り頂く」行為のロールプレイのようにも見えるのです。
 
以上、茶道の「もてなし」の総体には、神霊の姿を出さず、しかし神霊に対するコミュニケーションを行っているような情報行動-感情があると推定するものです。
 
能・連歌・茶道で見て頂きましたことをまとめます。
「二次的自然」
能は和歌-王朝文化を継承し言葉による自然描写で「二次的自然」を体験する場でした。連歌は和歌の「二次的自然」の言葉の文化を継承していました。
茶道では、自然を活かしつつそこに心を入れる-自然と人事が混淆した「二次的自然」、無作為と作為が混淆した「二次的現実-儀礼-演技的空間」の情報行動-感情が利休の教えと目されていたのでした。
 
「二次的現実-儀礼-演技的空間」
能には、緊張感ある演者と観客が一体化した「演技的空間」がありました。
連歌には「真剣に自由に創造的に句を詠み連ねていく」ルールに従う中で現実の世界と重なりつつ位相の異なる「二次的現実-儀礼-演技的空間」に遊ぶ-居る文化があり、
茶道の、無心の境地にも似た中深く「互いの心にかなふ」「二次的現実」を求める在り方を見ていただきました。
 
「宗教的な-宗教に似たもの」
能には「死者や神霊に対峙する宗教的な振る舞い」が描かれる作品、「死者や神霊を悼む-偲ぶような感情」が喚起される作品が多く、「死者や人間の力を超えた神霊に関わる」という意味での宗教性があることを示しました。
連歌の場は、神霊や死者の霊にコミュニケーションする場という性質があったこと、心敬の「冷えさび」には和歌と同様に『「亡きものを弔う」「亡きものを偲ぶ」「死にゆくものを惜しむ」心の動き、『神霊に対するコミュニケーション』と似たものがあることを示しました。
茶道、そして茶道の「もてなし」の総体には神霊の姿を出さず、しかし神霊に対するコミュニケーションを行っており心や感受性はそのように動いているような、そのような情報行動と感情があることを示しました。
 
 

3.「文明」により私たちが失ったもの:真木悠介「時間の比較社会学」

 
この章では世界的に文明の導入の時代に人間が-私たちが失ったものを探求します。そしてそれは、日本列島では万葉集から古今和歌集に至る時代にあたることを示し、
続く次の4章ではその「失ったもの」と和歌-王朝文化や古典芸道の文化を対照してみます。 

近代的理性につきものの《死の恐怖》および 《生の虚無》


「時間の比較社会学」は次の文章から始まっています。
 
『P2この世の生の時間は一瞬にすぎないということ、死の状態は、それがいかなる性質のものであるにせよ、永遠であるということ、これは疑う余地がない… 。』(パスカル)
『このことはひとりパスカルの恐怖であったばかりではなく、やがてみることになるように、たくさんの明晰な近代精神の、いやおそらくは、近代的理性そのものを究極においてふちどる恐怖であった。〈私〉の生命の延長を人類の生命のうちに実感し、あるいは私の人生の「意味」を人類の未来のうちに見出しえたとしても、その人類の生の時間も、永遠であるという根拠はない。私の生の時間が一瞬にすぎないという視座をとるかぎりすなわち「永遠」を視座にとるかぎり、 人類の生の時間もまた一瞬にすぎないはずである。』(真木先生)
 
『人類は消滅するであろうなどとわれわれが断言するのを、何ものといえど許しません。人おのおのは死にますが、人類は死ぬべきものでないことをわれわれは知っています。』(ボーヴォワール)
 
近代的理性は、超えることのできない限界「死の恐怖」「生の虚無」を抱えている
真木先生は「人間的時間の研究」(プーレ)を引用し、近代的理性の先達たちの綴る《死の恐怖》《生の虚無》の実例を多々示されます。
 
『p198 私は自分が絶えず連続的に流れて行くのを見る。自分がいまにものみこまれようとするのを見ないような瞬間がすぎて行くことは一刻もない。しかし神はその選ばれた人たちを、彼らが決して水に沈まないようにささえているのだから、私はかたく信じる、数限りなくやってくる嵐にも拘らず私が依然として残るであろうことを。』(カルヴァン)
 
『いろんな出来事の風が風向きによって私を動かすだけでなく、さらに、私がおのれの態度の不定なことによって、私自身を動揺させ混乱させる。もしも注意深く自分を見つめるなら、ひとは二度とおなじ状態にある自分を見出すことはほとんどないだろう。私は私の心に、それの向きに従って、ときにはある顔を、ときには別の顔を与える。』
『私は毎日私自身から脱け出し、逃げ去ってゆく……。』『各瞬間ごとに私は自分から脱け出して行くような気がする...』(モンテーニュ「エセ―」)
 
『いまわれわれがその瞬間をつかんだかと思うと、いまその瞬間が滅び去る。そしてその瞬間とともにすべてのわれわれも滅び去るであろう、もしもすみやかに、時をうつさずに、われわれがおなじ他の瞬間をとらえないならば。』(ボシュエ)
 
これらは過去の話ではなく、現代の哲学者、それだけでなく一般の人たちにもあてはまる感覚であると言えるのではないでしょうか。しかし「時間の比較社会学」で真木先生は
 
『〈時間の中で現実はつぎつぎと無になってゆく〉という感覚、「たえずむなしく消え去ってゆく」というこの感覚のとり方は、しかしけっして人間にとって普遍的な心性ではない。のちにみるように、少なくとも現在までにこの点について調査されているいくつかの文化においては、過去は現在するものとして感覚されている。』
と述べられています。真木先生に従い、西洋近代以外の文化にそれを見てみましょう。
 
アフリカ人の伝統的な観念によれば『時間は長い〈過去〉と〈現在〉とをもつ二次元的な現象であり、事実上〈未来〉をもたない』
〈未来〉がなければ〈未来〉を思い悩むことも無いということになります。
 
