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日本的美意識・文化の継承者として「クールジャパン」を読み解く―「鬼滅の刃」「機動戦士ガンダム」「魔法少女まどか☆マギカ」「この世界の片隅に」

この記事は既にnote上に発表しました4記事
・《鬼滅の刃》と「鎮めと悲しみの心理学-日本文化」 https://onl.sc/9p9hK7h
・《機動戦士ガンダム》 妄執から無心へ https://onl.sc/rEKJh4E
・《魔法少女まどか☆マギカ》 壮大な呪鎮 https://onl.sc/BwpMzps
・《この世界の片隅に》 日本文化の『二次的自然-D世界』 https://onl.sc/yjQ7Keh
を統合し、編集を加えたものです。
 
また、この記事の論考は、先に発表しましたnoteの二つの原稿、
・Ⅰ.「宗教的な感情」から見た日本文化 美術芸道-日本的な感情・美意識・価値観 https://onl.sc/Mv2yQXW
・Ⅱ. 古典文化・芸道等に見る日本型『情報世界』-『二次的自然』と『二次的現実』 日本人の心と社会を稼働させているもの- https://onl.sc/RKGgkZk  
の考察を前提にしております。   


《はじめに》

●「クールジャパン」を代表するようなアニメやマンガのコンテンツには、よく見ると日本文化、王朝文化や能や茶道などの古典芸能の影響が多々現れているのですが、それらコンテンツに関する評論が数多ある中で日本文化の影響などに触れている評論は稀です。オタクの方々のブログなどでも、日本文化との関りなどに触れるものは珍しいと思われます。

●この記事を読めば、以下の問いにすべて、日本文化の文脈で答えられるようになります。
「鬼滅の刃」で、憎っくき鬼が死ぬ間際に主役の炭治郎は優しい言葉をかけるが、なぜ私たちはそれに感動してしまうのか?剣士や鬼の強そうな外見の底に隠された悲しみの描写に、なぜ私たちはホロリとしてしまうのか?
「機動戦士ガンダム」のアムロの闘いの日本的な特徴とは?ララァを筆頭になぜ多くの登場人物が死ななければならなかったのか?ニュータイプとは?「魔法少女まどか☆マギカ」の「まどか」が最後に成し遂げたのは何か?
「この世界の片隅に」は伝統的日本文化としてどう読み解けるのか?…。
 
●この記事は、上記のような問いに答えることを通して「クールジャパン」を読み解くための日本の伝統文化、王朝文化や能・茶道及び江戸時代の生活文化に関わる基礎知識を、私個人の分析も含め紹介したものです。
 
●クールジャパンを日本の伝統文化の文脈で理解するということは、クールジャパンのコンテンツをよりよく理解し深く感動できることに繋がります。そして私たち日本人が、なぜクールジャパンのコンテンツを好きなのかを知ることは、私たちが何を好きで、何に感動し、何を求めているかを知ることに繋がるものでもあります。素晴らしいクールジャパンのアニメやマンガをより楽しむために、この記事の知識がお役に立つことを祈っております。
 
●クールジャパンの作品は、海外、フランスなどで非常に高く評価されていると聞きます。100年ほど前、西洋にとって謎の国だった日本。岡倉天心が「茶の本」、新渡戸稲造が「武士道」等を著し日本は自己紹介をしましたが現在、海外の人たちにクールジャパンの説明をする際に、日本文化に由来する部分をわかりやすく説明することが切に求められているとも思うのです。

●そして最後にこの記事の視点が、現在そして未来の、日本のクリエイターの方々にわずかでもお役に立てればこれ以上の喜びはありません。
以上、続きます本文にお付き合いいただければ幸いです。

1.《鬼滅の刃》と「鎮めと悲しみの心理学」

2020年「鬼滅の刃」が映画、TVアニメ、漫画とも大ヒットし、現在もTVアニメーション化され人気が続いています。
大正時代の日本を舞台に、人間を喰らう鬼たちと人間を護り鬼を滅ぼす「鬼殺隊」との熾烈な闘いの物語です。日本の伝統文化や精神性を感じさせるビジュアルの作品ですが、「鬼滅の刃」のどこに・なぜ感動するかを探求していくと、日本人の美意識や感受性の特性や、それが日本の古典芸能文化に由来することが見えてきます。まず筆頭に、「鬼滅の刃」には伝統芸能の「能」にとても近いところがあるのです。

●なぜ、死ぬ間際の鬼にやさしい言葉をかけるのか
 その場面で日本人は感動するのか 

映画の『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』では「上弦の参・猗窩座(あかざ)」を筆頭に悪の権化のような鬼が登場し正義の側「鬼殺隊」と死闘を繰り広げますが、一方で全23巻に及ぶコミック版及びTVアニメ版では鬼の描かれ方に少し違う様相が見えます。
 
鬼は相変わらず悪の権化、憎々しい限りなのですが、
例えばコミック11巻では、遊郭での闘いで堕姫(だき)・ 妓夫太郎(ぎゅうたろう)という兄妹の鬼が「鬼殺隊」との死闘の末に敗れて死滅する最期の断末間で、
兄妹の鬼は互いに相手を罵り合い、呪いの言葉を吐き続けます。
この救いのない場面で、主人公の「鬼殺隊」の炭治郎は、さっきまで殺すか殺されるかの死闘を繰り広げていた相手である鬼に対して、なんといたわりある言葉をかけるのです。
鬼の兄妹が心の底では互いを求め結びついているのに、最後に交わす言葉で相手を呪いながら死滅していく、その無惨な悲しみの傍で黙っていることができなかったのです。
鬼たちは炭治郎の言葉に感謝するなどは全くなく(さすが鬼)、
二人そろって炭治郎に憎しみをむき出し悪罵しますが、それをきっかけに
「悔しいよう・・・死にたくないよォ」「梅‼」と兄妹はお互いを想い合うことばを交わしつつ死滅し憎っくき鬼たちの死滅にある種の「救い」がもたらされます。
鬼の死滅後、炭治郎は鬼の兄妹二人があの世で仲直りできたかどうかを気に掛けます。自分に向けられた罵りのことはまったく気に掛けずに。
 
また5巻では、炭治郎たちはやはり生死ぎりぎりの死闘の末に鬼を倒し、
しかし倒した鬼の死滅する間際の「抱えきれない程大きな悲しみ」を感じとった炭治郎は、さっきまで自分を殺しかけていた鬼の着ていた服に鬼の死を悼むように優しく手をかけます。炭治郎の命を救ってくれた先輩の剣士は、炭治郎が手をかけている鬼の着ていた服を踏みつけ「鬼に情けをかけるな」と炭治郎に言いますが、炭治郎は先輩に向かって「鬼の服から足をどけてください」と譲りません。
  
「鬼滅の刃」にでてくる鬼は、もとは人間でした。「鬼滅の刃」の他のエピソードでも、憎き鬼が死滅する間際に、鬼が昔、人間だった頃の無垢な子どもの面影や、悲痛・凄惨・切実な過去の生が描かれることで
憎いはずの鬼の死滅の際に私たちは深い「憐れみ」の感情を覚えてしまう
のです。
おそらく西洋のハリウッドなどの映画では無さそうなこれらのパターン。
極悪非道の鬼にいたわりの言葉をかけることに感動したり、「憐れみ」の感情を抱いたり…
なぜ私たち日本人はそんなことをしているのでしょう?
なぜ私たちはそういう箇所で深い感動-安らぎを覚えるのか。
  
   
  
能の、悲しみ『鎮め』『救い』など宗教に近い感情に関わる美意識
能を少し学ぶと、その答えが分かります。能の代表的な形式の、世阿弥が完成させたという「複式夢幻能」を見てみましょう。
「複式夢幻能」は 
 旅の僧のもとに土地の者が現れその地のはるか昔の物語を語り、
 自分が今は亡きその物語の主であることを示唆し姿を消す。
 なおも僧がその地に留まっていると、 その物語の主が昔の姿で夢現の中に現れ過去を語り踊り、 僧の供養とともに消えていく・・・ 
といった形式の物語です。
 
複式夢幻能を筆頭に能は鎮魂、呪鎮の意味合いが強い芸能です。
能舞台で役者の登退場に使われる「橋懸り」も、あの世からこの世へ渡された架け橋だと言われていたりするのです。
能には、この世に強く無念や未練、恨みの感情を抱いている亡霊や人、鬼が登場する作品が多いです。
例えば「敦盛」では非業の死を遂げた平家の若き武将である平敦盛の霊が、彼を打ち取り今は出家して彼の菩提を弔おうとしている熊谷次郎直実(今は蓮生)の前に現れます。敦盛は自分の最期や平家一門の最後の運命を振り返り蓮生に語ります。敦盛は「直実-蓮生を敵(かたき)だと思い復讐しようとしていたが、蓮生は出家し念仏を唱え自分を弔ってくれるのだから、蓮生と自分とは敵(かたき)同士ではなく、ともに極楽に生まれ変わるであろう」と告げて終わります。敦盛の怨念は鎮められたのです。
「葵上」では、源氏物語の、光源氏の愛を失った六条御息所の生霊が物の怪と化し、現在光源氏の愛を受けている葵上を責め立てますが、最後は比叡山の横川の小聖の不動明王の呪文-祈祷により調伏され六条御息所は心を和らげ成仏します。
「井筒」では、数百年も昔の紀有常の娘の亡霊の「幸福だった頃の、夫である在原業平に対する恋慕と懐旧の思い」が美しく描かれます。「ワキ」である旅の僧は、紀有常の娘の亡霊の未練の思いを聴き受け止めるのです。
 
これら以外にも惨殺された漁師の亡霊の無念を鎮める「藤戸」があり、
人間や神霊の悲痛な物語としては我が子をさらわれ狂女となった母が遠く武蔵の国隅田川で子の死を知り慟哭する『隅田川』、老残の小野小町の嘆きを描く『関寺小町』、白拍子が驕慢の罪で死後も苦しみ続ける『檜垣』、あの世の闇の中浮かばれぬ悲哀の『鵺』などがあります。
これらの悲痛な物語には、観客は「悲惨な死を遂げた人の弔いの際に感じるような悼み、救い祈るような感情」を抱くのではないでしょうか。   
このように、能には怨念・未練・悲しみを抱いた異界のものや人間が、この世で未練の思いを語ったり生者を呪ったり怨霊として暴れ、それの「鎮め」「救済」に関わる物語が多いです。
亡霊や怨霊が「鎮められ・救済され-成仏し」観客が安堵するような物語、
亡霊や人間が救われず成仏せず、観客は思わず「鎮められますように」「救われますように」と祈ってしまうような物語などが多いのです。
 
能で世阿弥などは600年の昔に、このような
・「鎮め」「救い」などの「宗教的な感動もしくは宗教的に近い感動」と
 「舞台芸術的な美」 が一つになった『深い美』
を創造しました。
能は当時の室町将軍家周辺の支配階級・上層階級を強く惹きつけました。
 
戦国時代の豊臣秀吉も能にのめり込み支援し、江戸時代には幕府により
 能は武家の式楽-正式な教養と定められました。
江戸時代には民衆の間でも 
 文化的な自己修養への新たな情熱が大波のような高まりを見せ(Ⅱ.参照)
江戸時代には民衆にも能のセリフの部分である「謡」は浸透しました。
 能の文化は江戸時代に幅広い階層に浸透し、能の『深い美』も浸透した
 
と思われます。
私たちの祖先はこの死と生-「呪い」「鎮め」「救い」の錯綜する「能」の
 『深い美』の物語を何百年も受け継ぎ、深い感動を紡ぎ続けてきました。
  
 
「鬼滅の刃」を観て、憎っくき鬼なのに死滅する間際に彼らの悲しい過去や思いのたけを観て深い「憐れみ」、「鎮め」「救い」の『深い感動』を覚えてしまう私たちは、まぎれもなく「能」を継承してきた日本文化の美意識の最後尾、最新のバトンを受け継いでいるのです。
「鬼滅の刃」を観るとき、この作品が日本文化を深く踏まえていることを知ると一層意味が感じられると思われます。

●そもそも・・・なぜ人は能のような『恐ろしい話』『悲しい話』を求めるのか

ちなみに、「恐ろしい」も「悲しい」も不快な感情のはずです。
でも人はホラー映画も悲劇のドラマも大好きな部分があります。
なんで人は不快なものをわざわざ求めるのでしょう・・・? 
以下は「Ⅰ.」(https://onl.sc/Mv2yQXW)掲載の図です。
平安時代後半から鎌倉時代を中心に、中世の日本では死後地獄に堕ちる恐怖が民衆にまで強く浸透し人々はその恐怖の中に暮らしていました。
日本人は、数百年にわたり神仏に対する「讃えます」「畏れます」「悔い改めます」「救い給え」「鎮まり給え」「滅ぼし給え」など伝える-祈る生活の中に生きていたのでした。

数百年の間、日本人は地震干ばつなど大災害に際しては神仏に『鎮まり給え』『救い給え』と一心に祈り、豊作の秋に、病の快癒の際には神仏に『感謝します、讃えます』と祈り、ときに地獄図を見て「私は神仏を畏れるものです、お救いください』と祈り続けていました。
当時の人たちにとって『祈らないことは神仏の罰が当たる-神仏に見放されるので非常に危険なこと』と思われていたと推察します。

現代にひきつけて想像すると・・・お盆の墓参りを大事に思っている人が何年もずっと行けず・・・ずっと気掛かりで・・・でも今年はやっと墓参りに行けて「なんだかホッとした」安堵の気持ちなど想像できると思いますが、
中世の時代の祈りには、上記の現代の墓参りで感じる気持ちの幾万倍も強い安堵のような気持ちがあったのではないでしょうか。
中世の時代『鎮まり給え』『救い給え』『讃えます』『畏れます』など強く祈り念じる事には心の底に深い安堵や満足感が伴ったと想像するものです。
地獄図を見ることは中世でも恐ろしい(不快な)体験でした。しかしその畏れの気持ちが強ければ強いほど、それは神仏に対して「私はこんなにも神仏を強く畏れる信仰の篤い者です」と祈り伝える機会だったでしょう。
意識の上で恐怖-不快であったとしても、心の深いところである種の深い安堵感、救われるような感覚をもたらす機会であったと思われるのです。
ちなみに仏名会などでは地獄図は有難い仏画像と共に使われたようです。
  
と言う訳で、
中世の数百年を通して人々の心、無意識の底まで
 神仏への信仰と堕地獄の恐怖が色濃く刷り込まれた 
かつ
『鎮まり給え』『救い給え』『讃えます』『畏れます』など
 強く祈り念じることで深い安堵や救済、満足感を得る『心の習慣』が
 無意識の底まで刷り込まれた

と想像するものです。 
  
その後、日本は「神仏への信仰」が絶対的でない時代に移行していきます。「Ⅰ.」で示しましたが
・中世の頃は、宗教行為として神仏などに「畏れます」「讃えます」
「鎮まり給え」・・・と祈っていたのが、
・室町時代以降は、神仏などへの祈りではない芸術表現などで
『畏れ』『讃え』『鎮め』などの深い感情を喚起する表現
が多くなっており
宗教感情ではないそのような深い感情を『D感情』、
『D感情』を喚起する芸術などの表現を『D表現』
と呼称したのでした。
ここで『鬼滅の刃』にどんな『D表現』-「宗教表現ではないが深い情緒や感動を喚起する表現」があるか見てみましょう。(「Ⅰ.」の再掲になります)

「鬼滅の刃」で見られる『讃・畏・悔・救・鎮・滅』等の感情に紐づく
神仏への祈りではないが深い感情を喚起する表現-『D表現』の例です。
 ●『畏』:『鬼滅の刃』には、例えば「遊郭編」の「堕姫」「妓夫太郎」を始め、見るも恐ろしい地獄の使いのような鬼による身も凍る所行が多々出てきます。『畏れ』の D表現です。なお遊郭編の二人の鬼はもとは人間の子どもの兄妹でしたが過酷な運命の下に生まれ育ち最後には惨殺されかける「生き地獄」を経て人間を憎悪する鬼に生まれ変わります。
●『讃』(讃え)『滅』:鬼殺隊の「柱」と言われる剣士たちは超絶的な戦闘力で鬼を『滅』ぼす、まさに戦神の如く華麗な雄姿(『讃え』のD表現)を多々見せてくれます。
●『讃』(讃え帰依):鬼殺隊当主、産屋敷耀哉は隊員から神仏のように崇敬され(『讃え』のD表現)かつ「お館様」と親のように慕われる鬼殺隊の要です。なお鬼殺隊は鬼との熾烈な闘いの中千年以上にわたり存続し続けてきました。千年の時をも繋ぐ鬼殺隊という組織、それを成り立たせる人の思いこそが「永遠」なのだ、という耀哉の言葉は「イエ組織」的です。
●『救』(「イエ」組織的):鬼殺隊を支える「柱」の剣士の一人、煉󠄁獄杏寿郎は、強大な力を持つ鬼「猗窩座」との闘いで凄絶な戦死を遂げますが、死地にありつつ最後まで退かず、鬼殺隊員、柱としての「人を鬼から護る」『救う』という責務を全うします。
●『救』:『鬼滅の刃』には痛切な「救いの無い」悲しみや涙の描写が多いです。極悪非道の鬼でさえ、かつて人間だった頃の悲痛な過去が描かれ、
読者(視聴者)はそれらの人間や鬼の死後の魂が『救われるように』祈ってしまうのです。
●『鎮』:『鬼滅の刃』では、怨みや妄執を抱えたまま死の間際に居る鬼に対して、その鬼の魂が安らかに眠るために「その怨みや妄執を鎮め給え」と祈るような気持ちになる場面がいくつもあります。鬼の怨みや妄執を恐れているのではなく、怨みや妄執を抱えたまま死滅することは、猛悪な鬼であっても痛ましいと感じてしまうからです。
能の複式夢幻能の、報われない霊や鬼の思いを聞き彼らの魂が鎮まることを祈る物語、そのような伝統を「鬼滅の刃」-主人公の炭治郎は引き継いでいるのです。

