見出し画像

リハビリ患者を支える人のための本 岡崎あや

リハビリに行く途中、時間調整に立ち寄った図書館で手に取った本です。時間を気にしつつ一気に読みましたが、色々感じることがあったので読書記録に加えたいと思います。


愛おしい身体ちゃん

今まで読んだものと異なり、病気ではなく事故で大怪我を負われた方の本でした。

ゴルフの打ちっ放しに行き3階から1階のコンクリートに頭から転落したという岡崎さん。一命は取り留めたものの「寝たきりか、よくて車椅子」という宣告から2年かけて歩けるようになったというリハビリ生活について書かれています。

はじめに──で語られている友人とのやりとり。

進捗のないリハビリに心が折れ、引きこもりがちだったときに友人と出かけたのが楽しく「お荷物の身体やけどこれからもよろしくね」と書いたお礼の手紙に対する友人の返信に心打たれました。

「何を言ってんの!あやぽんの身体は大きい手術に3回も耐えて、痛くてつらいリハビリにもこんなにがんばってきたのに"お荷物"なんて言ったらかわいそうやん!『私の愛しい愛しい身体ちゃん』ってほめてあげたら、あやぽんの身体はまだまだがんばるから、そんなふうに言わんとってあげて」

リハビリ患者を支える人のための本

これが
「あやぽんリハビリ頑張ってここまで来たんだし、お荷物なんかじゃないから気にしんとって」
と書かれていたら、筆者は違う取り方をしたかもしれないと思いました。

筆者自身が「自分の身体をお荷物」と感じていたところに友人が「頑張っている愛おしい身体だよ」そう言ってくれたからあやぽんの心にも、そして私の心にもこの言葉は響いたのではないかと思います。

何気なく表現した友人の言葉かもしれないけれど、ハッとさせられる一言ってある、そう思いました。

アイメッセージの大切さ

この本でもアイメッセージの大切さについて書かれています。

「(あなたは)リハビリした方がいいよ」と相手に軸を置いて話すのではなく、「あなたが治ってくれたら私はうれしい」と、自分を軸に表現するのです。

リハビリ患者を支える人のための本

以前に書きましたが「生きててよかったね」の言葉にはモヤっと時にはイラッとしますが「生きていてくれてよかった」の言葉には素直に喜びを感じます。

左足に麻痺が残った私に急性期で担当だった理学療法士のAさんが
「あなたなら頑張ればきっと走れるようになるはず」
そうメッセージをくれたことがありました。

その言葉を支えに、一度はマラソン大会の障害者の部に出ようかと現在の担当療法士さんに相談していました。

ところがその後、身体の調子が良くなく、急性期の担当療法士のAさんとも連絡が取れなくなってしまいました。それで
「『頑張れば走れるようになる』と言ってくれたAさんとも連絡が取れなくなったから、走ることもマラソンももういいです」
そう担当療法士さんに伝えました。

すると
「Aさんとは連絡が取れなくなったかもしれないけれど、みどりさんが走れるようになったら僕は嬉しいですよ」
そう言ってくれました。

その言葉はAさんの言葉同様、私の心の中に大事にしまってあります。私が何かをできるようになることを誰かが信じてくれること、喜びとしてくれることはリハビリをする上での大きな支えとなります。だからこそ、アイメッセージで伝えることはとても大切だと思います。

その後まだ走ることに至っていませんが、痛みのコントロールができ機会があったら、再チャレンジしてみたいと思っています。

揺れ動くのは健常だったころと比べるから

「元の仲間のところに戻りたい」と言う気持ちと、「外に出て傷つきたくない」という気持ちの間を揺れ動いていたのは、健常だった頃と今とを比べていたからなんだ、なかなか前に進めない原因はこれだったのかと気づかされた瞬間でした

リハビリ患者を支える人のための本

先天性の障害を持つ人に、自分は中途障害だったら健常だった時と比べてきっと耐えらえれないと思う。そんな言葉をかけられて筆者が気づいたことでした。

筆者はこのことから
"以前の自分と今の自分を比較して、できないところに目を向けることに意味はない"
と一歩前に進むことができたと書いています。

けれど私自身はまだ吹っ切れていない、そう感じています。
音訳仲間とラインをすれば音訳が出来ない自分を突きつけられます。
以前のように会話に入れない自分、憐れまれている自分を感じなくてはならないのに、何とかそこに戻りたいという気持ちが強いです。

健常だった頃と比べても仕方がないことは十分理解しています。だから元の仲間のところに戻ることを諦めるか、戻っても出来ないことは仕方がないのだと傷つくことなく開き直れれば私も一歩前へ進めるのかもしれません。

試行錯誤しながら生きていくこと

上を見ても下を見てもキリはありませんが、当事者自身が、障がいや後遺症と上手に付き合っていくすべを見つけていかなければ意味がありません。ここだけはご家族がサポートしないほうがいいところなのです。なぜなら、自分で試行錯誤しながら生きていく覚悟していくことに意味があるからです。私も今でも試行錯誤中です。すぐに答えは出ません。相談されたら、ご家族は「うん、うん」と聴くことに徹してください。