『P28ケニアのカムバ族出身のムビティによると、アフリカ人の時間意識には「事実上未来が存在しない」。〔アフリカ人の伝統的な観念によれば〕『時間は長い〈過去〉と〈現在〉とをもつ二次元的な現象であり、事実上〈未来〉をもたないのである。西洋人の時間の観念は直線的で、無期限の過去と、現在と、無限の未来とをもっているが、アフリカ人の考え方には実際上なじみのないものである。未来は事実上存在しない。未来の出来事は起こっていないし、実現していないのだから、時間を構成しえないのである。
確実に起こる未来の出来事や不可避的な自然のリズムにのったことがらはたんに〈潜在する時間〉を構成するだけで、〈現実の時間〉とはみなされない。現に起こっていることがらはもちろん未来をひらくけれども、ある出来事がひとたび起こってしまえば、もはやそのことは未来にではなく、現在と過去に属するのである。だから〈現実の時間〉とは、現在のものと過去のものである。時間は「進む」というよりもむしろ「退く」ものであり、人びとは未来のことを思わず、すでに起こったことがらを思うのである。』。
(真木先生)
 
そして、レヴィ=ストロースを引用しつつ、西洋の個人とは異なる、オーストラリア中部の原住民族の「永続性のあるアイデンティティの在り方」を紹介しています。
 
『p23チューリンガとは御存じの通り石か木で作られた物体で、形はほぼ楕円形をしており、端は尖っていることも丸味を帯びていることもある。そして多くはその上に象徴記号が彫り込まれている。しかし時には、単なる木片か石ころで、なにも加工されていない場合もある。外観がどうであれ、チューリンガはそれぞれきまったある一人の先祖の肉体を表わす。そして代々、その先祖の生まれ変わりと考えられる生者に厳かに授けられるのである。チューリンガは、人のよく通る道から遠い自然の岩陰に積んで隠しておく。定期的にそれを取り出して調べ、手で触ってみる。またそのたびごとに磨き、油をひき、色を塗る。それとともにチューリンガに祈り、呪文を唱えることを忘れない。』(レヴィ=ストロース)
 
『すなわちチューリンガはひとりの人間が、ある先祖の生まれ変わりであるということを物的に確証するよすがなのであり、このチューリンガをとおして人は、祖先から自我、そして子孫へと、再現する同じ人間としての、個我をこえたアイデンティティを所有する。「物的に現在化された過去」というふうに、レヴィ=ストロースはチューリンガの時間論的な役割を表現している。(真木先生)
 
西洋近代人とは異なったアイデンティティの在り方。個々人の命を超えた永続的なものをこの「チューリンガ」が保証しているようです。
 
『P24この地域の原住民の中に生まれ育った民族学者であるストレーロウは、かれらにとっての景観の意味をつぎのように証言している。
山や小川や泉や沼は、原住民にとっては単なる美しい景色や興味ある景観にとどまるものではない……。それらはいずれも彼の先祖の誰かが作り出したものなのである。自分を取り巻く景観の中に、彼は敬愛する不滅の存在〔祖先〕 の功業を読みとる。これらの存在はいまも、ごく短期間、人間の形をとることができ、その多くを彼は父や祖父や兄弟や母や姉妹として直接的経験で知っている。その土地全体が彼にとっては、昔からあって今の生きている一つの家系図のようなものである。原住民はそれぞれ各自のトーテム祖先の歴史をつぎのように考える。それは、今日われわれの知っている世界を作り上げた全能の手が まだその世界を保持していた天地開闢の時代・生命の曙の時代に対する、原住民一人一人の自分自身の行動の関係なのである。」(レヴィ=ストロース)
 
真木先生はこれについて以下のように注釈されています。
『すなわち自然的な景観はいわば、展開されたチューリンガとして〈物的に現在化された過去〉なのであり、歴史をこえたアイデンティティの基盤をなしている。…それはひとつの持続する共同態の、「歴史性を内在する物理的な宇宙」として現在しつづける過去だ。』
 
彼らにとっては、この「チューリンガ」、あるいは「チューリンガが展開されたものとしての自然」こそがかけがえのないもの、「歴史性を内在する物理的な宇宙」として、歴史を超えたアイデンティティの基盤なのです。
そんな彼らは、白人によって略奪されたり殺傷されたりすること以上に、自然の破壊や土地からの追放に対して深い怒りと絶望を示したと言います。
 
『P25ストレーロウがいうように、「こんにち白人がーときにはわざとでなしにー先祖の土地を汚したことを語るとき、北アランダ族の男の目には涙が浮かぶ」のは、自然と人間のあり方が近代文明の世界のそれとは異質のものであるからだ。
アメリカ原住民の世界の白人による解体の歴史のなかで、白人によるかれらの略奪や殺傷にたいして以上に、自然の破壊や土地からの追放にたいして、かれらが深い怒りと絶望を示したという事実がいくつも伝えられている。
これは近代の価値観からみると奇妙に非合理的な倒錯にみえるけれども、これらの土地 = 自然こそがかれらのすべての過去を現在化せしめていたものであり、そのことによってかれらの存在を、たしかな恒常性として保証していたものであった。
白人は原住民を殺害することでその生を奪うけれども、その土地 = 自然を解体し接収することで、たんにその生のみならずその死をも奪うのである。これらの破壊と追放によってはじめて、これらの原住民たちは死というものを、近代人の考えるような死として、 すなわち絶対の帰無として感覚し、戦慄することができたはずである。
かれらにとってこの時、過去はもはやないものとなったのであり、そして現在も、やがて無化するであろうものとなる。
これらのことは、虚無化してゆく時間というひとつの観念、あるいは生きられる感覚が、自然にたいする人間の自立と疎外という、ひとつの文化と社会の形態とかかわっている、という仮説をわれわれに示唆するように思われる。』(真木先生)

西洋的近代人の、近代的理性につきものの《死の恐怖》および《生の虚無》とは遠い、自然や共同態に支えられたアイデンティティの在り方があり、それは土地=自然に結びついているものだったのです。
 