※なお「Ⅰ.」では上記『畏れ』『讃え』『鎮め』などの『D感情』以外にも 
『禅の無心』:禅僧の修行し鍛えられた身心に支えられた無心の境地、 
・『王朝-五山D表現』:五山の禅僧文化の影響を受けた王朝の美の表現文化 
 が『宗教-D感情』としてあった
のでした。(詳しくは「Ⅰ.」をご参照)
『鎮め』『救い』『讃え』(王朝-五山表現):自らの命と引き換えに猛悪な鬼を倒した「柱」の胡蝶しのぶは、やはり鬼に惨殺された姉の胡蝶カナエと共に死後の世界で爛漫たる桜吹雪の中で亡き両親に迎えられます。
儚く消え去るものこそが美しく愛しい感受性は王朝文化に紐づくものです。
『禅の無心』:人を護るために鬼と闘う道を選んだ鬼殺隊の「柱」の剣士たちは若くして常に死と隣り合わせにある故の深い諦念の中にあります。
人を護り鬼を滅することが自分たちの存在の全てであり、それ以外の全ては究極的には無であると悟っているのです。
 
「Ⅰ.」では「鬼滅の刃」の「西洋のハリウッドの映画などには無い、日本文化的な特徴」は『救い』『鎮め』『禅の無心』『王朝-五山D表現』などに
現れている、
とまとめたのでした。
  
さて、このあたりで 
●なぜ人は能のような『恐ろしい話』『悲しい話』を求めるのか 
の答えが見えてきたかに思えます。
日本では
中世の数百年を通して人々の心、無意識の底まで
『神仏への信仰と堕地獄の恐怖』が色濃く刷り込まれた 
かつ
『鎮まり給え』『救い給え』『讃えます』『畏れます』など
 強く祈り念じることで深い安堵や救済、満足感を得る『心の習慣』が
 無意識の底まで刷り込まれた

のですが、
神仏への信仰が遠い過去のものとなった現代人の心にも
 中世の時代に無意識に刷り込まれた『心の習慣』は引き継がれており
・「鬼滅の刃」を観てわきあがる『鎮め』『救い』『讃え』『畏れ』等の
 感情によって深い安堵や救済、満足感を得る『心の習慣』が続いている
のではないでしょうか。
 
「鬼滅の刃」を読んで/観て、
炭次郎と一緒に鬼に「鎮まり給え、救われ給え」としんみりするとき。
鬼殺隊の剣士が鬼と闘う雄姿を「讃え」るように気分が高揚するとき。
鬼の血も凍る所行に「畏れ」を感じるとき。・・・
私たちの無意識の底に刷り込まれた『心の習慣』により、神仏に祈っているのと似た深い安堵や救済、満足感を感じてしまうのではないか。
このようなメカニズムが働くために、私たちは不快なはずの「恐ろしい話」「悲しい話」を求めるのではないか・・・
と推察するものです。
 
ちなみに、現代の日本人で、能の「敦盛」も「葵上」も「藤戸」も知らない人は多いと思います。私たちは、どのようにして能の美意識を受け継いでいるのでしょう?
これは詳しい実証が必要なのですが
能に似た物語、異界から異形のものが現世に現れ、怨み悲しみを訴えときに暴れ、調伏されて悲しみをたたえながら消え去っていく物語
は結構たくさんあるのではないでしょうか。
たとえば
ゴジラは南の海底から突如異形のものとして現れ東京に上陸し、怨みと悲しみの混じったような雄叫びを挙げて暴れまわり、科学技術の力で退治され死滅する-死者の国に帰っていく物語です。また
ウルトラマン・ウルトラセブンは、異星-異界から異形の宇宙人が現れ、
怨みと悲しみの混じったような雄叫びを挙げて暴れまわり、
キラキラ輝くウルトラマン-ウルトラセブン(輝く仏像のようにも見える)に宇宙人は怒り悲しみをぶつけ闘い、最後はスペシウム光線のような必殺技(強力な呪法に見えなくもない)にて悲しみの声をあげつつ退治される物語
です。 
 
ゴジラやウルトラマンなどの制作者はこれらを「爽快な怪物退治の物語」としては描きませんでした。
『異界』から訪れ『正体不明の恐ろしさ』を持ち『怨み悲しみをたたえ』、人間は先ずは為す術もなく『怒りをぶちまけられることに耐え』
最後は『悲しみをたたえ異形のものはこの世から去る』
能を知らない日本人にも、このような作品を通して能に通じる美意識-『心の習慣』が受け継がれていったのかもしれないと思うものです。そして、
「鬼滅の刃」を書かれた吾峠呼世晴(ごとうげこよはる)先生、及び「鬼滅の刃」に魅入られた無数の日本人によって、この能に通じる美意識-『心の習慣』はまた新たに未来へと受け継がれた
のではないでしょうか。
 

●劇中劇-過去の記憶が挿入される手法は能に似ている

「鬼滅の刃」にはこれ以外にも「能」と似たところがあります。
「鬼滅の刃」では、鬼のみではなく鬼殺隊の剣士の過去も描かれます。
劇中劇の形式で、登場人物の過去の経験や思い出を巧みに取り入れることで物語に深みと奥行き、深い感動を持たせています。
これは、先に挙げた能の「複式夢幻能」の形式と似ているのです。

「複式夢幻能」では、旅の僧の目の前に、夢うつつの幻のように「劇中劇」で源氏物語などの王朝文化の物語、和歌の西行や平家物語などの軍記物に至るまでの幅広い物語世界を挿入することにより、あの小さな能舞台の中に広大な時間と空間の作品世界を成立させることを可能にしたのです。
能の「葵上」を観劇する人は、源氏物語のシーンをあたかも21世紀のAR-拡張現実のように脳裏に思い浮かべつつ観劇する仕立てになっているのです。「鬼滅の刃」の映画版では正義の側の鬼殺隊のメンバーの過去の思い出の情景が「夢の世界」として描かれ、それが作品世界に広大な時間と空間の広がりを与えると共に悲痛にも思える美しさを醸し出していました。
「鬼滅の刃」ではしみじみ美しい、かけがえのない肉親等との思い出の情景が描かれます。主人公の炭治郎の亡き家族との貧しくも満ち足りた暮らし。
強く優しいリーダーである煉獄の、まだ幼い子どもの頃の母との記憶。
コミック版の終盤では「鬼殺隊」の過去の伝説的な剣士縁壱(よりいち)の美しくも悲しい物語が描かれます。
ふと慄然とするのは、これら美しいかけがえのない情景の多くが既に失われた-過去のおもかげにすぎないことです。
炭治郎の、懐かしい家族との暮らしの美しい情景が描かれるのですがそれは過去の記憶に過ぎず、現実の世界の炭治郎は鬼との血みどろの戦いの渦中にいるのです。 

●「失われた美しいものを偲ぶ」-古今和歌集以来の日本文化の美の伝統

なお「鬼滅の刃」の『既に失われた美しいものの記憶を偲ぶ美』は
日本文化の伝統であり古今和歌集に遡る
ものです。
(Ⅰ.でも触れましたが)「古今和歌集評釋」(窪田空穂先生)には
『古今和歌集の中心をなしてゐるものは、春夏秋冬の歌六巻、戀の歌五巻、合せて十一巻である。この四季と戀とは・・・一つの色調に塗りつぶされてゐる。それは、未だ見ざる美しさ樂しさに憧れる心と、既に亡び去った美しさ樂しさを思ひ偲ぶ心とで、美しさ樂しさその物は没したといふ特殊なものである。… 』
とあります。たとえば古今集の和歌の 
 花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに
 垂れ籠めて 春の行くへも知らぬ間に 待ちし櫻もうつろひにけり
 三輪山を しかも隠すか 春霞 人に知られぬ 花やさくらむ 
などを見ますと、
花の色は うつりにけりな…の歌は、桜の盛りが過ぎた、失われたことと自分の容貌の衰えを重ねています。 
垂れ籠めて…の歌ですが、これは病気で臥せっていたうちに、春の行くへも知らぬ間に、待っていた桜の季節も過ぎてしまったのです。
三輪山を…の歌ですが、三輪山は桜の名所です。それを隠すか、霞よ。人に見られず桜が咲くよ、とその美を歌っています。
これらのように
『いまはこの場に無い-あるべき完全な美を想起し「嘆き、惜しむ」美意識』が古今和歌集にはあり、王朝文化の貴族たちの生活の美意識だったのです。
 
平安時代のこの美意識は後の時代にも受け継がれます。
吉田兼好「徒然草」の「失われたものを偲ぶ」美意識を見てみます。
 
吉田兼好「徒然草」
消え去るもの、儚いものだからこそ美しい
あだし野の露消ゆるときなく、鳥部山の煙立ち去らでのみ、住み果つるならひならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそいみじけれ  (徒然草七段)吉田兼好
―あだし野の草の露、鳥部山の火葬場から上がる煙がいつまでも消えずに残るとしたら、 どれほど「あはれ」の無いことだろう。
消え去ること、消え去るものこそ美しいという美意識がありました。 
 
美しきもの、華やかなもの亡き後の「面影」が真に美しい
花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。雨に向かひて月を恋ひ、垂れ籠めて春の行方知らぬも、なほあはれに情け深し。
咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見どころ多けれ。 …
程なく稀に成りて、車どものらうがはしさも済みぬれば、簾・畳も取り払ひ、目の前にさびしげになりゆくこそ、世の例も思ひ知られて、あはれなれ。大路見たるこそ、祭見たるにてはあれ (徒然草百三十七段)吉田兼好
―祇園祭が終わり人通りもまばらな寂しい大通りにこそ「あはれ」を感じたり、満月ではない月に、花がしおれた後にこそ趣を感じる、といった美的文化を育んできました。
 
続いて松尾芭蕉の「おくのほそ道」を見てみましょう。

「おくのほそ道」: 美しい情景を「偲ぶ」ことで
 幾重にも重なる夢幻の美を醸し出す

「おくのほそ道」は、読む人が日本や中国の古典を思い浮かべて「偲ぶ」ことで、より深くあはれを感じ鑑賞できる重層的な構造になっています。
冒頭の李白を踏まえた「百代の過客」を筆頭に、中国の古典-陶淵明や詩経等の様々な漢詩集、論語、荘子に孟子の語句、日本書紀、万葉集から古今和歌集や和漢朗詠集、西行はじめ諸々の和歌の歌集、徒然草や源氏物語に太平記、殺生石などの謡曲、そして様々な古典や歴史の故事、仏道の知識などが幾重にも重なって見える構成になっています。和歌の「歌枕」だけでも四十以上挙げられているのです。
「おくのほそ道」本文を読む際には、心の中で「白紙をふさぐように」
李白の・西行の・杜甫の・和漢朗詠集の様々な情景を思い浮かべ、それらと二重三重写しで重ねて作品世界に遊ぶことが期待されている
のです。
「おくのほそ道」には哲学的な思索、仏教的な諦念、個人的な感傷的・情緒的記述、過去の歴史的遺構に触れての深いあはれの感情、自然の夢幻、人の世の儚さを人との出会いの中に見るなど、高きから身辺に至る様々な事象が短い中に納められ、様々な古典の引用や暗喩が舞台回しに効果的に使われているのです。

「おくのほそ道」にみる古典芸能の引用
「殺生石」:「清水流るるの柳」…西行の「道の辺に清水流るる柳陰しばしとてこそ立ちどまりつれ」(新古今和歌集)
「平泉」:杜甫「国破れて山河在り」を引用した流れで「夏草や兵どもが夢の跡」と詠み
「市振」:「白波の寄する汀に身をはふらかし」は和漢朗詠集「白波の寄する渚によをすぐす海人の子なれば宿も定めず」を踏まえています。
また芭蕉は遊女一行と宿を共にし「一つ家に遊女も寝たり萩と月」と
詠みますが、これは撰集抄の西行と遊女の故事に倣ったものです。
 
このように
「鬼滅の刃」の『既に失われた美しいものの記憶を偲ぶ美』は
古今和歌集-王朝文化-「徒然草」-「おくのほそ道」など
日本文化に綿々と受け継がれた美を継承するもの
なのですが、
この
『既に失われた美しいものの記憶を偲ぶ美』は、現代で言えば
今は亡き人を弔う、亡き人の面影を偲ぶ際の心の動きに「似ている」
と思われる
のです。
「Ⅰ.」で申し上げましたが、この
『既に失われた美しいものの記憶を偲ぶ美』を感じるとき、
無意識のうちに神仏などに対する宗教感情が動いている
と思われます。  

  
●『隠された悲しみ』がつなぐ関係性
「鬼滅の刃」・芥川龍之介の短編『手巾』・九鬼周造の『いき』

「鬼滅の刃」の主人公、「鬼殺隊」の炭治郎は鬼を滅ぼす立場ながら、
見るも恐ろしい鬼の中の『隠された悲しみ』を敏感に察知します。
二巻では猛悪な鬼を倒して亡ぶ断末間、鬼の「悲しい匂い」を察知し悲しみ「神さま どうか この人が今度生まれてくる時は鬼になんてなりませんように」と祈ります。三巻でも、滅ぶ間際の鬼が微かに漏らした幼子のような「まり(毬)・・・」という呟きを察知し死滅した鬼に毬を手向けます。
四巻では鬼が「死ねば解放される-楽になれる」と願っているのを察知し
苦しみの少ない剣技で止めを刺します。五巻で、鬼の死滅する間際の
「抱えきれない程大きな悲しみ」を感じ取り鬼の着ていた服にやさしく手をかけたことは先にも記しました。
物語の中の炭次郎の視座を通して、「鬼滅の刃」を読む-観る人は次第に
『鬼の中の隠された悲しみを察知し悼む視座』を学習し、
「一見猛悪な鬼の隠された悲しみにほろりとする」人になってしまいます。 
 

『悲しみを外の者には隠し-
 しかしその悲しみを察知したときに外の者は深く感動してしまう・・・』
日本文化のこのようなパターン
を他にも見てみましょう。
 
・芥川龍之介の短編「手巾」
芥川龍之介の短編「手巾」には、自分の子どもを病気で喪った悲しみをまったく外面には現わさず微笑みさえ浮かべ完全な平静を保っている母親が登場しますが、短編の主人公の大学教授はその母親の手がテーブルの下で激しく震えており膝の上の手巾(ハンカチ)を堅く握っているのに気が付きます。『婦人は、顔でこそ笑つてゐたが、実はさつきから、全身で泣いてゐたのである。』と、教授は強い感動を感じるのです。(短編「手巾」の最後には皮肉な展開が控えているのですがここではそれには触れません。)
・九鬼周造の「『いき』の構造」
九鬼周造は『いき』の三つの表象として
・異性に対する「媚態」―「なまめかしさ・つやっぽさ・色気」
・「意気地」―「江戸の意気張り・辰巳の侠骨」など
・「諦め」―『魂を打込んだ真心が幾度か無惨に裏切られ悩みを嘗めて鍛えられた心がいつわりやすい目的に目をくれなくなる境地』を挙げています。『婀娜っぽい、かろらかな微笑の裏に、真摯な熱い涙のほのかな痕跡を見詰めたときに、はじめて「いき」の真相を把握』し得るのです。
「手巾」も九鬼周造の『いき』も
「悲しみを外の者には隠し-しかし
 その悲しみを察知したときに外の者は深く感動してしまう」文化
の現われでしょう。
日本文化には
「悲しみを外部に隠せ」 かつ
「外部の者は、秘められた内面-隠された悲しみを察知せよ」
と告げているところがある
のです。

さてこの
『見えないように隠しながら、周囲の人はその隠された内面を喝破せよ』
という、ややこしいめんどくさいコミュニケーション。
いつから日本文化はこんなことをやっているのでしょう? 
  
