完全版;20XX年のゴッチャ 28~39

 

首脳会談

 
 金正恩総書記が午後一時半過ぎに人民大会堂に到着すると出迎えた中国共産党対外連絡部の郭燿部長にまず記帳台に案内された。総書記はそこで自分のペンをまず取り出そうとしたのだが、促され、用意されていた毛筆で記帳した。どのみち指紋は取れないよう処置を施してあった。 

 控えの間で衣服等の最終確認を素早くしてから、総書記が会談の場に入ると習近平主席が待っていた。会談の部屋の中まで同行したのは通訳と記録係、護衛二人だけだ。

「お久しぶりです。主席閣下にこのような機会を賜り光栄至極です」

 総書記が一礼して更に少し近づこうとすると習主席は「お元気そうで何よりです」と応じながら、手の動きで総書記にすぐ横の椅子に座るよう促した。主席と通訳の声はスピーカーを通じて聞こえる。

 金総書記が軽く一礼して着座すると習主席も自分用の椅子に座った。かなり遠い。双方の警護要員が退室した。郭燿部長は残る。

「長い隔離は大変辛かったろうと思いますが、貴国の御事情を鑑みれば仕方のないことです。ご苦労をお掛けましたが、お変わり無さそうで安心しました」

 習主席の発言と通訳の声が聞こえた。 

「お気遣いのお言葉に、心より感謝申し上げます」
 総書記はまた軽く一礼しながら、主席の労いに謝意を示した。

 習主席が切り出した。

「早速ですが、本題に入ります。お国の事情はかなり切迫していると我々は理解しています。これまでとは異なる新たな変異株の出現はお国にとっても、我々にとっても、そして、世界にとっても脅威です。総書記閣下はこれをどのようにお考えですか?」

「仰せの通りでございます。我々にとっては生存に関わる恐れのある脅威と申し上げるしかございません。我が国では現在総力を挙げて対応に当たっておりますが、独力で新しい変異株を完全に封じ込め、この世から消滅させるには大変厳しい状況にあると申し上げざるを得ません。如何せん、変異株はワクチンが効かないだけではないようで、我が国の優秀な科学者達も焦りの色を濃くしております」

「では、どうなさるおつもりか、お考えを聞かせて頂けますか?」

 会談の模様はビデオ・リンクで別室に中継されていた。常務委員会のメンバーや国家衛生健康委員会担当国務委員・趙龍雲らがじっと見守っている。

「習近平主席閣下と貴国政府のご助力無しでは大変危険な状況になり得ると危惧しております。何としてもご支援の手を差し伸べていただきたいと熱望しているところでございます」

 事前交渉の感触通り、金総書記は支援を申し入れた。

 習主席が応える。表情や声音はずっと変わらない。

「ご存じと思いますが、我が国でも感染者が出るとその地域を直ちに全面的に封鎖して、全員検査を徹底して繰り返し、陽性者は直ちに隔離、必要に応じて治療するのが常道でした。勝利への道筋です。それと同じ手法で、お国の変異株を封じ込めるべきと考えますが、それで如何でしょうか?」

「何卒、御支援の程お願い申し上げます」

 新型コロナウイルスが最初に流行した武漢は元より、その後三年程に亘って、感染が拡がった他の都市でも、中国政府は封鎖と検査、隔離をこれ以上ない程徹底することによって封じ込めに当たった。所謂ゼロ・コロナ政策だ。それには大変な数の人員と物量を必要とするのだが、中国にはそれが可能だった。

 北朝鮮の総人口は推定でおよそ二千六百万人。武漢の一千百万人に比べれば多いが、中国が本気になれば対処できる。

 習主席が続けた。

「その為には、医師や看護師、検査技師、物資輸送担当ら少なくとも十数万の人員がお国に入る必要があると考えます。それも宜しいですか?」
「承知の上でございます」

 金総書記は中国政府の全面介入を受け入れた。北朝鮮としては、検査キットや治療薬など物的支援だけで済むのならそうしたかったが、全国民の一斉検査をするには専門知識を持った膨大な数の人員も必要だ。やむを得なかった。 

「恐れながら、十分な食料とエネルギーも我々には必要となります。是非とも御支援下さりますようお願い致します」
 金総書記がそう乞うと習主席は頷き、こう応じた。
「それもお任せいただきたい。算段しましょう」

 自国内の都市や村の完全封鎖を続けて変異株の流行が収まるまでやり過ごすという選択肢も北朝鮮政府にはあったが、それでは国がすぐに立ちいかなくなる。ただでさえ足りない食料の流通が滞り餓死者が頻出するようになる恐れも大で、そうなると封鎖は破れる。それに何よりも、金王朝支配の実働部隊である朝鮮労働党と軍のメンバーが動揺するのは避けなければならなかった。ADE株の脅威に最も晒されるのは彼らだからだ。

 北朝鮮では『苦難の行軍』を強いられた二十世紀末に、飢饉で二百万人とも言われる餓死者が出たと推定されているが、王朝は揺るがなかった。党と軍が安泰だったからだ。それが揺らいでしまっては王朝も国も危うくなる。

 習主席が更に続けた。

「早速、両国政府の部長レベルで封じ込め作業の具体的な工程表を確定してもらうことにしましょう。もう叩き台は出来ていますから、それ程時間も掛からずに纏まるでしょう。お互いに、その旨、明確に、直ちに指示を出すことで合意できますでしょうか?」
「承知致しました」
 総書記が応えた。

 金総書記にとって不幸中の幸いは、事此処に至って、北朝鮮に妙な手出しをする国は無いという確信を持てることだった。

 北朝鮮の崩壊は、周辺諸国にとっては悪夢のシナリオであった。中国政府は元より、韓国政府もアメリカ政府も、そして、日本政府も、内心ではそんなことをもう望んでいなかった。

 核・ミサイルとその技術、恐ろしい数の通常兵器、それに膨大な数の難民の流出を各国は恐れていたし、事後の状況がどう展開するのか余りにも不透明だったからだ。下手をすると米中の衝突に発展する懸念さえあった。 

 中朝両国政府以外はまだ確認していなかったが、加えて、今、崩壊されるとADE株まで流出する。口の悪い評論家の中には『貧者の恫喝』と評する向きもあったが、その言い方の是非はともかく、北朝鮮による無言の恫喝はまさに一層強まっていたのである。

 習主席が手元の茶を口に含むと金総書記もそれに倣った。会談の最初のヤマは越えた。

 一息入れると、習主席が再び口を開いた。

「さて、そろそろ、会談の公式発表の内容と段取りを確認する頃かも知れないですが、もう一つ、総書記閣下に受け入れてもらいたいことがあります。それは…」

 会談は続いた。 

 

ゴッチャ


 その頃、メトロポリタン放送のパリ支局長、大友祐人は愛娘を連れて自宅近くの公園に居た。時差の関係でパリはまだ朝だ。そろそろ小学校に連れて行かねばならぬ時刻だったが、少しパパと遊びたいと言うので寄ったのだ。

「パパ、ゴッチャしよう!」と娘がねだった。

「少しだけね」と大友が応えると、「パパが逃げてね」と言って娘が数えだした。

「一、二、三、四…」
 大友が逃げるとすぐに娘の嬌声が追ってきた。

 大友の愛娘はパリの国際学校の小学校一年生だ。日本だとまだ幼稚園の年長組なのだが、

 パリでは秋から小学校に進学した。大友は娘を地元・フランスの公立校かドイツ語学校に通わせたかったのだが、妻の強硬な反対に遭い主に英語で授業する国際校に入れたのだ。

「フランス語やドイツ語が少々出来ても、英語がチンプンカンプンでは駄目でしょ?ちょっと格好良いだけで、社会人になってから潰しが効かないわ」

 そう言われて大友はグーの音も出なかった。大友自身、ドイツ語ならペラペラだったが、英語やフランス語は日常会話に毛が生えた程度だった。妻の言わんとするところは良く分かったからである。 

 その国際校で最近娘がはまっているのが「ゴッチャ」であった。

 大友がベンチの前でまごついた振りをすると娘が大喜びで大友の足に抱き着き「ゴッチャ」と言って今度は自分が逃げる。大友は猛スピードで十数え、追った。

 今の娘には「ゴッチャ」としか聞こえないようだが、英語では、それは「I’ve got you=捕まえた!」で、略せば「got’ya・ゴッチャ」と聞こえなくもない。要するに鬼ごっこのことを娘はそう呼んでいたのである。鬼ごっこは世界共通だ。言葉は重要ではない。

 大友は少し息苦しさを感じたが、頑張って走り娘を捕まえた。 

「ゴッチャ!」

「きゃはははー」

 娘はこの上なく楽しげだ。

「そろそろ行かないとね」
 大友が腰を落としてそう言い聞かせると娘は渋々頷いた。
「もうすぐ慣れるからね」

 娘が英語の授業に付いていけるようになるまでもう少しの辛抱だ。大友は娘の手を引いて、すぐ近くの学校に向かった。

 本当に出現するのか定かでは無かったが、まずターゲットを見つけるのが先決だった。彼も鬼ごっこを始めるのだ。 

 噂話

 
 その日の夜、メトロポリタン放送のニュース制作部長・雨宮富士子は大学時代の友人、太田聡美と久しぶりに会食していた。

 太田は外務省のキャリア外交官で同期の太田博一の元妻であった。離婚後も仕事では太田姓を名乗っている。旧姓にまた戻すと多岐に亘る仕事の関係先にそれを一つ一つ連絡するのが面倒だったせいもあるが、姓の変更の連絡は同時に離婚したことも自ら宣伝することになる。それが意に染まなかったらしい。それに吹っ切れた訳でもないようだった。

「どうやら、うちの元ダンに良い人が出来たらしいわ」

 聡美が幾分不愉快そうに呟いた。

「あら、穏やかじゃないわね。どんな話なの?」

 聡美は赤ワインを少し口に入れると応えた。

「良く分からないんだけれど、女性記者らしいわよ」

 雨宮は業界絡みのこの手の噂話が大好物だ。目の前にある小洒落たフランス料理など比較にならない。

「えー、何処の人?」
「それも部長クラスのベテランらしいわ。年齢的にはそれで不思議ではないのだけれど…テレビ局の女性という噂もあるわ」
「あら、まあ。気になるわよね?」
「そうね。少しはね…」

 聡美は顔を曇らせた。

 雨宮は目を輝かせた。女性記者で部長クラスは日本のメディアでももう珍しくもなんともないが、テレビ局の部長クラスの女性記者で独身となるとそう何人も居ない。きっと顔見知りなのだ。

「何処の社か分からないの?」
「そこまではまだなのよ」
「ねえ、分かったら教えてよ。会社が分れば絞り込めるから。どんな女か教えられるわ」
「そうね。分かったらね」

 雨宮はもう特ダネを掴んだような高揚感に浸っていた。

 北京でもすっかり夜が更けていた。しかし、首脳会談に関する発表も、これといった報道もない。初日の会談は既に終わり、金正恩総書記は市内の何処かで夜を過ごしている筈だったが、北朝鮮大使館には立ち寄っていない。報道陣に総書記の行方は杳として知れなかった。 

 

杮落し


 その日の夕暮れ時、パリ十一区のバタクラン劇場前の小さな広場と路上は野次馬で一杯だった。劇場正面には何台ものカメラが陣取り、運良くチケットを入手した観客達がその前を順に劇場に入っていく。

 小型カメラを手に持ち、そこかしこに散らばったメトロポリタン放送のスタッフが入場者を撮影しながらチェックしている。圧倒的に年配者が多い。

 日本時間では翌未明の二時半予定の開演時刻が近づいていた。

 東洋系の若い女性を連れた、父親のような年代の初老の男性と若い男の三人組の姿を山瀬が見つけて一応こっそり撮影したし、日本人風の年配のカップルなどを見掛けてやはり一応隠し撮りしたが、正哲と思しき人物は見当たらない。

「今日は来ないのかな…」
 大友が応援の山瀬に言った。
「そうかも知れませんね」
「ぼちぼち顔出しレポートを撮らないとね。アリバイだからね」

 大友はその準備を始めた。

 周辺の野次馬の数は増えるばかりだ。丁度、バレンタイン・デーに当たるせいか、紙コップの暖かい赤ワイン片手のカップルが多い。かなり騒がしい。

「こちらはパリのバタクラン劇場前です。ギターの神様、エリック・クラプトンのファイナル・ツアーがここで間もなく開演します。あの惨劇の追悼コンサートでもあります。周辺はチケットを買えなかったファンで黒山の人だかりです。皆、期待に目を輝かせています」

 大友がレポートを撮り終えるや否や、中からいきなり大音響が響き渡った。前振りも挨拶もない。

 大ヒット曲「いとしのレイラ」のイントロだ。大歓声が沸き起こる。中も外も大喜びだ。

 誰もがリズムに合わせてジャンプし踊り始める。

「丁度、今、開演したようです。外も大歓声です」 

 大友も山瀬もクラプトンの音楽にはそれ程馴染は無かったが、この曲なら知っていた。踊り出すことはなかったが、釣られて少しウキウキとしてきた。 

「凄いね」

 レポートを撮り終えた大友が山瀬に大声で話し掛ける。山瀬の返答は大音響に紛れて判然としない。続いてクラプトンの皴枯れ声が聞こえて来た。全盛期のような張りは無いが、歌声は健在だ。

「レイーラ―」

 コーラスと共にさびに入った。群衆も合わせて叫ぶ。野次馬も含め観客の興奮はのっけから最高潮に達した。

 その頃、金正恩総書記は特別列車の中で眠れぬ夜を過ごしていた。首脳会談後の内部の打ち合わせが終わったばかりで、周辺は本国への指示・連絡や公式発表の文案の詰めなどでまだ忙しくしていた。

 総書記は習近平主席との会談を反芻していた。

 習主席は中国の全面介入だけではなく、WHO調査団と西側主要国の支援も受け入れるよう求めてきたのだ。全く想定していなかった訳ではなかったが、すぐに受け入れるのは躊躇いがあった。だが、断ることは出来そうになかった。ただ、今日の会談では回答を留保することは可能だった。

「明日まで考えて頂いて結構です。じっくり相談してください」
 習主席はこう言ったのだ。

 総書記が自ら誰かに相談することなど滅多にない。しかし、それは既に終わっていた。

 何とかより良い交換条件を引き出すしかないという結論だった。誰と相談するのか「習主席はもう知っているのだろう」と察するしかなかった。中国政府は北朝鮮政府の意思決定のプロセスをしっかり把握している筈だ。

 総書記は特別車両の執務室の片隅のクローゼットに目をやった。一瞬、近寄るそぶりを見せたが、止めた。二回目の会談は翌午前九時に設定されていた。


フォギー・ボトム

 

 フォギー・ボトム、直訳すると「霧の底」はワシントンのホワイト・ハウス西方にある地区の名前で、同名の地下鉄駅もある。その地区にアメリカ国務省の本省ビルがある為、フォギー・ボトムと言えば国務省を指すこともあった。

 本省ビルの七階には国務長官室や副長官室など首脳の部屋が固まっていて、エレベーターを降りるとホールの正面にセキュリティーボックスが並んだ棚があった。珍しいことでは無いが、来訪者はまずそこに自分の携帯を預けなければ先に進めない。主に盗聴を防ぐ為だ。 

 特に心配なのが、持ち主の知らぬ間にスマホがスパイ・ウェアに感染させられていて、第三国の情報機関に会話の内容が筒抜けになることだった。そんなことまで警戒が必要な程スパイ・ウェアは発達して久しかった。 

 現地時間のその日昼過ぎ、ワシントンにある中国大使館の参事官・秦強は記録係の二等書記官と共にエレベーターホールのセキュリティーボックスに自分のスマホを預けるとトム・ワイズ副長官の主席補佐官の部屋に入って行った。

「ようこそ、秦参事官、お元気ですか?」
 顔見知りのエレン・シンセキ補佐官が急な来客を型通り迎えると秦は応えた。
「お陰様で元気にしております。シンセキ補佐官もお元気そうで何よりです」
「今日はどのようなご用件ですか?」 
 首席補佐官はすぐに本題に入るよう促した。

 文字通り世界を相手にするアメリカの国務省首脳はいつも忙しい。そして、副長官の用向きを全て陰で支える首席補佐官は更に多忙であった。この為、急な来客を受けることなど滅多になかったのだが、この日の秦参事官は例外であった。それにしても多くの時間は割けない。面会は十分間の予定だった。 

「既にご承知と追いますが、本日、北京で中朝首脳会談が執り行われ、その場で、習近平主席が北朝鮮で新型コロナウイルスの変異株が新たに出現したことを確認されました。懸念された通り、ワクチンが効かない変異株です」

 アメリカ側も想定した通りの内容であった。

「なるほど、何故、ワクチンが効かないのかは?」
「それはまだ確認作業を続けているところです。判明し次第、お伝えすることになるかと思います」
「分かりました。では、今後、どのように対応されることになりそうですか?」
「それはまだ確定しておりませんが、我々は北朝鮮だけで封じ込めに成功するとは考えておらず、北朝鮮政府も我が国の全面支援を受け入れることに前向きです。この後、再び、首脳会談が開催される見込みで、委細はそこで決まると思われます」

「我々が出来ることは?」
 シンセキ補佐官が水を向けた。駆け引きをするような状況ではない。

「中国政府としては貴国を始め西側各国の支援も必要と考えておりますが、それがはっきりするのは二回目の首脳会談に於いてかと思います。本国からの指示でこのように異例とも言える形で途中経過をお伝えした訳ですが、この問題に関する中国政府の誠意ある姿勢は十分にご理解いただけると思います」

「それは勿論理解し評価致します。続報も頂けるということですね?」
「はい。最終結果については、習近平主席はご自身でベン大統領閣下に直接お伝えしたいとお考えのようです。アメリカ政府におかれましては、その準備もお願いしたく、こうして参上した次第です」
「分かりました。直ちに関係部局に伝えます。変異株次第ですが、前向きに検討することになるでしょう。時間的な目処をお教えいただけますか?」「まだ確たることは分かりませんが、早ければ明日夜、遅くとも週明けには可能になるかと…。ただ、首脳オンライン会談のタイミングにつきましては改めてご相談申し上げたいと考えております」
「承知しました。他にはありますか?」
「いえ、これでお伝えすべきことは完了しました」