真木先生によれば、〈時間はすべてを消滅させる〉《人生はみじかく、はかない》《有限な存在(人生)はむなしい》という三つの命題が〈時間のニヒリズム〉を含意するのは「西洋近代的理性に特徴的な時間感覚が前提になっている」といいます。
 
『P13そして、 とりわけこれらの命題(《時間はすべてを消滅させる》《人生はみじかく、はかない》《有限な存在(人生)はむなしい》という三つの命題)が《時間のニヒリズム》を含意するのは、じつはこの特定の時間感覚があらかじめ前提におかれているかぎりに他ならないということだ。そしてこの基礎的な時間感覚―《抽象的に無限化されてゆく時間関心》と《帰無してゆく不可逆性としての時間了解》との結合― を前提するかぎり、私の死のゆえに私の生はむなしいという観念も、人類の死滅のゆえに人間の歴史はむなしいという観念も避けることができない。けだしそこでは人生の意味も歴史の意味も、つぎつぎとそのさきにくる未来のうちに疎外されてゆき、もしそのはてに神あるいは人類の不滅を「要請」するのでないかぎり、すべての生きられた過去も現在も、そして未来も、限界を失った時間のかなたの虚無にその意味を霧消してゆくほかはないだろうからだ。』(真木先生)
 
そしてこの西洋近代的理性に特徴的な時間感覚である《抽象的に無限化されてゆく時間関心》《帰無してゆく不可逆性としての時間了解》両者の結合―の時間感覚を前提にするかぎり、「私の死のゆえに私の生はむなしいという観念」も「人類の死滅のゆえに人間の歴史はむなしいという観念」も避けることができないというのです。
 
「自然や共同態に支えられたアイデンティティの在り方」を西洋の近代人はいつ失ってしまったのでしょうか。西洋人は、いつから《抽象的に無限化されてゆく時間関心》《帰無してゆく不可逆性としての時間了解》両者の結合―の時間感覚を当然のものにしてしまったのか、真木先生は歴史を遡り説明されています。
 

近代的理性につきものの《死の恐怖》および 《生の虚無》 はどのように生じたのか


「時間の比較社会学」では、西洋近代的な時間感覚がどのように現れてきたかを歴史上で追っています。


まず原初の、原始共同体の時間意識(左下)は『虚無の意識から遠い(自然や共同態に支えられている)』 状態です。彼らにとって未来は事実上存在せず、未来の出来事は起こっていないし、実現していないのだから(現実として)時間を構成しえないのです。
この状態から近代社会の時間意識(右上)の『私の死・人類の死滅の不可避性の認識からくる虚無の意識』に囚われた近代社会の時間意識への、この右上の状態への移行はこの二軸上での移動で説明されます。
上の青丸は『不可逆的な時間意識』
~帰無していくものとしての時間意識への移行を示し、
右の青丸は、『抽象的な量としての時間』
~抽象的に無限化されていく時間関心への移行を示します。
具体的に歴史上で起きたことは、次の図に示したように

上の青丸:『不可逆的な時間意識』
~帰無していくものとしての時間意識への移行:
については、〈あるがままに存在するもの)のすべてとしての〈自然)が、『現時充足的なよろこびとして生きられうるような契機の一切』をそぎ落とされた全き否定性としてあらわれたとき、すなわち〈あるがまま)の社会や自然や文化の徹底的な破壊の際に現れるのです。
ユダヤ教においてはこの「不可逆的な時間意識」「時間が反復することの否定」のモチーフは、徹底的な民族の受難と絶望の時期に現れています。
 
『P189「エズラ第四書」「バルクの黙示録」および新約の「ヨハネの黙示録」はいずれも紀元後一世紀の末、ネロ、ヴェスパシアヌスにつぐドミティアヌスによる再度の徹底した迫害とエルサレム減亡の時代に相次いで書かれた。…このようにみると、不可逆性としての終末論の形成の画期をつげるこれらの文章の成立の時期はいずれも、不幸の多かったユダヤ民族の歴史のうちでも、とりわけ徹底的な受難と絶望の時期に書かれていることがわかる。』
 
右の青丸:『抽象的な量としての時間』
~抽象的に無限化されていく時間関心への移行:
については、貨幣関係の成熟という文脈の中で進んでいきました。
 
『P194西洋文明におけるこのように等質化された量としての時間(クロノス)のふるさとといわれるギリシャ文明もまた、古代における最も典型的に都市的な文明であった。
そしてとりわけ、このような数量としての時間が、鋳貨、すなわち貨幣のそれ自体としての製造を需要するまでに成熟し展開された商品世界においてはじめて明確に客観化された表現を獲得することを、われわれはこの章においてみてきた。』
貨幣経済は、今日地球の殆どの地域に浸透していると言っていいでしょう。
 
真木先生のフレームに添い補足します。

ギリシャ文明、エルサレム破壊から数千年の時が流れました。最近の二度にわたる世界大戦、核の使用と軍拡競争、冷戦。実体経済取引ではなくお金自体を売買するマネー経済の膨張、そして生活世界の隅々まで進む経済化とその加速。経済化は人の行為や存在を「生産性」で峻別し、AI-ICTなど情報技術は全てを『生産性』『最適化』の渦に巻き込んでいくかにも思えます。 
 
今後「近代的な時間感覚」への移行はさらに徹底し、西洋的理性につきものの《死の恐怖》及び 《生の虚無》にさらに拍車がかかりそうに思われます。
 

「時間の比較社会学」に見る古代日本における時間意識のシフト


原初の時間意識が失われ近代的時間に移行する過程は日本列島の歴史でも確認できます。まず万葉集の柿本人麻呂の歌に時間意識の変化の兆しを見てみましょう。 
 
『P108玉たすき 畝傍の山の橿原の ひじりの御代ゆ 生れましし 神のことごと 栂の木の いや継ぎ継ぎに 天の下 知らしめししを そらにみつ 大和を置きて あをによし 奈良山を越え いかさまに 思ほしめせか 天離る鄙にはあれど 石走る 近江の国の 楽浪の 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇の 神の命の大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へども 春草の 茂く生ひたる 霞立つ 春日の霧れる ももしきの 大宮ところ 見れば悲しも〔万葉二九〕
 