●能:外的な表現を抑える/隠すことで却って深い感動を表現
ここで「Ⅱ.https://onl.sc/RKGgkZk」などでも見て頂いた能の表現手法を見ていただきます。
世阿弥が円熟期に記した「花鏡」には、外的な表現を抑える/隠すことで、
却って深い感動を観客に与えられる境地が記述されていました。
  
【動十分心 動七分身】には、師の教える動きをよく極めその上で動きを抑える。年老いて若さが失われる中、内心の緊張を上げつつ、身体的な動きは抑制し、面白味となり観客に伝わる境地がある、と記述されています。また
【万能綰一心事】には、何もせずじっとしている隙(ところ)が何とも言えずおもしろい、そのような境地がある。能役者の内心の緊張が保たれ、油断無く心を繋がれることで、それが外に匂いておもしろい。その内心も「無心の位」にて演じる自分にも隠すように繋ぐべしと、という記述があります。
 
世阿弥の時代、能の観客であった当時の知識階層においては古典注釈や和歌の学による古典文学に対する関心と理解が相当高い水準に達していました。また能という芸道は数十年にわたり将軍周辺の支配層の厳しい審美眼に鍛えられ続け、能の表現も「単なる身体の動きの華麗さや優雅さの競争」を超えある種の芸の極限にまで達していたのかも知れません。
ともあれ
世阿弥は「外的な表現を抑える/隠すことで却って深い感動を表現するという美の手法」を編み出し、それは当時の厳しい審美観をもつ将軍周辺層に
受け入れられ、当時の最高の芸術表現である能の奥義の美となったのです。
なお「Ⅰ.」に詳しく述べましたが、
・この能の最高の感動-おもしろき境地が現れるには能を演ずる側も観客も
 この奥義の美・感動が現れるのを祈り待つことが必要で、
・この奥義の美が現れた瞬間には一同、深く心が動きます。

これは
『神意を伺う宗教儀式において神意が降りてくるのを祈り待ち‐予期し、
神意が降りた瞬間に心が動く-驚くこと』といった宗教的営為に似ており、

 
能の『外的な表現を抑える/隠すことで却って深い感動が現れる』深層には、無意識のこの宗教的営為に似たものが動いているのではないか、
と推察するものです。

これらより、
日本文化の『悲しみを外の者には隠し-しかしその悲しみを察知したときに外の者は深く感動してしまう』という美意識の深層には、
先述の
・ 『鎮まり給え』『救い給え』『讃えます』『畏れます』など強く祈り
 念じることで深い安堵や救済、満足感を得る『心の習慣』に近いものが
 無意識のうちに動いているのではないかと推察するものです。

●『隠された悲しみ』を喝破するリーダーシップ 「鬼滅の刃」

さて「鬼滅の刃」の主人公の炭次郎は猛悪な鬼の隠された悲しみを察知するのですが、「鬼滅の刃」に出てくる「鬼殺隊」の当主-リーダーの産屋敷耀哉(うぶやしきかがや)は優れた統率力に加え隊員の隠された悲しみを深く察知する人物であり鬼殺隊の隊士から見ると「いつもその時人が欲しくてやまない言葉をかけてくださる人」として造形されています。
 
例えば、鬼殺隊の戦力の柱の一人である宇髄天元(うずいてんげん)は強気で威勢の良い普段は全く弱みを見せない漢(おとこ)なのですが、物語が進む中で天元の苦しい過去-忍びの家系に生まれ多くの人を殺めてきた過去を背負っており、自分たちは陽の下を歩けない許されない存在、死を賭して闘い償いをしなければならない存在だと思っていることが物語の中で明らかになります。
産屋敷はそのような天元たちに「様々な矛盾や葛藤を抱えながら君は、君たちはそれでも前を向き人の命を守るためにたたかってくれるんだね」「ありがとう 君は素晴らしい子だ」と告げます。その言葉は天元たちに救済をもたらし、天元たちの闘う力-生きる力に繋がっているのです。
また、やはり戦力の柱の一人である甘露寺蜜璃(かんろじみつり)は筋力が異常に強い特殊体質で食事も相撲取り三人分より多く食べる女子で、お見合いでは「君と結婚できるのは熊か猪か馬」と断られるなど、若い女性として存在を全否定されてきました。コミカルに描かれてはいますが、蜜璃は普通の社会では居場所の無い人間です。
産屋敷は蜜璃とのおそらく初対面で蜜璃の悲しみ-絶望を見抜き「君は素晴らしい子だ」と言い切ります。蜜璃は生まれて初めて自分の存在と悲しみを理解し全肯定してくれる人、本当の自分そのままで生きていける場所を産屋敷の鬼殺隊のもとに見つけ、それは蜜璃から限界を超える力を引き出します。
 
物語が進むにつれ、強大な戦闘力を持つ鬼殺隊の「柱」のメンバーのほぼ全員が深い悲しみ-絶望を抱えていることが明らかにされていくのですが、
産屋敷の『隠された悲しみを深く察知する能力』及びその結果としての
『いつもその時人が欲しくてやまない言葉をかけてくださる能力』が鬼殺隊の組織を、一人ひとりの心を支えていることが描かれています。
 
『隠された悲しみを察知し受け止めるリーダーシップ』。
西洋のバトル系の物語にはあまり登場し無さそうなリーダーシップの在り方
に思えます。

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●《鬼滅の刃》と「鎮めと悲しみの心理学-日本文化」

以上、「鬼滅の刃」の中の日本古典芸能文化の影響を見ていただきました。
炭治郎が死ぬ間際の鬼にやさしい言葉をかけることの背景に能の呪鎮の文化と、その根底にある宗教に近いものを見ました。
「鬼滅の刃」の『既に失われた美しいものの記憶を偲ぶ美』は古今和歌集に遡り受け継がれてきた日本文化の伝統であることを見ました。
鬼の、そして鬼殺隊の剣士たちの隠された悲しみの美は『悲しみを外の者には隠し- しかしその悲しみを察知したときに外の者は深く感動してしまう』伝統に連なることを見ましたし、
その延長上に、鬼の隠された悲しみを察知する炭次郎という主役の在り方、鬼殺隊の剣士たちの悲しみを察知し寄り添う産屋敷というリーダーの在り方があることを見ました。
 
私たち-一般の日本人は「鬼滅の刃」にいたく感動してしまったこともあり
この作品は大ヒットしました。
現在、ビジネスや教育や心理学ほかあらゆる領域で、西洋由来のポジティブで合理的で明快な人間観・社会観の理論や実践の導入が盛んですが、
日本人の心には江戸時代までの日本人が培った、言わば「鎮めと悲しみの心理学」があり、それは今でも私たちの心を強く揺り動かしています。
日本人の伝統文化やそれに紐づいた美意識-倫理は、日常生活の中ではみえづらくなっていますが、今でもそれらの文化は深いところで私たちの心を動かしているようです。
 
引き続き、他の作品でそれらを観ていただきます。

2.《機動戦士ガンダム》 妄執から無心へ

「機動戦士ガンダム」は1979-80年にかけてテレビ放送されその後大ヒットし今も多くのファンを有する、以後の日本のアニメーションに多大な影響を与えたジャパニメーションの金字塔です。この「機動戦士ガンダム」に現れた日本文化や芸能文化の痕跡を見てみましょう。
 
人類が宇宙に進出を始めて半世紀、宇宙移民者との戦争が勃発し、開戦後一か月余りの間に人類総人口の半分が失われたところから物語は始まります。
主人公アムロ、十代の民間人の少年は数奇な運命のもと地球連邦軍のモビルスーツ(人型の戦闘機械)ガンダムのパイロットとなり、年若い仲間たちと
民間人ばかりの戦艦ホワイトベースを守る役割で戦争に巻き込まれます。 

●ガンダムの戦闘シーンと能・武道

ガンダムの物語の魅力の一つは主人公アムロの駆るガンダムの戦闘シーンです。十か月にわたるテレビ放送で、最初はガンダムのマシンとしての高性能から敵方のジオン公国側に「化け物」と驚愕されますが、中後半にかけてアムロの操縦能力、後述のニュータイプ能力の開花に伴い、アムロ-ガンダムは真に「化け物」じみた戦闘能力を発揮し始め、敵方のジオン公国から「連邦の白い悪魔」と恐怖される存在に成長するに至ります。
 
「武道書・能の奥義」を彷彿とさせる闘い方
物語中盤の「迫撃!トリプル・ドム」の回ではジオン公国の「黒い三連星」と言われる歴戦の三人の勇士が、最新のモビルスーツでガンダムと修理中のホワイトベースに襲来します。一対三の絶体絶命の危機に、アムロはあたかも沢庵和尚による武道書「不動智神妙録」のような戦い方で切り抜けます。

『譬へば十人して一太刀づゝ我へ太刀を入るとも、一太刀を受流して、跡に心を止めず、跡を捨て跡を拾ひ候はゞ、十人ながら働を欠かさぬにて候。十人十度心は働けども、一人にも心を止めずば、次第に取合ひて働は欠け申間敷候。若し又一人の前に心が止り候はゞ、一人の打太刀をば受流すべけれども、二人めの時は、手前の働抜け可申候。』

多数の敵が斬りかかってきても一太刀ずつ受け流して心を止めず向き合う、十人に十度心が反応しても個別の一人に心を止めることが無ければ、「働き」が失われることはない。もし一人に心を止めるなら、その一人の太刀は受け流せるが次の二人目のときは「働き」が抜けてしまうのです。

アムロは「不動智神妙録」の「心を止めない」無心の境地にも似た動きで
辛くも敵を退ける
のです。

物語の後半で、宇宙空間に出てからの十数機の敵機との闘いの際には、アムロは見えないはずの背後の敵の動きを見たり先を読む知覚をもってこれを殲滅しますが、あたかも能の世阿弥の「花鏡」の「離見の見」のようです。
「舞に、目前心後といふ事あり。『目を前に見て、心を後ろに置け』となり。これは、以前申しつる舞智風体の用心なり。見所より見る所の風姿は、我が離見なり。しかれば、我が眼の見る所は、我見なり。離見の見にはあらず。離見の見にて見る所は、すなはち見所同心の見なり。その時は、我が姿を見得するなり。・・・・・・」
見所(観客席)からわが姿を見るようにする、さらには肉眼では見られないところまで見極めよ、という教えがこの引用箇所と続きに記されています。
「離見の見」は、単に「どの角度から観られても大丈夫なように演じよ」という意味だという説もあります。また世阿弥の芸論の中でも長年の間に「離見の見」のニュアンスが変化していたりもするのですが、
現代の「能」の舞台を観ても、指揮者もいない・アイコンタクトも無しに正面を向いたままで演者、謡(合唱)、囃子(楽器)がぴたりと揃う様を見ることができます。
能には五感を超えるほどに感覚を研ぎ澄ますような一面があります。
ガンダムのこのシーンはそのような能力のメタファーにも見える
のです。

芸道の場の文化-「Dフィールド」とニュータイプ
物語の終盤、
アムロは運命的に出逢った敵機のパイロットの少女ララァと
宇宙空間を隔ててテレパシーのように意識を通わせます。
機動戦士ガンダムの世界観には「宇宙に進出し、認識能力の拡大を果たした人類はニュータイプとして覚醒する」「より深い悲しみを通し深い洞察力を得て、人はより人と分かりあえるようになる」などの「ニュータイプ論」が根底に存在しています。
皮肉なことに、テレパシーのような能力を持つニュータイプは熾烈な戦争の中では殺し合うための道具として駆使され、連邦軍のアムロ、ジオン公国のララァ、二人のニュータイプは戦場で敵同士としてめぐりあいます。
 
ララァ:「なぜ、なぜなの?なぜあなたはこうも戦えるの?あなたには守るべき人も守るべきものもないというのに」
アムロ:「守るべきものがない?」
ララァ:「私には見える。あなたの中には家族もふるさともないというのに」
アムロ:「だ、だから、どうだって言うんだ!?」
《機動戦士ガンダム 第41話「光る宇宙」より抜粋》
 
アムロとララァは実はこの前に偶然二回会っていますが、まともな会話はこれが初めてです。
「鬼滅の刃」の炭次郎が鬼の隠された悲しみを察知し、鬼殺隊のリーダーの産屋敷が鬼殺隊の剣士たちの隠された悲しみを察知したように、
ニュータイプのララァは即座にアムロの深い悲しみ、絶望を見抜きます。
 
殆ど初対面の二人は、今相手を殺さないと自分の大切な人や仲間が殺されるという極限状態で、人が生きる理由、闘う理由について、宇宙空間の中にありつつ直接的に意思を通わせ本質的な対話を交わし始めます。


(Ⅱ.でも述べましたが)
日本の芸道や武道、伝統文化には「以心伝心」的な伝統があります。
物理的に言葉を交わさずとも心が通じ合う、阿吽の呼吸などとも通じるものです。日本の文化には 世紀の応仁の乱付近に大きな画期/断絶があり、現代に至る日本文化の中核が応仁の乱-戦国時代-江戸時代に用意されたという説がありますが、その時期の主要な芸道である連歌・能・茶道には「以心伝心」的な要素が強く存在しているのです。
日本の異様に緊迫した『場』の文化と言えるかも知れません。これを「Ⅱ.」では芸道のDeepな、深い場-「Dフィールド」と呼称したのでした。
 
先ほども触れましたが、能の舞台では役者も囃子(楽器)も謡(声楽のようなパート)も、更に観客までも高い緊張感の中に一体化している場を、今でも能を観劇すれば体験することができます。能自体が、鬼神・霊が異界から降りてきてそれを迎え、また異界に還っていただく、そのような側面もある霊的な緊張感の高い芸能です。
茶道は、千利休の時代には二畳にまで縮小された場の中で、亭主と客の対峙する、一時の、しかし厳しい研ぎ澄まされた場でした。非常に濃密に人も周囲の空気までも感応しあっているような場。そのような静謐の中にも濃密な場の文化を現しています。
そして今は殆ど行われていない連歌は室町・戦国時代には時代の文芸の中心にあり能や茶道他、その後の日本の文化全般に濃厚な影響を残しています。
連歌とは和歌のような形式の歌をどんどんつなげ、時に夜を徹して、上方の図にあるような人数で異様な盛り上がりに導かれ、場の空気、他のメンバーの句の流れを敏感に察知し、集団の一体感を涵養する芸能です。武家や公家、民衆の間でも流行しました。具家や公家の正式な文芸の位置づけも得たのです。連歌とは戦勝祈願など、マジカルな異様な盛り上がりを持つこともあった場だったのです。
このような日本的な場を「Dフィールド」と名付けたのでした。
 
言葉を介さないで、集団が以心伝心で行動する日本人の不思議。
昭和の時代によくありましたが、大人数の宴席で最後に一本締めで締める際に、酔っていてもタイミングを外す人は滅多にいませんでした。お祭りの山車は大人数で背負っているのに、即座に方向転換などして機敏に動きます。外国の方から見ると異様に見えるこの集団の一体感に似たものが芸道の中に現れているのです。
この不思議な以心伝心、心を瞬間で通じ合わせる文化の訓練を日本人はずっと続けてきたところがあります。
ガンダムの「ニュータイプ」の能力はこれの暗喩
にも思われます。

 
「機動戦士ガンダム」の解説に戻ります。
激しい戦闘の中アムロの攻撃から味方を守ろうと庇いララァは戦死します。
ララァの死の瞬間、ララァとアムロの二人は意識の完全な融合を経験し人の未来を垣間見ます。人類は時間さえ超えることができる、時間(とき)が見える。ニュータイプの究極の姿を現した二人ですが、ララァは巨大な爆発を残し消え去り、アムロは一人虚空に-宇宙空間に取り残されるのです。
 

●儚く消える女性の美

ララァはなぜ死ななければならなかったのでしょうか。
ララァが散るシーンに、なぜ私たちは涙するのでしょうか。
日本の伝統的な昔話を見るとその理由が見えてきます。
 
河合隼雄先生の「昔話と日本人の心」を参照しつつ、日本人の昔話について見てみましょう。
河合先生によれば、西洋のユング心理学の昔話の分類や理論が、日本の昔話にはまったく通用しないのです。西洋の昔話で一般にあてはまる事項として
・「英雄の誕生・怪物退治・宝物や女性の獲得」
 の主題により多くの物語は構成されている
・「魔法にかけられた状態」からの救済を経て、
 求婚-結婚に至り幸福に至る物語が多い
・描かれる結婚には高い象徴性がある
(主人公の求婚相手が王族・怪物である など)
・結婚成就に多くの困難が生じる などの特徴
があり、
ユング心理学では
「昔話は人間の意識の発達過程-無意識から自立しての人格化への過程」
と見ているのですが、
日本の昔話にはこのフレームがほとんどあてはまらないのです。
 
日本で民間に伝承されている多数の昔話に見られる傾向として
河合先生が挙げているのは
・結婚で終わる物語が少ない
・幸福な結婚譚が少ない
・結婚に高い象徴性が込められていない
・英雄 怪物 宝物、女性の獲得・・・等の主題の物語が少ない

などの特徴です。このようなないない尽くしの日本の物語-昔話には、
西洋のユング派の昔話の分析理論がまったく通用しないのです。
 
日本にも桃太郎・一寸法師・金太郎など戦いで勝利を得たり女性を獲得したりの昔話はありますが、河合先生によればそれは主要なグループではありません。
河合先生が日本の昔話の特徴をよく備えているものとして挙げている
「うぐいすの里」の物語を見ると
《「うぐいすの里」(岩手県遠野地方)》
・若い樵夫(きこり)が森の中で立派な館を見つけそこで美しい女性に会う
・女は「座敷を覗くな」と言い残し外出するが樵夫は座敷に侵入してしまう
・樵夫-男は素晴らしい数々の調度品を見た後、
 七番目の座敷で三つの卵を誤って落とし割ってしまう。
・そこに帰ってきた女はうらめしいと泣き鶯(うぐいす)となって消え去る
・ふと気がつくと樵夫-男は何もかも消え去った野原に残され物語は終わる

