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取捨選択

取捨選択という言葉。
不要なものを捨てて必要な良いものを選ぶこと。
先日、本の整理をしていて思い浮かびました。

本屋さんに行って

買い物のついでに本屋さんに寄りました。
「趣味は読書」と言えるほどではありませんが、
ゲームをするよりは本を読む方が好きです。

ふらりと本屋さんに入ると習性でまず手芸のコーナーへ。
もともと手仕事が好きで一日中飽きずに出来ることでした。

色々な手芸に手を出しました。
籐工芸、クロスステッチ、トロッケンゲシュテック。
教室を持って教えていたのはリボンレイにカルトナージュ。
ここ数年はマリーアントワネットが好きだったという
プチポアン刺繍に凝っていました。

いつかはオートクチュール刺繍とナンタケットバスケット
を習得したい。
そんな夢がありました。

手芸ができない

ところがくも膜下出血で倒れて
急性期と回復期病棟を退院してみたらもともとやっていたプチポアン刺繍が出来ませんでした。
図案を見て刺そうと生地に視線を移すその間に図案が頭から抜け落ちてしまうのです。

次にフォトアルバムのカバーを作ろうとしてみました。
こちらはカルトナージュの手法を使います。
カルトナージュとは厚紙を組み立てて箱などを作り、紙や布などで装飾を施すヨーロッパの伝統工芸です。

既成のものに装飾を施すこともできますが、私は好きな形や大きさで小物が作れることに魅力を感じていました。
ですから自分で図面を引いて厚紙を組み立てることからやっていました。

立体とちがってフォトアルバムなどのカバーは平面で初歩の作品となります。
なので「これくらいならできるだろう」と図面を引こうとしました。
ところが何をどうしていいのか全く手がつけられませんでした。

ボランティアを再開しようとして

趣味以外に私にはライフワークとも言えるボランティア活動があります。
ブログを書きながら“ありました”と
過去形にできない自分がいることを改めて認識しました。

私は「音訳」という活動に10数年携わってきました。
視覚障害者の方に本や雑誌、広報などを音声にしてお届けするボランティアのことです。

軽い気持ちで応募したボランティアでした。
ところが講座を受けるためのテストがありました。
それに合格した人が半年間の講座を受けることができ、講座終了後のテストに受かってやっとボランティアの会員になる権利が与えられます。

権利が得られたあと会費を払ってようやくボランティア会員になることができるのです。

ところが大変なのはここからでした。が、書き始めるとキリがないのでこの辺りにします。
ただ、大変な思いと会費を払ってでもやりたい、やりがいのあるボランティアでした。

しかし、マルチタスクが必須とされるこの活動。
くも膜下出血後の私にはとても難しい作業でした。

高次脳機能障害

全ては高次脳機能障害のためと思われます。
記憶障害、注意障害、マルチタスクができない。
他にも症状はありますが、くも膜下出血による後遺症です。

後遺症は左下肢の麻痺のみ、日常生活に支障はない。
そう言われて退院した私でした。
けれども実際には支障だらけでした。

高次脳機能障害のリハビリ

くも膜下出血を発症して一年が過ぎました。
回復期を退院してからも半年以上が経過しました。

左足の麻痺については、手芸においてもボランティアにおいても支障とはなりません。

けれども高次脳機能障害が大きな壁となっています。
こちらのリハビリについてはまだ始まったばかりです。
どこまで回復するのか、出来るのかは未知数です。

身体の麻痺と違って半年過ぎてからでも回復が見込まれると聞きました。
その代わりゆっくりと年月をかけて
回復していくようです。

本の断捨離

色々考えた挙句、本を整理することにしました。
リボンレイもカルトナージュもプチポアンも、本格的にと思うと洋書を手本とすることになります。

そう思って買い集めた洋書が我が家にはたくさんありました。
購入する際は高額でした。
一冊一冊もかなりの重量があります。
眺めているだけでもワクワクする本でした。

けれども今となっては無用の長物です。
本当に基本的な日本語の本を残して
手放すことをようやく決心しました。

本屋さんを訪れて

本を手放して少しすっきりした我が家。
けれどもまだまだ手芸の材料などが幅をきかせています。
これらを手放す決心はまだつかないと自分の未練がましさを恨めしく思っていました。

そんな中訪れた本屋さん。
手芸本のコーナーで色んな本を手に取ってはっと気がつきました。
頭でできそうと思ってもどれも実際には作れないこと。

まだちゃんと自覚できていないんでしょうね。
ついつい習性でまずは手芸コーナーに立っていました。

取捨選択の残酷さ

取捨選択。
捨てるものはあるけれど選択して残せるものは?
今は捨てるものしか見つかりません。
なんとも悲しいことです。

残された自分の能力の中で一体何が出来るのだろうか。
残されたものは何なのだろうか。
それが見つかったとき、生きる価値や意義を見出せるのかもしれない、そう思いました。

「取捨選択」
何気なく耳にし使ってきた言葉ではあるけれど、選択できるものが思い浮かばないときにはなんとも残酷な言葉だなと思いました。

使うことも出来ない本を目にして
やりきれない気持ちになるのが嫌で
やっとの思いで処分に踏み切りました。
でも今はがらんとした本棚を見て
寂しい気持ちになっています。

ここから先、手芸の道具や音訳の資料なども処分しなければならない
そんな日が来るのかもしれません。

いつでも処分はできるからと
まだ手元に残しています。
でも処分できないのは自分の気持ちなのだろうそう思っています。

以前ブログに書きましたが
諦めることはネガティブな意味だけでなく新たな道を進むポジティブさも含まれていると思います。

今回の本の処分はネガティブな行動でした。
けれどもいつかポジティブに色んなものを整理して行けたらそう思っています。