楽浪の志賀の唐崎幸くあれど大宮人の舟待ちかねつ〔万葉三O〕
楽浪の志賀の大わだ淀むとも昔の人にまたお逢はめやも〔万葉三一〕』
 
この柿本人麻呂の歌は、古代国家内部の王族-親族間の骨肉の争いであった壬申の乱と、その後の亀裂した国家を統合するという課題を背景に歌われたものです。二つの反歌は、天智天皇のよみがえりの未練を拒絶し、帰無する不可逆性としての時間を強調しています。
 
また「天離る鄙」とは近江京=大和朝廷の父祖の地の共同体をとおくはなれた人為の都で律令官僚制の強力な創設者としての天智の合理主義を象徴する空間でした。それが戦乱の敗北ののちに急速に、文字どおりあとかたもなく帰無していきました。それは当時の人びとに時の流れの速さを鮮明に印象づけたのにちがいありません。
 
歴史の、戦争の苦しみ、戦争後も続く葛藤は、先ほどの二軸の縦の軸、 〔<自然性>からの超越〕 → 〔不可逆性としての時間〕に対応するかと思われます。人麻呂の歌では『帰無する不可逆性』としての時間が強調されているのです。
 
●世間の時間と実存の時間
時は流れ、古今和歌集にも時間意識の変遷が見えます。P137
 
『年のうちに春は来にけりひととせを去年とゃいはむ今年とやいはむ 
 (古今一)
 袖ひちてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらむ(古今二)』
 
『古今集巻頭のこのいわゆる年内立春の歌は、暦制の上の春をあらかじめ基準としておき、自然の春の到来のそこからの乖離をひとつのずれとしてとらえるということが主題のすべてをなしており、さらにその自然の春の到来じたい、具象的な事物をいっさい捨象した「春は来にけり」という一般性において総括されている。万葉の歌と比較してみると、観念としての時候の、自然性としての時候からの自立と疎外という、古今の時間意識の特質をそれはよく集約している。
『この第二首もまた、氷がとけてゆくことをみて春を知るのではなく、暦制の上の立春であるからには、氷もとけていることだろうと、まずたてられた観念の時節の方から事象を推定する方向をとる。』…
ここでは〈時間〉が、事物からひきはがされ(abs-tract)、自存する対象として観念されたうえで、さらにこの観念の時間がぎゃくに、眼前にあるものごとの意味を規定する主体=実体とされる。このような時間のいわば対象化的な主体化を、ここでは〈時間の物神化〉と呼ぼう。古今集の構成自体が、準拠枠 frame of reference としての暦、すなわち、観念として構成された〈世界の時間〉を客観的にあるものとみたてた上で、この時間・内・存在としての世界と人生を詠む。…』

観念としての時間、自然性や具体的事物からひきはがされた時間がここに現れています。
 
●平安京遷都前後:共同体を解体する力としての「貨幣関係」の浸透
遷都前後の貨幣経済の浸透とその社会的な影響については、『日本霊異記』(『日本国現報善悪霊異記』平安時代初期)になまなましく描かれています。

『生みの母に対して高利の稲を貸しつけてその返済を仮借なく迫る子
〔上巻第二三話〕、  
 飢えた母に食物を与えようとしない女〔同二四話〕、
 子の稲を盗んだ父が牛に生まれる話〔同 一○話〕、
 寺の息利の酒を借り償わずに死んだ男が牛に生まれ寺の為に働く話
〔中巻第 三三話〕、
 富み栄えた家が父母が没することで急速に没落し、娘が衣食に窮する話〔同三四話〕、
 奈良の僧が聟に貸した金の利銭を催促し聟に海へなげこまれる話
〔下巻第四話〕等』
 
『P145そこには、人間の共同性の最後のユニットにまで浸透してこれを解体する力としての貨幣関係と、これによる「歴史」の時間の容赦のない加速化が証言されている。
 
先に、貨幣経済の浸透が、
〔〈個体性〉の自立=疎外 
〈共同性〉からの超越〕→〔抽象的な量としての時間〕
 
という時間意識の変遷をもたらすことを示しましたが、『日本霊異記』(『日本国現報善悪霊異記』)には、平安時代初期に、生活の中への貨幣の浸透により共同体が解体されていく姿をまざまざと見ることができます。
 
以上、世界及び古代日本における時間意識のシフトにつき見て頂きました。次章では、私たちが「失ったもの」と和歌-王朝文化や古典芸道の文化、日本文化を対照してみます。
 
 
 

4.「失われたもの」による欠落を埋める試みとしての和歌-王朝文化 そして芸道の文化


 

4.-1 和歌の文化-王朝文化、そして芸道-能・連歌・茶道は「自然と共同態からの放逐 その結果の虚無的な生」を補償する営為としてあった


ここで改めて和歌-王朝文化を振り返ってみましょう。
自然も恋も標準化し飽くなき情熱で自然と人事の渾融した情報を和歌-扇-屏風といったメディアに移し替えつつ、それら人工物-『二次的自然』は増殖し身の回りを埋め尽くさんとしていたのが和歌-王朝文化でした。
そして和歌の醸す「二次的現実-儀礼-演技的空間」の不思議な力が男女の心を再び通わせ人びとの心を強く動かす瞬間が多々ありました。かりそめ-演技ではありつつ、和歌という文化の枠内でなら他者の詠む和歌、他者に心を開き通わせ、自分の心を表現でき、それを聞いてもらえる場があったのです。
 
和歌-王朝文化には『神霊の姿を出さず、神霊に対するコミュニケーションを行っているような心や感受性の動き』『「古今和歌集」仮名序の「アニミズム」に近い宗教性』池永三郎先生の『和歌の文化の宗教的「すくひ」』等「宗教的な-宗教に似たもの-救済の要素」がありました。
 