「異界」から来た女と束の間時を共にするが、男が禁制を破った結果
女は去り、悲しみあはれの美のみが余韻に残る物語です。
 
西洋の研究者にとっては「魔法からの救済と求婚の成功」もなく「英雄も怪物退治」も無い日本の昔話の多くは分析の手掛りも掴みようがなく、西洋の昔話分析の方法論では歯が立たない…のですが、
先に「鬼滅の刃」の箇所で「能」は弔いの芸能であること、そして王朝文化以来の「今は失われたもの、悲しさに美を見て偲ぶ-思ふ美的文化」があったことを見て頂きました。
日本の昔話を読み聞きしている親子は「儚く消える女性の美」を感じ
「偲び弔っている」
のではないでしょうか。
 
このような日本文化の美の伝統に則りアムロとララァは結ばれることなく、
女性のララァは儚さと悲しみを残して消えるのです。
鶯が悲しみを湛え消えたように。
アムロは虚空に一人残されざるを得ない運命(さだめ)だったのです。
男が何もかも消え去った野原に一人残されたように。

今これを読んで、昔観た「機動戦士ガンダム」のララァの死を思い出している人は、ララァを偲び弔っているのです。
芭蕉が「おくのほそ道」で西行や杜甫を偲んでいるように。

●外から襲い掛かる「怨念」と内なる「妄執」

さて、先の「鬼滅の刃」には、そして日本文化には鎮まりたまえ、救いたまえ・・・『鎮め』『救い』を表現し続けてきた流れがありました。
『鎮め』『救い』が表現される前提として、鎮められるべき怨念や憎しみが在ると思われます。以下、「怨念と憎しみから鎮めへ」の観点で「機動戦士ガンダム」を見てみましょう。
 
機動戦士ガンダムは全43話ありますが、
・宇宙空間での闘い 1-5話 で始まり
・地球上での闘い 6-30話 を経て、再び
・宇宙空間での闘い31-43話 にて終了となっています。
 
第6話で地球に降りた戦艦ホワイトベース-ガンダム。戦争とは国同士の闘いであり単なる一部隊が敵軍に執拗に狙われる理由など本来は無いのですが、連邦軍の最新鋭戦艦ということもありホワイトベースーガンダムは様々な『怨念』『妄執』に囚われた敵を次々と呼び寄せてしまいます。
 
発端は敵方のジオン公国の独裁者の家系ザビ家の末弟ガルマ・ザビです。
ホワイトベースが策略にはまり降下させられたジオン公国の支配する北米方面の司令官で、ホワイトベース-ガンダムを相手に戦果を挙げようとしたところが幾度も失敗し、焦りもあり味方の裏切りもあり、遂にはホワイトベース-ガンダムに撃破され戦死するに至ります。

戦死する直前、死を覚悟したガルマは、修羅と化し自分の乗る半壊した空母を駆りホワイトベースに特攻をかけます。ガルマの怨念の込められた決死の攻撃を辛くも退け、ホワイトベースは間一髪、夜明けの空に上昇し死地をくぐり抜けます。
ホワイトベースはただ生き延びたかっただけなのですが、ジオン公国では死んだガルマを戦神のように祀り上げ、「地球連邦を許してはならない」とガルマの戦死を戦意高揚の道具にします。
 
死んだガルマの恋人だったイセリナは復讐心に燃えジオン公国軍の攻撃に参画しホワイトベースを不時着させるに至り、「ガンダム」の機外に出たアムロに銃口を向け「ガルマ様の仇!」と叫んだところで力尽き絶命します。
アムロは「僕が仇……?」と呆然・・・絶句します。
  
敵方のジオン公国のランバ・ラルの小さな部隊は「ガルマの仇討ち部隊」として派遣され、執拗にホワイトベース隊を攻撃します。当初は「この作戦はザビ家の個人的な恨みから出たものに過ぎない」と単なる仕事として受けていたはずなのに、戦闘を重ねる中でランバ・ラルが無念の死を遂げるに至り
ラルの恋人のハモンは復讐の鬼と化し、遂にはホワイトベース-ガンダムを絶体絶命の土壇場に追い詰めます。
ハモンとアムロは偶然会ったことがあり、ハモンはアムロを「気に入って」いました。ガンダムを捨て身の特攻で絶体絶命の窮地に追い込み、
最後に「ほんと、好きだったよ…ぼうや」とアムロ-ガンダムに
止めを刺そうとハモンは死神のように微笑むのです・・・。
 
続いてはジオン公国の歴戦の勇士「黒い三連星」が、連邦軍の最新鋭戦艦でありガルマの仇、更に「ニュータイプ」の噂もあるホワイトベース隊を討ち手柄にしようと、三機で襲い掛かります。アムロは(先述のように)神業とも思える操縦能力を駆使し大きな犠牲を払いつつ一機を撃墜しこれを退け、次の闘いで「仲間の仇・・・」と復讐に燃える残りの二機も撃滅します。
 
ジオン公国の若い英雄シャア・アズナブルは「自分の戦士としてのプライドを傷付けられた」という理由もあり執拗にガンダムを狙い続けます。
 
ホワイトベース-ガンダムは、心ならずも仇とされ、あるいは強敵につけ狙われ続けます。『怨念』『妄執』を向け続けられるのですが、
恨みや怨念をもってそれに応えることはありませんでした。
地球上における闘いの間、ただ生き延びたいホワイトベース隊は
次々に迫りくる怨念や妄執の敵を相手に拒まず(拒むことができず)
正面から闘い続け、大きな犠牲を払いつつも生き延びます。

 
戦艦ホワイトベースのクルー(乗艦メンバー)やアムロは
敵を恨むことはなく、闘いに気分を高揚させることもありません。ホワイトベースの艦橋で敵軍を撃破したときに明るい歓声が上がることは皆無です。
歓声が上がるのは、自分たちの仲間の生存が確認された時だけなのです。
ガンダムにでてくる主要な登場人物は感情表現面で非常に抑制的です。
恨むことも高揚することもなく、ただ、ただ「悲しみ」が彼らの裡に降り積もっていきます。
敵味方を問わず死者を沈痛に悼むシーンも多いです。
アムロは戦闘を重ねる中で戦闘能力を異常に発達させていきますが、
多くの場合それは仲間の死や悲痛な体験と引き換えです。
機動戦士ガンダムの世界に神は存在しませんが、
あたかも多くの生贄を求める貪欲な神がいるかのごとくです。
 

●内なる妄執を越えて:悲しみの共同体

物語の中盤で戦艦ホワイトベースのクルーの中心メンバーの一人、リュウ・ホセイが戦死します。 先ほどのハモンの捨て身の特攻を、リュウは一身を犠牲にして退けたのです。
物語の前半では戦艦ホワイトベースのクルーの間に不和や軋轢が噴出していました。アムロは命令違反を犯し、更に無断でガンダムと共に脱走します。
憎まれ口ばかりたたくメンバーがおり、自分の都合で勝手にガンダムを操縦し隊を危機に陥れたメンバーがおり、艦長のブライトはアムロなどクルーの気持ちをわかろうともしません。 その中で、全員の気持ちを汲み-察知し、心を繋ごうとしていたのはリュウだけでした。
リュウの死に、クルー全員が慟哭します。テレビ版では、一人一人が「自分のせいだ」と自分を責め、艦長のブライトは、クルー全員の前で初めて涙を見せます。 
 
リュウの死後、ホワイトベースのクルーは不思議にぶつからなくなり、一つのチームとして機能するようになっていきます。クルー一人一人の気持ちを、悲しみをわかってくれて調整しようとしてくれるリュウは既にいません。何が起ったのでしょうか。
リュウの死は、クルー全員に悲しみと絶望をもたらしました。全員がそれを同じ場で、リュウが戦死した戦場で共有しました。全員が、他のメンバーの中に「リュウを喪った悲しみと絶望」があることを見ました。
自分の中の「リュウを喪った悲しみと絶望」を、他のクルー全員がわかっていることを知り-察知し、悲しみの共同体が形成されたのです。
日本の伝統的な村落共同体で、死んだ祖先の霊に対する感謝と弔いの気持ちが共同体を一つにしているように、リュウの死はホワイトベースをして一つの共同体に生まれ変わらせたのです。
 
外から襲い掛かる妄執の敵と自分たちの部隊の内部の葛藤=「内なる敵」をともに退け、ホワイトベース隊は再び宇宙に上がります。
映画版の第二部のラストは、地球上での闘いを経て、新たな闘いに向け宇宙(そら)に飛翔する戦艦ホワイトベースが美しく描かれています。
 

●儚く消え去る日本的美

機動戦士ガンダムの世界には「口づけをしたり親密・切実な心の通い合いを示したりすると死んでしまう」法則があります。
ガルマ・ザビとイセリナ・エッシェンバッハ。ランバ・ラルとハモン。ミハル・ラトキエとその弟妹。ドズル・ザビ。スレッガー・ロウなどです。
ミハル・ラトキエなどは姉妹弟でほおずりしただけなのにすぐ戦死してしまいました。
 
「しみじみ良いことを言ったり心意気を示したりすると死んでしまう」
法則もあります。
マチルダ・アジャン「補給部隊に入ったのは、戦争という巨大な破壊の中でものを作っていけるから」
 
先に「鬼滅の刃」の解説の箇所で、日本文化の美について説明しました。
「儚く消えるものこそ美しい」のが日本文化の美意識だったのですが、
ここで「美しいものが嫌いな人がいるのかしら(「ララァ」のセリフ)」
という問題意識が加わると
「美しいもの=儚く消えるものを見たい」ことになります。

儚く消える美を求める日本文化の心は、男女の愛という花、人としての心意気という桜をパッと咲かせ、それを潔く散らせて涙を流したいという美の表現に結実します。
かくしてリア充の人、意識の高い人は生き延びられないのがガンダムの世界なのです。

●妄執から無心へ

機動戦士ガンダムの物語では、主人公のアムロは前半部分では「自分がガンダムを一番うまく使える」と自負と焦燥、自己主張が激しかったのですが、戦士としての練度を高め物語の終盤に向かうに従い、アムロは淡々と
「無心」な佇まいになっていきます。
 
アムロの闘いに能や武道の「無心の境地」に近いものを見ました。
戦艦ホワイトベースの闘いは外と内-双方の渦巻く妄執を全身で受け止めつつ
その地の底から再び宇宙(そら)の高みに飛翔する過程に見えました。
「ニュータイプ」-人類の新しい心の在り方とは、アムロ-ホワイトベースのクルーを見るに武道や芸道のような無心の境地やDフィールドの能力を持ちつつ、悲しみを経た鎮めの心と諦念を秘めたような在り方かに思われます。
 
アムロは無心の境地と共に修羅の如き化け物じみた戦闘能力を獲得しつつ「あなたの中には故郷も家族もいない」と内心の悲しみを喝破されます。
アムロの悲しみを見つけてくれたララァを、過ちとは言え自らの手で殺してしまったアムロに救済はあるのでしょうか。
 
テレビ版の最終話「脱出」では大規模な最終決戦の中で戦闘機械ガンダムは大破しアムロは傷つき、戦艦ホワイトベースも撃沈します。アムロは辛うじて脱出し、最後には宇宙服一つでやはりホワイトベースから脱出した仲間の救命艇のもとに生還し、互いの生存を喜び合います。戦闘機械ガンダムから解放された無力のアムロは、初めて真に安らいだ表情を見せます。
戦艦ホワイトベースは紅蓮の炎と爆発に包まれ、ガンダムのぼろぼろの脱出カプセル(戦闘機)は宇宙空間を太陽に堕ちるような軌道を描きつつ彼方に飛び去っていきます。
 
戦争終結と人類の新しい未来への「脱出」を暗示しつつ物語は終わります。


3.《魔法少女まどか☆マギカ》 壮大な呪鎮

『魔法少女まどか☆マギカ』は現代の神話です。
見滝原という平和な地方都市を舞台に、人知れず人の命を奪う邪悪な「魔女」と中学生の「魔法少女」が闘うドラマです。絵柄からほんわかした魔法少女ファンタジーと思いきや、不気味なサイケデリック状の魔女の描写を筆頭に、観ている人は知らないうちに怖ろしい、しかし続きを観ずにはいられないダーク・ファンタジーの世界に吞み込まれます。
2011年文化庁メディア芸術祭のアニメーション部門大賞受賞のほか、多くの賞を受賞するなど各方面で高く評価されている作品です。
 
『鬼滅の刃』では「鎮め」の日本文化を見て頂きました。物語は
「呪い」「怨念」を抱える外部の敵-鬼との闘いでした。
『機動戦士ガンダム』では「呪い」「怨念」を抱える敵が外から来襲し、
主人公たちはそれに「呪い」「怨念」で応えることはせず、しかし
「無心」に「悲しみ」が彼らの裡に降り積もっていったのでした。
これらに対比するなら 
『まどか☆マギカ』で展開されるのは、中学生の魔法少女たちが
自分たち自身を「呪い」「怨念」に満ちた存在に変えてしまう運命に
抗う物語です。  

●複式夢幻能に似ている「まどか☆マギカ」の物語

第一の魔法少女「マミ」眉目秀麗で無敵の戦闘力を誇り、美と正義と力を体現した理想的な魔法少女として主人公「まどか」たちの前に現れますが、物語の序盤で魔女に敗れ無惨な最期を遂げてしまいます。
 
第二の魔法少女「さやか」は主人公「まどか」の親友です。戦闘力は高くありませんが、決して自分の利益のために魔法を使わず人の命を助けるために魔女と闘う魔法少女になろうと決意します。しかし「さやか」は自らの心の闇に呑まれ「呪い」「怨念」にまみれ恐ろしい魔女に変化してしまいます。実は、邪悪な魔女は、正義の味方と思われていた魔法少女の成れの果ての姿であることが物語の中盤で明かされます。
 
「マミ」「さやか」の正義や力・他者を救おうとする理念などでは
魔女の、世界の巨大な「怨念」「呪い」に抗することはできませんでした。

 
第三の魔法少女「杏子」は強力な戦闘力を持ちつつ自分の利益のためだけに闘い、他人を見殺しにしてもかまわないと公言します。利己主義-個人主義、自分の力が全ての極端な能力主義者として登場しますが、物語の途中で「杏子」がかつて良心や真心に従って行動し、その結果家族など愛するものすべてを失った過去が明かされます。「強さの外観の内に悲しみを隠す」-九鬼周造の「いき」を思わせるところもあるキャラクターです。
 
物語の後半、「杏子」は利己主義者の仮面を捨て、魔女と化した「さやか」を救い出すための絶望的な闘いに身を投じます。「杏子」はかつて亡き父親の布教する宗教の信者でした。闘いの中で「杏子」は神に祈るように両手を組み合わせ、精神を集中させつつ闘いの魔法を繰り出します。
既に信じる神を捨てたであろう「杏子」の祈りの姿は悲痛です。
激闘の末「杏子」は、かつて「さやか」だった存在-
既に人の心を無くした怨霊と化した魔女に向かい
「独りぼっちはさびしいもんな・・・いいよ。一緒にいてやるよ」
とやさしく微笑み呟き、魔女もろとも壮絶な爆死を遂げます。
「杏子」は我が身を犠牲にして邪悪な魔女を鎮めたのです。
 
第四の魔法少女「ほむら」は、9話までは強大な戦闘力を持ちつつも何かを画策する、油断のならない人物として描かれます。10話で初めて、
「ほむら」は「時間を過去に遡る魔力」を駆使する魔法少女であること、
「ほむら」の行動はすべて主人公の「まどか」を護るためであったことが
明かされます。
「ほむら」は幾度も時間を遡り「まどか」を護るために闘い続け、
しかしそれは常に「まどか」を喪う結末の繰り返しでした。
一人孤独に、無限とも思える時間の輪廻の渦にいた「ほむら」。
強大な戦闘力の内に「悲しみ」を隠したまま闘い続けていた
のです。
 
最後の魔法少女「まどか」は物語の最終回で初めて魔法少女になります。
それまでは「どこにでもいそうなやさしい普通の子」として描かれます。
他の魔法少女が魔女と闘う中で「まどか」は常に守られる存在でした。
「まどか」は泣いてばかりいます。最初は魔女や死ぬのが恐ろしくて、
しかし途中からは仲間の魔法少女の悲しみや闘いの痛み、苦しみを見て、
仲間のすぐ傍で仲間の苦しみ悲しみを我が身に感じ泣き続けていました。
能で、ワキの僧侶が死者亡霊の訴える悲しみを聴き受け止め続けるように。

 
「まどか」は「呪い」や「怨念」から遠い存在です。物語の前半で「さやか」と「杏子」が反目し合い本当の殺し合いになりかけます。「まどか」は眠れぬほど心配しますが、親友を殺そうとしている「杏子」を憎んだり呪ったりせず「杏子ちゃん」と呼び続け、「二人が仲良くなる方法はないか」と考えてしまうのです。また物語の進行につれ、魔法少女の秘密を知り過酷な運命に翻弄される中で他の魔法少女たちが「憎しみ」「怨念」に囚われていく中、「まどか」は一人「憎しみ」「怨念」から距離を取り、仲間のために悲しみ悩み考え続けます。そんな人物として描かれています。
 