 用件を終えると秦参事官と書記官は国務省を後にした。内容的には大使か筆頭公使が直接伝えるべきことかも知れなかったが、国務省の出入りをチェックするメディアに見つかる恐れがあった。 

 秦のような参事官レベルであればその可能性は低い。玄関近くでマイクを突きつけられるようなことは無かった。

 シンセキ首席補佐官は直ちに壁一枚隔てた執務室で待ち構えていた副長官に報告をした。

 内容はすぐに長官とホワイト・ハウスにも伝わり、オンライン首脳会談の準備が始まった。アメリカ政府の支援計画案の再確認も入念に行われた。

 翌朝の日本各社の関連報道は「初日の会談終わる。中朝首脳の協議は二日目以降も続く見込み」といった程度で目新しい内容は無かった。新しい映像は人民大会堂を出た金正恩総書記一行の車列のみであった。

 メトロポリタン放送は大友のクラプトン・コンサート・レポートも報道したが、こちらも驚きは無かった。

 

調査団招聘

 

  翌日、二回目の首脳会談はほぼ予定通り始まった。

「ごゆっくり休まれましたか?」
 簡単な朝の挨拶を済ませると習主席が尋ねた。
「お気遣い有難うございます。お陰様で何とか…」

 金総書記が頷き微かな笑みと共に応えた。やはり寝不足なのかも知れなかった。

「早速ですが、WHOの調査団も受け入れて頂けますか?」
 習主席はすぐにまた本題に入った。雑談の為に会っているのではない。「WHOの調査団となりますとアメリカ人や欧州人も加わることになると存じますが、それにはやはり抵抗があります。国民の反発も必定です。何とか良い便法は考えられませんでしょうか?例えば調査団の構成で工夫することなどは可能でしょうか?」

 金総書記は条件闘争を試みた。 

「問題の全く新しい変異株、ADE株とも言うそうですが、それを封じ込めるには世界が一致して協力することが重要です。その為にはWHOに積極的に関わってもらわなければなりません。となると、やはり調査団の構成はWHOが決めるべきことでしょう。さもないと信用問題にも関わります」

 調査団の構成に注文を付けて、痛くもない腹を探られるのは中国としては敵わない。また何かを隠そうとしていると疑われるに決まっているからだ。北朝鮮でのADE株出現は政治的に中立で科学的とされるWHOに最終確認してもらう必要があった。譲るわけにはいかない。

 しかし、金正恩総書記も粘る。

「大規模なWHO調査団も入るとなりますと、受け入れ態勢に不安が生じます。都市や村の完全封鎖をしながら貴国と共に我が国政府は変異株の封じ込め作業に当たるのですから、それに加えてWHO調査団向けに人員や車両、受け入れ施設を用意するとなると大変です。ガソリン、電力の供給も問題が生じる懸念があります」

「なるほど、その御懸念なら理解できます。医薬品類は西側からも十分に提供してもらいましょう。燃料は我が国からたっぷり供給しましょう。私が保証します。差し当たって発電用重油はパイプラインの容量一杯にすぐに送らせましょう。必要な限りそれを続けます。ガソリンは海路と陸路両方で最大限お送りしましょう。勿論、食料も。大船に乗ったつもりでいてください。それで如何ですかな?」

この程度の追加の支援の約束なら中国にとってはお安い御用だった。

「承知致しました。主席閣下に保証していただけるのでしたら、これ以上の安心はございません。我々もその線で作業を進めさせて頂きます」

 少し間を置いて金総書記は応えた。これ以上の条件を付けても益はない。 

「では、この点も一致しました。支援は準備が整い次第に実施するとして、早急に事務方に最後の詰めの作業を開始してもらいましょう。総書記閣下も既に下準備の指示は出されているものと理解しておりますが、この会談が終わり次第、お互い、実行命令を発する方針でよろしいですか?」

 習主席がこう確認すると金総書記が応えた。

「はい。仰せの通りにするつもりでいます」

 別室で会談の模様をモニターしていた中国政府の関係幹部は直ちに現場に指示を飛ばした。

 会談は完全に習主席のペースで進んだ。

「続いて、対外発表の内容と段取りについて確認したいと思います。中国政府の発表案文は既に貴国の御担当者にお渡ししたと思いますが、友好的な協議の結果、新型コロナ感染症対策等の為、中国が大規模支援を実施することで合意したとだけ我々は簡単に発表するつもりです。
 変異株の出現とそれに伴う都市等の完全封鎖、封じ込めの開始や、中国政府の全面支援の受け入れ、更にWHO調査団の招聘については貴国から発表して頂きたいと考えています」

 金総書記ははっきり頷いた。

 こうした重要な合意はまず北朝鮮政府に発表して貰い、後でごたごたしそうな要素をできるだけ排除したいと中国政府は考えていた。発表された合意の内容が微妙に異なっても困る。国内向けの声明ではないのだ。よって発表のタイミングも重要であった。

「中国政府の発表は明日午後以降にするつもりです。貴国の発表は、その後、総書記閣下の御帰国前にお願いします。よろしいですか?」

「帰国前…ですか?」

「ADE株の封じ込めは世界の安全に関わる重大事案なのは言うまでもないことです。考えにくいとは思いますが、何か齟齬が生じると困りますので…」

 発表のタイミングは、本来であれば事務方が詰め、部長・大臣クラスで決裁すれば良い事かも知れなかったが、この時ばかりは習主席自身が畳み掛けるように確認を求めた。何と言っても緊急事態であったし、どのみち北朝鮮ではトップの承認なしに首脳会談の発表内容やそのタイミングが決まることなぞあり得なかった。

 独裁国家においてはトップの裁断無しに政策が決まり、それが動き出すことは無い。全てトップ・ダウンなのだ。

 ただし、それには迅速な決断が可能になるというメリットはあったが、それは一面の真実に過ぎなかった。

 全体としてみれば、後難を恐れて、他の誰一人としてトップの意向や前例に則さない判断をしようとしなくなり、実に様々な事柄があらゆる段階で停滞してしまいがちなのだ。

 そして、自分に都合の悪いことは誰もが隠すか見て見ぬ振りをするようになる。そうなるとトップ自身がいちいち決裁しなければならない事柄が増え過ぎてしまうのだ。

 これが独裁国家の欠点であった。 

 どんなに優秀な人間にも一日は二十四時間しかない。三百六十五日、不眠不休で働き続けることもできない。国家の運営、特に経済分野や科学技術の振興、保健・衛生分野など巨大な民生部門で、独裁国家が行き詰まる大きな原因になっているのだ。 

今 や現代の皇帝と呼ばれるまでに独裁体制を強化した習近平主席も、程度の差こそあれ、似たような悩みを抱えていた。しかし、同病相憐れむ余裕は無い。 

 それに幸い中国の官僚機構には四千年の歴史がある。そして、今も極めて優秀であった。

 故に、ADE株が手の付けられない状態になる前に、言わば中国に丸投げしてもらうのが一番手っ取り早かった。ただし、中国だけが責任を背負わされるのは避けなければならなかった。敵は変幻自在で人間には見えないウイルスだったからだ。そして、勿論、ADE株との共存は出来ない相談だった。

「ところで御帰国はまた列車をお使いですか?」

 主席が尋ねた。

「いえ、飛行機を呼び寄せたいと考えております。構いませんでしょうか?」

 隔離の必要はもう無い。列車にはもううんざりしていた。

「それは構いません。列車の長旅はお疲れでしょう」
「有難うございます。それでは、折を見て呼び寄せたいと思います」

「御病人も御一緒に御帰国ですか?」

 この問いに金総書記の表情が一瞬強張った。習主席は変わらず無表情だ。

「いえ、誠に勝手ながら、こちらから他国に向かわせたいと思っております。その為の専用機も呼び寄せたいのですが…」
「一刻を争うのですか?」
「いえ、そのようなことはございませんが、のんびりとはしていられないかと存じます」
「成る程。我が国にも優秀な医師は沢山おりますが…」
「御心の広い有難いお申し出、誠に感謝申し上げます。しかしながら、準備は万端既に整っておりまして、その方がずっと早いかと存じます」

 総書記としては、こちらも何としても飲んでもらわなければならなかった。冷汗が滲む。

「分かりました。仕方ないですね」
「ご理解を賜り恐縮至極です」

 これで空飛ぶ救急車の飛行許可も間無しに降りるだろう。総書記は心より安堵した。主席に続いて、総書記もお茶を口にする。喉が鳴った。

「初めてお会いした時のことを思い出します。お父上と初めて北京に御出でになった時の事です。あの時、私はまだ副主席でしたが、時の経つのは早いものです。年月を重ね、二人とも随分貫禄がつきました」

「はい、そのようでございます」

 金総書記は苦笑いを浮かべたようだった。

「あの時、二人で短い時間でしたが、こうして茶を飲みながら歓談したのを昨日の事のように思い出します。覚えていらっしゃいますか?」
「はい。それ以来の主席の御厚誼には海よりも深く感謝し、改めて御礼申し上げます」

 ここで習主席が初めて笑みを浮かべたが、すぐに真顔に戻り、こう呼びかけた。

「敵はADE株です。失敗は許されません。両国で心を合わせ戦い、勝利を収めましょう。断固たる決意で行動しましょう」
「承知致しました。何卒、宜しくお願い申し上げます」

 二回目の会談は終わった。席を立ち列車に戻る金総書記を習主席はその場で見送った。

 別室に移った主席は劉正副主席を呼び出し、こう告げた。

「やはり違うな。確認を急いでほしい」
「承知しました」

 一瞬驚いたような表情を見せた劉副主席がそう応えると主席は付け加えた。

「だからと言って、対応は変わらぬ。それも肝に銘じて行動を始めて貰いたい。ADE株の詳細な検査も進めて良い。安全第一に」
「はい。仰せの通りに」
「次はマイク・ベンと話したい。すぐにも設定して欲しい」

 大きく頷き一礼すると劉副主席は足早に部屋を後にした。

 北京に集結した記者達は息をひそめて成り行きを見守っていたが、発表は相変わらずない。

 報道陣に会談の成否はまだ分からなかった。


出動


 パリ郊外のオルリー空港近くのホテルでスタンバイしていたAAI、エア・アンビュランス・インターナショナルのパイロット、トニー・ジョンソンに出動命令があった。中国当局から飛行許可がやっと下りたのだ。

 最終チェックを慌ただしく済ませると、夜明けと共にガルフ・ストリームは離陸した。医師や看護師らのチームも同乗していた。北京時間で翌未明には到着する予定だった。

 ジョンソン機長には、給油を終え、患者一行が搭乗したらすぐに北京を出立するよう指示が出ていた。 

 ほぼ同じ頃、平壌空港を中国軍の小型輸送ジェット機が極秘裏に離陸した。積み荷は厳重に封印されたADE株で運搬役は完全防護の軍の科学者達だった。行先は武漢にある中国科学院のウイルス研究所だ。軍の施設に持ち込む選択肢もあったが、あらぬ疑いを避ける為にも武漢の研究所が選ばれた。輸送機の行先はアメリカに間違いなくモニターにされている。 

 あらぬ疑いとは、新型コロナが生物兵器として人為的に作られたものではないかというものだ。

 アメリカの情報当局もごく初期の頃からその可能性は限りなくゼロに近いと断じていたが、世間の疑念は払拭されなかった。フェイク・ニースに違いないのだが、新型コロナウイルスの起源が依然謎のままだったことも手伝って、疑いを根絶するのは非常に困難だった。

 世界の軍民両方の研究者にとって、コロナウイルスのようなRNAウイルスを兵器化するのはあり得ない選択だ。

 遺伝情報が二本鎖の状態で二重螺旋と呼ばれる構造になっているDNAに比べて、一本鎖の遺伝情報しか持たないRNAウイルスは不安定で、複製の際にコピーエラーを起こしやすい。つまり、変異を起こしやすいわけで、これを兵器化して使用するとすぐに変異して、遠からず自分達にも襲い掛かって来るのは必定だったからだ。それ故、軍事用にRNAウイルスに手を加えることは事実上の禁じ手になっていた。

 純粋な科学研究目的で、ゲイン・オブ・ファンクションと呼ばれる遺伝子操作試験が行われることはあったが、厳重な管理の下、特別な研究施設で実施される筈のこうした試験で、ウイルスが漏出する可能性もゼロに近いと見られていた。

 もっとも初期の調査段階、例えば、蝙蝠の保有するウイルスを分離・抽出する際に気付かないうちに人間に移ってしまった可能性は否定されなかった。そのようなレベルの作業までBSL4の施設で行われる可能性は無かったからだ。勿論、中間宿主を経て、ヒトに感染するようになった可能性の方が大きかったが、その起源とヒトへの初期感染ルートはなお不明だった。 

 間違いないのは、新型ウイルスのヒトからヒトへの感染流行は武漢で始まったということだけだった。その武漢の研究所にADE株を持ち込んで詳しい検査を行うのは、それはそれで勇気のいる決断だったが、背に腹は代えられない。北朝鮮から漏れ出し、中国国内に広まったら、とんでもない事態になるからでもある。

 中国軍が運搬するADE株の保管容器は特別仕様だった。一定以上の揺れを感知した時や、定められた複雑な手順以外で取り出そうとした場合、ウイルスが間違いなく死滅するように作られていた。人間が容器を強く揺らしたり、床に落とした程度の衝撃で、溶融材に浸るのだ。万が一、輸送中に事故が起きても、漏れ出す可能性は無かった。

 武漢ウイルス研究所では、まず遺伝情報を再解析し、Sタンパクの構造を調べ、感染力や毒性を確認する準備が進められていた。そして、既存のワクチンや治療薬がどのように作用するか確認し、次いで、間違いなく時間は掛かるが、新たなワクチンや治療薬の開発も視野に入れて研究を進める手筈になっていた。  

 

米中首脳会談


 ホワイト・ハウスと中南海の機密回線が繋がり、ベン大統領の前のモニターに習主席の顔が映し出された。北京時間では昼過ぎだったが、アメリカ東部時間では金曜の深夜十二時を回り、土曜の未明に入っていた。異例の時間帯だ。予告されていたとは言え慌ただしい。

 いつもの表情で習主席が切り出した。

「ベン大統領閣下、お元気そうで何よりです。このように遅い時刻に御時間を頂き、閣下の御協力に心より感謝いたします」

 同時通訳が一段落すると、ベン大統領は破顔一笑し応えた。

「何の問題もありません。早い方が良いのはお互い承知の事です。それで、北朝鮮の最高指導者殿との会談の結果は如何でした?」 

 ベン大統領が金正恩総書記の名前や正式な肩書に言及しなかったことに習主席は一瞬ぎくりとしたが、そんなことはおくびにも出さず説明を始めた。

「単刀直入に申し上げますと、北朝鮮は我が国の全面支援を受けることで合意しました。週明けにも我が国の支援物資と医療・保健チームが北朝鮮に入ります」
「全面支援となると極めて大規模なものになるのですな」

 中朝国境地帯の最近の動きから、そうなるだろうとアメリカ政府は既に見ていた。 

「支援物資の量や人員の規模はどの程度に膨らむ見込みですか?」
 ベン大統領が尋ねた。

習主席が応える。
「食料やエネルギーも含めれば支援物資は百万トン単位になります。人員もそれに応じて、十数万人という規模を下ることは無いでしょう。必要に応じて追加投入もあると思われます」

 事実上、北朝鮮は中国の半占領下に置かれるとも理解したベン大統領は更に尋ねる。目は鋭い。

「我が国も医療チームを派遣する用意がありますが、如何ですか?」
「それは北朝鮮が受け入れないと思われます」

 間髪を入れず、ベン大統領は問い質した。

「貴国だけで対処されるおつもりということですか?」

 北朝鮮は元々中国の同盟国とは言え、余りに好き勝手をされても困るのだ。事実上、北朝鮮を中国が半占領下に置く措置がなし崩しに恒久的なものになるのも認める訳にいかない。釘を刺さなければならなかった。

「いえ、我が国もそのようなつもりは全くありません。例えば、WHOから調査チームを北朝鮮は受け入れます。我々としても、変異株の確定調査はWHOに任せるつもりです。ですので、WHOの先遣隊にも週明けには北朝鮮入りしてもらいたいと我々は考えています」

「成る程、すると我が国や欧州はWHOに協力するだけと言うことになりますが、それだけですか?」

「いえ、治療薬を始め医療関係物資の提供をしていただけるのであれば、彼らも喜んで受け入れるでしょう。勿論、中国経由で運び込むことになりますが、治療薬の配布などはWHOの調査団に監督してもらうことで如何でしょうか?」

「ではWHOの派遣人員の規模や人選はどうなりますか?」

「それはまだ調整が必要かと思いますが、基本的にはWHOが決めるべきことと彼らも理解しています」

「すると私達西側の医薬品や検査キットなどは、御国経由としてもWHOに搬入と配布のモニターもしてもらうという理解で宜しいですかな?」

「中国政府としてはそうあるべきと思っています。これは彼らも受け入れるでしょう」

 治療薬と検査キットへの信頼は西側の物の方が遥かに高い。これは中国も北朝鮮も認識していた。封じ込めにはどうしても必要な支援なのだ。

「加えて、食糧支援を我々もするとなるとWFP・世界食糧計画に関わってもらわねばなりませんが、これは北朝鮮も受け入れますか?」
「それは今後の検討課題になるでしょうか…簡単ではないかもしれません」 

 アメリカの食糧支援が結果的に北朝鮮軍の備蓄になってはまずい。モニター無しの食糧支援は出来ない相談だった。 

「わかりました。食糧支援については今後の検討課題と理解しましょう」とベン大統領は応え、続けた。
「話は戻りますが、北朝鮮で出現した変異株はやはりADEを引き起こすと確認されたのでしょうか?」