真木悠介先生の「時間の比較社会学」によれば、私たち文明人は、原初の社会にあった「自然及び人間の共同態と共にある生活」から放逐され、虚無的な生に陥りやすい状態にあるのでした。そして日本列島における万葉集から古今和歌集に至る時代は、王朝の豪族や貴族にとり「自然と共同態からの放逐」の過程の時代でした。ここにおいて
和歌の文化-王朝文化が、都周辺の貴族社会の人たちの「自然と共同態からの放逐 その結果の虚無的な生」を一部なりとも補償する機能を果たさなかったとは考えづらいでしょう。意図してか否か、和歌-王朝文化は当時の王朝人の心の穴を一部なりとも埋めたのです。
王朝文化の原点、古今和歌集では「自然(四季)」と「恋」が一大テーマでしたが、「恋」は人の内なる自然であり古代歌謡でも中心的なテーマでした。古今和歌集-王朝文化が「恋」を歌ったのも、万葉集や記紀以前の自然信仰-自然とともにあった生活、古代歌謡の時代の文化の性愛に関わる部分の文化(王朝文化の時代に失われた文化)の代償と思えるのです。
 
和歌-王朝文化を継承している芸道-能・連歌・茶道も、「二次的自然」を言葉を尽くして、あるいは茶会の場などの設えを尽くして構築し、「二次的現実-儀礼-演技的空間」、すなわちその場の人たちが一体化し「互いの心にかなふ」交歓の場を作り出し、「宗教的な-宗教に似たもの」としては死者や神霊に対峙しコミュニケーションするかのような振る舞い、心の使い方、感じ方がありました。
和歌から茶道への数百年にわたる伝統文化は、王朝や幕府周辺の支配層の心の空隙、無意識の自然・共同態・宗教的なものへの渇きや欠落感を一部なりとも補い続けたのです。
江戸時代には一般の民衆もそれに加わります。あからさまに神仏、宗教性を出さず意識せず、しかし伝統文化はこの心の空隙を補い埋めるものとして機能し継承され続けたのです。
 
過去日本は濃密に宗教的な国であった歴史を考えると、これは不思議に感じられます。中世には死後地獄に堕ちる恐怖が民衆にまで遍く浸透し、今では想像もできない程に誰もが神仏を畏れ信じ頼っていました。江戸時代には仏教は事実上の国教となり寺院は祈禱や呪術、開運招福除災を行い、民間宗教者が活動する各地の講社なども発達しました。民衆の間には神仏への畏敬の念が根強くあったのでした。それらの宗教的なものは「心の空隙」を埋めていた筈です。
しかし様々な「宗教」の栄枯盛衰する傍らで、和歌に連なる伝統文化、能や茶道、俳句、花道等々は事実受け継がれ続けました。
能の役者や観劇する人、茶道を嗜む人たちだけが伝統文化を受け継いだのではありません。能や茶道の美学や身体作法は、江戸時代の間に正式な礼儀作法や日常の所作の美意識などを通して広範な人たちに身体化された形で受け継がれるに至りました。
茶道について言えば、日本の伝統建築を代表する数寄屋建築を生み出し、茶室の露地が日本庭園に大きな影響を与え、和食の伝統「一汁三菜」を提示し江戸以降の茶碗陶器には織部、遠州など茶人が大きな影響を与え、掛物や茶花(華道)などの文化を支え、その他無形の「心配り」「もてなしの心」なども含め、日本的な生活様式においては数多の茶道に関わる文物が原型を作っているのです。茶道に関わることで生活様式を芸術の域に高めたものは多いのです。
日本中の多くの人が伝統文化を身体化した形で受け継ぎ、日本文化-生活様式全体が茶道を筆頭とする伝統文化を身体化して受け継いでいるのです。それは生活に美や潤いや精神性をもたらすもの、「心の穴」を一部なりとも埋めるものとして機能し、世阿弥や千利休から四-五百年以上を経て、「宗教」が過去のものになりつつある現代日本にまで受け継がれ続けているのです。
続いて、それが更に「伝統文化」の外に及んでいることを見て頂きます。
 

4.-2 和歌や王朝文化、芸道という限られた領域を超えて、生活と文化の様々な局面で


「二次的自然」「二次的現実-儀礼-演技的空間」「宗教的な-宗教に似たもの」は今に至る日本の生活と文化の様々な局面に見られます。
ドナルド・キーン先生は1958年に『日本人は四季を認識するばかりか、四季に応答する』と記述しました(『果てしなく美しい日本』)。冬服を夏服に替える「衣替え」の日は定まっていて暑くても寒くてもそれに従ったこと、四季にはそれぞれ独特の食物があり筍や茄子の初物はそれを待ちわびていた人々にとっては遥かに美味に感じられること、春になると花見、初夏の蛍、九月の名月、秋の紅葉狩りに最も忙しい人までも繰り出す様を、西洋人の眼で驚きと共に温かい記述で書き残してくれています。
また
「職人衆昔ばなし」(昭和42年斎藤隆介先生)の昭和の職人衆の方々の言葉を見て下さい。
 
『「庭作りは命作りだ」ということです。あらゆる木や草などの生物を生かし、石や空間などの命のないものからも命を生かして、それをまとめて、お互いの命をさらに盛んにして、何十年でも何百年でも生き続けてゆける場所を作ってやるのが庭作りだ、と私は思っています。』『「コテの先へ自分の心を入れて、コテになり切って仕事をしろ」私は、いまの養成所の生徒は別にして、二十七人の弟子を育てましたが、それらにも、いつもこの長八さんの言葉を言い聞かせて来ました。』『春の芽立ちの色、夏の緑、秋の雨音、冬の枯れ枯れと、こんな小庭にもそれぞれ自然がしぜんに生きるよう、殺さぬよう、心を配ってはあるんですが、どんなものでしょうか。』『あと、「だけど仕事の楽しみは、この腕と道具が知ってらア」としみじみ左手の小指のノミダコを眺めるんです。』
 