物語も終盤の第11話で「まどか」は一人「ほむら」の家を訪れます。
あと数日の内に弩級の破壊の魔女「ワルプルギスの夜」が見滝原に襲来するのに、闘える魔法少女はもう「ほむら」一人しか生き残っていません。
「まどか」は「ほむら」の身を案じ、一人で闘えるのかと尋ねます。
「ほむら」は冷静に「わたし一人で大丈夫」、余計な心配をするな

冷たく言い放ちます。
しかしいつもはおとなしい「まどか」がこの時は引き下がりません。
「ほむら」を案じる心を込め「まどか」は
「ぜんぜん大丈夫と思えない」と強く訴えるように言い返します。
魔法少女たちの苦しみを見続けた「まどか」は「ほむら」の
心を閉ざした冷徹な外見の下の深い悲しみと恐怖、絶望を喝破したのです。 
 
冷静冷徹な表情を崩さなかった「ほむら」が一瞬、無言で歯を食いしばり…
「まどか」に抱きつき涙を流し、自分が「まどか」を護り続けていたこと、それが自分の全てだということを滔々と告げます。
「ほむら」の隠れた深い悲しみと絶望を「まどか」は見つけることができました。
能で死者亡霊が悲しみを語り踊り尽くしワキに聞いてもらい、
浄化され異界に還るような、
「鬼滅の刃」で鬼が最後に涙を流し浄化されあの世に向かうような
「ほむら」の涙
です。
 
悲しみと絶望を見つけてもらえた「ほむら」ですが「まどか」が案じる中、
最大の魔女「ワルプルギスの夜」との闘いに一人赴きます。
激烈な戦闘の中で追い詰められる「ほむら」。そして「ほむら」が
絶望し心の闇に吞み込まれようとする土壇場で「まどか」が現れます。

「まどか」はこの時点ではまだ魔法少女になっていない、普通の女の子のままです。
 
さてインキュベーター「キュゥべえ」は猫と兎が融合したような外観の、
この作品世界の秘密、魔法少女の秘密を司る存在です。
「キュゥべえ」は、魔法少女になるべき素質のある少女に近付き、少女の願いを一つ叶えるのと引き換えに、魔法少女となり魔女と戦い続ける運命を受け入れることを勧めてまわる、宇宙の他の星の高度文明の遣いです。
淡々とした話し方をし、実は感情と言うものを全く持ち合わせていません。
すべての魔法少女の蒙る災禍はこの「キュゥべえ」が引き起こしたといっても過言ではないのですが、「さやか」が魔女と化すなど物語が深刻さを一層増した段階での「まどか」と「キュゥべえ」との会話では、
  
「キュゥべえ」:きみも僕のことを恨んでいるのかな?
「まどか」   :あなたを恨んだらさやかちゃんをもとに戻してくれる?
「キュゥべえ」:それは僕の力の及ぶところではない。   8話1515:30~
   
「キュゥべえ」を恨んでも解決にならないと知り「まどか」は彼を恨むことをやめてしまいます。
物語の後半、他の魔法少女が「キュウべえ」に激怒し決別する中、
「まどか」は憤りつつも一人、キュウべえと対話を継続します。
 
物語の終盤に入り「ワルプルギスの夜」の襲来が迫っている中で
「まどか」は「キュゥべえ」との会話の中で、これまでの人類の数千年の歴史の中の無数の魔法少女のヴィジョンの悲惨な歴史を見せられます。
自分が知っている数人の魔法少女の苦しみと絶望でも心が壊れそうなのに、世界中の歴史の無数の魔法少女の悲しみと絶望が「まどか」の心に注ぎ込まれ、人類の歴史と進歩が無数の魔法少女たちの悲しみと絶望の犠牲の上に成立していることを知り、「まどか」の心は悲しさと絶望の闇に沈みます。  
 
最後の最大の魔女との死闘で傷つき、闇に堕ちかけている「ほむら」の前に「まどか」は駆けつけます。友だちのために泣き尽した後の慈しみに満ちた笑顔を「ほむら」に向けつつ、魔法少女となる意志を明らかにします。
「キュウべえ」に自分の「願い」の実行を命じる「まどか」は、
この作品を通して初めて毅然とした表情を見せます。
 
「まどか」の「願い」は、巨大な「呪鎮」の魔法として機能しました。
最後の最大の魔女、巨大な「ワルプルギスの夜」に対してさえ、魔法少女となった「まどか」は慈しみにみちた笑顔で対峙し優しく手を差し伸べます。
「もういいの。もう、いいんだよ。もう誰も恨まなくていいの。誰も、呪わなくていいんだよ。そんな姿になる前に、あなたは、私が受け止めてあげるから。」
最大最悪の魔女の呪いと恨みは浄化され巨大な魔女は解体
されていきます。
 
「まどか」以外の魔法少女は強力な銃や大砲、剣や槍などの強大な破壊力、戦闘力で闘いましたが、「まどか」が実行させた「願い」は
魔女を-魔女が存在するこの世の在り方を無効化・無力化するもので
世界中の、あらゆる時代の魔法少女に救いをもたらしました。
「まどか」は時空を超えた存在となり、あらゆる時代の無数の死にゆく
魔法少女たちのところに「来迎」し、慈しみに満ちた笑顔で彼女らの魂を
救い続けます。

 
「まどか」の物語は複式夢幻能に似ています。
「まどか」は友だちである魔法少女たちの苦しみ、悲しみ、死の傍らに留まりそれらと共に在り続けました。更に「キュウべえ」により全世界全歴史の魔法少女の悲しみと絶望が「まどか」の心に注ぎ込まれました。
しかし
「まどか」の「願い」により邪悪な魔女は「滅ぼさねばならぬ敵」ではなく「もう呪わなくていい、恨まなくていい」と呼びかけられ受け止められる
存在になり、怨みと呪いは浄化されたのです。
「まどか」の物語は、複式夢幻能で旅の僧侶-ワキが死者-亡霊の物語を語り怨み踊ることの傍らに居続け、彼らの存在を-呪いも怨みも未練も-受け止め、浄化されるプロセスを巨大な規模に拡大したものかに見えるものです。600年前の人たちが複式夢幻能に深い感銘や慰安(D感情)を感じたように、現代の私たちは「まどか」の物語に深い感銘や慰安(D感情)を感じているのです。  

●「魔法少女まどか☆マギカ」の『D表現』の全体像

物語はもう終盤です。一つの宇宙を作り出すに等しい巨大な希望を生み出した「まどか」は、同時に宇宙を終わらせるに等しい絶望を生み出しました。巨大な絶望の渦の荒れ狂う情景に「ほむら」は恐怖します。
しかし強大な力をふるう神に近い存在となった「まどか」は、
『だいじょうぶ。私の願いは、全ての魔女を消し去ること。ほんとにそれが叶ったんだとしたら、私だって、もう絶望する必要なんて、ない!』
と宣べ、強大な魔法で絶望の渦を消し去ります
しかし「まどか」自身はこの宇宙の存在ではなくなってしまいます。ひとつの概念となり果て「ほむら」以外の誰の記憶からも消えていく「まどか」
 
この、地獄と呪いの底から天上の世界にまで至るような「まどか」の物語を『鬼滅の刃』 https://note.com/nihonos2020/n/nc618b29a9372 の際と同様に『D表現』の視点で俯瞰してみます。

中世-平安時代や鎌倉時代の日本人は神仏に対し『畏れます』『讃えます』『鎮まり給え』『救い給え』など祈ることにより深い宗教的慰安を得ていたのですが、
その『心の習慣』は無意識にその後の時代も引き継がれ
江戸時代-現代に至る私たち日本人も、神仏に対するのではない無宗教の
『畏れ』『讃え』『鎮め』『救い』などの深い感情-『D感情』を経験することに無意識に『深い慰安』を得ている
、と推測するものですが、

私たちが「まどか☆マギカ」を見るときにも『畏れ』『讃え』『鎮め』
『救い』などの深い感情-『D感情』が経験されている
ことを見てください。

●『畏』:「まどか☆マギカ」に出てくる「魔女」は人格があるか無いかもわからない意思疎通が不可能な邪悪な存在です。魔女は見滝原の街中の一部を突然異空間に変えてしまい、恐ろしい異空間の中に巻き込まれた人間は為す術もなく魔女の犠牲になってしまいます。不気味なサイケデリック状の魔女及び異空間の描写は、かわいらしい少女たちの姿とあまりにアンバランスであり得体のしれない恐怖感を醸し出します。近代的な安全な都市空間に突如出現する不条理な地獄。現代の地獄とはそのようなものかも知れませんが、これは中世の、人間に侵襲的なおどろおどろしい自然の現代的な表現かとも思われるのです。
●『救』:『まどか☆マギカ』の主人公の平凡な中学生鹿目まどかは最終話に至るまで魔法少女にはならず、魔法少女である友人たちの苦しみや恐怖、悲しみ、死また死を間近で見守り続けます。視聴者はまどかの視点を通して「この魔法少女たちに救いはないのか」の思いを共にするのです。
●『鎮』(人格神的):最終話で魔法少女となったまどかが行ったのは壮大な「呪鎮」でした。まどかは最大の魔女「ワルプルギスの夜」に対してさえ慈しみにみちた笑顔で対峙しやさしく手を差し伸べます。「もういいの。もう、いいんだよ。もう誰も恨まなくていいの。誰も、呪わなくていいんだよ。そんな姿になる前に、あなたは、私が受け止めてあげるから」。
最大最悪の魔女の呪いと恨みは浄化され巨大な魔女は解体されていきます。
●『救』:(人格神・阿弥陀仏的)最終話でのまどかの「願い」により、
過去未来のすべての魔女は無効化され、世界中の、あらゆる時代の魔法少女に救いがもたらされました。まどかはすべての時代の、死に向かいつつある無数の魔法少女たちのもとに阿弥陀仏や悲母観音のような慈しみをもって「来迎」し彼女らの魂を救い続けます。
●『讃』『滅』:まどかの巨大な呪鎮は、巨大な呪いを生み出してしまいます。まどかは闘いの女神に姿を転じ呪いを滅ぼす強力な弓を放ちます。魔法少女となることにより宇宙の仕組みを揺るがすほどの存在となり強大な魔力を行使するまどかです。
●『禅の無心』:過酷な物語の進行に伴い、他の魔法少女が憎しみや怒りや妄執に囚われていく中で、まどかは友人の魔法少女の運命に心を切り刻まれつつも憎しみや呪いから遠い存在でした。最終話に至り魔法少女となり強大な魔力を放った末に、まどかは究極的に存在自体がひとつの概念に昇華します。仏教の「解脱」に近いイメージかもしれません。
●『鎮』『救』『讃』(王朝-五山表現的)ひとつの概念に昇華し、人間としての存在そのものも世の人の記憶からも消えこの世から去ろうとしているまどか。この世の者(ほむら)に惜しまれつつ夢幻の世界に消え去っていく美しいシーンは作品最終のハイライトです。
  
物語の終盤で「まどか」は時間も場所も超越した存在になり、あらゆる時代の死して地獄に堕ちようとしている魔法少女のもとに「来迎」し彼女らは救済され安らかな死を迎えます。これは現代の阿弥陀来迎図なのです。

また物語の舞台、見滝原市-普段は美しい祝福されたかの町が「魔女」の出現と共におどろおどろしい空間に変容するのは、雪舟-江戸時代以降の祝福された町が浄土教以前の呪術的な自然-世界に逆戻りすることのように見えます。

以上、私たちが「まどか☆マギカ」を見るときにも、中世の時代の宗教感情を無意識に引き継いでいるような『畏れ』『讃え』『鎮め』『救い』などの深い感情-『D感情』が経験されていることを見て頂けたかと思います。 

なお(外国のコンテンツとの比較など別途精査が必要と思われますが)
「魔法少女まどか☆マギカ」の『D表現』の『救い』『鎮め』『禅の無心』『王朝-五山D表現』などには「日本文化ならではの特性」が現れている
と思われるところです。
   
 

●ところで:人はなぜ「死地に赴く英雄」に心を揺さぶられるのか

「ほむら」が経験した別の過去では、「まどか」はかわいらしくも勇ましい戦闘魔法少女として闘いの中に生きていました。
(第10話 笑顔でさよならを告げるまどか)
第10話の「ワルプルギスの夜」との闘いの場面で、「まどか」は自分が死ぬとわかっていながら「ほむら」に笑顔で「じゃあ、行ってくるね」と告げ最期の闘いに向かいます。引き留める「ほむら」に向かって「それでも、私は魔法少女だから。みんなのこと、守らなきゃいけないから」と、ただ一人魔女の待つ虚空に飛び立っていきます。胸の締め付けられる場面です。
 
しかし改めて考えてみると、このような
死地に赴く英雄になぜ私たちは深く感動してしまうのでしょうか?
これは日本文化に限りません。例えばトールキンの「Lord of the Ring(指輪物語)」の、王族も妖精も一番小さな種族まで心を一つに命を顧みず世界の破滅を救うために立ちあがる物語は映画化され世界的成功を収めました。
世界を救うために一命を賭して立ち上がる物語、大事な人を護るために命を捧げる物語は実に多いです。私たちは今でも自己犠牲、献身、天職に命を捧げる物語に胸が震えるところがあります。
私たちが「生還しない、命を捧げる」英雄に感動するのはなぜでしょうか。
 
日本人の過去の宗教意識から考えてみましょう。
日本人の、江戸時代に至るまでの宗教意識を研究したR.N.ベラー著「徳川時代の宗教」に依れば、江戸時代の宗教意識のベースに以下のような信仰がありました。
p131『自然は、人が感謝を捧ぐべき慈しみ深くかつ食物を与えてくれる力であるとともに、また、存在根拠のあらわれである。…』
そして
P132『人は、神性、自然、自己より優れたるものから絶えざる恩恵をうけるつまらぬものであり、そのような恩恵なしには、 全く救われ難い存在である。』…
P146『慈悲深い至高的存在である神に即した行為は、ただちに恩の理論を生み出す。神はなんらかの形で恩を施し、このような 恩に対して返礼すること(報恩)が、恩を受けたものの義務である。したがって、宗教行為とは、この報恩がとるさまざまな形式なのである。』 とあります。
 
江戸時代に至る時代の日本人は
「人は神性や自然に与えられた多大な恩恵により生きているものであり」
「その恩に報いる多大な義務を負っている」と認識していた
のです。
このような、江戸時代以前からの日本人の報恩の思想をベラーの著書では多くの仏教者、儒者、また二宮尊徳などの言葉を挙げ論証しています。
  
なお戦前の日本人の文化について、R.ベネディクトの「菊と刀」でも「恩」という言葉を強調しています。p146日本人は、いくら返済しても完済され得ない恩義を負っており、それは天皇や国に対する義務(忠)両親や先祖子孫に対する義務(孝)仕事に対する義務(任務)などであると述べられています。
 
以下はモース「贈与論」の抜粋です。モースの「贈与論」は、20世紀初頭に残存していたアジアやアフリカ、アメリカ大陸の伝統社会のフィールドワークや、数百年、千年以上もさかのぼる古代文化の資料等で得られた知見をまとめたものです。
p62
『(クワキウトル族の精霊の踊りの歌)
霊よ、あなたはあの世からすべての物をわれわれに届けてくれる。あなたは人間の分別を奪う。 霊よ、あなたはわれわれが飢えに喘ぐ声を聞いた。
われわれはあなたから多くの物を受け取るであろう。」
p42『人々が契約を結ばなければならない存在、また人々と契約を結ぶためにある存在の最初のものは、死者の霊と神々であった。 したがって、
それらは地上の物や財貨の真の所有者であった。つまり死者の霊や神々と交換することが最も必要であり、交換しないことは極めて危険であった。
アメリカ北西部やアジア北東部のポトラッチのあらゆる形態は、この破壊の主題を伴っている。人々が奴隷を殺し、大切な脂を燃やし、銅製品を海に投げこんだり、豪華な家に火をつけたりするのは、単に権力、富、無私無欲を 誇示するためばかりではない。それはまた、霊や神々に供犠を捧げるためでもある。霊や神々は、実際にはそれらと同じ名前を持つ儀式の加入者に化身して現れる。』 
 
このように「死者の霊と神々が地上の財貨の真の所有者」「死者の霊や神々と交換することが最も必要」等と書かれています。古代からの伝統社会などの人々は死者の霊や神々に多くの負い目を負っており、その負い目を返すための行動を続けねばならないと認識していたのです。
ベラーの見た江戸時代の日本人は、モースの見た伝統社会の人たちと似ているところがあります。
 
