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家族の想い

書き上げてから随分時が経ってしまいどうしようかと思いましたが、そのまま記事をアップすることにします。


本当に辛かったのは家族

ある日突然、くも膜下出血を起こしました。
気がついた時は見知らぬ病院のベッドの上。
朝、普通に夫を見送ったのにこんなことになろうとは。

でも夫はそれ以上の思いだったことでしょう。
普通に仕事に出かけたと思ったら突然の救急隊からの電話。
意識レベルはⅢの300と言われ、おそらくは驚いたなんて言葉ではすまない状態だったと思います。

一方の私は倒れた時には意識はなく、手術前後の記憶もありません。
生死の境を彷徨ったという想いは夫を含めた家族にしかないのです。

手術後も2週間は再破裂や血管攣縮の恐れが、その後は水頭症の可能性があるため3週間を無事過ぎたら一安心でしょう、との説明を受けたといいます。

後になって聞きましたが、倒れた時には子供たちも駆けつけてくれたとか。
動揺する父親を前に
「ここで自分がしっかりしないと」
そう思って気丈に振る舞ってくれた子供に感謝です。

夫の辛い日々

夫はお酒が大好きで、
何かと理由をつけては飲もうとします。
その夫が3週間お酒を絶ったと聞いて、本当に危険な状態だったのだと改めて思いました。

夜中に異変が起きて呼び出されたときにいつでも車で駆けつけられるようにしていたとか。
お酒に逃げることもできず、さぞ辛かったことと思います。

見えない中で

意識がはっきりししたとき私が知ったのは、目が見えないということと左足に麻痺があることでした。

ちょうど容態が落ち着いたころでした。
命が助かってよかったよかったと言われ、目が見えないのに何がよかったと言うのか私には全く理解ができませんでした。

当時はコロナ真っ盛り。
当然面会など許されません。
携帯は所持していましたが見えないためメッセージのやりとりも、電話をかけることもままなりませんでした。

ベッドから勝手に降りることは許されず、トイレもお風呂も全て付き添いのもと。
私にとってはこれがかなりのストレスでした。

テレビを見ることもできず、音楽を聴くこともできない。
ただただベッド上で過ごすだけの日々。

することがないので
「このまま見えなかったらどうしよう」
そればかり毎日考えていました。

そして見えなければトイレも歯磨きも食事も、一人では何もできないという現実を突きつけられ、視力がもし戻らなければ家には戻らず施設に入ろう、そう決心しました。

施設を探してと伝えて

いつ目の手術ができるのかもわからず日ごと募る不安。

電話がつながったある日、夫に
「施設を探しておいてほしい」と伝えました。
「このまま見えなかったら迷惑をかけるだけだから施設に入りたい」と。

すると夫は
「俺をみくびるな」と言いました。
「目が見えないからと言って施設に入れるそんな男だと思っているのか」と。

その言葉はとても嬉しくもあり、そう思ってくれる夫だからこそ迷惑をかけられない、そんな気持ちになりました。

今振り返ると

当時は自分ばかりが辛いと思っていました。
見えないという不安。
誰とも連絡がとれないという不安。
このまま世の中から忘れ去られてしまいそう、そんな気持ちでした。

でも実際は家族の方が辛かったのではないか、と振り返ってみて思います。
私がそばにいて欲しいと願うと同じか、それ以上に夫はそばにいてやりたいと思ったことでしょう。
電話口で私が泣くのを聞くしかできない夫の方が辛かったのではないかと思います。

幸い手術は成功し視力を取り戻すことが出来ました。
けれども回リハ退院後に見つかった左手の麻痺や高次脳機能障害。
痺れや痛みに悩まされる日々です。

言ってはいけない言葉と知りつつ
「助からなければ良かった」と口にしてしまい本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。

病気を通して得たもの

一貫して言っていますが、病気になってよかったとは決して思いません。あまりにもたくさんのものを失ったから。

でも病気になったからこそ得られたものはあります。
家族の愛情には病気になったからこそ気付けました。

付き添ってもらい出かけるうちに夫婦共通の友人もでき、共に楽しい時間を過ごすことも増えました。

もし、くも膜下出血で倒れていなかったら、今頃どんな生活をしていたのか想像もつきませんし、しても仕方がないことと思っています。

病気になったことはマイナスの出来事だけれど、これ以上マイナスの方向に進まぬようにしたいです。
そして辛い思いをさせてしまった家族のためにもできるだけプラスの出来事や時間を増やしていけたらと思っています。