昭和の職人衆の、仕事の道具や石や木材などの材料を命あるもののように大事に扱い、対話するように仕事をする様が記録されています。これら、四季に応答する生き方や職人の仕事の在り方は「二次的自然」「二次的現実-儀礼-演技的空間」に該当します。職人衆の言葉には、求道的-「宗教的な-宗教に似たもの」も感じられるでしょう。
 

4.-3「自然と共同態からの放逐」を補償する営為としての「イエ」と『二次的自然-世界』

 
ここで「二次的自然」「二次的現実-儀礼-演技的空間」そして「宗教的な-宗教に似たもの」の例として、日本的な「イエ原則」の集団を挙げさせてください。1979年に出版された「文明としてのイエ社会」(村上泰亮/公文俊平/佐藤誠三郎先生)は、日本の組織原則である「イエ原則」につき歴史を遡り分析しています。P212この本で「イエ原則」と言っているものは、家族(family)ではなく大名のイエ、江戸時代大商人のイエ、戦国大名のイエ、鎌倉武士のイエなどの集団形成原則を指しています。P227これらの集団の人々は、血縁関係を持たず、しかし観念的に「父子関係」を結び疑似的に血縁関係のような一体感を持つ集団を形成しました。P236これらの組織は古くは軍事や農耕などの作業効率向上と規模の拡大のために機能的階統制を採用し、司令官-部隊長-将兵-騎兵-歩兵といった軍事組織の仕組みが開墾や灌漑などにも転用されました。
P379江戸時代に至り各大名家-藩-において発達した階統的役割構造と独自の文化、ルール(家風・家法)を持つ「大イエ」という組織の形成に至り、藩の成員は藩の「開祖」以来の伝統への追憶、一個の「イエ」に属しているという連帯感(「家中」意識)を持つようになりました。一般藩士の忠誠心は藩と藩主に向けられるようになりました。
この「大イエ」の組織原則は藩の家臣の家にも引き継がれ(「小イエ」)、家臣は藩への忠誠心と先祖の勲功の記憶と共に生きていくのですが、この「小イエ」のモデルは江戸時代中期以降、経済的に台頭してきた富裕な豪農商層に引き継がれ、イエ型組織原則は豪農商層のイエにおいて具現化し機能的洗練を見たのです。
そして江戸時代を過ぎた1930年代以降の総力戦の遂行と経済統制のシステムは、企業をイエに類比し経営者と従業員との一体化・企業一家主義-経営家族主義の全国的な発展を助けました。P467更にその後敗戦を経て、企業のイエ型組織化はむしろ純化し一段と進化しました。P477戦後、国家や血縁家族が帰属と一体化の対象とならなくなるにつれ、多くの人々はひたすらイエ型企業体-企業や企業内の組合との一体化を求め企業や組合運動に献身する「猛烈社員」「活動家」に転化していったのです。
この「イエ原則」の集団-大名のイエ・豪農商層のイエ・昭和のイエ型企業体ですが、観念的な父子関係等は「二次的現実-儀礼-演技的空間」が該当し、忠誠心・帰属と一体化の対象等には「宗教的な-宗教に似たもの」が該当します。そして観念的な父子関係は血族という人間の中の生々しい自然を組織原則としている意味で「二次的自然」を感じさせるものです。
日本文化の特徴で先祖崇拝を挙げる説があり、古代からとの説・中世以降からとの説等ありますが、「イエ原則」の集団とは、和歌や芸道と別の系統ながら、日本の自然宗教的・先祖崇拝的・集合態としての在り方を無意識になぞり補償するものと考えられるのです。
 
これら以外にも、昭和から現代に至る日本社会の至る所、例えば「心を一つに」「心を込めて」「空気を読め」などの言葉の背景に、会社や学校、部活動などの集団に、故郷の「里山」の姿に、会社での花見や社員旅行等の場に、阿部謹也先生の「世間」、中根千枝先生の「タテ社会」の議論等に、今でも「イエ原則」や「二次的自然」「二次的現実-儀礼-演技的空間」「宗教的な-宗教に似たもの」を多々見ることができるのです。
 
私たちは、万葉集や記紀以前の時代の「自然や共同態と共にあった文化」の喪失による心の欠落を埋めるような文化を千数百年の間紡いできて今もそれは続いています。
万葉集や記紀以前の古代の日本列島人は、素朴でおそらく自然宗教的な生活・文化を生きていたのでしょう。
しかし、その古代の宗教・文化は、千年以上の間に「二次的自然」「二次的現実-儀礼-演技的空間」の発展を経て、現代日本の一見わかりづらい宗教性-生活文化に繋がっています。
それは自然宗教的な感覚をベースに持ちつつ、仏教思想、禅仏教の無心、修行などの思想方法を摂取しています。江戸時代の儒学者等が説いた、個人から国家社会を束ねる社会構築の倫理を含みます。「イエ原則」の形で集団組織や企業を支え、そして「職人仕事」「集団での緻密な仕事」「勤勉さ」「心を込める」等の働く倫理や価値観は無数の人たちの生きる希望や理由となり、心の空隙を埋めるに留まらず産業社会の発展をもたらし20世紀の日本の経済成長をも支えたのです。それは『二次的自然』でありつつ、私たち日本人の生きる世界全てを覆い尽くす「儀礼-演技的空間」であり、私たちがその中で生まれ-社会を形成し-子を産み育て-死んでいく世界そのもの、自然と人事が渾融した―「二次的自然」と「二次的現実」とが渾融した「二次的自然-世界』と称すべきシステムを構築するに至ったのです。それは「自然宗教」の語から連想される素朴な宗教性とは程遠い、生活文化や倫理、美意識を兼ね備え様々な既存の宗教の智慧も併呑し経済社会のエンジンをも含む複雑高度な生活-経済-文化であり宗教性です。私たちはこのようなものを千年の間に暗黙知として練り上げてきたのです。
 
私たちは『かくれ日本教徒』と言っても良いかもしれません。祀るべき『神々や死者の霊』が何か、神々と何をコミュニケーションすべきかを見失ったまま、自分たち自身に自分たちの信仰を隠し続けつつ、『神々や死者の霊』に対する儀式や文化的行動のようなものは変容しつつも心の空隙を埋め続け、その本質を継承され続けているのです。
 