「最終確認はこれからWHOの手によってなされるべきと我々は考えています。しかし、その恐れは強いと我が国政府も北朝鮮政府も考えています。申し上げるまでもありませんが、事は極めて重大です。北朝鮮一国の問題ではありませんし、我が国だけの問題でもありません。世界が大いなる危機に直面しているのです。貴国始め西側諸国も我々と一致団結して対処すべきことだと思います。これは御理解頂けるものと確信しています」

「その点は理解します。では我々も医薬品などの支援の準備をすぐに始めましょう。WHOの調整が済み次第、運び込みましょう。欧州との調整も我々が担いましょう」

「胸突き八丁はこれからですが、ひとまず意見が一致したことを評価したいと思います」

 米中首脳会談はADE株の封じ込めに協力して当たるということで基本合意した。

 習近平主席が再び口を開いた。 

「最後になりますが、今後の予定をお知らせします。明日、日曜の朝に、中朝首脳会談をもう一度開きます。御反対がなければ、この中米首脳会談の内容も金正恩総書記に伝えるつもりです。それが終わった時点で、我が国は中朝首脳会談の結果、我が国が全面支援を実施することになったと手短に発表します。ワクチンの効かない変異株の出現と中国のWHO調査団の受け入れは、その後、多分、平壌時間の同日夜に北朝鮮が発表することになる見通しです。お含み下さい」

「分かりました。北朝鮮の発表まで、我々も何も公表しないようにします」

 この米中首脳会談の内容がアメリカ・メディアに漏れないという保証はどこにもなかったが、北朝鮮が発表しその内容を確認するまで、先走りは禁物とベン大統領も認識していた。北朝鮮がいつ心変わりをするか安心できないからだ。ただ、事は重大である。失敗すれば北朝鮮が崩壊の危機に瀕することは彼らも分かっている筈だが、用心は必要だ。

 幸い週末に入る。きつい口止めをすれば、多分、ワシントンのメディアにも会談の中身までは漏れないだろうとベン大統領は期待した。

 

箝口令


 日本時間のその日土曜夕方、北京で取材を続ける菜々子達は、半ば手持無沙汰に喘いでいた。厳しい取材制限の為やれることは限られていたのだ。

 菜々子も彼女の情報源とメッセージのやりとりは出来たが、「何も分からない」という一点張りだった。菜々子が「でも、もう二回も会談したと思うのですが、それはまだ終わっていないということでしょうか?」ともう一押しするとやはり「何とも言えない」という回答だった。きっと会談は続くのだろうと推測するしかなかった。

 岩岡の友人も「何も分からないんだ。箝口令が敷かれているらしいぜ」と言うのみであった。こうなると中国メディアから情報が漏れ伝わる可能性も無かった。桃子のネタ元も「まだ続いているようだ」と言うだけで内容については憶測の域を出なかった。

夕方のニュースも通り一遍の内容しか出せなかった。各社同様だった。 

「少し飲むしかないですね」 

 菜々子は岩岡に言い、缶ビールを開けた。待つしかなかったのだ。缶ビール片手に夕食のデリバリーを突っ付きながら岩岡が言った。

「珍しいっちゃ珍しいよね。こんなに何も出て来ないっていうのはさ」
「そうですよね。でも、もう一度会うとしても流石に明日か明後日には何か発表があるのではないですか?それでも何もないとなると会談は不首尾に終わったのではないかとまた騒ぎになるでしょうから、きっと動きますよ」    
 菜々子が応えた。

「そうかも知れないね。では、一両日中に発表なり動きがあるという前提で、我々はどう動くのが良いか考えてみない?大した取材も出来ない北京にこんなに沢山人が居てももったいないしさ」
「そうですね」
「一班、丹東にまた入れてみるかい?国境の動きも気になるしさ」
「それは良いかも…」
「戸山班を明日朝一番に行かせよう。もしも支援がすぐに始まれば確認できるだろうから」
「分かりました」 

 菜々子が同意すると岩岡はすぐに戸山に連絡した。北京支局スタッフと共に丹東入りを指示したのだ。やはり手持無沙汰だった戸山達は夕食を掻き込むとそそくさと準備を始めた。

「それにしても、大きな動きがあると見た方が良さそうですね。これほど神経質になっているというのは…ADE株が出現した可能性が高いのでしょうね」

 菜々子がつぶらな瞳を岩岡に向けた。岩岡は一瞬ぎくっとしたが、邪念を振り払うように応えた。多くの男達が惑うのも無理はない。

「そうでなければ、このムードは説明できないかもね」
「戸山班には念の為治療薬も忘れずに持っていくようにさせましょう」 

 翌日の手配を支局スタッフが終えると菜々子は近くのホテルの自室に戻った。 

 湯船に浸かりながらつらつら考えてみるに、新型コロナを巡るこの先の見通しは芳しいとは言えなかった。確たることは分からなかったが、ADE株の世界的流行は是が非でも防いでもらわなければならない。関係各国一丸となって封じ込めに成功してもらいたいと菜々子も心の底から願った。 

 運動不足で彼女のむっちりとした身体は重い。加えて、気持ちも暗澹としてきた。しかし、今、憂いても仕方ない。

 菜々子は太田博一の事を思い浮かべながら「よーし、元気を出しましょう」と自分に言い聞かせた。

 

公演二日目

 

 再び「いとしのレイラ」のイントロが鳴り響いた。日本時間の翌未明、パリのバタクラン劇場でクラプトンのファイナル・ツアーの二日目の公演が始まったのだ。

 メトロポリタン放送パリ支局長・大友祐人とロンドン支局長・山瀬孝則ら取材チームはこの日も劇場周辺で張り込みを続けていた。しかし、カン・チョルこと金正哲と思しき人物の姿は無い。

「いないね」
「いないですね」
「この寒いのに、今日もずっと立ちっ放しか…嫌になっちゃうね」

 おデブは寒さがそんなに気にならない筈だが、大友が愚痴ると山瀬は「寒いのはまあ大丈夫ですが、二日連続で立ちっ放しは辛いですね」と応えた。

「何か暖かい物が欲しいよね」
 大友が本心を明かした。

「何処かで買って来ましょうか?」と山瀬が言うと大友は言った。
「そんな…大支局長様にパシリなんてさせられませんよ…なんてね。実はもう用意してあるんだ。昨日の反省を生かしてさ、ほら」

 大友はショルダーバッグから水筒と紙コップ、それに掌を拡げた位のサイズの紙箱を二つ、順に取り出した。

 山瀬に渡した紙コップにシナモンの効いた温かい赤ワインを注ぎ紙箱を渡す。タルト・タタンだ。寒さはそんなに気にならないとはいえ、有難いと山瀬は思った。周りも同じように温かいものを飲んでいる人が多い。トイレが気になりはしたが、その場合は近場のカフェかバーに行けば良いのだ。

「一応、交代で今日も最後まで張るとしても、もう次のウェンブリーが勝負かな。ロンドンに行ったら宜しく頼むよ。美味い物を食わせてね」
タルト・タタンを頬張りながら大友が言った。

「勿論、任せてください」
 山瀬も口をもごもごさせて応えた。

「本当にこの人は食い物の事ばかり考えている。気に染まないダイエットを無理矢理させられるとヒトはこうなるのかな…」と山瀬が少し情けなく感じていると大友はこう言った。

「僕、ロンドンに行く前にベルンに寄ってみようと思うんだ。何か当てがあるという訳ではないんだが、大使館と学校の様子をちょっと見てくるよ」

 大友だって仕事の事も考えているらしい。山瀬は少し安堵したが、それにしても彼は食べ過ぎだ。身体の事が気になった。

 劇場からは「ティアーズ・イン・ヘブン」の哀しい調べが漏れ聞こえて来た。

「私の名前が分かるかな?天国で出会ったなら…」

 この出だしは大友も山瀬も知っている。踊ったり叫んだりしていた周辺の野次馬達もこの時ばかりはじっと聞き入っている。クラプトンがこの曲を歌うのは久しぶりなのだ。大友にはそのフレーズが脳に刻み込まれたような気がした…。

 最後のアンコール曲「サンシャイン・オブ・ユア・ラブ」が終わった。大友や山瀬は初めて聞いたが、初期の頃のヒット曲だ。

 結局、この日もお目当ての御仁は現れなかった。

 

首脳会談終了


 三回目の中朝首脳会談は翌日、日曜の昼過ぎに始まった。事務方同士の行動計画の取り纏めに予定より時間を要した為だった。

 席上、習近平主席から金正恩総書記に前夜の中米首脳会談の内容が伝えられ、今後の行動計画が承認された。報道発表の手順等も確認された。

 アメリカのベン大統領が、中朝首脳会談で合意した今後の支援の内容や動き、規模に基本的に賛同した事に金総書記は安堵した。WHOの調査団受け入れは依然として金総書記の意に染まなかったが、中朝の今後の行動に、事実上、ベン大統領がお墨付きを与えたことは朗報だった。

 これで、アメリカが妙なちょっかいを出してくることはない。ADE株対策にかこつけて、中国が北朝鮮を完全に支配下に置くことも無い。それは中米首脳会談の合意に反する。

 この禍を奇貨として、いずれ、アメリカと接近・和解を成し遂げる。これが金王朝の密かな狙いでもあるのだが、金総書記は、今日は苦虫を嚙潰したような顔を保ち続けていた。

 総書記はその為の次の一手も既に決め、詳細な吟味を加えていた。だが、中国政府にそれを気取られる訳にはいかないのだ。邪魔をされては敵わない。 

 まずはADE株を封じ込める。そして、次に、自分達が、安心してもっと自由に動き回れる状況を作り出すのが最終的な目標だった。

 習主席と中国政府の厚意に対し、金総書記はこれ以上無い程の礼をこれ以上ない程丁重に述べ、列車に戻った。

 

特別重大報道


 まず、中国国営通信・新華社が、中朝首脳会談の結果を報道した。

「中華人民共和国の習近平国家主席と朝鮮民主主義人民共和国の金正恩総書記が北京の人民大会堂で三回に亘り首脳会談を行った。
 会談で、両国は歴史的友誼を再確認し、中国政府が新型コロナ感染症対策で北朝鮮政府を全面的に支援することで合意した。支援は可及的速やかに実施される。
 両国の最高指導者は、現下の難局に一致して対処し、両国の平和と友好が末永く続くよう最大限の努力をすることを確認した」

 予定通りの内容だった。両首脳が着座で会談する模様を写した写真も一枚公開された。写っている二人の首脳は小さく、画質は相変わらず良くない。

 程なくして、北朝鮮の朝鮮中央通信が、午後八時に、朝鮮中央放送が特別重大報道をすると予告した。

 北朝鮮が特別重大報道を予告するのは過去に何度も例のあることでは無い。これまでは金正日総書記の死去の発表や核・ミサイル開発に関わる大きな成果を北朝鮮が宣伝したい時に用いられた用語だ。中朝首脳会談に関わり、こうした予告がされるのは異例の事態だった。新華社電をなぞるような程度の発表は考えにくい。

 各国政府や西側メディアは色めき立った。

「北朝鮮政府が、日本時間の今夜八時から、特別重大報道をすると予告しました。折しも、北京では北朝鮮の金正恩総書記と中国の習近平主席による首脳会談が三回も行われ、新型コロナ対策で中国が北朝鮮を全面支援することで合意したと新華社が伝えています。それでは、北京支局から佐藤特派員に伝えてもらいます。佐藤さん!」

 メトロポリタン放送の日曜夕方のニュースもこの関連ニュース一色に染まる。

「北京支局です。金曜からこちら北京で続いていた中朝首脳会談は三度に亘って行われ、今日、漸く終了しました。
 その内容について、中国国営新華社通信は、中国の習近平国家主席と北朝鮮の金正恩総書記が一連の会談で北朝鮮の新型コロナ対策に中国が全面支援を行うことで合意したと短く伝えています。新華社は、北朝鮮での変異株出現の有無や支援の内容・規模等について触れていませんが、支援は可及的速やかに実施されるということです。
 また、会談の模様を写した写真が一枚公開されましたが、映像は無く、共同声明の発表などもありません。金正恩総書記は今も北京市内に留まっていると思われますが、詳しい動静は不明です。
 一方、北朝鮮の朝鮮中央通信は、日本時間の今夜八時に特別重大報道をすると予告しました。今回の首脳会談の合意に関わる発表がされるものと見られ、中国政府筋は、私どもの取材に対し、北朝鮮が受け入れる支援の内容や新型コロナの感染状況について、ある程度の説明がなされるだろうと述べています」

東京のスタジオのキャスターが続けて尋ねた。

「ワクチンの効かない変異株出現の有無が一番気になりますが、それについてはどんな発表が予想されますか?」

「現時点で確たることは申し上げられませんが、特別重大報道という滅多にない予告がされたことから考えますと、変異株についても言及されるのは間違いないだろうというのが大方の見方です。この点について、どこまで踏み込んだ内容になるのか、そして、支援の内容や規模についてもどこまで言及されるのか、大いに注目されるところです。
 一方、これに関連して、中朝国境地帯では、人民解放軍の車両や人員が既に大集結している模様で、全面支援の規模は前例のない極めて大きなものになると見られています。こちらからは以上です」 

「続いて、中朝国境地帯の町・丹東から戸山記者の報告です。戸山さん!」

「こちら丹東の町は、表向き、いつもと変わらぬ様子です。国境を流れる鴨緑江に掛かる橋でもこれと云った往来は見られません。しかし、地元住民は、近くに人民解放軍の大部隊が集結していて、何千台、いや何万台ものトラックで支援物資を運び込む準備をしているようだと語っています。
 また、中国から北朝鮮に重油を輸出するパイプラインが近くにありますが、それを通じて流れる重油の量は既に最大量に達している模様だと噂されています。中国による全面支援は可及的速やかに実施されると発表されたことから、こちらでも、一両日中には具体的な動きを見ることができるのではないかと思われます。以上です」

「ありがとうございます。続いて、ソウルの反応です。棚橋さん!」

「北朝鮮国内の新型コロナウイルス感染状況について、韓国政府は、ワクチンの効かない変異株が出現したのはほぼ間違い無いと見ています。そうなりますと、北朝鮮政府だけで封じ込めるのは至難の業で、この為、中国政府が全面支援に乗り出すのだろうと見ているようです。
 ただ、仮にそうだとすると、中国一国だけの支援では失敗の恐れも無きにしも非ずということで、北朝鮮は、保険を掛ける為にも、西側の支援もある程度受け入れるのではないかという見方も一部で出ています。
 特別重大放送が予告されたのは、外向けの発表というだけではなく、国内向けにも、無用の混乱を避ける為、この新たな事態を説明する必要があるからだと韓国政府筋は分析しています。
 具体的に何をどこまで受け入れるのか、詳しいことは現時点では分かりませんが、これまで西側には国をほぼ閉ざしてきた北朝鮮にとっては、いずれにせよ、海図の無い領域に入る訳でして、それが、北朝鮮政府の統治にどのような影響を与えることになるかも含めて、韓国政府はその成り行きを重大な関心を持って見守っています。
 折しも、今日十六日は金正恩総書記の父親・故金正日総書記の誕生日に当たりますが、北朝鮮は今、この日、まさに重大な岐路に立たされているということになります」

「ありがとうございます。続いてアメリカ政府の反応です」

 ワシントン支局からは新任の山村千秋支局長が登場した。

「こちらワシントンは時差の関係で現在、日曜の夜明け前です。当然、まだこれと云った動きはありませんが、先程、ワシントン・ポスト紙がウェブで大変興味深い記事を掲載しました。
 それによりますと、こちら時間の土曜未明、今から二十四時間以上前のことになりますが、ベン大統領と習近平主席のオンライン会談があったというのです。詳しい内容は伝えられていませんが、中朝首脳会談の二回目と三回目の間と思われる時間帯に、今のところ公表されていない米中首脳会談があったというのが本当だとしますと、この場で北朝鮮情勢が話し合われた可能性は高く、ワシントン・ポスト紙も北朝鮮の新型コロナ感染状況を巡って意見交換が行われた模様と報じています。
 当然、そこでは、中朝首脳会談の内容も話し合われたとみるのが自然で、中国による北朝鮮への事実上の全面介入について、習近平主席がベン大統領に言わば仁義を切ったのではないかと記事に登場した東アジア情勢専門家は分析しています。
 また、別の専門家はワシントン・ポスト紙に対し、北朝鮮でワクチンの効かない変異株が出現したとなると『それが世界に拡がるのを座して見守るだけというのは考えにくい。アメリカ政府としても何らかのアクションが必要になるのではないか』と見ています。
 北朝鮮の特別重大報道が予告されている日本時間夜八時は、こちらは朝六時です。日曜の朝とは言え、その頃には、アメリカ政府の関係部局もフル回転することになると思われます。そして、その後、遅くとも、日曜午前の恒例の討論番組で、アメリカ政府の最初の反応が出るものと思われます」

「アメリカ政府のアクションとはどんなものが考えられますか?」

「特別重大報道の内容が明らかになる前に明確なことは申し上げられませんが、ワクチンが効かない変異株の出現が本当だとすれば、それを封じ込める為に有効な治療薬や検査キットなどの提供は検討されることになるだろうと専門家は予想しています。北朝鮮が受け入れるか否かは別問題になりますが、習近平主席が事前に根回しをしたと報じられたことから推測しますと、北朝鮮もある程度は受け入れる可能性は十分にあると思われます。ワシントンからは以上です」

「続いて日本政府の反応です。総理官邸前から武内記者です」

「総理官邸には既に北村官房長官や外務省の石川次官らが既に集まり、関係者の動きは慌ただしさを増しています。馬淵総理も間もなく官邸入りする予定です。
 関係幹部によりますと、中朝首脳会談と北朝鮮の新型コロナ感染症の状況を巡ってすでに日米間で緊密な連絡を取り合っているということです。つまり、今日の事態を日本政府もある程度は把握しているものと思われます。
 そして、政府首脳も、先程、メディアの取材に対し『日本としても必要な支援を行う用意がある。具体的にはこれからだ』と述べていまして、北朝鮮にワクチンの効かない変異株が出現したことを前提に話を進めているようです。
 正式には特別重大報道を待ってから検討ということになりますが、ワクチンの効かない変異株の出現は対岸の火事と看做すのは余りにも危険です。地理的に近いこともあって、日本政府の危機意識は当然ながら非常に高く、水際対策の強化や国内の防疫・医療体制の拡充も打ち出されることになりそうです。具体的には北朝鮮の特別重大放送を受けて、馬淵総理が記者団の前で声明を発表する見込みです」