リハビリ患者を支える人のための本

後半で出てきたこの文章を読んで、当たり前だけれど自分で乗り越えていくしかないのだと再確認しました。
試行錯誤しながら一歩ずつ進むしかないそう思います。

ただ、この部分で「家族はサポートしない方がいいところです」としつつ「ご家族は聴くことに徹して下さい」と書かれています。
聞くことでも訊くことでもなく聴くことです。

患者は何度も同じ話を繰り返すことと思います。でも「またか」と思わず「聴くこと」に徹してもらえたらと思います。
患者自身も同じ話をしている自覚はあると思います。少なくとも私はそうです。自分でも嫌だと思いつつ何度も同じ話をする中で何とか咀嚼し飲み込もうと努力しています。

なんども同じ話をするのは試行錯誤の過程だと思って、家族や周りの人が「聴いてくれること」が一番の助けになると思います。

生きることに疲れる時がある

「どうして、私は障害を持ったんやろう‥」
私は今でも、自分の障がいと闘っています。
死にたいのでは決してなく、生きることに疲れている私がいます。「この世の中から私が消えたところで、なんか大きな支障があるんかなぁ?」などと考えます。繰り返しますが、死にたいのではありません。生きることに疲れてしまう時があるのです。

リハビリ患者を支える人のための本

私も一時、「疲れた」を繰り返していました。どう足掻いても疲れから抜け出せずどうして良いのかわからなくなったことがあります。
死にたいのでは決してなく、生きることに疲れているこの言葉がまさにぴったりの状態でした。

今でもこの感覚に襲われることがあります。Twitterなどで「なぜあの時助かってしまったのか」こんな言葉をよく見かけます。
私も「あの時助からなければ良かった」と言ってしまったことが何度もあります。

でも、これはもしかしたら筆者が言うように生きることに疲れている状態なのかもしれません。

何のために生かされているのか…。何をしろと言われているのか…。すぐに出る答えではありません。答えが出なくて心が苦しい思いをすることもありますが、「どうして障がいを持ってしまったのか」を考えてみることは、とても意味のあることのように思っています。

リハビリ患者を支える人のための本

ここで私がほっとしたことは
「障がいをもってしまったことに意味がある」と書かれていないことです。

障がいを持ったから気付けたことがある。知り合えた人がいる。そのことを押し付けられているように感じたことが何度かありました。

もし「障害を持ったことに意味があると思う」そう書かれていたら、私はすんなり受け入れられなかった気がします。

でもここには「どうして障がいを持ってしまったのか」を考えてみることはとても意味があることのように思っています。と書かれています。

私にとってこの違いはとても大きなものです。
障害を持ったからこそ気付けたこと、出会えた人はいますが、できることならば"障害を持たずに気付き出会いたかった"これは一貫して変わらぬ自分の想いです。

だからこそ、「どうして障がいを持ってしまったのか」についてとことん考えること、向き合ってみることは必要なことかもしれないと思いました。

当事者にも

「リハビリ患者を支える人のための本」というタイトルですが、当事者が読んでもハッとさせられる箇所がたくさんあると感じました。

支える人にして欲しいことを伝える過程で、当事者の心境が言語化されているからと思われます。自分のモヤモヤしていた気持ちはこれだったのかと思い当たることが随所に見られました。

ただ、受傷して6年目に入って思うのは、障がいと向き合って、障がいを受け入れるのは、私自身しかいないということです。
各章で、前に進むことをお勧めしながらも、悩み立ち止まることもある、と相反することを書いていますが、この2つは「生き抜く」ために必要な過程なのだと思います。
私が生き抜くには、私自身が考え、行動することが不可欠です。行動した結果、壁にぶつかることばかりですが、「なぜ障害を持ったのだろう」という問いに、誰かが答えてくれるわけではありません。誰かに教えられて納得できるものではないのです。

リハビリ患者を支える人のための本

「なぜ障害を持ってしまったのか」考えることには意味がある。それは自分で考えて自分で答えを出すしかないからなのだと思いました。

仮に誰かが「これが答えでしたよ」と差し出してくれたとしても、それはその人にとっての答えであり、「なぜ私が障害を持ってしまったのか」の答えではないのです。

"何度倒れても前に進んでいくことで、少しずつ、障害を受け入れていくのだと思います。"

6年経った時の著書がこう書いています。
まだ発症して一年半の私など、壁にぶつかり倒れて起き上がってをまだまだ何度も繰り返さなければ障害を受け入れていくことなど出来ないのだとうんざりしました。でもそうして生きていくしかないのです。

こういう思いで当事者が生きているのだということを、周りの人が知るための本ではありますが、当事者にとっても助けになる本ではないかと思います。

最後の方に書かれています。
"何度も書きますが、助けを求めることは私達が生きていくためには大切なことであると、心のどこかに留めておいてほしいと思います"

これは周りの人にあてたメッセージではありますが、当事者にも向けられているメッセージではないかと思います。

助けを求めること、お願いをすることが多すぎてつい躊躇してしまいます。「ごめんね」を繰り返さねばならない日々に嫌気がさすこともあります。
でも、これは生きていくために大切で必要なことなのだと自分自身が受け入れていかねばならないことだと思いました。

「どうしてあの時助かってしまったのだろう」そう思った時に手に取ってみたら何か感じるものがあるのではないか、と思う一冊でした。