なお、「かくれ日本教」は既存の宗教の概念に入るものではなく「宗教」と見做すべきではないのかも知れません。しかし宗教であるか否かは別に、無意識的に宗教に似たある種の文化や行動の大規模な継承が起きていると考えられます。
これ以降は「宗教か否かを保留する」という意味で

【かくれ日本教】【信仰】

というように【】に入れて表記
します。
 
様々な宗教が日本列島上で栄枯盛衰を見た歴史を経て宗教が過去のものになりつつある現代、宗教か否か定かでない【隠れ日本教】はその存在感を大きく示しているのです。
 
私たちは「神の不在による根源的不安に苛まれている」のかも知れません。西洋には旧約聖書の詩句を題材に16世紀のパレストリーナ作曲のSicut cervusという声楽曲があります。
 
Sicut cervus desiderat ad fontes aquarum Ita desiderat anima mea ad te Deus
(泉の水を求める鹿のようにわが魂は神を求める。)
 
日本人には自然という神の訪れを請い求め続けている一面があるようです。古今和歌集で
 秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる
と歌い、現代の子どもは「ちいさい秋みつけた」、大人は「春よ、来い」と歌うのです。西洋人が恋人に「愛している」と囁く場面で日本人は「月が綺麗ですね」と告げるのです。
  

4.-4 なぜ【信仰】の対象が「見えなく」なったのか 【見えない信仰】が継承され続けたか


7世紀の白村江の戦で倭国は百済と共に唐と戦い大敗しました。一時は唐に占領される危険さえあった当時、倭国から日本にならんとする国にとって中国文明に認められ対抗し得る文化の樹立は重要な課題でした。
そしてそれ以前の倭国の「自然及び人間の共同態と共にある生活-自然宗教的な生活・文化」は、 中国の文明人の目には野蛮、未熟に映った(映ると倭国-日本人は思った)でしょう。自然宗教的な生活・文化は、中国文明人の目から「隠す」必要があったはずです。

倭国-日本人は、「自然及び人間の共同態と共にある生活-自然宗教的な生活・文化」の本質を残しつつ、中国文明人の目には洗練され文明的に映る文化を作る必要に迫られました。ここに、
仮初めであっても自然や人間の集合態と共にあり、「神々や死者の霊」との豊かな交感を含み、情緒的に満たされつつも「神」をあからさまに言わない文化が求められ、京の都の皇族や貴族周辺の層はそのような文化、和歌と王朝文化を創り出しました。
なお、一般の民衆はと言えば、日本では中世には堕地獄の恐怖が一般の民衆にまで広がり、死後地獄に堕ちず往生するためには仏教にすがるしかなかったことが記録されています。つまり一般の民衆も、古くからの自然宗教的な信仰を中世にはほぼ失い、それによる救いから放逐されていたのです。
 
古代から継続して様々な宗教や思想文化が中国はじめ海外から伝わり世を覆い去りました。中世を経て自然から自立した人間観も出てきます。古代の素朴で自然宗教的な文化は忘れられ無意識に抑圧されてきました。しかしそれは形を変えて、芸道や生活文化、職業倫理などのあらゆるものの中に潜み今に至り私たちは「その中で」暮らしているようなのです。
 

4.-5無意識の【信仰】【かくれ日本教】を脱し文明をアップデートする事が求められている


無意識の【信仰】に動かされている【かくれ日本教徒】であることの弊害を挙げることは容易です。私たちは、自分の意識として理由は説明できないのに、無意識に「自然や神霊や死者の霊に対するコミュニケーション」を必要と感じ行動してしまい、その結果、それは合理的な必要と乖離した行動を生み出します。具体的には「心を込めて」過剰にきれいに丁寧に掃除したり仕事を仕上げたりします。必要以上に「きちんと」作る、接客サービスが過剰、儀礼の過剰…等が考えられます。これはプラスに働くと、高品質のモノづくりやサービスに繋がります。しかし、個人が、そして集団が無意識に動かされているために、一般的には合理的な必要と実際の行動の加減が乖離する傾向が出てくるのです。
加えてこの無意識の【信仰】は「組織」「親」「カリスマ」などの既存の社会的な強者による搾取を容易にするでしょう。江戸時代の学者などの文章には「人間が働くのは幸福になる為ではなく社会的上位者への貢献を通して神仏への限りない報恩の義務に応える為である」等の教えを多々見ることができます。既存の社会的強者はこの無意識の【信仰】を利用し人々を動員してきましたし、それはこれからも同様でしょう。例えば太平洋戦争に向かう時代、兵士として闘い死ぬことが国への報恩になると信じた結果もたらされたのは無意味な大量の死・殺戮及び国そのものを滅ぼしかねない敗戦という事態でした。戦後は、人々は国ではなく企業や組織への報恩にシフトしましたが、それも多々禍根を生み今に至っています。
そもそも、この無意識の【信仰】に起因する宗教性と生活文化の融合した在り方には「昭和の時代の会社に身を捧げる生き方」「上意下達が絶対の組織」「スポーツや勉強、仕事の修行化」…など未来に引き継ぐにふさわしくないものが多々存在することは明らかです。
 
一方で、この無意識の【信仰】は、産業、社会、文化その他で数えきれない程の様々なものを生み出してきました。無数の人たちの生きる希望や理由となり、産業社会の発展に繋がり20世紀の日本の経済成長をも支えました。それは私たちの中の最も美しいものとも繋がっているのです。私たちがその中で生まれ育ち死んでいった、それはまさしく『家』であり『世界』そのものと言えるでしょう。私たちは、この『世界』そのものである【宗教性】-生活文化、日本文化という暗黙知を見据え意識化し、それを知悉した上で大規模なアップデートに取り組まねばならないタイミングにいます。
そこにおいて無意識の【信仰】を意識化-言語化し適切に扱うことは重要かつ不可欠
です。