「ありがとうございました。スタジオには感染症対策の専門家・国立医療センターの須藤昭人先生にお越し頂きました。須藤先生、まだ公式に確認されたものではありませんが、北朝鮮の変異株に対して、どんなことが、まず必要になりますか?」

「ワクチンが効かないということですが、そうだとすると、まず、何故効かないのかを知ることが重要になります。そして、感染力は従来株より高いのか、毒性は強いのか、治療薬は効くのか、そういった情報を知りたいところですね」

「何故、ワクチンが効かないのかと言う点ですが、どんなことが考えられますか?」

「既に知られていることですが、既存のワクチンは、新型コロナウイルスが人間の細胞に侵入する際に必要なSタンパクの働きを主として阻害します。そういう働きをする抗体をワクチンは体内に作り出すのですが、新たな変異株がそういう抗体を単に迂回して細胞に侵入する能力を更に強めて身に着けたのか、それとも、そういう抗体を悪用して細胞に侵入するのかで大きな違いが生じます」

「どんな違いなんでしょうか?」

「迂回するだけなら、ワクチンの設計を変更して、変異株のSタンパクにも訊く新たな抗体を作り出すようにすれば良いのです。このケースの場合、新しいワクチンを作ること自体は技術的に難しいことではありません。勿論、新たに大量生産して、改めて皆さんに接種するのにはかなりの時間が掛かりますが、先進国では数か月から半年、皆さんに辛抱して頂ければなんとか対処できるだろうと思われます。
 当然、ワクチンが普及するまで感染は広がり、それに比例して重症者は増えることが予想されますが、毒性がほぼ同じで、治療薬も効くのであれば、全体としてみれば、変異株による直接的な健康被害はそんなに酷いことにならないことが期待できます。勿論、緊急事態宣言が必要になるかもしれませんので、それによる経済的な損失は別の話になると思われますが…」

「成る程、それはそれで非常に困難な事態になりそうですが、では、もう一つの抗体を悪用する場合とはどういうことですか?そして、どんな問題が生じるのですか?」

「抗体を悪用するのは、抗体依存性感染増強、別名・ADEという現象でして、これは非常に厄介です。ワクチンが作り出す抗体を利用してウイルスが細胞へ侵入してしまうというものなのですが、ワクチンを打っていない人への感染力が従来株と大差ないとしても、接種済みの人への感染力は、どの程度かは分かりませんが、却って高まってしまいます。この点からも感染力の変化が注目されるわけです。
 そして、細胞への感染力が高いということは、感染すると体内でウイルスがどんどん増殖してしまうということでして、結果的に毒性は高まります。重症患者向けの抗体カクテルは使えなくなります」

「非常に怖いですね」

「そうです。ただし、ですね、ウイルスが細胞内で増殖するのに必要な酵素の働きを阻害する現在の治療薬は、Sタンパク・ワクチンとは全く異なるメカニズムでウイルスに対処しますので、こちらが効けば、治療は可能と思われます」

「すると、新たな変異株が、そのADE・抗体依存性感染増強を起こすとなりますと、事態は極めて深刻になりかねないということですか?」

「そうかもしれません。既存のワクチンを接種済みの人や既に感染した人に限って却って悪さをする恐れがあるわけですから、ワクチンがまだ無かった頃と同じような、或いは、それ以上の健康被害が全体として発生する恐れはあります。ただし、重ねて申し上げますが、現在の経口治療薬が効けば、対処は可能です。繰り返しになりますが、治療薬は全く別のメカニズムでウイルスに作用しますので、確認は必要ですが、それまで効果が無いという恐れは低いと思われます」

「予断はできませんが、第二のパンデミックと言っても過言ではない、あの悪夢のような日々が再びやってくる恐れも否定できないということになりますか?」

「まだ断言はできませんが、厳重な警戒は必要になると思います。ADE株が出現し、その封じ込めに失敗しますと、我が国も非常に難しい状況に陥る恐れはあります」

 日本中に衝撃が走った。既に九割の国民がワクチンを接種済みで、ブースターも含めれば何度も打った人は多い。潤沢過ぎる程出回っているとはいえ、マスクや消毒用アルコールを買い増しする動きが始まることも予想された。

 欧米等の先進国も大騒ぎになるのは確実だった。治療薬が効きそうだとはいえ、加えれば、アメリカの南部や中西部に多いワクチン反対派を勢いづけ、激しい党派対立に起因する政治的な混乱に拍車を掛ける可能性も大であった。


二月十六日・日本時間午後八時

 

 朝鮮中央放送が予告された特別重大放送を始めた。ダークスーツで身を固めたいつもの男性アナウンサーが声明を読み上げる。

「朝鮮労働党と朝鮮民主主義人民共和国の偉大な領袖、我ら人民が敬愛してやまない金正恩総書記同志が、中華人民共和国を訪問し中華人民共和国の習近平国家主席と三度に亘って会談をされた。
 一連の会談で、金正恩総書記同志と習近平主席は、朝中両国の永遠の友好を確認し、最近の困難な状況に鑑み、全面的な支援を実施することで合意した。
 この合意に基づき、朝鮮民主主義人民共和国は、中国からの医療支援、食料・エネルギー支援を受け入れ、両国は一致団結して、新しいウイルスによる被害を抑え込んで人民の苦しみを取り除くことになる。
 朝鮮民主主義人民共和国は、中華人民共和国と共に防疫作業に当たり、我が国国内での新しいウイルスの活動を封じ込め、消滅させる。同時に、中華人民共和国側に被害が拡大することがないよう全力を尽くす。作業は直ちに開始される」

「我々の共和国に困難な状況を生じせしめた新たなウイルスの性質は、我が国の優秀な科学者達が中華人民共和国の同僚と共に研究中である。いずれその正体は暴かれるが、既存のワクチンが有効ではない恐れが強い。
 人類愛に溢れる金正恩総書記同志は、この事態の深刻性と緊急性に鑑み、第三者による調査も同時に受け入れる度量を示され、習近平主席と意見の一致を見た。
 これに基づき、朝鮮民主主義人民共和国は世界保健機構の調査団を直ちに受け入れ、彼らによる調査・研究と経口治療薬など医療支援物資の持ち込みを許可することにした。世界保健機構にはその旨通知された。
 主体百xx年二月十六日、朝鮮民主主義人民共和国国務委員会発表」 

 日曜のゴールデンタイムにも拘わらず、日本ではメトロポリタン放送始め殆どのテレビ局が、同時通訳付きで、この特別重大放送を緊急特番で伝えた。世界のニュース専門チャンネルも同様だった。

 メトロポリタン放送の緊急特別報道番組には菜々子も北京支局から生中継で出演し解説する。正式なヴィザは取得していないのだが、そんなことは言っていられない。現状で中国当局が問題にする可能性も低い。

「先程、北朝鮮の特別重大放送で伝えられた声明で、注目すべき点は、まず、北朝鮮で新型コロナウイルスの新たな変異株が出現したことを北朝鮮が認めた事です。声明では新しいウイルスと言っていますが、これは新たな変異株の事を指すものと思われます」

 菜々子の喋り口も少したどたどしいが、それが却って一部視聴者の人気を集めている。

「そして、新たな変異株に対しては既存のワクチンが効かない恐れが強いと言っている点が特に重要です。こうした懸念は、既に中国政府なども共有していた模様ですが、今回の声明で、北朝鮮政府がこちらも事実上確認したということになります。
 中国による全面支援受け入れ決定は、事実上の鎖国をしている北朝鮮にとっては国の方針の大転換といえるものですが、そうしなければならない程の危機意識が北朝鮮にあるということになります。実際、ワクチンの効かない変異株の出現は北朝鮮にとってだけでなく、世界にとっても大きな脅威になり得るものです。毒性次第ではありますが、封じ込めに成功してもらわねば日本始め世界が極めて困難な状況に追い込まれる恐れがあります」

更にスタジオのキャスターが尋ねる。

「北朝鮮の声明はWHO・世界保健機構の調査団も受け入れると述べています。これも危機感の表れでしょうか?」

「その通りだと思われます。そして、更に注目すべき点として、北朝鮮が、支援物資として経口治療薬にわざわざ言及したのを見落としてはならないと思われます。声明は医療支援や食料・エネルギー支援を受け入れると述べていますが、支援の具体的な品目として挙げたのは経口治療薬だけです。それもWHOに持ち込みを許可するという形で触れています。つまり、これは西側の治療薬を持ってきて欲しいと要請しているのと同じです。これは経口治療薬がワクチンの効かない変異株にも有効であると北朝鮮が見ていることを示唆しています。中国政府も同様の見解なのだろうと想像できます。
 ワクチンの効かない変異株の出現は人類にとって大変な脅威ですが、治療薬が有効ならば、お先真っ暗という程封じ込めは困難という訳ではないのかもしれません。北京からは以上です」

菜々子の報告から間もなく、WHOがウェブに声明を発表した。 

「北朝鮮は政府の決定に応じ、WHOは北朝鮮で出現した新たな変異株に対処する為、直ちに調査団を編成し、北朝鮮に派遣する。まず十二名の専門家等からなる先遣隊が可及的速やかに北京に向かい、そこから更に平壌に入るべく調整を始める」 

 当然と言えば当然だが、WHOの対応は速い。中国とアメリカの事前の根回しが効いているようだ。メトロポリタン放送も直ちにこの動きを伝えた。

 日本政府も素早く反応した。総理官邸で馬淵総理が記者団の前で、声明を発表した。

「北朝鮮でワクチンが効かない恐れの強い新型コロナウイルスの変異株が出現したという事態に、日本政府は大きな衝撃を受け、大変な危機感を持っています。
 その封じ込めに成功するよう、我が国としても、現地作業に当たる北朝鮮や中国、WHOに、最大限の協力をする用意があります。そして、その具体策を速やかに取り纏めるよう、関係部局に先程指示を致しました。
 また、同時に、我が国の水際対策の強化、治療薬や検査キットなど医療物資の積み増しを直ちに実施するよう指示致しました。北朝鮮から我が国への入国は原則受け入れないことも決定しました。事実上国境封鎖をしている北朝鮮から日本に入国をしようとする方は居ないとは思いますが、念の為、そう決定致しました。
 変異株の封じ込めが現地で成功するよう、かつ、また、我が国には入ってこないよう万全の対応をするつもりです。国民の皆様には、これまで同様に、マスクの着用、手洗い・うがいの励行、三密の防止をお願したいと思います。また、今後の展開に応じて更なる措置を講じていく所存です。
 幸いにして治療薬は変異株にも効きそうだとの情報を私共は得ております。国民の皆様には更なる御辛抱をお願いしなければならない事態も考えられますが、同時に、必要以上に神経質にならぬようお願いする次第です」

こう述べると、馬淵総理は質問には応えず、ぶら下がりを終えた。

 アメリカでは、ホワイト・ハウスがウェブ上に声明を上げた。

「北朝鮮でワクチンが効かない恐れの強い変異株が出現した事態に大変な危機意識をもってアメリカ政府は対処する。
 アメリカ政府としては、北朝鮮での封じ込めが成功するよう最大限の協力をする用意があり、その第一弾として、まず治療薬百万人分、抗原検査キット五百万回分をWHOに供与する。WHOの活動には全面的に協力する。北朝鮮が受け入れるのであれば、アメリカの医療チームを派遣する用意もある。
 また、水際対策として、北朝鮮、及び隣接する中国東北部、ロシア極東地域に今日現在滞在している外国人の入国を直ちに差し止める。当該地域からの民間フライトの運航も停止する。事前に許可を得たアメリカ国民以外は当該地域に今後立ち入らないように求める。
 当該地域に既に居るアメリカ国民の再入国や中国のその他の地域、及び韓国からの入国者には、出発前と到着後のPCR検査と二週間の隔離を義務付ける。アメリカ軍人とその家族も例外にしない。こうした措置は必要に応じて、更に拡大・強化される。
 幸い変異株には治療薬が有効と見られる。アメリカ国民には感染防止に細心の注意を払い行動することを要請するが、現時点では必要以上に過剰な反応することもないよう求める」

 この日発表された入国制限は、アメリカ政府のものが一番厳しかった。そして、欧州各国も、程度の差こそあれ、翌日までには似たような措置を発表した。同時に、パニックにならないようにというメッセージも国民に発信していた。一部でアジア人攻撃が再燃するのも心配された。

 

もう一つの車列


 世界のメディアが蜂の巣を突っついたような騒ぎになっていた頃、北京駅で待機していたもう一つの車列が夜陰に乗じて静かに動き出した。

 周辺は厳しい取材制限が敷かれており、これに気付く報道陣が居る筈もない。車列は黒塗りのワンボックスカー二台と救急車、それに前後を覆面パトカーと思しきセダンが固めている。目立つバイクの先導は無い。

 北京市中心部を迂回して空港に向かった車列は整備用ゲートからチャーター機専用駐機場近くの大型格納庫に入った。格納庫の中で待ち受けていたのはAAI、エア・アンビュランス・インターナショナルのガルフ・ストリームである。

 搭乗客が乗り込むと「空飛ぶ救急車」のトニー・ジョンソン機長は最終チェックを終え、管制官との交信を続けながら離陸許可を待った。

 病人と思しき搭乗客、カン・チョルはそんなに急を要する状態では無いのかもしれない。足取りはかなりおぼつかない様子だったが、自力で歩ける。

「飛行中に容体が急変するような事態にならないと良いのだが…」
 ジョンソン機長はそう思った。

 同乗しているAAI社の医師と看護師は血圧や体温などのチェックの結果を異常なしと伝えて来た。

 搭乗客は全部で十二人。無駄口を叩く者は居ない。所在無げな二人の若い男の存在に違和感があったが、危険ではなさそうだ。ジョンソン機長には、むしろ、ボディーガードと思しき四人から滲み出る殺気の方が遥かに怖かった。 

 仕事柄、ジョンソン機長は、王族や大金持を警護するプロのガードマン達を数多く見てきたが、この四人のレベルは明らかに違う。戦闘に臨む特殊部隊の兵士のようだ。武器は持っていない筈だが、素手でも簡単に人を殺せそうだった。

「まさか、口封じに後で彼らがやってくるなんてことは…」
 ジョンソン機長の頭に一瞬、こんな考えが過った。だが、そんなことがある筈もない。 

「私は彼らをパリまで連れて行くだけさ」

 離陸許可が下りるとジョンソン機長は、自らにそう言い聞かせ、滑走路に向かってタクシーイングを始めた。順調にいけば十三時間程でオルリー空港に着く。

「空飛ぶ救急車」とほぼ入れ替わりに、北京空港に高麗航空の特別機が到着した。金正恩総書記の帰りは空路だ。

 

閑散


  メトロポリタン放送では特別報道番組がそのまま日曜夜のトークショーに雪崩れ込んだ。渋谷のハチ公前交差点からアナウンサーの中継が入る。

「こちら渋谷のハチ公前は行き交う人の姿も少なく、閑散としています。元々、日曜日の夜の人出はそんなに多くないのですが、現在はかなり寂しい状況になっています。こうした中、何人かにお話を伺いました。ご覧ください」

 画面はインタビューに切り替わる。若い女性の二人組だ。 

「友達とご飯食べて、この後、カラオケでも行こうかって話してたんですけどぉー、なんかワクチンが効かないのが出たって聞いたんで、カラオケは止めました。もう帰ります」
「やはり気になりますか?」
「うーん、まだ遠いから今日なら大丈夫なのは分かっているんだけれど水を差されたんでもう帰ります」

「何人かで飲んでたんですけど、途中で、スマホを見たら、ワクチンが効かない変異株が出て来たってんで、早めに切り上げました。朝までコースのつもりだったんだけど…」
「まだ、日本には入ったとは確認されていませんが、それでも心配ですか?」
「それはそうなんだけど、ちょっとね…気分の良い話じゃないんでね」

 三十代らしき男性だ。

「ワクチンが効かない恐れの強い変異株が出現したという話はお聞きになりました」
「えー、初耳、それ本当ですか?」
「そうです。北朝鮮で出ました」
「うわ、北朝鮮と言ったら近いじゃないですか…どうしようか?」
 若いカップルの男性が一緒の女性に尋ねる。
「さくっと食事だけして帰ろうか?」
「そうね。そうしよう」 

 そんな中、大学生らしいグループは「その話はスマホで見たけど、まだ大丈夫なんじゃないの?僕らはそんなに気にしないですよ。まだ飯も食べていないし…」と言ってセンター街に向かって行った。 

 この様子を自宅の居間のテレビで見ていたルークは妻に言った。 

「北朝鮮は国境を封鎖しているんだから、まだそんなに気にする必要はないんだが…」

「それはそうかも知れないけれど、気楽に飲み食いする雰囲気はまた無くなるんじゃないですか?そうなっても不思議ではないでしょうに」

奥方が応えた。

「それはそうかも知れないが…、でもこれでは先が思いやられるな。治療薬は多分効くんだからさ。アメリカもそう言っているしさ。それに、現地ではきっと中国流に、全面的徹底検査と徹底隔離をして、治療もするはずだから、封じ込めは出来ると思うんだけれど、甘いかな…」
「そうなって貰わないと大変よ」
「それはそうだな。店も休業になるだろうし…でも、そこまで行かないと思うんだけれどね」

 画面は北京の菜々子の報告に再び切り替わった。

「つい先ほど入った情報です。中国政府筋が私共の取材に語ったところによりますと、北朝鮮で出現した変異株がADE・抗体依存性感染増強を引き起こす可能性を否定できないと中国政府は見ているということです。また、別の中国筋は、このADEを引き起こす恐れこそ中国が支援という名目で全面的に介入することを決めた理由だと述べています。ただし、治療薬は効くと中国政府も判断している模様です。
 ADEが本当なのか、最終確認はWHOの検査を待つことになるということですが、明日から始まると思われる封じ込め作業には是非とも成功してもらわないとならないということになります。北京からは以上です」

