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聴くことは大事な技術の一つ

先日、お世話になって1年経ったと書いた自費リハビリの療法士さんはお若いながらも"人として素晴らしい"と感じさせる方です。

「回復期の療法士さんとの違いはなんですか?」と聞かれて
「寄り添いですね」と答えたことも書きましたが、何故その方からは「寄り添われている」と感じられるのか考えてみました。

まず肯定から

リハビリをしながら色んな会話をします。

「こんないいことがあった」
と言えば
「それめちゃくちゃうれしいですよね」

「こんな悲しいことがあった」
と言えば
「それほんと辛いですね」

「これひどくないですか」
と言えば
「めちゃめちゃ悔しいじゃないですか」

文字にするとそんなこと、と思われるかもしれません。でも咄嗟にこう言う言葉がでる人って実は少ないのではないかと思っています。

出された事例が自分も同じように
「それはひどい」
と共感できることであればその言葉は口からすっと出てくると思います。

けれども出された事例が
"それほどの事じゃないのでは?"
と思ったとき
「まあ、しょうがないですよね」「相手はそんなつもりじゃなかったかもね」
なんて言葉が出てしまう事もあるのではないでしょうか。

YESのあとが大事

1年間色々な話をしてきました。特に私の場合、回復期での出来事を口にすることが多かったです。

素人の私が話すこと、療法士であるプロの目から見たら
「それは普通のことだけど」とか「それは仕方ないとこあるんだけど」
なんて思うこともあったと思います。
でも、第一声で否定された記憶はありません。

第一声で肯定されるとその後の言葉は受け入れやすくなると言われています。"イエス バッド法" や "イエス アンド法"と言われるものがそうです。

確かに
「それめちゃくちゃ悔しいですよね。でも仕方ない側面あるんですよね‥」
そういう場面はあった気がします。

ただ「めちゃくちゃ悔しいですよね」の言葉の後
私の"悔しい"という思いを吐き出す時間をくれます。この吐き出す時間が大事だと思います。

きちんと"悔しい"を受け止めてもらえた実感があるからその後の
「でも仕方ない部分もあるんですよね」
という否定の言葉をすんなり受け入れられるのだと思うのです。

いくら「イエス バッド」という手法を知っていてもそこに気持ちが伴っていなければ、"受け止めてもらえた"と感じられず、その後の否定の言葉だけが心に残ってしまう気がします。

まずイエスというために

実際のところ"イエス"から始めることがいいと知っていてもそうできなかったり、うわべだけになってしまうのはなぜなのでしょうか?

人の話を聞くにあたって自分の価値観が入ってしまうからだと思います。

入院中、院内歩行をしていてパン屋さんの前を通りかかったらパンのいい匂いがしてきました。
「ここに来るといつもすごくいいパンの匂いがしますよね」
と私が言うと
「女ってパン好きですよね」
という療法士さんの答えが返ってきました。

その療法士さんはパンが嫌いだったのかもしれません。奥さんが無類のパン好きで毎食パンでうんざりしていたのかもしれません。
けれども
"女性がパン好きである"
ということは、あくまでも彼の主観でしかありません。

たとえそれがくさやの干物であっても相手がそれを"いい匂い"と感じているなら
"くさやの匂い好きなんですね"
と受け止める必要があると思います。(すみません、いい例えが見つからなくて)

自分がくさやが好きであれば
"いい匂いですよね"
と共感しやすいと思います。
でも、たとえくさやが嫌いであっても
"くさやをいい匂いだと感じている"
そのことを受け止めることはできるのではないでしょうか。

受け止めることから始まる世界

「女ってパン好きですよね」と言われたときどう答えたか?
あまりよく覚えていません。ただ「女ってパン好きですよね」と言われたことだけ覚えています。

そこには女性蔑視的思考が入っているような気がして自分が"カチン"と来てしまったからです。

今は
「あなたの周りの女性はパンが好きな人が多いんですか?」
「あなたはパンが嫌いなんですか?」
と彼が"女性はパン好きである"と思っていることを受け止めて会話を広げられたら良かったと思っています。
が、残念ながら"カチン"と来たことでその時は会話は続かずに終わりました。

私が会話を続けられなかったこと同様、彼も自分の主観
"女性はパンが好きである"
という価値観のもと返事をしたことにより会話はストップしてしまいました。

私に"もうパンの話はすまい"という思いをさせてしまったのです。

でももしこの時
「みどりさんはパンが好きなんですね?」と聞かれたなら
「そうなんです、パンならどれだけでも食べられちゃうんです」
と答えたかもしれません。

当時私は食欲がなく病院食を残しては注意されていました。リハビリも食事が取れないことから筋トレに制限がかかっていました。

もしここで会話が続いていたなら
「じゃあご飯をパンに出来ないか聞いてみましょう」
と、もしかしたら食事内容の見直しにつながったかもしれません。

また「家でもパンを焼きますか?」
そんな会話がなされていたら、パンが捏ねられるようにと手のリハビリにつなげられたかもしれません。

相手を知り理解する上でも、自分の価値観を一旦置いて人の話を聴くことはとても大切だと思います。

過去の投稿より

担当療法士さんの数年前のSNSにこんなことを書いておられるのを見つけました。許可を頂いたので引用させていただきます。

"自分の知らない話を聞いたときの、対応。

原則、相手がどう感じたか。

例えば、痛みがあって、
治療院で
仰向けになって、
施術者が自分の周りを
グルグル回って、
悪い気を吸い取る治療をしたと。

知らなくても、アナタの意見は二の次ですよ!!

相手がどう感じたかを、
絶対に先に聞くべきです。"

これを読んでさすがだなと思いました。
「それ騙されてますよ」とか「インチキですよ」と第一声で言いたくなると思うんですよね。

でも"相手がどう感じたかを絶対に先に聞くべきです"と。

大切な仕事の一つ

私も実際によく聞かれます。
「そのときどう思いました?」
「それでどう答えたんですか?」と。

私は人の話を聞く仕事をしていますが、フィルターをかけることなく人の話を聴くことは本当に難しいです。聴くことに専念していてでさえそうなのですから、リハビリをしながら人の話をちゃんと聞くことは大変だろうなと思います。

でもこういう考えが根本にあるから、私はいつも"聴いてもらえている"と感じられ"寄り添われている"と感じられているのだと思います。

会話の中からリハビリにつながることを見つけていただけることもあります。
"患者の口を閉ざさせないこと"
"安心して話せる場をつくること"
より良いリハビリをするために必要な技術の一つなのだなと思いました。