「かくれキリシタン」のように【かくれ日本教】を千年以上続けてきた私たち。
西洋の「神殺し」に比して言うなら神を隠す【神隠し】を今に至るも続けている私たち。
そろそろ、「かくれ」は止めにして、この千年以上にわたる宗教的な-宗教に似た側面のある文明、現在はこの日本型の高度資本主義社会を動かしてもいる文明を、意識的に再構築しなければならない時期に来ているのです。
 

4.-6 既に「自然」の背丈を超えて成長してしまった私たち そして「人間の時代」へ


古代の「古事記」「日本書紀」「風土記」に記述される巨樹は神々しい存在でした。「木の語る中世」(瀬田勝哉先生)に依れば、『「朝日の影」「夕日の影」が隣国隣郡にまで及ぶ』といった表現が使われ、聖なる木を伐ったために天皇が死んだり病気になったり祟りで長雨が続くなど聖なる自然を毀損することへの祟りの信仰が厳然としてありました。
その後日本は十二世紀前後に大規模な自然開発の時代を迎えますが、日本においては祟りを受けないよう自然-神仏に作法や儀礼を尽くすなどして折り合いを付ける形で自然開発が進められました。池上良正先生の「死者の救済史」によれば、神的存在に対して仏教伝来以前からの「祟りを祀り穢れを祓う」対処法、仏教伝来以降の「供養と調伏」という対処法が行われ続け、「因果応報」の理論や「追善廻向・施餓鬼」の技法などを仏教が提供し、無念のまま死んだ自然霊を悼む文芸作品が御伽草子や能に多々現れます。
中世以降は経済社会の発展もあり神霊の側から人間側に『主導権』が移行していきます。日本人は大規模な経済開発-自然破壊を進めつつも、同時に自然を畏れ-なだめる経済社会のシステム(里山など)を構築していきました。
 
現在、私たち日本人は自然を畏れる心を依然として持っていますが、物理的には既に自然を凌駕しうる力を持ってしまっています。今でも山奥に自然は残っていますが資金と時間さえかければ私たちはどんな山奥でも快適で安全に暮らせるようになってしまったのです。本質的な意味で、私たち日本人にとって日本列島内においては既に「一次的自然は消えつつある」のです。西洋では「神は死んだ」と宣告して神を殺しましたが、日本では知らないうちに私たちは『自然-神の背丈を超えて成長してしまった』のです。
 
そのような私たちが現在、無意識に【信仰】しているとしたら、それは何でしょうか。
私たちは見えない秋の訪れも察知しますが今の私たちは微かな景気-GDPの変化にぞ「おどろかれぬる」のです。自然を畏れる気持ちを持ちつつも昭和の頃には会社の暗黙の掟を畏れ守り、「会社は永遠」と信じていた人も随分いました。私たちは無意識の中で「一次的自然」「二次的自然」「二次的現実」を共に含み渾融した『二次的自然-世界』を【信仰】しているのではないでしょうか。
  
さて萩尾望都先生の短編漫画「柳の木」は、幼い男の子を遺して死んだ母親が柳の木の精となり男の子を見守り続ける物語です。終盤以外はセリフ無しで、柳の木の精である母親の魂が男の子の人生の四季、自然の四季の循環を通して「見護る」様子が描かれています。
短いこの作品の終盤では幼かった男の子は成長し母親より背も高く妻子もある一人前の男になっています。男は柳の木-母親に見護り続けてくれたことへの感謝を告げるとともに「ぼくはもうだいじょうぶだよ」と告げます。母親-柳の木の精は涙を流して消滅し、あとには男と柳の木だけが残されます。柳の木は母親の魂という聖なる存在から、単なる自然の樹木に変わっています。男は樹に寄り添い…目を閉じ、物語は終わります。
 
この、幼子-男と柳の木の精である母親の物語は、現代の私たちと自然-「二次的自然-世界」の在るべき関係を示唆しているように思えてなりません。遠い昔、私たちは護ってくれる自然と分かたれました。千年以上、永遠とも思える間それは続きました。私たちは、私たちを見護ってくれる「かりそめの自然」を作り出しました。でも時を経て私たちの背丈は既に自然を追い越し、自然の庇護を必要としないまでに成長しました。
私たちは、分かたれた母親-自然-『かりそめの自然』と相対し、はっきりと「ありがとう」「もう私たちは大丈夫です」と告げて、精神的な神の庇護から抜け出るべきなのです。「親離れ」ならぬ「神離れ」です。
「神は死んだ」と神殺しをする必要はありません。親-神-自然に対する崇敬の気持ちは持ちつつ、独立した一個の人格-存在として相対すればいいのです。地上のことは人間に任せてください、もう神さまは手を出さないで結構です、と伝えるのです。
【かくれ日本教】を脱して、見護るだけの神を上に頂きつつ、地上のことは人間の意志のみで統治する真に「人間の時代」を築いていくことが今の日本には求められている。
「柳の木」からはそのようなメッセージを感じるのです。

【参考文献】
「古今和歌集評釈」(窪田空穂)
「古今和歌集と歌ことば表現」(小町谷照彦)
『四季の創造 日本文化と自然観の系譜』ハルオ・シラネ)
「和歌とは何か」(渡部泰明)
「愛する源氏物語」(俵万智)
「日本思想史に於ける否定の論理の発達」(池永三郎)
「連歌とは何か」(綿抜豊昭)
「中世芸能講義」(松岡心平)
「日本人の心の歴史」(唐木順三)
「日本教会史」(ジョアン・ロドリーゲス)
「南方録」(立花実山)
「茶話一会集」(井伊直弼)
「時間の比較社会学」(真木悠介)
「果てしなく美しい日本」(ドナルド・キーン)
「職人衆昔ばなし」(斎藤隆介)
「国家神道と民衆宗教」(村上重良)
「文明としてのイエ社会」(村上泰亮/公文俊平/佐藤誠三郎)
「木の語る中世」(瀬田勝哉)
「死者の救済史」(池上良正)
「柳の木」(萩尾望都)

                            以上

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