 中国政府がADEの恐れ有りと見ているという情報はメトロポリタン放送が初めて報道したようだった。北京では菜々子と岩岡の人脈が生きる。

 東京のスタジオでは、メトロポリタン放送が大枚をはたいて公共放送から引き抜いた女性キャスター・神林和美が舞台回しに当たり、感染症対策の専門家、国立医療センターの須藤昭人医師に尋ねた。

「須藤先生、今、北京からADEの恐れ有りという報告をお聞きになって、少しうめき声を上げられたように聞こえました。まだ確定したものではないようですが、この情報はやはり極めて深刻という事でしょうか?」

「その通りです。新しい変異株がADE・抗体依存性感染増強を起こすというのが本当でしたら、既存のワクチンは効かないというだけでは済みません。ワクチンが作り出した抗体を悪用して、ウイルスはヒトの細胞に侵入する能力があるということですので、ワクチンを接種済みの方や既に感染したことのある方への感染力が相当高まる恐れがあります。どの程度高まるのかは調べる必要がありますが、必然的に人の体内で増殖する能力も高まりますので、重症化のスピードも速まる恐れがあります。つまり、ワクチンを接種済みの方や既に感染したことのある方程危険ということになり得る訳です」 

「しかし、アメリカ政府も発表していますが、治療薬は変わらず有効と見られるということです。これは安心材料になりますでしょうか?」

「それはなります。今、我が国ではどこの病院でも治療薬がありますし、抗原検査キットも十分にあります。ですから、これまでと同じように、発熱などの症状が出たらすぐに検査をし、陽性と出たら治療薬を服用すれば大きな被害は防げるということになる筈です。ただ、この変異株がADE株でしたら、既存のワクチンは感染防止には多分もう余り役に立ちません。十分な注意が必要になります」

「つまり、少なくとも重症化と死亡のリスクまで高くなるとは限らない。早めにきちんと治療すれば、それはかなり防げるだろうということですか?」

「正しい対処をしさえすれば、その通りだろうと期待出来ます。しかし、基礎疾患のある方やお年寄りなど、もともと抵抗力が弱い方は特に早め早めに診療を受けることが重要になります。うかうかしているとあっという間に重症化してしまう恐れがあります」 

「これまでは重症化した場合には抗体カクテルが有効とされてきましたが、それはどうなるのでしょうか?」

「抗体カクテルはADE株にはまず使えなくなります。つまり一度重症化してしまうと対症療法しかないという初期の頃のような状況に陥る恐れがあります。ですから、早期発見、早期治療が何よりも肝要ということになります」

「毒性も強まると言う事でしょうか?」

「ウイルスが持つ毒性そのものが強まっているかどうかという点は詳しく調べてみないとわかりません。ワクチンを打っていない人が感染した場合にウイルスが体内でどのように増殖するのかなどと比べる必要もあります。
 ただし、最初にパンデミックが起きた時に武漢から広がったウイルスの事を思い出していただきたいのですが、あの頃の新型コロナウイルスは、肺の奥まで入り込んで呼吸機能を破壊したり、血管に入り込んで血栓を作り出し、所謂エコノミー症候群などの血栓症を引き起こしたりして、ヒトを死に至らせしめました。
 しかし、その後は、多分、ウイルス自体の弱毒化とワクチンの効果、それに治療法の進歩で、呼吸不全や血栓症で亡くなる方はかなり少なくなりました。感染しても、新型コロナウイルスが肺の奥や血管に入り込むケースが減って、のどや鼻という上気道に留まる場合が圧倒的に多くなっているからでもあります。
 しかしながら、ADE株に感染し治療が遅れると、この点が変わり、初期の武漢から来た株と同じように、ウイルスが体内に奥深く入り込んでしまう恐れがあります。そうなってしまうと非常に危険な状況になり得るということです」

「ADE株に対する有効なワクチンの開発は可能なのでしょうか?」

「それは、まだ先の話でしょう。ADE株そのものを入手して遺伝情報を解析し、それからワクチンを設計するという作業に多分なる訳ですが、ADEを引き起こすウイルスに対しては、これまでのようなSタンパク・ワクチン自体が無効の恐れが考えられます。となると、全く別のタイプのワクチンを開発する必要が生じる可能性がある訳で、正直申し上げて、どうなるか分かりません。ただ、このADE株に対する研究はこれからだと思いますが、ADEという現象そのものに対処するワクチンの研究・開発は既に一部で始まっていますので、案外、早くできるかもしれません。しかし、現時点で楽観は出来ません」

 民放のこの手の緊急報道特番に台本など事実上存在しない。大まかな番組の流れを記載したチャートのようなものと注目ポイントを列挙したメモ書きがあるだけだ。 

 民放と比較すれば圧倒的大所帯の公共放送からやってきたアナウンサー上がりのキャスターは、民放の組織的バックアップ態勢の脆弱さに驚き戸惑うのが普通なのだが、才色兼備の誉れ高い神林キャスターは的確に役回りをこなす。民放の報道では個の能力がより問われるのだ。

「すると、改めてということになりますが、やはり感染防止、早期発見、早期治療が何よりも大事ということになりますか?」 

「そうです。その点に変わりはありません。繰り返しになりますが、まず感染防止、そして、症状が出たらすぐ検査、陽性だったら即投薬です。ADE株に対しても、当分、そうやっていくしかありませんし、実際、そうやっていけば、予断は禁物かも知れませんが、被害を最小限に食い止められると考えるべきでしょう」

 厳しい表情は変わらぬが、神林キャスターに少し安堵の色が浮かんだように見えた。

「最後に、北朝鮮での感染封じ込めは成功するとお考えでしょうか?」

「中国流の徹底検査・徹底隔離をして、全世界がバックアップすれば、可能と期待します。是非とも成功してもらいたいと思います」

「須藤先生、ありがとうございました」

「悪くない放送だったね。神林も上手くやるじゃないか…幾ら払ったか知らんけどね。ま、何と言っても使える治療薬がもう存在するのが大きいよ。パニックが起きなければ何とか凌げるんじゃないかな」

 番組を見終わったルークが奥方に話し掛けた。

「でも、バーの店主としてあなたは心配じゃないの?」
「正直言うと、そんなに心配していないよ。きっと封じ込めは成功するさ」

 ルークにしては珍しく楽観的だった。

 

大行軍


 翌月曜日の朝、夜明けとともに支援の大行軍が始まった。

 中朝国境の町、遼寧省・丹東から友誼橋を渡って続々と中国軍のトラックが北朝鮮の新義州に入り始めた。北方の中国吉林省集安でも同様だった。鉄道も使われていたし、海路でも、大連港から平壌郊外の南浦港に貨物船や石油タンカーが向かっていた。その規模たるや凄まじい。中国による全面支援がまさに始まったのだ。

 メトロポリタン放送の朝の情報番組は、ソウル支局の戸山昭雄の丹東からの中継レポートで、その模様を伝えた。

「中国側の丹東から友誼橋を渡り、北朝鮮に入る車列が延々と続いています。ここから見える範囲はずっとトラックが連なっています。果てることのないこの車列の正確な台数は全く分かりませんが、少なくとも数千台になるものと思われます。これにより北朝鮮に運び込まれる支援物資は何十万トンという規模になるでしょう。中国からの支援物資が北朝鮮を集中豪雨の後の洪水のごとく満たしていくようです。
 中朝首脳会談後の発表通り、支援の規模はまさに全面的であり、徹底的です。
 これほどの物資がどこにどれだけ運ばれるのか、混乱しないのか、心配になる程ですが、発表後、この大規模支援が直ちに実行されていることから推測しますと支援の計画自体は、かなり前から作成されていたのではないかと思われます。
 新型コロナの感染クラスターが発生しますと、中国では、たとえ人口一千万人の都市でも、住民の全員検査が複数回実施され、陽性者を割り出し隔離するという政策がかつて徹底されていました。また、外出は原則禁止され、食料は当局者が配布するといった厳格な都市封鎖が実行されました。そのようなゼロ・コロナ政策は有効だったという評価はこちらでは変わっていません。
 北朝鮮でも今回はこのゼロ・コロナ政策が発動されるであろうことは、この支援の規模を見るだけでも、容易に想像できます。詳細は発表されていませんが、こうした支援の大行軍は何日も、いや、場合によっては何週間も続くのだろうと思われます。
 また、同時に、北朝鮮と国境を接する中国側の遼寧省と吉林省の国境沿いの市や自治州には事実上の外出禁止令が布告されました。これにより、遼寧省の町、丹東に居る我々もホテルの外での取材は出来なくなりました。そして、これらの地域への立ち入りは許可を受けた者以外は禁止、これらの地域から外に出ようとするものは政府指定の場所での二週間の隔離が義務付けられました。
 北朝鮮で出現した新たなワクチンの効かない変異株を何が何でも封じ込めるのだ、という中国政府の極めて固い決意が感じられます。丹東からは以上です」

 その頃、北京駅では、金正恩総書記が特別列車を離れ、帰国の途に就く準備がほぼ整っていた。空路で持ち帰る荷物の運び出しは既にほぼ終わり、後は、身の回りの物と機密資料を車両に積み込み、北京空港に向かうだけだ。

 執務用の車両で、金総書記はクローゼットを開けギターケースを秘書に預けると、机の引き出しから小さな封筒を取り出した。中身を出してそれをじっと眺めると、小さな溜息をついた。貴重な記念品にはなるが、コンサートに行くことは出来なかったのが惜しかったのだ。だが、やむを得ない。これから当分多忙を極めることになるが、落ち着いたらヴィデオを観るつもりだった。

 韓国の国情院が掴んだ、北朝鮮の要人がエリック・クラプトンのコンサートに行くという情報は実現しなかったが、正しかったのだ。だが、誰が行こうとしたのかは間違っていたのかもしれない。

 金総書記は、封筒を内ポケットに収めると特別列車を降り、いつものベンツに乗り込んだ。最後の車列が空港に向かった。ルートは前日のもう一つの車列と同じだ。

 幾ら豪華に作られているとはいえ、狭い列車での長い缶詰生活は厳しかった。更に厳しいであろう先行きを思いやるとそれなりにアドレナリンが出てくる。だが、煮えたぎるような闘争心までは湧き起らない。ただ、幸いに、今のところ、全て想定通りに進んでいることに北朝鮮の最高指導者は危うさを感じつつも満足していた。

 北京空港では中国共産党対外連絡部の郭燿部長が漸く帰国する金総書記を見送った。その数時間後に新華社が高麗航空の特別機に乗り込む金総書記の写真を一枚配信した。写真はかなり遠目に撮られていて画質は相変わらず良くなかった。

 中南海では習近平主席が劉正副主席に念押しをしていた。

「私は、他の誰でもない金正恩総書記と会談し、封じ込め作戦に合意したのだ。それに合意は北朝鮮の最高指導部が一致して認めたものでもある。今更やり直しは不可能だし、そんなことは許さない。計画通り速やかに作戦を進めるよう指示を飛ばせ。無用の混乱を避けよ。我々を虚仮にするような情報を断固として封じ込めよ」

 父親の故・金正日総書記と共に訪中した金正恩氏と当時の習副主席は確かに面会し後継者と紹介された。しかし、二人だけで会ってなどいなかった。着座してお茶を飲むことも無かった。その記憶は習主席に明確にあったのだ。 

 習主席の元々少し甲高い声のピッチは更に上がっていた。その鬼気迫る様子に劉正副主席も震え上がった。現代の皇帝と大中国を虚仮にするような話は確実に封じなければならない…失敗すれば自分も危うい…劉副主席はそう肝に銘じた。

ソウル市瑞草区

 

「AIの判定は確率六十%程度です。前の二枚とほぼ同じですね。もう少し鮮明な画像が手に入らないと何とも言えません」 

 ソウル市瑞草区の国情院本部では、大型モニターに映し出した新華社の写真を前に、第三次長率いるチームが解析を行っていた。 

「同じ写真を使って習近平の顔を解析すると同一性九十%を超えるのですが、この違いは習近平の顔がほぼ正面から写っているからだと思われます。興味深いのは、正哲と比べてもやはり同一性六十%程度と出ることですかね」

「耳の形は?」

「正恩がヘア・スタイルを変えたのはお気づきだと思います。半分ほどしか写っていないので判断材料としては弱くなりますね」

「つまりは?」
 第三次長が促した。

「写真では、首脳会談に臨んだのが総書記本人なのか兄なのかAIも判定出来ないということです」
「そうか…、しかし、相手の中国は正恩と認めている。当然、極めて鮮明な画像診断もした上で、だ」
「そうだろうとしか思えません」
「アメリカはどう見ている?」
「我々より優れているとは考えにくいですね。真実はどうあれ、アメリカも習近平と会談したのは総書記本人と認めるしかないでしょうね」
「実際、政治的には、それ以外の選択肢はあり得ないか…この重大時には特に。騒いでも馬鹿にされるだけだな」

「話は変わるが、パリのコンサートにはやはり現れなかったのだな?」
「その通りです。ベルンの大使館が使うプリペイド・カードでチケットが四枚購入されたのは間違いないのですが、正哲は現れませんでした。この重大時ですから諦めたと思われます」
「チケットは四枚とも無駄にしたということか?」
「いえ、どうやら娘の方は行ったようです」
「暢気なものだな…娘が接触したパリの医師の動きは?」
「監視継続中です」
「どんな様子だ?」
「忙しそうに、あちらこちらを動き回っているのはいつもと同じです。毎週のように執刀もしているようです」
「娘がパリの外科医と接触したのは家族の誰かの為と考えるのは当然だ。それが誰なのかまだ断定する段階にないが、裏で何かが動いているのは間違いなさそうだな」

 次長が纏めた。

「ところで、封じ込め作戦の滑り出しは?」
「極めて順調のようです。下準備は出来ていたと考えるしかない程です」「それはそうだろうな…」

 中国政府は新型コロナ禍とは無関係に、以前から進駐計画を持っていた筈なのだ。万が一の北朝鮮崩壊に備えてだ。それを援用したに違いない。ましてや今は北朝鮮も中国の介入を受け入れたのだ。滑り出しが順調なのは当然と言えば当然だ…次長はそう思った。

「WHOの調査団に我が国の研究者も入るのだろうな?」
「先遣隊には入れないようですが、本隊には確実かと。通訳も必要ですが、韓国系のアメリカ人だけでは足らないでしょうから、そちらにも」
「引き続き情報収集と分析をしっかり頼む」
「承知致しました」

 

養鶏場

 

 スイス・ジュネーブの国際空港ではエアバス社の大型貨物機A350に次々とコンテナが積み込まれていた。荷は大量の治療薬・検査キット・防護服等の他、自分達用の食料・飲料水であった。5台の発電機も含まれている。

 機体は間もなくそこを飛び立ち北京空港に向かう。定期便を使う先遣隊主要メンバーと北京で合流して、平壌入りする手筈だ。

 先遣隊のリーダーはアイルランド人のビル・コールター博士である。調査団の副団長を兼ねる。

「到着後、落ち着き先は何処になる?」

 ジュネーブのWHO本部でコールター博士が先遣隊ロジ担当に尋ねた。

「ひとまず平壌市内のホテルに入ります。そして、拠点基地の視察をした後、問題なければ荷物を搬入します」
「拠点の候補地はどんな場所かな?」
「現時点で提示されている候補地は一か所のみです。平壌南方にある養鶏場です」
「養鶏場?」
「正確にはその建設予定地だった場所です。未完成です。公式には鶏は一度も飼育されていません。鳴り物入りで建設が始まったのですが、エネルギー不足と資材不足が祟って完成していません。出来たのは大雑把に言って半分くらいですかね。
 グーグル・アースで見ると敷地は広大で隣接地は緑地しかありません。高速道路がすぐ近くを走っていて移動には便利な筈です。近くには北朝鮮軍の訓練施設や住宅地もありますが、中にいる限り、現地の人間と無用の接触をする可能性はゼロ、隔離条件は十分以上に満たします。
 完工済みの事務棟や鶏舎で夜露は十分凌げます。倉庫には事欠きません。水は出てトイレだって使えるそうです。使い心地を良くする必要はあるでしょうけれど…」

「電気は?」
「今は通電していないそうですが、中国軍のエンジニアが整備してくれるでしょう。北朝鮮ももうすぐ中国の重油支援が行き渡るので優先的に電気を回すと言っているそうです。それまでは中国軍の発電車両を使います。燃料と移動用の車両と運転手も中国軍が融通してくれます。ベッドや椅子・机など調度品も」

「シャワーは当分期待できないってことかい?」
「それは北京のレップが今、中国政府と交渉中です。シャワールームとキッチン・カー、それにコックも提供して欲しいとね。多分、大丈夫でしょう。数日、遅れるかもしれませんけれどね。最初はキャンプで自炊する感じになりそうですね。暖房は事務所スペースでオンドルが今も使えるそうです。コークスを燃やす必要はあるようですが…」
「オンドル?」
「朝鮮式の床暖房みたいなものです。温かいらしいですよ。その作業は養鶏場の管理人がやってくれるそうです。お湯も沸かせるそうですよ」 

 通信網は中国企業が臨時に5Gネットワークを都市部中心に設営中だった。養鶏場近くにもアンテナ車が明日にも配置されるという。WHOの調査団も中国のほぼ丸抱えになるのだ。

  コールター博士は説明を聞きながら、衛星写真を眺めていた。鶏舎になる筈だったらしい蒲鉾型の建造物が数えてみると二十四棟あるが、その半分にまだ屋根が無い。事務棟らしき長方形の建物は外見上完成しているようだ。駐車スペースもアクセス道路もあり、近くの高速道路もはっきりわかる。中国軍の全面バックアップがあるなら、この拠点は十分任務に耐えられそうだ。 

