20XX年のゴッチャ その85

人影


 
 その週末の土曜日、菜々子は太田と二人で久しぶりにゴルフを楽しんでいた。キャディーは付けず、所謂ツーサムで回っている。
 
 千葉県内にあるそのコースは、お手軽で良心的なことで知られ、18ホールしかないが、戦略性に富み、非常に美しい。
 
「ナイス・ショット!」
 
 菜々子の腕前は、平均的なアマチュア女性ゴルファー程度のレベルだったが、太田は時には70台で回るアマチュアとしては上級者、シングル・プレーヤーだ。
 
 太田のティー・ショットはロング・ホールのフェア・ウェイど真ん中に着弾した。270ヤードは飛んだだろうか。
 
 日差しは暖かい。梅は既に盛りを過ぎ、一部だが桜が綻び始めていた。
 
 続いて菜々子が前方のレディース・ティーからドライバーを打った。
 
「あら…」
 当たりは鈍い。菜々子は少しふくれ面をした。
「でも、大丈夫さ。フェア・ウェイをキープしたじゃない。これからだよ」
 太田が励ました。
 
 菜々子は三本線の入った鮮やかなオレンジ色のゴルフ用のベルト付きワンピースに身を包み、やはり三本線の入った白いハイソックスを履いている。スタイルの良さが遠目にもはっきり分かる。
 
 太田はその姿を眩しそうに見つめた。
 
 電動カートに乗って、二人は第二打の地点に移動する。
 
 すると太田がゴルフ用の小さなトート・バッグから何かを取り出し、菜々子に差し出した。指輪のケースだ。
 
「受け取って欲しい。結婚してくれませんか?」
 
 プロポーズに似つかわしい舞台とは思えなかったが、太田が言った。
 
 予想だにしなかった太田の行動に菜々子の顔に朱色がさっと拡がった。どぎまぎしながら、菜々子はケースを受け取り、太田の顔をしっかり見つめて返事した。
 
「はい」
 
「有難う。詳しい話は昼にでも。さあ、着いたよ。菜々子のボールのライは左足下がりかな」
 
 太田が菜々子の返事に安堵しながらも、まるで照れ隠しのように、菜々子にセカンド・ショットを促した。
 
 菜々子は自分のミニ・トートバッグにケースをそそくさと仕舞うと、フェア・ウェイ・ウッドを手にしてボールに近づく。中身を検める暇もない。
 
 身体はふわふわしていた。
 
 案の定、チョロだった。しかし、心の底から嬉しかった。久しぶりに仕事の事を完全に忘れていた。
 
 プロポーズが上手く行ったことに気を良くしたのか、太田の第二打も見事だった。500ヤード強のロング・ホールでツー・オンしたのだ。
 
「ナイス・ショットです。有難う、太田さん」
 
 菜々子が少し恥じらいながら声を掛けた。
 
「こちらこそ、有難う。菜々子、愛しているよ」
 
 太田が応えた。
 
「私もです」
 
 声の届きそうな周辺には誰も居ない。菜々子は太田の胸に飛び込みたいのをじっと我慢した。
 
 二人は昼食後、午後のラウンドを急用が出来たと言ってキャンセルし、太田の車で菜々子の自宅に向かった。相談すべきことは山程ある。
 
 太田は都内にある役所の官舎に住んでいる。そこに行くのは憚られた。周辺は皆、太田の顔見知りだからでもある。
 
 帰りの車中で、二人は、五月の菜々子の誕生日に入籍することにした。昭和風の大規模な披露宴はせずに、折を見て適宜挨拶周りをすることでも一致した。
 
 
 
 その頃、パリの大友と山瀬はこの日の定点観測を開始していた。
 
 週末という事もあって、ベルネールとアヌーは休んでもらうことにしていた。大友と山瀬だけで取材に当たる。二人に休みは無い。
 
 午後、再び女性が外科病棟十二階のバルコニーに姿を見せた。スムースとは到底言えなかったが、山瀬が超望遠レンズ付きカメラを操作し、女性に寄った。お姫様だ。
 
 すると、その身振りから、お姫様は部屋の中に居る人物に話し掛けたようだった。
 
 山瀬が窓際にカメラの焦点を合わせようとする。なかなかうまく行かなかったが、何とか窓を捉えると一瞬だが、人影が見えたような気がした。
 
 しかし、ブラインドのせいで顔・形は分からない。きっとご本尊だろう…二人はそう思った。不思議なことにほとんど興奮を覚えなかった。
 
 大友は菜々子に報告を入れた。
 
 
 翌朝やや遅く、菜々子はベッドから起き出すと用を済ませ、スマホをチェックした。
 
 太田の優しい愛撫とリズミカルな動きに何度絶頂を迎えたのか覚えていない。実に心地よく気怠かった。
 
 しかし、大友の報告が菜々子を現実に引き戻した。
 
「ご苦労様です。また一歩前進ですね。引き続き宜しくお願い致します」
 
 菜々子は大友と山瀬の二人にメッセージを入れた。
 
 菜々子はベッドサイドに置いてある指輪のケースに目をやってから、朝昼兼用の食事の支度を始めた。
 
 指輪は五月の誕生石の大き目のエメラルドで、サイズは正にぴったりだった。
 
***
 
これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。 
 
©新野司郎
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