先に「鬼滅の刃」の箇所でも触れましたように
・中世の数百年の間に 『鎮まり給え』『救い給え』『讃えます』『畏れます』など強く祈り念じることで深い安堵や救済、満足感を得る『心の習慣』が日本人の無意識の底まで刷り込まれ、
・その無意識の『心の習慣』の継続により、今でも私たちは恐ろしい話・悲しい話・呪鎮の物語に深い安堵や救済、満足感を感じてしまうのではないか
と記しましたが、
死を覚悟し還れぬ闘いにゆく「まどか」の物語に私たちの心がふるえるのは
・先史時代に遡る神々や死者の霊-神仏に対する過大な報恩の感覚、
・その恩に報いること、神々との交換―犠牲を捧げることに深い満足感を
 覚える古代的な『心の習慣』
(これらは、日本では江戸時代にまで見られた)
 の無意識の継続に起因するのではないでしょうか。
 
このような古く強く、時に魅力的に感じられ、そして危険な古代的な心の働きが、自己犠牲の英雄に心がふるえる背後に働いていると思われる
のです。

●「ほむら」抑制された中の凄み:日本の舞と能の《動十分心 動七分身》

音もなく人の背後にふっと現れる「ほむら」。
「今度こそ。…決着をつけてやる」と呟く「ほむら」。
「ほむら」の静謐な動き、寡黙ながら内に秘めた気迫にはある種日本的なものが感じられます。
「ほむら」の抑制されつつも激しい内面をうかがわせる描写は、日本舞踏の否定の論理、また世阿弥の「動十分心 動七分身」の理論を継承するもの
かもしれません。

以下は「おどりの美学(郡司正勝先生)」の抜粋です。
  
「おどりの美学(郡司正勝先生)」によれば、日本舞踊には一つの否定の論理があります。それは舞踊は動くというのが、その根本原則であるのに、日本の舞踊には動かぬことを理想とする観念がある、というのです。
P145
『「動かんやうにして舞ふ。つまり表現(あらはしかた)を内省(うちらに)して、出来るだけ描写(ふりとて)を要約(つづめるように)するのどす。ぢつとしてゐて舞ふ。( 『佐多女芸談』)」 と、
上方舞ことに井上流について、井上さたがいっていることがそれである。…
テンポののろさは、動的で放射的な西欧の芸術に対して、内攻的な日本の静の芸術の本質からくるものであろうが、舞のもつ動かずに舞うという理念の根底には、舞は祈りであり、呪術であるという気迫の力の表現が本来であり、その上に、古代の貴族社会や中世の武士社会を通って、動ぜぬことの立派さ、美しさを理想とする思想が生れていったのだとおもう。
ことに、動き流れるという感覚のなかに、そのエネルギーを感じとるというよりは、無常観をよみとるといった仏教からきた人生感覚が民族の中に滲透して以来の想念が、いっそうこれに輪をかけたようにおもわれる。…
 世阿彌に《動十分心 動七分身》という理論がある。(『花鏡』)
「心を十分に動かして、身を七分に動かせとは、習所の、手を指し、足を動かす事、師の教へのまとに、動かしてその分をよくよくし究めて後、指し引く手を、ちらと心程には動かさで、心より内に控ふるなり。(「花鏡」)」
つまり、心は十分に働かせて、表現は七分に止めよ、という秘伝がそれである。そこで「心よりは身を惜しみて立ち働けば、身は體になり、心は用になりて、面白き感あるべし」というのである。身体の表現を抑えることによって、心が無限の可能性を包含することになる。
すなわち、表現を惜しみ、動をそのままの動とみせないことが
能の全体を通ずる心構えとなってくる。
「足を強く踏む時、 身を静かに動かせば……面白き感あり」という
否定の表現美学が生れてくるのである。』

ちなみに否定の論理の美学や感受性の例としては
「鬼滅の刃」に出てくる伝説の最強の剣士、継国縁壱も「見た目は弱く見え覇気も闘気も憎しみも殺意もない」佇まいでしたが、「鬼滅の刃」の読者はこのような人物描写をしぜんに「格好いい」「最強の剣士にふさわしい」と感じてしまいます。
このような否定の論理の美学や感受性は、現代のアニメーションにも見られ過去の日本の様々な物語にも見ることができるでしょう。
それらの物語などによって、否定の論理の美学や感受性
現代の、世阿弥や日本の舞から遠い日本人にも受け継がれているのです。

●最終話で描かれた『在りし日の幸せな姿』は現代の『供養絵額』」

「まどか☆マギカ」の最終話では、無惨な死を遂げた「マミ」「杏子」が幸福そうに「まどか」とお茶するシーンや「マミ」「杏子」「ほむら」が協力して闘うシーンが挿入されます。凄惨な物語の終盤のこれらのシーンに、
観ている人たちはなぜかとても「ほっ」とされたのではないでしょうか。
 
さて「供養絵額」 というものをご存じでしょうか?江戸時代末から明治時代にかけて遠野地方で盛んにつくられた、死者を供養するために寺院に奉納された絵額です。https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/22924
 
「供養絵額」には既に亡くなった人たちが、生前の姿のままで満ち足りた生活を送っている様子が描かれています。子をなさぬうちに亡くなった女性は幼子と戯れている様子が描かれるなど、その故人の在るべき-在って欲しかった情景が描かれます。現世に未練を残して亡くなった人たちの魂を鎮めるものとして、残された親族の祈りを込め描かれているのです。残された親族は「供養絵額」を見るごとに、亡くなった親族の満ち足りた姿を見て安らぎを覚えたことでしょう。
 
「まどか☆マギカ」最終話の上記のシーンでは、無惨な死を遂げた、あるいは仲間に心を閉ざしていた魔法少女たちが幸福そうに、互いを認め思い遣りながら共に生き闘っている情景が描かれています。
これは現代の『供養絵額』なのではないでしょうか。
「まどか☆マギカ」の凄惨な物語で心がつぶれそうになった人
最終話のこれらのシーンのおかげで心が「鎮め」られるのです。
同時に「マミ」「杏子」たちの魂も「鎮め」られることが感じられます。
このように
「まどか☆マギカ」は『呪鎮』の物語として理解できるのです。
 
さて物語は終わり、魔女は消え去りますが呪いは異なる形で残り、魔法少女たちは依然、呪いと戦い続けています。能などに見られるように日本文化では鬼や怨霊は鎮められても消滅することは少なく「思いを聴いてもらいその場は消え去る」「一時的にただ立ち去る」ことが多いです。
強大な「まどか」の願い-魔法でもこの世の呪いを消すことはできず、
一時的に「鎮める」ことができただけでした。
 
ただ一人「まどか」の記憶を残した「ほむら」は闘い続けます。
かつて「まどか」が守ろうとした場所を守り続けるために。
「まどか」の意志と、彼女の武器だった弓を引き継いで。
「まどか」の弔い合戦を続けるがごとき「ほむら」は孤独ですが孤独ではありません。 「まどか」の「がんばって」の声が耳元で聴こえているから。
日本文化では、死者の国は地上と遠くないのです。

4.《この世界の片隅に》 日本文化の『二次的自然-D世界』

2016年にアニメーション映画として公開された「この世界の片隅に」はミニシアター系としては異例のロングラン・ヒットを記録し、日本アカデミー賞最優秀アニメーション作品賞を始めいくつもの映画賞を受賞した作品です。数千人もの人が出資したクラウド・ファンディングにより制作が実現した映画でもあります。
 
この映画では戦時中の広島と呉を舞台に主人公「すず」とその家族や嫁ぎ先の人たちの暮らしと、それが戦争に巻き込まれていく様子が克明に描かれています。
原作の漫画を描かれたこうの史代先生が作品を描くきっかけになったのは、戦争をはさみ呉に生きた祖母への思いだったそうです。こうの先生は
国会図書館や郷土資料館で当時の雑誌や新聞などの資料を収集し、当時の
人たちの暮らしを作品世界のなかに事実に即して再現していきました。
こうの先生にとって作品の取材は祖母などの既に亡くなった人たちとの形をかえた対話だったといいます。 https://shimirubon.jp/reviews/1679069 
こうの先生は広島県出身で「夕凪の街 桜の国」(2004年作品)で第8回文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞・第9回手塚治虫文化賞新生賞を受賞されています。
    
あとで詳述しますが、この映画では映画化に際し当時の街並みの再現などにたいへんな精魂が傾けられています。そして「すず」たち登場人物の存在感を出すために、アニメーションに「ショートレンジの仮現運動」「自然主義的な描写」などのイノベーション的試みが採用されているのです。
そのようにして作られたこの映画を観る観客は、最初の挿入歌「悲しくてやりきれない」が流れる頃には「すず」と彼女の周辺の何ということもない、しかし満ち足りた戦前戦中の広島・呉の暮らしの描写に引き込まれてしまいます。
 
物語はまだ幼い「すず」の広島への、もしかしたらはじめてのお使いから
始まります。広島の街のクリスマスの賑わいにわくわくしている「すず」。迷子になってもニコニコしています。導入部分で幼く頼りなかった「すず」が周囲の大人に助けられながらすくすく成長していく描写に、観ている人は思わず「すず」を応援し味方になってしまいます。「すず」を慈しみ心配しながらわが子のように見守る 「親目線」を観客は獲得してしまうのです。
 
一方で私たちは「すず」は私たちの親や祖父母などご先祖様の世代であることも知っています。
「この世界の片隅に」の導入に魅入られてしまった現代の日本人は「すず」の親であり子孫でもあるような、Virtualなご先祖様からの代々の共同体に引き込まれてしまうのです。その目線で「わが子-ご先祖様でもあるすず」の日々の暮らしを応援し見守ることが「この世界の片隅に」の前半部分で観客の心に起きているのです。
 
「すず」は絵を描く人であり風景を目に焼き付けようとします。
松尾芭蕉が俳句で
  道端の木槿(むくげ)は馬に喰れけり
道端に木槿の花が咲いているな、と思った次の瞬間、馬に喰われて消えてしまった情景をスケッチしたように、 「すず」は鉛筆で「さようなら、広島」の思いでスケッチするのです。
 
「すず」の描く広島県物産陳列館の在りし日の姿に、現代の私たちは痛ましい「原爆ドーム」の面影を重ねてしまいます。
芭蕉が「おくのほそ道」の「殺生石」で西行が「清水流るる柳陰」と詠んだ故事を思い重ね偲び、「平泉」ではそこで最期を遂げた義経を思い偲び「夏草や兵どもが夢の跡」と詠んだ美意識、「失われた美しいものを偲ぶ」、
古今和歌集以来の日本文化の美意識の伝統と似つつ、それ以上のものを含む「偲ぶ」働きが、この作品を観る私たちの心の中で起動されている
のです。
 
映画や漫画を観始めた私たちは、この「すず」の慈しみに満ちた暮らしが間もなく戦争で惨い目に遭うのを知っています。物語の中に戦争の惨禍がおよぶのを恐れ、時間が止まって「すず」の今の美しい瞬間が永遠に続いてほしい思いで物語を観る人もいるでしょう。加えて、大人になってもあどけなく頼りなく、弱い・・・でも愛らしい「すず」にそのまま変わらずにいて欲しいと感じながら観ている人も多いのではないでしょうか。
「すず」もその周囲の社会も成長や発展など忘れていていい、そのままで時間が止まって欲しいという無意識の願望のもと映画を観ている私たちは、「この世界の片隅に」の前半の、これといったドラマや大きな起伏も無く続く豊かな日常の描写に、かけがえのなさと美を感じています。この映画の前半の世界に「自分も入りたい」と感じる人も多いのではないでしょうか。
 
本論では作品に描かれた「すず」の暮らしに似たものが、過去の日本文化の中でどのように描かれてきたか、存在したかを見て頂きます。
そしてそれを導きの糸に日本人の生活文化の底に在るものを見てみます。
 
 

●「すず」と「日本文化」の「日々の生活に心を込め楽しむ暮らし」

作品前半で描かれる「すず」の新婚の生活では、戦時中で資材も食材も不足する中で「すず」は着物を裁ち・解き・合わせ・縫って着物を直します。
食べられる植物を道端に探し、家族のため工夫を凝らした調理もします。
小松菜を種から育て、昔ながらの洗濯仕事やアイロンかけが描かれます。
自分の与えられた場で丹精込めてできる限りのことをしていること、
それが決して不幸ではない表情で描かれています。
今の視点で見ると女性の家庭内過重労働-しかも戦時中の-ですが、
このような日々の生活に心を込め楽しむ暮らし
かつての日本の生活文化への郷愁、好感を覚える人も多いでしょう。
 
さて(「Ⅰ.」https://onl.sc/Mv2yQXW  でも触れましたが)
江戸時代の浮世絵にこれと似た世界観の一連の作品を観ることができます。

以下「浮世絵の鑑賞基礎知識」(小林忠先生他著)から抜粋です。
『(浮世絵の)美人画は、錦絵が創始された明和年間の頃から、一般の家庭生活に取材することが多くなり、母や子の日々の暮しぶりが報告されるようになる。江戸の人たちは、季節や人生の節目節目を折り目正しく祝い、記念して生きていたから、春信が描いた衣更えとか、七五三の宮詣とかの絵柄は、多くの人々に共感をもって迎えられたに違いない。炊事、洗濯、縫物といった家庭内の女性の仕事ぶりも、美しく理想化して描き表された。

右上に喜多川歌麿の「台所美人」という浮世絵がありますが、この絵は台所仕事のつらさと楽しみ、難儀な仕事であることも暗黙の裡に伝えています。
「浮世絵の鑑賞基礎知識」の図版をご覧いただければわかるのですが、
料理をする母娘・桃をむく女性・洗い張り-洗濯・針仕事にお化粧・挿し花と、町の暮らしの美を多々、浮世絵は取り上げています。
小林先生の記述にあるように、
美人画-浮世絵には市井の人々の日々の暮しぶり、季節や人生の節目の行事や家庭内の家事、家庭内の母子の姿、仕事風景までも美しく理想化されて描かれるようになっていきました。

これは、「あたりまえ」のことだと思ってはいけないところと思います。
この時代には「新たな美の発見・学習」が起きているのです。
江戸時代の人たちの多くは浮世絵師などが「美しく描く」ことで日常生活の美を「発見・学習」したのです。浮世絵師だけでなく、江戸時代の興隆する商業出版や消費文化、様々な物語文学などが日々の暮らしを「美しく描く」「美しいものとして扱う」ことにより、浮世絵師のような「視座」が江戸の人たちに学習されたのです。
浮世絵師などにより日常生活が「美しく」「意義深く」描かれることで、
江戸の人たちは日常生活とは「美しく」「意義深い」ものと認識するようになった、より「美しく」「意義深い」ものと認識するようになった
のです。
 
下の歌川国貞(三代豊国)の「今様見立士農工商・商人」は上野広小路にあった絵草紙問屋「魚栄」の店頭風景で、店員も客もみな美麗な美人画に「美化」されて描かれています。

この時代の浮世絵は、一枚あたり蕎麦一杯程度の価格から購入できるような庶民にも手の届く娯楽-商品でした。
浮世絵は今の言葉で言えば「芸術」というより「売るための商品」でした。
「売れてなんぼ」、売れて儲かることが絶対でした。
このような市井の暮らしを描いた美人画は「庶民を含む多くの人に商品として支持され購入された」ものなのです。

「この世界の片隅に」が、原作の漫画を読んだ多くの人が「アニメーションで観たい」とクラウドファンディングに参加して映画化されたように、
これら江戸時代の市井の暮らしを描いた美人画-浮世絵は、多くの人が「見たい、手元に置きたい」と購入された商品なのです。
 
江戸の浮世絵師が日常生活の中の「美」「意義」を発見し絵で表現し、
人びとは「美しい」と思った一枚を蕎麦一杯のお金で購入(いいね)し、
浮世絵師は購入(いいね)された方向で新たな生活の「美」を発見し描く。
「生活の中の美」を発見し見出すプロセスが、浮世絵師と江戸の人たちと、商業出版や消費文化や物語文化など経済社会全体の共同作業で進み
「生活の中の美」を見出す感受性が開発されていきました。
その感受性が開発された先-未来に、現代の、「この世界の片隅に」の生活の美を深く感じ取る私たちがいるのです。

●「すず」と「日本文化」の「自然に包まれるような-自然と調和した暮らし」

「この世界の片隅に」の美しい自然の描写は観ている人を惹きつけます。
例えば小学生の頃の「すず」が同級生の乱暴な男子の写生の課題の絵を代わりに描いてあげるシーンがあります。男子は海の事故で兄を亡くした心の傷がまだ癒えず「海が嫌い」なのですが、「すず」が描いてくれた、海原の波が白うさぎのように表現された絵を、男子は「いらんことするわ」と言いつつ大事そうに抱えて帰ります。描かれる瀬戸内の海辺の風景に漂うさみしさや哀愁は、兄を亡くした男子の心を表し、二人を見守り包み込むような自然は男子を気遣い見送る「すず」の心を表しているかに思えます。
幼い二人を見守るような瀬戸内の海辺の美しい自然です。
 