「カーゴも中国軍が搬送してくれるのかな?」
「その予定です。彼らのトラックが来るまで飛行機から降ろすつもりはありませんよ。そうそう、ヴィザは北朝鮮大使館のスタッフが北京空港にやってきて処理してくれる手筈です。平壌到着前に北朝鮮側の人間と接触するのはそれだけです。後は中国政府の関係者と軍が全部やってくれます」

「調査開始予定は?」
「それは拠点に入ってからすぐにも開始する予定です。今は中国政府の防疫担当者が段取りをつけてくれています。きっと順調に進むでしょう」
「了解。こちらの準備が整い次第、出発だな?」
「予定では二時間後に貨物機は離陸します。我々はその一時間後のフライトです」 

 コールター博士は準備のスピードと現地の受け入れ態勢に満足していた。先遣隊のメンバーは既に全員、治療薬の予防服用を始めていた。自分達の安全確保に心配はほぼ無い。 

 コールター博士は多忙を理由に記者団が求める会見への出席は断っていた。拙速は禁物だが、余計なことは言わずに一刻も早く現地に赴きたかったのだ。ジュネーブの空港で記者団が待ち構えているだろうが、適当に受け流すつもりだった。実際、現地に行ってみなければ何も分からない。

 その日夜、WHOの先遣隊がジュネーブを出立した頃、CCTV・中国中央電視台は、丹東の向かいの町、新義州市での支援の様子を放送した。

 普段は殺風景としか言いようのない新義州青年駅のだだっ広い駅前広場に、数十ものもの大型テントが張られ、寒い中、市民が行列を作り始めていた。

 屋根に簡体文字で中国人民解放軍と書かれているテントの中では、白い防護服に白いヘッド・カバー、マスクにゴーグル、アクリル板のフェイス・カバー、手袋をした完全防護姿の中国側要員が訪れた住民一人一人にPCR検査用検体採取を実施していた。また、採取を終えた住民には相当量の食糧が入っていると思われる大きな袋が渡されている様子が次々に映像で紹介された。 

 こちらも完全防護姿のCCTVのレポーターは中国語で「新義州市の人口は三十万足らずなので、一巡目の住民全員検査は数日で終わる見込みだ。今のところ、混乱は全くなく、

 中国政府の支援活動は早速順調に進んでいる。検査と食糧支援を受けた新義州の人民は、口々に中国の支援に心より感謝していると述べた。私自身を始め、中国の支援関係者も毎日二回、検査を受ける。治療薬の予防服用もしている。心配は無い」と断言していた。

 長く食料不足に苦しんでいる北朝鮮の住民にとっては中国の支援は干天の慈雨のごとく有難いものであることは容易に想像がつく。 

 中朝国境に近いその他の町でも既に同様の支援活動が始まっていた。北朝鮮の首都・平壌でも翌日には支援活動が開始される見込みともCCTVは伝えた。

メトロポリタン放送始め各国のメディアは、この日の夕刻以降、こうしたCCTVの映像を入手し次第順次使用して「封じ込め作戦始動、滑り出しは順調」などの見出しで大々的に伝えた。

 治療薬の予防服用に関して、その効果や副作用、耐性ウイルス出現のリスクなど詳しいことは未知数だった。これ程大規模な予防服用が実施されたケースなど一度も無かったからだ。それ故、懸念の声が一部専門家から上がらなかった訳ではない。しかし、万が一、ADE株に感染してしまった場合に重症化を防げる可能性が高いのなら、予防服用を本気で咎める者などいなかった。

 それに、中国による北朝鮮への全面支援と封じ込め作戦遂行に日本始め各国の世論は極めて好意的だった。ADE株封じ込めの成功を願っていたのだ。成功すれば中国の株は間違いなく上がる。現代の皇帝と中国政府は、当然、これも計算に入れていた。

 その半日ほど前、AAI、エア・アンビュランス・インターナショナルのパイロット、トニー・ジョンソンはオルリー空港に着陸していた。黄疸も出ているように見える患者と一行は無言で降り、迎えの車両で去って行った。行先の病院をジョンソンは訊かなかった。

彼の今回の任務はもう終わったのだ。

 

臨時部長会


「戸山班は当分、丹東に残すしかないとして、問題は北朝鮮取材ね。中国政府かWHOが取材ツアーをオーガナイズしてくれると良いのだけれど…」

 北京発羽田行最終便に搭乗した菜々子は、窓の外から見える東京の夜景を見詰めながら今後の取材を如何に進めるか思い悩んでいた。

 東京の透き通った冬の夜景は実に美しい。奇抜なデザインのメトロポリタン放送本社ビルなど余計なものがはっきり見えないのも良かった。見えていたらきっと憂鬱な気分になっていただろう。

 今回の封じ込め作戦を中国政府は世界にアピールしたい筈だ。始めの内は中国の国営メディアだけが取材を許されているが、作戦が順調に進めば、いずれ外国メディアも招待される可能性がある。菜々子はそう考えていた。

 勿論、中国主導の広報戦略に北朝鮮政府が全て賛同するとは限らない。むしろ自分達が先に外国メディアを招待することも考えられる。しかし、封じ込め作戦が完了してADE株消滅宣言が出る前に、安全を北朝鮮政府だけに委ねるような取材ツアーには不安がある。これには本社、特に産業医が強硬に反対するだろう。そうかと言って、手を拱いて日本の同業他社に先を越されると絶対に文句を言われる。

 ADE株出現という事の重大性に比べれば、菜々子のこんな悩みはちっぽけでどうでも良い事だったが、取材で他社に先を越されるのは嫌だった。

 その日、月曜のメトロポリタン放送報道局の定例部長会は持ち回りで開催され、翌火曜に臨時部長会が開催される手筈になっていた。菜々子はその月曜の夜に金正恩総書記の帰国を確認してから自分も帰国した。空港で受けた任意の抗原検査の結果は陰性だった。

 翌、臨時部長会当日の朝、菜々子はシャワーを浴びながら、改めて、事態の今後の展開と取材対応を考えていた。局長からは色々突つかれる筈だ。

 正哲のコンサート行き情報も忘れた訳ではなかった。今のところあの情報は外れと出ているが、底まで見えた訳ではない。まだ浚う必要がある。やはり、ルークと桃子に相談しよう。そう決めて、菜々子は浴室を出ると身支度を始めた。太田博一と会えるのは、どんなに早くとも週末になる。それが少し残念だった。

 出社するとまず菜々子を待ち構えていたのは決裁書類の山だった。面倒だったが、処理し始めると珍しいことに間もなく加藤昌樹報道局長が近寄って来た。手ぐすねを引いて待っていたようだ。

「あ、おはようございます」
「おはよう。ご苦労さん」
 加藤が声を潜めて応じた。
「あの件はどんな感じだい?」

 相変わらずせっかちで単刀直入だ。

「一応、訊いてくれると…」
「感触は?」
「今はまだ…それどころではないでしょうし」
「それはそうだな。訊いて貰えるだけで一歩前進か」
「そうだと思います」
「分かった。コロナの見通しは会議で」

 そう言い終えると加藤はそそくさと立ち去った。

 どっちが重要なのですか?と訊いたら、勿論コロナさと応えるに決まっているが、本心はどうだか怪しかった。そんなタイプでなければ出世できないのが残念でならなかった。

 菜々子は特派員達の伝票処理を続けた。日本以外の先進国は物価高で何でも高く付くとは言え、支局の取材経費は慎ましやかなものだった。全盛期の金満テレビ局の金遣いをするような社員はもう居ないのだ。

 臨時部長会は十時に始まった。定例部長会は前日に済んでいるので出席したのは取材部門と編集部門の部長達だけで、全体の三分の二程だった。ただ、情報番組制作局の業務部長の他に編成部のデスクまでが居るのが異例だった。

「それでは臨時部長会を始めます。まず、加藤局長、お願いします」

 業務部長が開会を宣言し、加藤に発言を促した。

「皆さんお疲れ様です。宮澤部長は北京取材、ご苦労様でした。さて、今日臨時に集まって貰ったのは他でもない、ADE株出現に関して、今後の見通しを各取材部長に披露してもらう為ですが、その前に、まず、取材・編集方針について、申し上げたい。
 言うまでもないことですが、現在は世界にとって一大事とも言える状況です。皆さんには総力を挙げて、関連情報を逐一報道してもらいたいと思います。海外取材だけではなく、国内取材、専門家取材、医療業界取材など総力挙げて進めて頂き、素早く、そして、丁寧に放送に繋げていただきたい。よろしくお願いします。それでは次に坂口編集長から報道方針について具体的に説明をお願いしたいと思います」

 坂口淳編集長が発言する。

「局長からお話がありましたように現状は重大な局面にあります。前より酷いパンデミックに襲われる恐れがある訳で、国民の関心も極めて高いとしか言いようがありません。我々としては、事態の進捗に応じて随時カット・インなり特番なりを放送するのが責務と考えております。編成部にも、この点は御理解頂いていると思っています」

 ここで少し説明すると、カット・インとは通常の番組を途中でカットしてでも緊急報道番組を入れ込みニュースを伝えることで、特番とは、そのようにカット・インして始める報道特別番組や通常の放送プログラムを切りの良いところで変更し放送を始める報道番組の事を指す。

 いずれもスポンサーとCMが決まっている通常番組の放送を取り止め報道番組に差し替えることになる為、時間帯と内容にもよるが、民放では編成部や営業部門は嫌がることが珍しくない。CMの売り上げ減に直結するからだ。

 因みに編成部とは、どんな番組を制作し、それをいつ放送するかなどを決めるテレビ局の司令塔とも言える部署で、局によるが、番組制作予算も事実上統括する場合が多い。

 公共放送とは異なり、民放はCMの売り上げで飯を食っていく民間企業なので、金にならない報道特番、特にカット・イン特番を嫌がるのは自然と言えば自然である。しかし、民放といえども報道機関である。その責務を果たすことが期待されるからこそ、国民の共有財産である限られた電波帯を独占的に利用する免許が与えられている。

 どんな状況・事案なら報道特番を放送すべきか、それをいつまで続けるべきか、それはそれで議論が尽きないのだが、必要に応じて報道特番を放送するのは地上波テレビ局の使命であった。例えば大震災の発生時に報道特別番組を放送する意思も能力もないテレビ局に地上波の免許は要らないのだ。

 坂口編集長は続けた。 

「皆さん、そのつもりで全力を挙げて取材と出稿に取り組んでいただきたいと思います。
 また、早め早めの情報共有の徹底をお願い致します。いつ、どんなタイミングでカット・インなり特番なりを放送するのが適切か、また、専門家の仕込みやネタの展開、サイド企画を皆で考える為には、早めに情報を、特に予定や見通しに関する情報を上げていただくのが大事です。情報はたとえどんなに仔細な物でも、抱え込むのではなく、共有するようにお願い致します。
 この点に関して具体的に申し上げますと、差し当たり、現地取材の可能性や封じ込め作戦の成否に関わる見通し、日本政府や各国政府の今後の動きの見通し等について、編集会議で各部のデスクに披露してもらっていますが、もう少し長い目で見た中長期的なものを部長の皆さまにお話しいただければと思っています。宜しくお願いします」

 普段は吸い上げるばかりで一番出し惜しみをするのは自分達、編集サイドではないか、いけしゃあしゃあと良く言うわと、取材部門の部長達は其々思ったが、そこは大人である。噛みつく者はいなかった。ADE株の出現で内輪揉めをしている暇など無いのも分かっていた。

 実際に、ネタの囲い込みが大好きなのは編集サイドの各番組担当者であった。皆、視聴者の関心の高いネタで放送枠を埋めるのに必死なのである。そして、誰もが自分の企画は自分の番組で初出ししたいのだ。それに、時には取材部の意に染まぬネタを放送することもある。そんな時こそ、うるさ型の多い取材部に口出しされ邪魔されるのが嫌なのだった。

「それでは宮澤国際取材部長から、今後の見通しをお願いします」 

 司会の業務部長が指名した。 

 菜々子が口を開く。

「これまでの流れについては既に皆さんご存知と思いますので割愛いたします。まず、北朝鮮で出現した変異株がADE株か否かです。正式にはWHOの調査結果を待つしかないのでしょうが、多分、そうなんだろうと想定して取材をしていくつもりです。
 中国政府の調査はかなり進んでいる可能性が高いので、WHOにきちんと協力し、ウイルスそのものや関連情報を彼らが共有すれば、断定までそんなに時間は掛からないのだろうと推測しています」

 ここで加藤が割って入った。口調は不快感を隠さない。

「国際取材部として、北朝鮮で変異株の出現の可能性を把握したのはいつ頃だ?」
「それは、正確に何日だったか覚えていませんが、聯合通信社が未確認情報を報じてからです」

「では、ADE株の恐れは?」
「中朝首脳会談が終わってからです。いずれも我々はすぐに報道しました」

 菜々子は顔色を少しも変えず応えた。

 加藤は、菜々子がもっと早くにこの事態になる恐れを把握していたからこそ、自ら北京に出向いたのではないかと疑っている。その疑念は正しいのだが、菜々子も今更そう認めるわけにはいかない。

「疑いはこれっぽっちも無かったということか?」
 加藤は追い打ちを掛ける。今後の為にも菜々子を少し吊し上げたいのだった。

「ADEという現象を起こすウイルスがこの世に存在することは知っていました。例えば、デングウイルスがそうだということは専門家に訊けばすぐ分かることですから…。そして…、コロナでそれが起きたら非常に怖いというのも一部の専門家はずっと危惧していました。でも…、新型コロナに関しては、もう既に人々は十分苦しんでいます。そこにオオカミ少年のようなことを言うのは適切ではないと思っていました。たとえ、そうなったとしてももっと情報が明らかになってから言うべきことだと考えていました」

 菜々子は言葉を慎重に選びながら反撃する。

「報道するかどうかは別問題だ。それは最終的には私が判断する。耳打ちぐらいはできた筈だ」
 怒声こそ挙げなかったが、加藤の声には明らかに怒りが籠っていた。

「…」

 耳打ちくらいしてもらえるように普段からもう少し勉強したらどうですか?とは菜々子も言わなかった。しかし、あんたは信用できない…と言っているに等しい。それが加藤には気に入らないのだ。だから、周りに示しを付ける為にも菜々子を搾り上げるのだ。

 ルーク以来の歴代国際取材部長は皆似たり寄ったりだと、さんざ煮え湯を飲まされた思いを持つ加藤は一層腹を立てていたが、これ以上は追い込まない。やればヒステリーを起こしたと揶揄されるだけなのは加藤も分かっていた。

「封じ込め作戦の見通しは?」

 話を先に進めたいと考えたのであろう坂口編集長が割って入り、菜々子に尋ねた。坂口は結構腹が座っている。ヒラメではないのだ。自らの感情を抑え付けた加藤も頷いた。

 ここからは菜々子も出し惜しみはしない。披露するのは情報そのものではなく情勢の分析に過ぎないからでもある。

「予断は出来ませんが、中国政府は確信を持っているようです。そうでなければ、今回のように現地に全面介入し、北朝鮮国内で封じ込め作業に乗り出すのではなく、例えばですが、北朝鮮そのものの封じ込めを画策したかもしれません。しかし、中国政府は現地介入を選択しました。確信が無ければ違ったと思います。アメリカなど各国もWHOも全面協力の構えです。ということは、つまり成算もあるのだと思われます」

「なるほど…」
 加藤が相槌を打った。少しは機嫌を直し始めたらしい。

「思い起こせば、イギリス由来のアルファ株、インド由来のデルタ株、南アで最初に発見されたオミクロン株は、いずれも気付いた時には既に各国に広がっていました。封じ込めにはもう手遅れだったのですが、幸いに北朝鮮は事実上の鎖国をずっと続けています。北朝鮮からは、そもそも人が自由に外国に出ることは出来ませんし、国内でも移動は簡単ではありません。
 コロナに関して言えば、北朝鮮は陸のガラパゴス状態にあると言えます。これが、まだ、ADE株が北朝鮮の外には出ていないと期待できる所以です」 

「陸のガラパゴスか。確かにね…」
 坂口編集長が感心したように声を上げた。 

「また、ADE株の感染力自体はそんなに高くないのかもしれません。勿論、ワクチン接種済みで既に抗体を持っている人にはとんでもない脅威になるだろうと思われますが、北朝鮮の人口の大部分はワクチンを接種していません。そうした一般の人々の間で、感染爆発を起こしているという気配は、現時点ではありません。 
 また、北朝鮮では都市封鎖も続けられていますし、人々は配給を待ってじっと大人しく暮らすのにも慣れています。ですから、北朝鮮国内でも、ADE株はそんなに広がっていない可能性があります。
 治療薬が効かない理由もありません。勿論、推測の域を出ませんが、封じ込め作戦が成功する可能性は十分にあると考えられる理由です」

 ここまで言えば、加藤もラスボスや社長ら彼自身の上司達に見通しをしっかり説明できる。菜々子から加藤に対する十分な土産話になるのだ。きっと、この後、報告に呼ばれているのだろうと菜々子は思っていた。 

 加藤の機嫌は見る間に良くなった。菜々子の説明に満足したようだ。それだけ、最高幹部達への説明を気にしているということだ。

「わかった。WHOの動きは?」
 加藤が尋ねた。

「調査団の規模や本隊の現地入りのタイミングはまだ不明ですが、きっと中国政府が全面的にバックアップするでしょう。そうでなければ招聘した意味がありません。調査結果は思いの外早いかもしれません」 

「現地取材の見通しは?」
 坂口編集長が問いかけた。

「一応、北朝鮮大使館に問い掛けはしていますが、まだ反応はありません。中国政府やCCTVにも尋ねています。現地映像は、暫くの間、中国と北朝鮮の国営放送に頼ることになりますので、デスクが常にモニターしています」

一息入れると菜々子は続けた。

「ただし、ここで考慮しなければならないのは、仮に、北朝鮮から取材許可が下りたとしても、それがどんな状況下で出たのか、よくよく吟味する必要があるという点です。
 例えば、あくまでも仮にですが、封じ込めが完了する前に、ほぼ百パーセント自力で取材するならヴィザを出すと言われても、どんな状況でどんな態勢なら安心して取材できるのか、慎重に検討する必要があると思います。 
 本当に万が一になるのでしょうが、ADE株に感染した日本人第一号が我が社のスタッフになってしまうのは非常に拙いと思います。そうなってしまった場合、どこでどうやって治療してもらえるのかもまだ分かりません。北朝鮮で隔離治療を受けるのは誰もが避けたいと思うはずです。本当に慎重に検討するべきことと思います」

