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誰がために鐘は鳴るのかを自問する

近親者を見送り、親しい方々もまた大事な人を喪うということがしばらく続きました。私を含め、遺された者は故人を通じて漫然と生きる日々と向き合う機会があったのですが、コロナ禍では誰かと語り合い、笑い合う機会が随分と減ってしまいました。

世の中が不穏な方向に流れていくことと反比例するように、さまざまなタイミングやチャンスをいただいて、私の会社は業績を伸ばすことができました。しかし、仕事の多くがリモート会議やテレワークが中心となり、そこで起きるコミュニケーションの形は良くも悪くも「私とは何なのか」を考えることでもありました。

そのときどきで考えたことは文章にしていたのですが、ツイートしては消し、Facebookに投稿しては非公開にし、noteに書いては下書きのままにする、という状態が長く続きます。誰に積極的に読まれるわけでもないのですが、「正しく伝わらない」ということに、臆病になってしまったのです。

そもそも正しく伝わるという考え自体が幻であり、期待過剰でもあるのですが、私が何者であるかを誰かに知ってもらいたいという思いが少し強いのかもしれません。私が表現者であるならば、それを作品に昇華することができるのですが、今のところそのモチベーションは生まれていません。

このような文章も含め、世に出したものを作品とするのであれば、それが世に出た瞬間から鑑賞者それぞれが理解するものであり、そこに説明や意図は示されるべきではありません。そもそも、「説明しなくては分からないということは、説明しても分からない」のです。

「わかる / わからない」「理解できる / 理解できない」は二律背反の関係であり、それぞれの立場が主張するだけではなく、それを認め合う作業が必要です。私はダイバーシティとはそういうものだと考えています。

話がどんどん大きな方向にずれてしまっているのですが、要は考える機会が増えたにも関わらず、それをうまく伝える術を見失っている状態が続きました。そしてそれを確かめる手段も限定的になったのです。

これは私だけではなく、日常生活においてコミュニケーションを強く意識されている方々も感じられているのではないでしょうか。テレワークやオンラインが主体となったことで、利便性は増し効率的になった一方で、人はほんの少しだけ冷たくなったと感じます。自分自身もそうですが、相手の立場や気持ちを慮るという行為がほんの少し薄れていると感じることがあります。

幸いなことに私はそれに気がつくことができました。偉そうに宣言したいわけではなく、誰かの思いを汲むという行為そのものについて深く考えることが今の自分にとても必要で重要なものであると考えました。これまでとこれからの人生のために、どうしても向き合う必要があるべきことです。

本当にありがたいことに、この春から自分が考えることを最優先させる環境を得ることができました。多くの仲間が私の思いを汲み、理解した上で協力してくれています。私はこの恵まれた時間を1秒も無駄にすることはできません。

生きることに真剣でありたいのです。
誰がために鐘は鳴るのか、それは私自身が考えるためなのだから。

小説や新書、映画や展覧会などのインプットに活用させていただきます。それらの批評を記事として還元させて頂ければ幸甚に存じます。