さて、江戸時代の浮世絵でこれに似たものとして歌川広重の「東海道五拾三次」を見てください。

浮世絵の名所絵は、美人画よりも後の時代に確立されました。浮世絵-錦絵は「美しい」題材を探し描き続けてきたのですが、1830年代の頃に江戸及びその郊外は都市開発の結果ようやく「美しい」佇まいを獲得し、浮世絵に描かれる題材となり得るようになりました。葛飾北斎の「富岳三十六景」と歌川広重の「東海道五拾三次」が人気を博したことで名所絵はカテゴリーとして確立します。
上記の「東海道五拾三次」の「戸塚 元町別道」を見てください。当時の旅は歩き詰めで道中も不安だったでしょう。絵は陽が沈む前に旅籠に到着しひと安心、の場面です。旅籠は旅人を「ようこそ」と受け容れて安心と憩いを提供し「御無事で」と道中の無事を祈り送り出してくれる場でした。
「吉原 左富士」を見ると、馬上の旅人はなんと三人の子どもです。
道中の子どもらの無事を松並木も遠景の富士も祈り見守っているようです。
街道の道端の花や緑は子どもらの心を慰め、雨が降れば松並木が傘となり、
喉が乾けばきっと湧き水が見つかる
のでしょう。
 
広重や北斎が美しく描いたことなどにより、江戸時代の人たちは自然の中に-自然と共に在る暮らしが「美しく意義深い」ことを学んでいきました。
それが「美しく意義深い」ことを、より強く感じるように学習しました。
 
そして、
「すず」たちは「自然」の只中でなくても何者かに「護られて」いました。
映画の冒頭のまだ幼い「すず」の広島へのお使いの場面を想起して下さい。広島の街のクリスマスの賑わいにわくわくし迷子になってもニコニコしている「すず」は、何者かに見守られているようでした。
私たち観客も安心して観ていられました。
以下「東海道五拾三次」「日本橋」は自然の只中ではありませんが、広重に描かれた人たちは幸福で、何者かに「護られて」いるかに見えるのです。

「この世界の片隅に」の生活全体が自然に似た何者かに護られ祝福されているかの暮らし、自然に包まれ-街中にあっても何者かに護られているような暮らしに似たものを浮世絵に感じて頂けると思います。浮世絵の中に江戸時代の「すず」がいて「この世界の片隅に」があることを見て頂きました。
 
そしてそれは「あたりまえ」、「今も昔も一緒」という事ではありません。
浮世絵師がその美・意義を見出し描き、それを江戸の人たちが身銭を切って購入(いいね)する繰り返しなどの中でその美意識は発見・学習・共有され
その先に「この世界の片隅に」を産み出した現代の私たちがいるのです。

 
さて、「Ⅰ.」https://onl.sc/Mv2yQXW  でも触れましたが
・中世-平安から鎌倉時代など神仏が絶大な影響力を持っていた時代、
 神仏を描き、観た人には強い宗教感情が喚起される「宗教表現」
 
がありました。
・一方で和歌や能、茶道などの日本文化においては
 宗教表現ではないのですが崇高・美的・あはれ・深遠である等の
「深い-Deepな」感情体験を喚起する表現
があり、
 それを「D表現」と表記します。
このような宗教と一線を画しつつも崇高・美的・あはれ・深遠である
 深い感情を(Deepな)「D感情」と表記し、それを感受する感受性を
「D-感受性」と表記する
・・・とご理解ください。
「D感情」が「宗教感情」と等しいものか否かは保留としています。 
 
ここで先ほどの
『歌麿などの浮世絵の美人画の生活画』-
『「この世界の片隅に」の「すず」の主婦生活の描写』などの
日々の生活に心を込め楽しむ暮らし
『広重の「東海道五拾三次」等の名所絵』-
『「この世界の片隅に」の自然に‐世界に護られた人間の描写』などの
自然-世界に包まれるような、自然-世界と調和した暮らしを見るならば、
どれもみな
「宗教表現」ではありませんが、崇高、美的、あはれ、深遠である等の
「深い-Deepな感情(D感情)」の感情体験を喚起する表現 すなわち
「D表現」
であると思われるのです。 
 
そして
浮世絵の生活画や名所絵が「D表現」であり、
それにより崇高、美的、あはれ、深遠である等の
「深い-Deepな感情(D感情)」が喚起されていた
とするならば、
浮世絵などの絵画が介在しない場であっても、
台所仕事のような日常の所作・自分たちの住む街、場所における日々の暮らしの多くの営みにおいて崇高、美的、あはれ、深遠である等の
「深い-Deepな感情(D感情)」が喚起された
のではないでしょうか。
 
「逝きし世の面影」(渡辺京二先生)には江戸時代後期に外国人の見た日本人の「自然と暮らしがともにあり」「物質的に豊かではなくても精神的に満ち足りた社会・生き方」が描かれています。
【江戸時代後期に訪日し、日米修好通商条約を締結したタウンゼント・ハリスによる記録】
『1856(安政3年)日本に着任したばかりのハリスは下田近郊の柿崎を訪れ次のような印象を持った。
「柿崎は小さくて貧寒な漁村であるが、住民の身なりはさっぱりしていて、態度は丁寧である。世界のあらゆる国で貧乏にいつも付き物になって いる不潔さというものが、少しも見られない。 彼らの家屋は必要なだけの清潔さを保っている。…」
「五マイルばかり散歩をした。ここの田園は大変美しい⁻いくつかの険しい火山堆があるが、できるかぎりの場所が全部段畑になっていて、肥沃地と同様に開墾されている。これらの段畑中の或るものをつくるために、除岩作業に用いられた労働はけだし驚くべきものがある」。…
翌二十八日には須崎村を訪れて次のように記す。
「神社や人家や菜園を上に構えている多数の石段から判断するに、ひじょうに古い土地柄である。 これに用いられた労働の総量は実に大きい。しかもそれは全部、五百か六百の人口しかない村でなされたのである」
ハリスが認知したのは、幾世代にもわたる営々たる労働の成果を、現前する風景として沈澱させ集積せしめたひとつの文化の持続である。』
 
ハリスなどの当時の外国人たちの描写にいくらかの東洋の理想化(オリエンタリズム)はあったとは思いますが、それでも
当時の日本の人たちは日々の生活に心を込め楽しむ暮らし-自然に包まれるような-自然と調和した暮らしを送っており日々の暮らしも崇高、美的、あはれ、深遠である等「深い-Deepな感情(D感情)」が喚起される営みだった部分があるかに思えるのです。
 
 
以下、江戸時代に日本文化の様々な領域で『日々の暮らしそのものを
崇高・美的・あはれ・深遠等の感情を喚起する「D表現」の営み』
とする
動きがあったこと、それが「この世界の片隅に」似ていることを示します。
 

●江戸時代、日々の暮らしそのものが「D表現」の営為に

江戸時代、日々の暮らしそのものが「D表現」の営為に ①茶道
江戸時代、武家では茶道が重要な嗜みでした。江戸時代初期には片桐石州の茶が「石州流」として幕府諸藩に広く受け容れられ武家の茶道の規範になりました。武家や富裕な町人など力や経済力がある層の価値観や美意識に繋がる茶道は、江戸社会全体に大きな影響を与えていったことは必定です。
さて江戸時代に、茶道を確立した千利休の著と目されていた「南方録」という重要な茶書があります。千利休は豊臣秀吉の時代の人ですが「南方録」は利休没後100年を経た江戸時代に世に出ました。
その「南方録」の一番最初の部分に、禅思想の影響か
「茶会を行うにあたり水を運ぶ、薪をとる、湯をわかす…など、一見些事に見えるすべてが仏道修行であり深い意味がある」とあります。

これは茶会に関わる全ての行いが、深い精神性を持つD表現、D-コミュニケーションの営みとなり得ることを示しています。
茶会の準備に関わる自然物やモノとの関りにさえ深い「D-コミュニケーション」が交わされているのです。
茶道に「日常の行いすべてを深い精神性を持つ営み、D-コミュニケーションの営みとする」文化が存在するのなら、
茶道-茶人においては日常の挨拶・掃除・何気ない仕草などみなD表現-仏道に近いような深い精神性を持つ営みとなった
のではないでしょうか。
 
江戸時代、浮世絵師は日常生活や風景の中に「美・意義」を見出しました。
千利休は、数百年前に日常の営みすべてに「深い意義と美」があると喝破しそれは江戸時代に至り「南方録」で広く世にあらわされました。
 

茶道は日本の生活様式そのものを芸術化しました。茶室の建設様式は武家や上層階級の邸宅等に影響を与え現代に継承され数寄屋建築で日本の伝統建築を代表しています。「市中の山居」と言われる茶室へ進む露地は日本庭園に大きな影響を与えました。和食の伝統「一汁三菜」は利休らが茶道の場において定めたものですし、江戸以降の茶碗陶器の発展には織部、遠州など茶人が大きな影響を与えています。掛物や茶花(華道)もわび茶の成立と共にありましたし、茶道具に使われる西陣の高級絹織物である裂地など、茶道に関わり日本の生活様式を芸術的に高めたものは多いのです。
このような日本文化全般への茶道文化の深い浸透に伴い、「日常の営みすべてを深い精神性を持つ営み、D-コミュニケーションの営みとする」文化も広く浸透したのではないでしょうか。
 
江戸時代、日々の暮らしそのものが「D表現」の営為に ②芭蕉の俳諧

  塩鯛の歯ぐきも寒し魚の棚
  葱白く洗ひたてたる寒さかな
ふたつともに松尾芭蕉の句です。
芭蕉の俳諧以前の美意識-例えば王朝文化を継承する美意識などにおいては、「腥い魚の棚」「洗いたての葱」などは「美」と程遠いものでした。
しかし、芭蕉の俳諧の教えを弟子の土芳(とほう)がまとめ18世紀後半に世に出た「三冊子」に依れば
「目の前の対象に対峙し没入するそのときに対象の微-本質が顕わになり、自ずから情感が興り句となる」と説かれています。本質が顕わになるとき、「腥い魚の棚」「洗いたての葱」に対しても詩的情景、美的内容としての観照が成立しその炎(美)が見えてくるのです。
俳諧は新味を追求します。芭蕉は三冊子で「つねに風雅の誠を責め悟りて」と記しています。陳腐や月並みを避け、一見して「美」と程遠いものでも「D表現の素材」として探掘し続けることが俳諧であり、
俳諧においては道のべの木槿、塩鯛の歯茎、…従来は詩歌の対象となり得なかったすべて、悲苦哀傷にかかわる事象までを対象に拡大し、
深い精神性を持つ表現、D表現・D-コミュニケーションの対象に転換し
人間の感情-感受性を拡大していくのです。美-D表現、D感情の拡大です。
 
江戸時代には武家や富裕な町人のみならず広い階層に芸道文化が浸透したのですが(Ⅱ.をご参照)、「百姓たちの江戸時代」(渡辺尚志先生)によれば
『一九世紀には百姓の間で俳諧が流行し、どこの村にも自分で俳諧を作って楽しむ人々が生まれてきました。俳諧は、同好者がサークル(江戸時代には、これを「連」といいました)を作って、集団で楽しんだところに特色があります。定期的に連で集まって句を詠み、時にはその句を額に記して寺社に奉納したりしました(句額)。句碑の建立や句集の出版も行なわれました。・・・』のです。同著には江戸末期の農村名主の勘左衛門という人の残した句が紹介されています。
 
  いつか眼をはなれて入ぬ雲に鳥 景文
 
景文は勘左衛門の俳号です。勘左衛門は、身の回りのすべて非苦哀傷にかかわる事象まで俳句、「D表現」の題材と見ていたのではないでしょうか

●「茶道」「芭蕉の俳諧」と「この世界の片隅に」の似ている点

ここで、「この世界の片隅に」について先に述べました事項
制作に際し当時の街並みの再現などにたいへんな精魂が傾けられたこと
「すず」たち登場人物の存在感を出すために、アニメーションに
「ショートレンジの仮現運動」「自然主義的な描写」などが採用
されたこと
につき詳述しますが、
それは「茶道」『芭蕉の俳諧」の思想に似ているのです。

① 制作に際し当時の街並みの再現などにたいへんな精魂が傾けられた:
この映画を撮られた片渕須直監督は、観客に「すずさんを実在の人物」と感じてもらうために3つの柱があると語られており、上記は一つ目の柱です。この映画では、舞台となった広島や呉の町、「すず」の故郷など、当時の写真や文字資料をできるだけ集めロケハンを重ねるなど徹底的な調査を行なわれています。
片渕監督はインタビューで https://moviewalker.jp/news/article/1007317/p3  『「そこに描かれているものは本当にあったものなんだ」と、自分たちが信じたいということなんですよね。自分たちがそこにあったものを信じられれば、「その時代がこういう時代だったんだ」というところにアプローチしていけるように思ったんです。書き割りのような風景ではなく、ちゃんと奥行きがあって、そのなかに入っていけるものを描きたいと思っていました。
「この世界の片隅に」は一つの物語ではありますが、タイムマシーンのようなもの。この映画を通して、あの時代に入り、そこで見たものの意味を理解してゆく。自分のなかにあるイメージだけで描いていたら、いつまでも向こうの時代が遠いままになってしまう。「こういうものがあった」とわかったことをいっぱい詰め込んで出来上がった世界ならば、『これは本当にあったことなんだ」と納得できると思います』 
と答えられています。
例えば最初の、クリスマスで賑わう広島中島本通りのほんの短い場面ですが
画面に映るヒコーキ堂・立野玩具店・吉岡商店などは全て実在した店です。これらの店のようにこの映画では描かれる情景も仕草も、当時の写真資料や生きている人の証言などを元にできる限り当時の姿に近付けているのです。
 
② 「すず」たちの存在感を出すためのアニメーションのイノベーション:
一見、素朴にさえ見える「この世界の片隅に」の描写ですが、隠されたアニメーションのイノベーションが「すず」の強い存在感を醸し出しています。 
・「ショートレンジの仮現運動」
普通の日本のアニメは、中抜き(原画と原画の間に中間ポーズを描いた”中割り”を入れないこと)でパパッと動かすカッコよさがあるんですけど、それはロングレンジの仮現運動なんです。それに対して、動き幅をもっと小さくしたショートレンジの仮現運動にすると、ロングレンジの時とは”脳の違う部位”が反応するのか、本当に動いているように見えるんですよ。・・・
〝本当に動いているように見え〟れば、すずさんたちキャラクターの存在感はとても大きなものになります』
(劇場アニメ公式ガイドブックの片渕監督の言葉)
この映画では、普通のアニメーションなら入れないところまで中割りを入れ
動画枚数がとんでもなく増えてしまったのですが、そのおかげで例えば冒頭の幼い「すず」が行李を担ぐだけのゆったりとした動きが・・・なんというかとても「良い」のです。「すず」が実在感を持ち、魅力的に映るのです。
そのような丹念な工夫が全篇に凝らされているのです。
  
「自然主義的な描写」
片渕監督のイノベーションは日常所作の描写そのものにも及んでいます。
普通のアニメーションでは、食事の際に箸をつかんだら次のシーンではもう正しい持ち方で描かれていて、観る人は特にそれを変だとも思いません。
しかしこの作品では違います。『箸をつかんだら、お椀のほうの手で箸を支えて、利き手が持ち替える仕草を描いている』のです。片渕監督はこれを「自然主義的な描写」と呼び、全篇がこの方法で作画されています。
「この世界の片隅に」はなんともない日常描写が主役とも言える作品ですが
観客が魅力的な映像世界に没入しているとき、背後ではこのような「隠れたイノベーション」がそれを支えているのです。
 
ここで「茶道」「芭蕉の俳諧」と「この世界の片隅に」を比べてみます。
 
「茶道」の「南方録」には
「茶会を行うにあたり水を運ぶ、薪をとる、湯をわかす…など、一見些事に見えるすべてが仏道修行であり深い意味がある」とありました。
「三冊子」で芭蕉の説く所を言い換えると
俳諧においては道のべの木槿、塩鯛の歯茎、…従来は詩歌の対象となり得なかったすべて、悲苦哀傷にかかわる事象までを美しく表現する対象に拡大し人間の感情-感受性を拡大していくところがありました。
 
「この世界の片隅に」の制作の場ではどうだったでしょうか?
ほんの一瞬映るだけの景色や店舗の当時の有り様を確認するために
 執拗とも思える調査を重ね

行李を担ぐ、箸を持ち替える・・・など、一見些事に見え、普通は「美」の
 対象としないシーンにまで心を通わせ、美しく-愛おしい世界を創造する、
 それは観客の人たちの感性-感受性を拡大する
ものでもありました。
 
「茶道」「芭蕉の俳諧」も「この世界の片隅に」も、いずれも
日常の些事や、美と関係ないと思われたものまでも宗教的・美的・深い意味のあるものに転換するという世界観を共有する
のではないでしょうか。
この論点は、最後の方でまた論じさせていただきます。

 
江戸時代、日々の暮らしそのものが「D表現」の営為に ③礼法や日常の所作の美意識
「この世界の片隅に」の映画でも原作でも「すず」始め登場人物のお辞儀や礼儀作法、集団での協力関係などが美しく描かれています。
日本文化でこれに似たものとしては、前掲「逝きし世の面影」では
当時の日本人が示した礼儀作法などについて、大森貝塚を発掘したアメリカ人エドワード・S・モースの言葉を伝えています。
 