「おう、それはその通りだ。必ず、事前に相談してくれ給え。現地取材はあくまでも慎重に検討しよう」
 加藤が応じた。

 新型コロナ以前の事だが、新型インフルエンザの日本国内初の感染者が確認された時の大騒ぎ、誹謗中傷の嵐を思い起こせば、ADE株感染者日本人第一号を自社のスタッフから出すのは何としても避けなければならない。加藤もそう決意したようだ。勿論、そんな状況は菜々子も望まない。菜々子としては番組編集サイドが独断で現地取材をしようと画策するのに釘を刺す必要もあった。 

 こうした面では坂口が一番危ないのだ。何でも無邪気に突っ込むタイプだからだ。部下には功名心が先走るスタッフも多い。大トラブルの後始末だけお鉢が回ってくるのは困るのだ。 

「ところで戸山班はどうするつもりだ?」
 最後に加藤が思い出したように尋ねた。
「ホテルの外には出られない。戻るにも二週間の隔離になるのだろう?」「その通りです。暫くは丹東で頑張ってもらうしかありません」
「それはそうだろうが、何か手立てはないのか?」
「今のホテルに居る限り、国境の橋の往来は部屋からチェックできます。情報収集はネットと電話でやるしかありません。辛いかもしれませんが、スムースな撤収が可能になるまで辛抱です」
「撤収のタイミングも状況を見た上でだが、早めに決めて欲しい。相談を宜しく」
「わかりました」

 菜々子は素直に応じた。

 外出禁止令下の丹東に戸山班を余り長く置いておくことは出来ない。そうかと言って、代わりを送り出すことも当分出来ない。当人達はかなり辛い思いをするだろう。

 遼寧省と吉林省の外出禁止令までは菜々子も岩岡も予想していなかった。そこまで考えが及ばなかったのだ。悩ましいのは皆同じだった。

「では、日本政府の動きは?」
 坂口が議論を進行させると政治部長が説明を始めた。

 水に落ちることなく、菜々子の出番は終わった。

 臨時部長会終了後、菜々子が当番デスクに最新情報を確認し終え、自席に戻ろうとすると、ニュース制作部長の雨宮富士子がすっと寄って来て一言「大変だったわね。でも、上手く切り抜けたわよね」と囁くと直ぐに立ち去った。菜々子に対しては何か言わねば気が済まぬようだ。

 中国国営の新華社通信は、封じ込め作戦初日に、中国側から陸路で五万人以上の人員とおよそ一万五千台の車両が北朝鮮に入ったと伝えていた。北朝鮮のプライドを気遣ったのか支援物資の量には言及していないが、国境越えの道路の通行キャパを勘案すれば、中国の大行軍は二十四時間、間断なく続いたはずだ。

 丹東の戸山からの報告では、今朝もトラックの列は延々と続いていた。鉄道輸送も同様だった。

 日本のテレビ各社の昼ニュースは、こうした情報と前日のCCTV報道を元に、封じ込め作業の滑り出しは順調と伝えていた。

 メトロポリタン放送の昼ニュースの時点で北朝鮮側の報道はまだ無かったが、その直後、日本時間と同じ現地時間正午のニュースで、国営・朝鮮中央放送が、平壌市内でも封じ込め活動が始まったことを伝えた。

 市内の何処なのか明らかにされなかったが、街中の広場で、新義州市と同じように、この日朝から、検査が整然と行われる様子を捉えた映像が報じられた。当然行われているはずの食料配布の模様を映した映像は含まれていなかった。

 また、平壌中心部の金日成広場の映像も無い。支援の規模から考えると金日成広場にもテント村が作られていても不思議ではなかったが、金日成広場は、中国で言えば天安門広場、日本で言えば、性格は全く異なるが皇居前広場に当たる象徴的な場所だ。やはりプライドの問題があるのだろうと推測された。

 しかし、アメリカのスパイ衛星は、金日成広場にも大規模なテント村が設営されつつあるのを確認していた。ただし、こちらには北朝鮮軍の物と思われるテント群もある。軍同士の連携も粛々と進んでいる様子が窺えた。中国による全面介入と封じ込め作戦が順調に推移していることをアメリカ政府も確認していた。

 朝鮮中央放送の正午のニュースの二時間後、北京時間の正午には、中国のCCTVが平壌での封じ込め作戦始動の模様を伝えた。市内の違う場所の映像だったが、内容的には代わり映えはしなかった。

 

 移植手術


 日本時間のその日夕方四時過ぎ、現地時間の朝八時過ぎ、パリ南東部十三区にあるパリ・セーヌ南総合病院の一角で、肝臓の生体移植手術前の最終検査が始まった。

 レシピアント側の執刀医を務める予定のアラン・パスカル教授がこの日朝早く病院の敷地内に入ったのを韓国国情院の要員は確認していたが、何処で何をするのかまでは把握できなかった。パリ・セーヌ南総合病院は何せ広大なのだ。敷地内に建物は八十もある。

 最新の手術室と同じ病棟で始まった検査は血液検査やCTスキャナー、超音波検査などで、受けたのはレシピアント予定者一人だった。他にドナー候補二人に対しても検査は行われるのだが、こちらは時間帯をずらす予定だった。レシピアントには通訳として、パスカル教授との連絡役も務めていた若い女性が付き添っていた。女性は、長期予約をしている特別病室に隣接する部屋に既に数日前から泊まり込んでいた。

 ドナー予定者二人に通訳として付き添うのはレシピアントと一緒にやって来た別の男だった。 

 検査は粛々と進み、午後には検査結果の分析と詳細な手術計画が立てられ、問題が無ければ入念なシミュレーションを経て三日後の朝から執刀が始まる予定だ。

 国情院の要員もそこまでは把握していない。北朝鮮のユネスコ代表部に目立った動きは無い。しかし、フランスのDGSE・対外治安総局はこうした動きを逐一チェックしていた。

 特別病室の警備担当者はDGSEの要員が務めていて、これはレシピアント側も承知していた。暗黙の了解だ。レシピアントのカン・チョルとその一行は、手術の成否と身の安全をフランス政府に委ねたのだ。

 パスカル教授始め医師団が一番危惧していたのはレシピアント一行が北朝鮮からやって来たことが外に漏れることであった。漏れれば必ず騒ぎになる。

 PCR検査は全員陰性だったし、肝機能に障害のあるレシピアント、それにドナー候補以外、関係者は皆、新型コロナ治療薬の予防服用もしている。

 患者が退院するまで、北朝鮮の一行は全員、病院で隔離生活を送ることも決まっていた。医療チームもこれから二週間、缶詰になる。しかし、レシピアント一行がADE株出現後の北朝鮮からやって来たことが漏れるとフランス世論の反発は必至だ。政治問題にも発展する。 

 部分生体肝移植の成功率は高い。レシピアントが末期癌で既に重篤に陥っている場合など元々条件の極めて悪いケースを除けば、腕の良い経験豊富な執刀医チームによる手術が失敗することはほとんど無い。

 パスカル教授はフランスだけでなく欧州全体でも一、二を争う優秀な肝臓外科医であった。彼のチームが下手を打つ可能性は限りなくゼロに近い。術後の拒絶反応は確かにどんなレシピアントにも起こり得るが、免疫抑制剤の適切な処方と丁寧な経過観察をすれば乗り越えられる。 

 午後、検査結果の分析を終えたパスカル教授はドナーの手術を担当するもう一人の医師と共に特別病室に入った。ICUの機能も備えた部屋で、画像を見せながら患者に手術の概要を説明する為だ。

 レシピアントのカン・チョルには通訳も務める若い女性と白衣姿の初老の男性が恭しく付き添っている。北朝鮮から同行して来た看護師と思われる女性二人と護衛は部屋の外に出た。

「手術は予定通り明後日の朝に始められます。いずれのドナーにも問題はありません」 

パスカル教授が説明を始めた。カン・チョルは黙って頷く。 

「概要を大まかに申し上げますと、まず朝八時頃に麻酔をします。全身麻酔です。そして、レシピアント、つまりあなたの肝臓を摘出します。全摘出です。そして、肝臓に繋がる血管や胆管の処置をします。移植するドナーの肝臓に繋ぐ為の準備とお考え下さい。
 ドナーの手術もほぼ同時に開始します。こちらは硬膜外麻酔、部分麻酔になります。
 ドナーの肝臓は右葉という、右側の一番大きなブロックを切り分けて摘出します。ドナーに対してはしっかり後処理をして、傷を塞げば終わりです。多分、輸血は必要ないでしょう。それが終われば、ドナーの肝臓を速やかにレシピアント、すなわち貴方に移植し、血管や胆管を繋ぐのです。輸血は通常必要になります。食道に出来ている静脈瘤も同時に処置します。こちらはそれ程大きな物ではないので短時間で終わります。そして、事後処理をして傷口を塞げば完了です。
レシピアントには免疫抑制剤と抗生剤などが投与され、ドナーにも抗生剤が投与されます。
 概要はこんなところですが、実際の手術は全部で十二時間から十六時間掛かるのが普通です。ただ、私どものチームが執刀する場合はもう少し早く終わるケースが珍しくありません。が、通常は半日かそれ以上掛かります。その後はICUで経過観察です。ご質問はありますか?」 

「成功率は?」 

 カン・チョルが尋ね、若い女性が通訳した。

「手術中に異常事態が起こり、手術そのものが失敗に終わるケースはほとんどありません。問題は術後です。血管の繋ぎ目から血液が漏出したり胆管狭窄が起きるなど合併症が発生した場合は再び手術が必要になることもあります。強烈な拒絶反応が起きた場合にも面倒になり得ます。しかし、レシピアント、つまり、あなたに末期の肝硬変以外、その他の内臓や血管に手術を躊躇させるような大きな問題は見つかっていません。予断はできませんが、そんなに心配する必要は無いのではと考えています。
 勿論、絶対大丈夫と断言できる訳ではありません。移植手術は複雑です。絶対はありません」

「その後は?」
「順調なら一か月か二か月で退院出来ますが、その後も通院は必要です。あなたの場合はご自宅がとても遠いようですので、入院期間は少し長くなるとお考え下さい」 

「五年生存率というものがあるそうだが?」
「それはケース・バイ・ケースですが、肝臓移植手術全体の五年生存率は八十パーセント前後です。しかし、あなたの年齢や全般的な健康状態はそれ程酷くありません。静脈瘤は小さく腹水も僅かです。高齢者や癌になっている方に比べればずっとマシです。加えて、ドナーの肝臓の状態やサイズ、血液型等の適合性は悪くありません。こちらは理想に近い条件が揃っています。ですから順調にいけば問題は生じないだろうと期待できます。確かに最初の五年程度は注意が必要ですが、きっと、もっと長く健康に暮らせます。ただし、お酒は当分止めて頂きます。天寿を全うしたいならこれは絶対に守ってください」

 これを聞いてカン・チョルも付き添いもかなり安堵したようだ。

「移植が不必要ということは?」
「それは難しいですね。専門用語で言いますと既に非代償期に入っています。チャイド・ピュー分類ではCに近いBと言えます。放置すれば癌になる可能性が高く、そうでなくとも短命に終わる恐れ大です。そして、移植するなら早い方が良いです」

「わかった」

 ここでもう一人の医師が尋ねた。

「ドナー候補の方々はいずれも従兄弟の方と聞いておりますが、間違いありませんね?」

 カン・チョルは頷いた。

「一応、手術前に同意書に署名していただく必要がありますので、後程、書類をドナーの方にもお持ちします。ドナーの方の肝臓は一年程でほぼ元通りになるでしょう。若くて健康な方ですので。
 我々としては、今のところ、お身体の大きなキムさんの肝臓を移植に使わせて貰いたいと考えていますが、宜しいですか?」

 カン・チョルは再び頷いた。

「それでは、レシピアントの貴方にも同意書にご署名をお願いします」

 そう言うと、医師は何枚かの書類とペンを取り出した。

 一瞬、躊躇いを見せたが、すぐに署名を始めた。今更、嫌も応もない。

「他にご質問は?」

 パスカル教授が尋ねた。カン・チョルが首を横に振った。

「それでは我々はこれで失礼します。明日、我々、手術チームは、コンピューター画像を使って、3Ⅾで手術のシミュレーションを入念に行います。明後日も同じことを繰り返します。そして、三日後の金曜日に予定意通り執刀を開始します。では、お大事に」

 パスカル教授らは特別病室を後にした。医局に戻ると、待ち構えていた係官にカン・チョルが使ったペンが渡された。血液のDNA鑑定は既に始まっていた。

ミーハー専門家


 その日の夜、本社での仕事を終えた菜々子がオーフ・ザ・レコードに赴くと先客が二人いた。やけに明るい話声が店内に響いている。 一人は桃子、もう一人はウイルス学者の道明寺昭彦・東曙大学医学部名誉教授だった。

「あら、道明寺先生、お久しぶりです。お元気そうですね」
 ルークと桃子に黙礼した菜々子が話かけると道明寺は嬉しそうに応じた。「こちらこそご無沙汰です。相変わらず宮澤さんはお綺麗ですね。お目に掛れて光栄至極です。嬉しくなりますよ」

 その真面目そうな見かけにも拘わらずミーハーで鳴る道明寺は臆面もなく言い放った。美人には目がないのだ。

「あら、有難うございます」
 この程度のお追従なら菜々子は慣れている。

「北京はどうだった?知り合いの皆さんにはお変りなかったかな?」

 ルークが尋ねた。道明寺が居るので、はっきりとネタ元達とはルークは言わなかったが、菜々子に意は通じる。

「ゆっくり話すチャンスは無かったんですけれど、大きな変化はないみたいです」
「それは何よりだね」

 機微に亘る話は出来ない。

「それにしても新型コロナは厄介ですね」
 桃子が話を変えた。

「本当に面倒なウイルスだね。先生はどう考えているの?」
 ルークは道明寺を先生と呼び掛けたが、実際には十代の頃からの友人だ。普段は俺とお前の関係だ。

 道明寺が応えた。

「甲斐君には何度か言ったと思うけれど、この新型コロナウイルスは蝙蝠コロナウイルスからヒト・コロナウイルスに進化する途上なんですよ。もっとも、それもほぼ終わっていると言って良いと思いますがね」

 道明寺は感染症学科の名誉教授だが、彼自身の専門はウイルス学、特にエイズ・ウイルスの研究である。

「別の言い方をするとね、蝙蝠と共存していたコロナウイルスが、ひょんなことからヒトに感染するようになったけれど、最初はヒトとの共存が、彼らから見れば上手く出来ずに宿主となるヒトを結構死なせてしまっていたわけです。初期の武漢株は特にそうで、ヒトへの感染もそんなに上手く出来なかったんです。それが変異の度に、感染力の強い株がより感染力の低いその他の株を駆逐して広まり、また、より感染力の強い株が出現すると、既存株を駆逐して…、というのを繰り返しているのです。つまり、ヒトとの共存が出来るようなヒト・コロナウイルスに進化しているのですよ。その方がウイルスの生存にとって断然有利だからなんです」

「確かにね。ヒトに普通は風邪症状しか起こさないヒト・コロナウイルスは四種類だったっけ?」
 ルークが問うた。

「そう、四種類。それにアデノウイルスの仲間も風邪ウイルスとして我々と共存しているし、インフルエンザも、症状はきついけれどヒトと共存しているよね。でも、健常な人間なら死なないという点では似ているでしょ?」

「新型ウイルスもそうなるということですか?」
 菜々子が尋ねた。

「そうなんだけれど、どちらかというと、もうほぼそうなっていると言って良いんじゃないかな。だって、考えても分かると思うけれど、我々四人は、今、こうして、一緒に酒席にいるよね。アルコール消毒はするし、寒いのに窓を少し開けて換気はしているけれど、マスクはしていない。ワクチンはとうに接種済みだし治療薬もあるから安心なんだけれど、既に共存し始めているからなんですよ。実際、殆どの健常な人は無症状か風邪症状で収まるでしょう?」

「それでも亡くなる人はいますでしょ?」
 今度は桃子が問うた。

「それはそうです、普通の風邪だって拗らせると抵抗力の弱いお年寄りや基礎疾患のある人は亡くなってしまう。それはもう他の先進国でも似たようなものです。インフルエンザでも日本では多い年で一万人が亡くなりました。そのインフルエンザにもワクチンと治療薬が出来て死者は減りましたが、それでも運が悪いと亡くなります。それに比べれば、新型コロナの死者は、今や日本では遥かに少ないです。もう共存しちゃっているという事実を人間の方も受け入れるべきでしょう。
 ただし、はっきりしているのは死者ゼロには決してならないという事です。
 SARSもコロナウイルスですが、毒性が強すぎてヒトと共存できず、消え去っているけれど、今回の新型コロナはもう共存フェイズに入っているんですよ。
 現在問題のADE株も、危険であることを否定するつもりは無いけれど、それだけ危険ならば人間はやっきになって感染を防ごうとします。検査や治療もどんどんやって。だから、他の共存可能な株よりADE株が新型コロナウイルスの世界で優位に立って既存株を駆逐してしまう可能性はほとんど無いと考えて良いと思いますよ。
 勿論、油断は禁物です、しかし、封じ込め作戦が進めば、遠からず駆逐されると私は楽観しています。こんなこと、放送では言えませんけれどね」 

「成る程ねぇー、道明寺がいう事は最初からずっと一貫しているね。いずれそのうち共存することになるってね」
「今のところ、その通りでしょ?ま、これを大声で言うのはADE株がどうなるか、もうちょっと先を見てからにするけれどね」

「そうなると良いんですけれど、暫くは心配ですね」
 桃子が言うと、道明寺はこう応じた。

「ま、大丈夫でしょ。治療薬は効くんだし。製薬会社も新しい金儲けのタネが出来た訳でしゃかりきになってADE株対応のワクチンを作るはずです。何とかなりますよ」

 道明寺はここでも明るい。

「ADE株は兎も角として、既存の新型コロナに罹っても普通は風邪程度で快癒して、弱毒性の生ワクチンを打ったのと同じになるんですよ。それでもお年寄り始め免疫機能の弱い人はワクチンを打った方が良いと思いますが、健常な人にはどうってこと無い風邪ウイルスにもうほとんどなっていると考えて差し支えないと思いますよ」 

「それで皆が安心できると良いのですが…」
 菜々子が言うと、道明寺は菜々子の肩を軽く叩き、こう言った。
「もうすぐまたそうなりますよ。ADE株次第という条件付きですがね」

「さて、飯にするでしょ?今夜のメニューはトマトとモッツアレーラとバジルのサラダ、鶏と蕪のクリーム・シチュー、ガーリック・トーストさ。少し準備するから先にサラダを食べていて」

「頂きます」

 女性二人が声を揃えるとルークは冷蔵庫から取り出したサラダを盛り付ける。一口大に切り揃えたトマトとモッツアレーラ、多めの刻んだバジルがドレッシングで満遍なく和えてある。三人はキンキンに冷やした白ワインと共に食す。

「最高ですね。本当に美味しい」

菜々子が嘆息した。北京ではなかなかお目に掛れない味だ。ドレッシングはヴァージン・オリーブオイルと酢、塩だけなのだが、ルークの奥方の塩梅はいつも抜群なのだ。

「味の決め手は訊かれても応えられないよ。ドレッシングと和えるだけなんだが、特に女房の塩加減はセンスとしか言いようがないからさ」

 シチューとガーリック・トーストを準備しながらルークが背中越しに言った。

 三人は中国の科学研究の話題で盛り上がる。道明寺は北京で暮らしたことは無いが、かの国の研究者達と交流があった。ウイルス学の世界でも中国に睨まれると面倒だと、大分前の事だが、ルークにボヤいたことがある。資金力が違うのだ。

「それにしても新型コロナの起源ははっきりしないままですよね。先生はどうお考えですか?」

 桃子が尋ねた。

「中国の何処かで、ま、多分、武漢で、蝙蝠コロナウイルスがヒトに感染するようになったのは間違いないと思いますがね。それが、何処から来た蝙蝠ウイルスで、中間宿主は居たのか、直接だったのか、など詳しいことは永遠に謎のままかもしれませんね。ただ、今となっては、余り意味のあることでは無いかもしれませんね。もうこんなに広まってしまっていますから。学術研究として起源を探る人はいるでしょうが、仮に分かったところで、新型コロナウイルス対策に役に立つとは思えませんね」

「でも、次にまた出てくるのを防ぐという意味では役立ちませんか?」 
 菜々子が尋ねた。

「それはそうかも知れませんね。どの蝙蝠がより危険か分かれば、どんな蛇がどんな毒を持っているか知っておくと役立つのと同じようにね。でも、蝙蝠に関わる研究をする時は須らく厳重警戒すべしというだけでも十分かもしれませんね。まさか、ありとあらゆる蝙蝠を駆逐する訳にはいきませんし、仮に中間宿主が判明したところで同じですね。それより、mRNAワクチンならかなり早く作れて役に立つ、三密を避けたり、マスクをして手指消毒を徹底すれば、そんなに移ることは無い、という教訓の方が現実社会では有効でしょう」

「それはそうですね」
 菜々子が頷く。

「でも、いつまでもマスク、消毒徹底なんてやり続けると、そんな環境しか知らない人間の抵抗力は強くなりませんよ。例えば、風邪引いて、治って、お腹を壊して、治って、というのを小さい時から繰り返すから、ヒトの身体は少しずつ抵抗力を身に着けていく訳で、それを忘れてしまったら人類は弱くなってしまいますよ。免疫機能を鍛えるのも必要なんです」

「成る程」
 桃子が相槌を打った。

「だから、いつまでも必要以上に神経質でいるのは考えものなんです。僕なんか、ADE株は嫌ですが、最近のヒトに慣れた株なら罹っても良い、むしろ歓迎したいと思っているくらいですよ」

「はい、お待ち」

 ルークがシチューとガーリック・トーストを並べながら言った。

「反ワクチン派と似たようなことを言っているね」
「そんなことはありませんよー。僕だって武漢株に罹る危険があるならワクチンの方が良いし、今の変異株だって、お年寄りなどはワクチンを打った方が良いと思っていますから」

「蕪が柔らかくて、味が染みて美味しいです。この蕪なら大歓迎ですー」
 先に一口食べた菜々子がおどけながら言った。

「それは、その通り。僕も頂きます」
「頂きます」

 三人は熱々のシチューとガーリック・トーストに集中し始めた。

 食事を終え、道明寺が手洗いに立った隙に桃子が囁いた。

「国情は正恩の体調は相当悪い可能性があると見ています。取材をしっかり続けた方が良さそうですよ」

 ルークと菜々子が顔を見合わせた。

「分かりました。姐さん、有難うございます」
 菜々子が謝意を示す。

「封じ込めが順調なら、そっちの話の方が大きくなるかもな。アンテナを思い切り伸ばすんだね。俺もそうするよ」
 ルークが重ねた。

 道明寺が戻ってきた。もうこの話を続ける訳にはいかない。ルークは新しいボトルを開け三人に注いだ。

 

調査開始


 翌朝、WHO先遣隊のコールター博士率いるチームが中国軍差し回しの車両に分乗して平壌総合病院に向かった。

 2021年の朝鮮労働党創建七十五周年に合わせて大規模改修された総合病院には近代的な装いの高層棟が二つある。

 その一棟は元から幹部専用だったが、折しも新型コロナウイルスによるパンデミックが発生していたこともあり、全体が幹部専用に変更され、そのままになっていた。コネの無い一般市民は敷地内に立ち入ることさえ出来なかった。周辺には高層アパートも立ち並んでいたが、それらのアパートも庶民には縁が無い。

 コールター博士が駐車場で車を降りると、既知の中国科学技術院のウイルス学者・張洋が待っていた。

「コールター博士、ようこそお見えくださいました。こういう状況でお目に掛るとは予想していませんでしたが、お久しぶりです。お元気そうで何よりです」

 マスク越しだったので顔からはすぐには分からなかったが、その声を聴いて、迎えの御仁が張洋とコールター博士には分かった。握手は無い。中国語が出来ないコールター博士には判別しようがなかったが、彼の白い防護服の背中には簡体文字で中国政府と記されている。胸元には名前が書かれているようだった。

「ドクター・張洋、お久しぶりです。お出迎え有難うございます。貴兄のご協力に感謝申し上げます」

 月曜にパリを発ってから強行軍でここまでやって来たコールター博士らは、ほとんど寝ていない。時差ボケもあった。が、アドレナリンの為せる業だろう、疲れはほとんど感じなかった。 

 コールター博士らの一行は揃いの青い完全防護服姿で、背中にはWHOとアルファベットで書かれている。また、識別番号も振られている。博士の番号は001だった。 

「こちらは平壌総合病院の副院長・金永春先生です。我々の案内役を務めて下さいます」 

 張洋が傍らの男性をコールターに紹介した。金副院長はやはり白い防護服を身に着けているが、青い線が縦に二本入っている。ハングル文字も記されている。

「ようこそ、コールター博士。では、早速ご案内します」

 金副院長を先頭に一行は順に病棟に入っていく。この模様は、朝鮮中央放送と中国軍、それにWHOの記録係がそれぞれカメラで追っていた。

 中に入り、計四か所のドアを抜けると、アクリル板で仕切られた壁の向こうにICUが見える。ドアを通る際の空気の流れから、この部屋が減圧されているのが分かる。このICUにはベッドが八床、全て埋まっていたが、ECMO・体外式膜型人工肺は無い。

「こちらの集中治療室にはご覧の様にベッドが八床あります。今、全員にボンベから酸素が送られています。治療薬と抗凝固剤も投与されています」
 金副院長が説明を始めた。
「幸い、皆さん、容態は安定しています」

「不幸にして悪化された場合はどうされるのですか?」
 コールター博士が尋ねた。

「上の階にも集中治療室はあります。体外式膜型人工肺装置も一台ありますが、現在は使われていません。中等症患者にも治療薬が効果を上げていると我々は考えています」
「重篤化したり、不幸にして亡くなる方は少ないということですか?」
「こちらの部屋での治療が手遅れになっていなければ何とか持ちこたえる患者の方が多いのが実情です」

「亡くなられた患者は?」
「正確な人数を今は申し上げられませんが、何人かはおられます。しかし、多くはありません」

「やはり新しい変異株に?」
「全員の検査結果が確定している訳ではありませんが、この部屋の患者は、多分、全員、そうだろうと我々は考えています」

「特異的な症状は見られますか?」
 コールター博士は更に尋ねた。

「いえ、これまでに世界各地から伝えられた症状と際立って異なるケースはありません。ただ、亡くなられた方は、急速に容態が悪化していて、こちらに来られた時にはもう手の施しようがない場合がほとんどです。パンデミック初期の頃に各国で亡くなった方と似たケースが多いと思われます」

「皆さん、ワクチンは接種済みですか?」
「全員ではありませんが、そういう患者も多いです」
「割合で言うとどうですか?」
「割合と言いますと?」
「重症化した方々の内、ワクチン接種済みの方の割合です」
「それは多いです。五人の内、四人位の割合になると思います」

「そうか…やはりADEが疑われるな…」
 コールター博士は心の中でそう思った。

「何か必要なものはありますか?」
「幸いに中国政府の支援を受けましたので、今は大丈夫です。しかし、西側で開発された治療薬を大量支援して頂けると有難いと思っています」
「やはり効果がありますか?」
「そう考えています」
「それとECMOはもっと必要です。医療チームの訓練も必要になりますが、これには時間もかかりますので、中国政府が熟練した医療チームも派遣してくれる手筈になっています」

「WHOも派遣できると思いますが、如何ですか?」
「それは上の方で決めて頂くことと思います」
「分かりました。WHOの調査団本隊が到着しましたら、今後の支援についても、また改めて相談させて頂きましょう」

 金副委員長の口調からはこれ以上根掘り葉掘り聞いてくれるなと言わんばかりの思いが滲み出始めていた。最高指導部の命令とは言え、西側の外国人と関わると後でどんな禍が降って来るか分からないのだ。感染症の専門家ではなかった為でもあるが、副院長より上位の院長が出て来なかったのも、これが理由だった。そうした事情を見て取った張洋は博士に先を促した。

 コールター博士一行は、部屋を後にした。

 年齢別の感染者数や重症者数、死亡率、実行再生産数、ワクチン接種歴など詳細なデータを病院側がこの日出してくるとは到底思えなかった。実際には中国政府に対しても詳細な疫学的データは明らかにされていなかった。

 その頃、地下の隔離室では、病院側と中国、WHOの技師達が患者達から分離した新型コロナウイルスを運び出す準備を進めていた。ウイルスは十人の患者から分離され、一人分二本ずつ計二十本の容器に凍結され、万が一にも漏れ出さないよう更に特殊容器に厳重に封印された。

 ウイルスは中国軍によって、まず北京まで運び出され、次いで、半分は武漢ウイルス研究所に、残りの半分はフランスのリヨンにあるパスツール研究所のBSL4施設に持ち込まれ解析される。これら一連の作業は全てWHOの研究者の監督の下、実施される。因みに一度でも北朝鮮に入国した者は例外なく二週間隔離される。

 病院内で暫く待機してからウイルスの搬出を見届けると、コールター博士一行は拠点の養鶏場予定地に戻った。そして、昼食もそこそこに活動初日の報告をジュネーブの本部に送る。ワイファイは既に繋がっていた。後は、翌日の活動予定を確認し休息だ。

 コールター博士はオンドルとやらが実に温かく、居心地が良いのを大変気に入っていた。仮設だったが、シャワーも使えるのが有難かった。

 封じ込め作戦は三日目も順調だった。支援物資の搬入も延々と続いている。各地の一斉検査で陽性が確認された住民は直ちに隔離され、順次、ウイルスが採取され、中国軍が運び込んだ移動研究室で簡単な解析もされる。

 事実上の鎖国と都市封鎖が効いているのか一般住民の感染者は少ないようだと、WHOの先遣隊は中国政府の連絡員から聞かされていた。しかし、その人数等はまだ明らかではなかった。集計中ということだった。

 封じ込め作戦三日目の模様は、朝鮮中央放送が、まず正午のニュースで報じた。WHOの先遣隊が平壌総合病院を訪れたことも簡単に紹介された。しかし、ウイルスの搬出には触れられていなかった。搬出先の住民の不安を惹起するのを避ける為だった。

 日本のメディアはこれらを引用して、午後から夕方のニュースなどで報じた。

 こうした報道をオフィスで見ていた道明寺は、ADE株の脅威ばかりを煽るような論調が多いことに苦虫を噛み潰したような思いだった。苦情めいたメールをルークに送ったが、

 現役を退いて久しいルークとしては如何ともし難い。

「言わんとするところは分かるが、まだ仕方ないよな…ADEが蔓延したら怖いのは事実なんだしさ。朗報が入るまでじっと見ているしかないよ」

 ルークはこう返信した。

 

ミトコンドリア

 

 パリ・二十区のモルティエ大通りにあるDGSE・対外治安総局の本部では、水曜日の朝九時に、アジア担当次長のジャン・ルック・モローの下で、毎週、定例の情勢報告会が開催される。 

「指紋はやはり一致しませんでした」

 朝鮮半島担当チームのルイ・ラファエル・シモンが報告を始めた。 

「ほー、では誰なんだ?」
 モローが先を促す。

「我々が持っているカン・チョル、すなわち金正哲の指紋とパリ・セーヌ南総合病院で手術を受ける予定のカン・チョルは別人という事になりますね。しかし、面白いことにミトコンドリアの遺伝情報は同一です。つまり、正哲の親族ということになります」
「兄弟ということか?」
「勿論、その可能性は十分ありますが、現時点では断定できませんね。母親同士が姉妹の従兄弟同士もミトコンドリアは同じですし、更に付け加えれば、互いの祖母が姉妹で、同時に母親が従姉妹同士の場合もミトコンドリアは一致しますから、対象は結構広いです。実際、ドナー二人のミトコンドリアも一致しました。こちらは申告通り、従兄弟、ないしは、又従兄弟の可能性が高いと言えると思います」

 こうシモンが報告した。

 ミトコンドリアは細胞内に存在する小器官で細胞を動かすエネルギー・ATPを作り出す。そして、このミトコンドリアはミトコンドリアDNAと呼ばれる遺伝子を持つ。 

 ヒトの遺伝子であるDNAは父親と母親から半分ずつ受け継ぐ為、片方の親と一致するのは半分だけだ。一卵性双生児でもない限り兄弟姉妹でも完全に一致することは基本的にないのだが、それと異なり、このミトコンドリアDNAは母親だけから受け継ぐという特徴がある。つまり、ヒトのミトコンドリアDNAは母親、母親が同じ兄弟姉妹、母親同士が姉妹の従兄弟・従姉妹同志だと完全に一致するのだ。

 ややこしくなるが、加えれば、母方の祖母やその子である叔父や叔母、その祖母の母に当たる曾祖母、その曾祖母の子である大叔父や大叔母とも一致する。この大叔母の子とも同じになる。母系で引き継がれるのだ。どんなに遠い親戚でも母系が同じならミトコンドリアは同じになるのだ。

 この為、ミトコンドリアDNAの鑑定はヒトの人定にしばしば用いられている。

 例えば、ベトナム戦争で行方不明になったアメリカ軍兵士のものと思われる遺骨が見つかった場合、母系が完全に同じ親族のミトコンドリアDNAと照合され、当該人物の遺骨かどうか鑑定される。こうした鑑定をする場合、父親や父方の親族のミトコンドリアDNAは使えない。また兄弟姉妹でも母親が異なると役に立たない。

 つまり、カン・チョルの人定に関して言えば、万人不同の指紋が一致しなかったという事は別人を意味するが、年齢の近い男性同士でミトコンドリアDNAが一致したという事は、通常、母親が同じ兄弟か母系の従兄弟、或いは又従兄弟である事を示すのだ。

「最終的に確認するには何が必要になる?」
 モローが尋ねた。

「スイスがきっと持っているはずの正恩総書記の指紋と照合するのが一番手っ取り早いかと…、しかし、持っていたとしても彼らが、はい、分かりましたと素直に出してくれるとは思えませんね。根掘り葉掘り訊いてきますよ」 
 シモンが応えた。

 正恩総書記は小学校時代にスイスのベルンの公立校に留学していた。スイスの情報機関がボーッと見ていただけの筈はない。

「では、彼らにこう言ってみるのはどうだ?もしも、指紋が頂けないとなりますと、我々は手を拡げて調べなければなりません。例えば、北朝鮮指導部が使っている銀行口座情報をアメリカの財務省に照会して調べるとか…。どうだ?絶大な効果があるんじゃないか?」

 モローが言った。叩けば埃は必ず出る。

 スイスの銀行を利用して国連の制裁に違反する金融活動を北朝鮮指導部が継続して行っていて、それをスイス当局が黙認していたとなると只では済まない。アメリカ財務省は相当厳しい制裁を課すだろう。スイス当局が指紋を黙って出せば、この件に関してはフランスも黙っている。そういう暗黙の取引を持ち掛けるのだ。公判前の司法取引やビジネスの契約をするのではない。証拠の開示など必要ないのだ。

「名案ですね。承知しました」
 シモンは納得した。

 十三区にあるパリ・セーヌ南総合病院では生体肝移植手術のシミュレーションがコンピューター画像を使いながら続けられていた。移植手術としてはそれほど難しくならない。

 パスカル教授は成功を確信した。


***

これは近未来空想小説と言うべき作品である。当然、全てフィクションと御承知願いたい。

©新野司郎

本連載の複製・蓄積・引用・転載・頒布・販売・出版・翻訳・送信・展示等一切の利用を禁じます。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?