『モースにとっても、「挙動の礼儀正しさ、他人の感情についての思いやり」は、日本人の生れながらの善徳であると思われた。ある店で買物をして一週間後にまたその前を通ると、主人が彼を見覚えていてこの前の礼をいうのに、彼はおどろかされてしまうのだった。臨海実験所を設けるために滞在した江の島で、貧しい漁師や行商人の動作が「礼譲と行儀のよさ」ばかりである事実に、彼は深い印象を受けた。「我国社交界の最上級に属する人」といっしょに宿屋に泊ったとき、その米国人が宿屋の女中の振舞いを見て、「これらの人々の態度と典雅とは、我国最良の社交界の人々にくらべて、よしんば優れてはいないにしても、決して劣りはしない」と嘆声を洩らすのを彼は聞いた』

日本文化の礼法や日常所作の美意識にはどんな意味があるのでしょう?
池上英子先生の『美と礼節の絆-日本における交際文化の政治的起源』では
日本人の美的礼法の美しさは、伝統芸能における身体作法に由来すること
が説明されています。
『日本独特の世俗的な美的礼法の概念は「躾」という言葉で表わされた。この語は現代語で言う子どものしつけとは少しニュアンスがちがってマナーという意味でも使われ、とくに中世末から徳川時代にかけては小笠原流の正式マナーを指すのにも用いられた。「重宝記」や「節用集」が掲載するエチケットに関する記事の大半には、「万躾方」という表題が付されている。…
日本の正式マナーやエチケットはそのからだ訓練の伝統を、…中世芸能独特の美学理論と共有していた。中世芸能の独自性は、物理的次元でからだを美しく念入りに鍛え上げることと、 人格的・内面的な修養を深めることとの関係性を重視したことにあった。 からだとこころの一体化が現実化するのは、芸能におけるからだの動作訓練の反復を通してと考えられた。 このような芸能の見方を推し進めていけば、礼法においても、これをするなといった禁止条項を重ねていくというより、一種のシナリオのように作法の手順を一つひとつ学習し、真似ていくという手つづき重視のやり方に落ち着いたのも不思議ではない。 決められた通りのしぐさを反復励行して身体動作の美しさを獲得することが、日本の礼法コードにおける身体制御の主要なメカニズムとなった。 こうして美というものをめざしながら作法を学ぶことが、からだの欲望や諸機能の制御メカニズムとなったばかりか、そうした社会的なからだを創出することを通じて、社交的ふれ合いをも制御するメカニズムとして機能したのだった。
(『美と礼節の絆 日本における交際文化の政治的起源』池上英子先生)
 
中世の芸能の美学と深い精神性を持つ表現-「D表現」・「D感情」・「D-感受性」は不可分のものなのですが、日本独特の世俗的な美的礼法、躾が中世の芸能の美学理論と伝統を共有するものであるのならば、必然的に日常的な美的礼法・躾には深い精神性を持つ「D表現」・「D感情」・「D-感受性」が随伴していると推定するものです。
日本人には当たり前にも見える「この世界の片隅に」で見た登場人物の昔ながらのお辞儀や礼儀作法にも、このような背景があるのでした。
 
 
江戸時代、日々の暮らしそのものが「D表現」の営為に④「イエ」という組織に見るD表現、「社会関係の中のD表現」
「この世界の片隅に」は昭和の時代の「すず」の家族や身の回りの物語なので藩や企業などの「イエ社会」は出てきません。一方で、朝から晩まで働き通しの「すず」の姿は現代の女性から見れば「がちがちのイエ」そのものかも知れませんが・・・。
江戸時代の日本においては、「イエ」組織もD表現の現れに見えます。
1979年出版の「文明としてのイエ社会」は、日本の組織原則「イエ原則」を歴史を遡り分析しています。江戸時代に各大名家-藩、家臣の家、特に豪農商家で具現化、洗練を見た「イエ」は明治-昭和に至り企業・労働組合の猛烈社員・活動家を生んだのです。
藩や豪農商家の主君や始祖開祖を讃え畏れ、イエのために日々己を反省し工夫を重ね精進し、赤穂の忠臣蔵の四十七志は、主君を救う、主君の名誉を回復するために、敵を滅ぼし主君の無念を鎮めるために命を捧げました。
D感情に突き動かされたD表現です。「葉隠」は忠臣蔵の事件の十数年後に書かれた武士の修養書(当時は禁書の扱い)でしたが、この「葉隠」にもイエの思想が強く感じられます。
「イエ社会」とは芸術ではなく社会関係上で表現された、江戸時代以来の「D表現」の営為と理解できます。江戸時代の「イエ社会」などの社会生活には「宗教ではないが深い情緒や感動を喚起する」側面がありました。
D表現・D感情は「イエ社会」等を通して人の生き死ぬ理由にまで結び付いていた
のです。
 
 
江戸時代、日々の暮らしそのものが「D表現」の営為に⑤ 社会思想や儒者の教えにも
その他、江戸時代には「世俗内行為に救済を見出す」思想が多々存在したことも見逃せません。二宮尊徳の農民への「報徳運動」。石田梅岩の町人・農民・武士にまで波及した「石門心学」。
徳川時代の著名な儒者、室鳩巣や山鹿素行なども同様の思想を著しています。(ベラー「徳川時代の宗教」に依る)
鈴木正三は『世俗の職業生活のうちに仏道修行を実現すべきと主張した。…いかなる職業も神聖である。そこでかれは農民に教えていう、農業すなわち仏業なり。』(中村元選集第8巻)とあります。
 
江戸時代には民衆の間でも文化的な自己修養への新たな情熱が大波のような高まりを見せ(Ⅱ.参照)、その中で「人のあるべき姿」「生きる意味」「社会の在り方」などへの問いも立ち上がり、出版文化の隆盛もあり以上のような社会思想などは人々に影響を与えていきました。
それらの思想を見ると、茶道の「南方録」や禅の思想にも似た、
「日々の暮らしそのものが仏道の修行である」という
「現世の中の修行」という考え方が多くみられるようです。
これら社会思想や儒者の教えは、現世の中の仕事や社会関係の中に、
「宗教ではないが深い情緒や感動を喚起する」という意味で
「D表現」「D感情」に繋がっている
と思われます。

●江戸時代、日々の暮らしそのものが「D表現」の営為に まとめ 『二次的自然-D世界』:


これまでの議論を集約します。
広重の名所絵に「大いなる自然の見守り」が感じられたように、
歌麿等の美人画-生活画では市井の暮らしを「自然にも似た大いなる何者か」が見守っていました。歌麿の「台所美人」は人々の暮らしの美を讃え、
人々は暮らしに讃え・畏敬・暮らしを良くし楽しみ-かつ精進するような感情を発見し、学習し、共有
しました。
それは、思想のような形では表現されず無自覚的だったかも知れませんが、
人びとは日々の営為に、そのような感情を込めていたと思われるのです。
江戸時代の人たちは、自然も人工物も文化も町もその賑いもその総体を人間にとって尊い、自分たちを包み込み護ってくれる自然-「二次的自然」として生きることを発見・学習・共有していったのではないでしょうか。
 
「二次的自然」のもとで、台所仕事・職人仕事・子育て・イエ-会社の仕事・社会的なお付き合い・祭の準備・自然との関り・・・に心を込め精を出すことを深い精神性を持つ営み-D表現の営みにできる文化を造っていきました。
それは私たちの住む世をそのまま二次的現実である「二次的D世界」、
「宗教ではないが深い情緒や感動を喚起する」Deepな場-世界にするもの
と考えます。
これらを合わせ
江戸時代の人たちは『二次的自然-D世界』を発見・学習・共有し、
そのような世界に生きている部分があった
、とまとめ記述するものです。
 
あらためて「この世界の片隅に」で描かれた情景を思い出してください。
・瀬戸内海の海辺が、兄を亡くした男子の悲しみに寄り添うような
・日々の家庭内の仕事が楽しみ精進する美しいものであるような
・街の賑わいの中にいても大いなるものが何か見守ってくれているような
そんな『二次的自然-D世界』を江戸時代の人たちは-そして現代の私たちも-創り上げ、いまもそこに生きている部分があるのです。

江戸の暮らしはD表現の舞台でした。日常の台所仕事も子育ても季節行事も行楽も、行動や振舞いはD表現とする-見做すのです。
モノ-コト-環境と自分で二次的な現実を形成している中で暮らしていました。俗事・非苦哀傷も生の一回性を帯びたD表現の素材です。
その一回性の中に人々は祈り待ち-心が動いていた
のです。 
ただし
江戸時代の人たちは『二次的自然-D世界』の中に生まれ育ち共に生きつつもその意義や精神性は自覚されず言葉で論じたり認識したりされていなかったかと思われるのです。そして『二次的自然-D世界』の文化は江戸時代以降、明治大正昭和に連なる近代化の中で、近代人の言葉で、その意義や精神性が言語化されつつ生き続けているかと思われるのです。

現代の視点から見れば、それらは深い精神性を持ち、それ故に個人の自由を圧迫したり追い詰める部分も多く、そのまま礼賛し現代に適用できるものではないと考えますが、本論では私たちの歴史に関する一つの視座として提示させて頂いたものです。

江戸時代、様々な領域で 『二次的自然-D世界』の兆候が出揃いましたが、
江戸時代以降―明治維新を経て―さらに太平洋戦争-「この世界の片隅に」の時代を経て『二次的自然-D世界』は現代に及ぶものと考えます。

以下、昭和の時代の日本人の精神性の表現の一例として河合隼雄先生の「『日本人』という病」を引用させて頂きます。

●『二次的自然-D世界』それは現代の物語でもある: 「『日本人』という病」

●河合隼雄先生「『日本人』という病」の引用
日本は宗教性というものが現実生活と混ざっているのです。… 聖なる世界と日常がものすごく重なっている生活をしているのが日本人だと思います。
だから、思いがけないところで宗教性が入ってきたりします。…
そして、自然との一体感とか、自然に対する畏敬の念とかいうものが日常生活の中に入り込んでいたり、昔は物が少なかったこともあって、物を大切にするというところにも宗教的なものがありました。…
ご飯粒を落としてはいけませんというふうなことは本当は心の問題、宗教性の問題、物も心も一緒くたになっていますから、日常の生活が宗教に関連してくる。
仏教的に言えば、手ぬぐいなら手ぬぐい一つが即ち仏という考え方になりますから、物をつくるときでも、たとえば五百円の品だとして、五百円程度にパッとつくっていいというふうに日本人は思わないのです。やっているうちに、やたら凝りだします。このへんが歪んでいたらイヤだとか言って、やり直したり、ものすごく細かいことをちゃんとやります。じつは、これがいい結果を生んでいまして、たとえば自動車の部品を作ったりする際、ちょっとした部品でもきれいに磨いたり、ものすごく丹念に作りますから、日本の工業製品というのはすごく品質のいい物ができるのです。

日本人は仕事をきれいにするという中に宗教性が入っているのです。完全な品というものと完全なる仕事というものは、どこかで対応しているのです。非常に完全な姿というものがあり得るのだとか、自分がそれに関係しているのだということで、自分が生きていることと完成とか超越とかいうことが、知らないうちに関係しているのです。日本人の場合は、何気なしにやっているいろいろなことの中に、宗教性がすっと入り込んでいるのです。

河合先生の「宗教性」の語は本論の「D表現・D感情」に該当します。
日本人は「宗教ではないが深い情緒や感動を喚起する」日常を生きているのです。河合先生の記述はD表現を『自覚』している近代人の記述です。

 
河合先生の記述は「この世界の片隅に」制作の描写のようにも見えます。
「この世界の片隅に」の原作を描くにあたり、こうの先生は広島や呉のあの時代についてものすごく詳細に調べ描かれました。そして原作を読まれた片渕監督はそれにすぐに気付き「映画にしたい」と思われ、広島や呉、当時の暮らしの完全な再現を目指し更なる調査を重ねられました。
日常の些細な動作、行李を担ぐ・箸を持ち直すなどを描くことに「やたらと凝りだしたり」「ものすごく細かいことをちゃんと」作画されたのです。
片渕監督は「すず」を実在の人間のように「すずさん」と話されます。映画を観た人が「すず」を実在した人と感じてもらうためには、映画を作る側が「すずさんが実在した」と信じることが一番大事だ、と考たからです。
こうの先生と片渕監督の仕事は、河合先生の言葉の「生きていることと完成とか超越とかいうことが関係している」実例そのものと思えます。
 
 
なお片渕監督によれば『観客に「すずさんを実在の人物」と感じてもらうための3つの柱』の最後の一つは ③「のんさん」の起用 でした。
監督は「内面にすずさんと共通しているようなものを持っていて、演技力があり、すずさんの存在感を表現できる人」としてのんさんにお願いすることに決められたそうです。
監督によれば、のんさんが監督に最初に質問してきたのは
すずさんは表面的に明るい人と読み取れるんだけれども、彼女の内面にある痛みってなんなのか、そういうものがあるなら教えてください」
という質問でした。
「のんさんは、そういうところから読み解いて、表面はすごく快活で明るく振舞っているすずさんの内側にあるものから役柄を組み立てていってくれたんです。」と監督は語られています。
 

●「この世界の片隅に」という映画-長い里帰りとお墓参り

「すず」は「二次的自然-D世界』を生きていた人でしたが、物語の後半の
ある事件と共にその豊かな生の多くを喪います。絵を描くこと、裁縫、料理、野良仕事など、彼女の『二次的自然-D世界』の多くを担っていたものが失われてしまいます。彼女は世界との繋がりを喪いかけます。
さまざまなものを失い、しかし生き続ける「すず」。周囲に頼り世話をかけることを通して、かえって「すず」は周囲の人たちとの切実な関わり合いを持つようになっていきます。殊に、意地悪と思っていた義姉(実際いじわるでしたが)が「すず」にかけた真意の込もった言葉は、「すず」に再び呉で生き続ける力を与えました。
 
物語の終盤に原爆投下後の広島の凄惨な様相が数分間にわたり描かれます。
 
そして「すず」夫婦が世界から「あるもの」を託されることで物語は終わります。 それはある意味で「すず」と似た境遇の人物からバトンのように渡され受け継がれることになったものです。
その「あるもの」は「すずが失ったもの」によって「すず」に授けられたとも言えます。
  
原作の漫画では、物語は戦争の終わった呉の美しい夜景で終わります。現代に生きる私たちは、この呉の、時間が緩やかに流れる安らぎを取り戻した情景の未来に、高度経済成長のあわただしくも活力に満ちた「現代社会」が訪れることを知っています。
「すず」に導かれ昭和の世界に入り、長い里帰りとお墓参りをしたように「すず」たちの思いをたっぷり受け止めた私たちも、そろそろ現実の世界にもどる時分です。
灯火管制の必要がなくなった呉の街に無数の灯りが灯っています。
星が光っています。


〈参考文献〉
「日本文学史序説」(加藤周一) 「日本人の心の歴史」(唐木順三) 「果てしなく美しい日本」(ドナルド・キーン) 「古今和歌集評釋」(窪田空穂)「増補 日本美術を見る眼 東と西の出会い(岩波現代文庫)」(高階秀爾) 「日本社会の歴史(岩波新書)」(網野善彦) 「日本芸能の環境(京都芸術大学補助教材)」(村井康彦監修) 「中世芸能講義」(松岡心平)「ささめごと」「ひとりごと」(心敬) 「異界を旅する能」(安田登) 「花鏡」(世阿弥) 「藝道の哲学 宗教と藝の相即」(倉沢行洋) 「洋泉社MOOK茶の湯入門」「古市播磨法師宛一紙(心の文)」(珠光)「茶道の哲学」(久松真一)「日本教会史」(ジョアン・ロドリーゲス)「茶の湯を学ぶ」(京都芸術大学)「南方録」(立花実山)「兵法家伝書」(柳生宗矩) 「不動智神妙録」(沢庵宗彭) 「江戸町人の研究」(西山松之助編) 「道を極める―日本人の心の歴史」(魚住孝至) 「紫文要領」(本居宣長) 「江戸時代の能楽に関する基礎的研究 https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-02610205/」(竹本幹夫代表)
「歴史の中の江戸時代」(速水融編) 「先祖の話」(柳田国男) 「時間の比較社会学」(真木悠介) 「逝きし世の面影(平凡社ライブラリー552)」(渡辺京二) 「日本の面影」(ラフカディオ・ハーン) 「『日本人』という病」(河合隼雄)「民藝とは何か」(柳宗悦) 「無意識の構造」(河合隼雄) 「日本的性格」(九鬼周造)「昔話と日本人の心」(河合隼雄) 「近代の藝術論(世界の名著8181)(山崎正和) 「木に学べ 法隆寺・薬師寺の美」(西岡常一)「日本中世の百姓と職能民」(網野善彦)「贈与論」(マルセス・モース) 「交易する人間」(今村仁司) 「東洋と西洋 世界観・茶道観・藝術観」(倉沢行洋)「和歌とは何か」(渡部 泰明) 「フラジャイルな闘い 日本の行方 (連塾 方法日本)」「日本という方法 おもかげ・うつろいの文化」(松岡正剛)『美と礼節の絆-日本における交際文化の政治的起源』(池上英子) 「江戸とアバター」池上英子 田中優子) 『美術出版社 日本美術史』(辻 惟雄監修) 『ひらがな日本美術史1~7』(橋本治) 『日本美術史 美術出版ライブラリー)』(山下裕二,高岸輝 監修)  他

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