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習作 その2

後立山連峰の主峰、雄山の頂を見上げる場所に位置する室堂平は山岳観光のメッカである。ひんやりしたバスの駅舎を出ると、眩いばかりの日差しだ。

標高二千メートルを超えるとはいえ、歩き出すとすぐに上着を脱ぎたくなる。二十代半ばまでは毎年のようにどこかの山に出かけていたものだが、忙しいからといってまた来年、また来年と延ばしているうちに五十も間近になってしまった。

室道平から、硫黄のにおいが濃く立ち込める地獄谷を抜け、雷鳥沢のキャンプ地に至る。

まだ三十分ほどしか歩いていないにもかかわらず、すでに疲れを覚えている自分にちょっと苦笑する。

 色とりどりのテントが花のように散らばるキャンプ場の風景は、幼い頃の記憶を思い起こさせた。

 もう四十年も昔のことになる。父は幼い私を何度も山に連れていき、私もそれなりに楽しさを理解するようになっていた。ただ歩くだけでは満足できなくなっていた頃のことだ。

火を扱えて一人前なんだぞ、と言う父親の言葉に発奮して、私はコールマンのコンロを点火する役割を買って出た。ポンプでタンク内の圧力を高めないと火がつかないという代物で、逆上がりすら満足にできない子供の腕力ではきちんと火がつくまで圧力を上げることができなかった。顔を真っ赤にして加圧ポンプを押す息子の様子をじっと見ていた父親が言葉をかける。

「もう、だめか?」

何のとりえもないくせに負けん気だけは一人前だった私は、それにうなずくのにかなりの時間がかかったが、

「来年はきっとできるようになってる。 心配するな」

と慰められ、内心ほっとしながらコンロを明け渡したものだった。

そのころと山の様子は少しも変わらない。

眼前に衝立のように聳え立つ稜線上には剣御前の小屋がまるですぐそこにあるかのようにはっきりと見える。

「山はゴールが見えてからが長いんだ」

父親は山に行く度私に言った。荷物の軽かった私はそういう父親をおいて先に先にと歩き出す。どれだけ歩いても目の前の小屋は近づいてこない。テント村はすでに小さな点の集合体に見えるくらい上に来ているはずなのに。息を切らせ、岩に腰を下ろして座っていると、父がやがて追いついてきてにやっと笑ったものだ。

「な、見えてからが長いだろ?」

 父は数年前に世を去ったが、最後まで自分の足で山を歩き続けた男だった。

今日の私は伸縮式のストックを杖代わりにゆっくりゆっくりとその道を上がっていく。  数年前腰とひざを痛めて以来、満足に体も動かしていなかった。

「上を見るな。三歩先を見ていればいつか頂上に着く」

と父はよく言っていた。

時計を見てみれば、まだ歩き始めて十五分も経っていない。登山道の脇にある岩に腰を下ろし、魔法瓶に入れたお茶をすする。定年をすぎたくらいとおぼしき夫婦がゆっくりと追い越していく。上る人も、下る人も、年齢層が高くなったものだ。

腰を上げ、再び歩きだす。

見晴らしのよい稜線上からは剣、雄山、薬師といった峰々が、目の高さに見え、眼下には先程通り過ぎてきた室道平と雷鳥沢のキャンプ場が見下ろせる。

私を追い抜いていった人たちが、小屋の前に出されたベンチに座って風景を眺めている。その表情は満たされていて、言葉を交わしている人はほとんどいない。やたらと甘いジュースで疲れを取り、私は長大な雪渓を下り始めた。

ここからキャンプ予定地の真砂沢までは下る一方だ。ひざに負担をかけないようにするためにペースは上がらないが、下っている分それほど休まずにすむ。谷は徐々に深くなり、剣岳につながる尾根筋が急峻さを増していく。雪渓の所々に色がつけてあり、安全な道を教えてくれていた。

「もしこういうところで滑落したらな、思いっきり体をひねってピッケルを雪に突き刺すんだ」

父親は雪渓を歩くときよくこの話をした。

戦後の混乱期を越え、一般庶民も趣味というものを持つことがようやく許された時代、父が選んだのは山登りだった。猛烈な経済成長を反映するように当時の登山は苛烈で、一歩間違えば軍隊かというような山行きをおこなったらしい。滑落訓練というのは特に怖いものだったらしく、雪の斜面といえばこの話だった。

 

いつかある日、山で死んだら、古い山の友よ伝えてくれ…

 

父の大好きだった歌だ。歌のうまい人ではなかったが、この歌だけはやたらと悲しみが伝わってきて、もう歌わないように何回か頼んだことがある。 

それでも、山に心を奪われているとき、父はきまって歌った。岩登りや冬季の登山には危険がつき物で、父も友人を何人か山で失っている。父自身も何回か死に掛けたという。

雪崩に襲われ、岩壁で滑落し、地吹雪に閉じ込められ、雪庇を踏み抜く。そのたびに幸運にも命を拾ってきた。苦しい経験や遭難の話を多く聞かされていた私は山登りが大好きで、大嫌いで、出発の日を指折り数えるほど楽しみだったが、一面で非常に怖かった。 

父はいつも楽しそうに山の話をしていたが、私の方は好んで命をさらしに行くのは正直ばかだ、と思っていた時期もあった。趣味にしては代償が大きすぎる、と。それでも山の仲間と一緒にいるときの父の顔はまた格別だった。大人になるまで、無趣味で人との付き合いを大事にしてこなかった私にはそれがとてもきらきらしたものに映ったものだ。

雪渓の斜度がややなだからになったあたりに剣沢の小屋がある。一服していくことも考えたが、寒くならないうちに目的地に到着することを優先して、疲れ始めた体に鞭打った。

剣沢の小屋を越えると人影は一気に減り、両側の岩壁の高さも傾斜もますます増して、一人で歩く者にかなりの圧迫感を与える。

雪渓に削られた岩があちこちに転がり、雪を踏む足音がやたらと耳につく。空は雲ひとつない青空なのに、両側に立つ高い岩の壁のせいで妙に暗く感じられた。真砂沢の小屋に至るまでに無数の沢と頂を横切る。父はその一つ一つの名前をこの雪渓を歩くごとに教えてくれていたが、最後まで全てを覚えることはできなかった。今となっては一つも記憶していない。ちょっと父に悪いな、と思う。

小屋の先代の主人は父の知人であったが、いまは若い人に代替わりし、知らない人になっていた。愛想も何もないその主人に料金を払い、テントを張る。ペグで固定し、断熱シートを敷き、シュラフを取り出す。ランタンを灯せば出来上がりだ。その柔らかい灯りを見つつぼんやりしていると、急に野太い声に現実に引き戻される。ランタンの明かりが揺れて、一人の若い男が顔をのぞかせた。

「あの、自分ら北鎌尾根から入って剣登って今日下りてきたんすけど、最終日ってことで飲み会やるんです。それで、今日は真砂のテントの数も少ないし、よかったら皆さん一緒にって思ってるんすけど」

無精ひげに覆われた顔は日に焼けて黒くむさくるしいことこの上ないが、瞳だけは若者らしくみずみずしい光にあふれていた。

「あ、無理にってわけじゃないんで、よかったらあそこの青いテントまで来てください」

ぺこりと頭を下げると顔を引っ込めた。

リュックサックの底を探り、一本の酒瓶を引っ張り出した。一人で星空でも見ながらちびちびやろうと思っていたが、こうやって誘われるのも何かの縁だ。私は秘蔵の一本を持って若人達の酒宴に参加させてもらうことにした。大きな食事用のテントからはすでに笑い声が漏れていた。

「あっ! ようこそ!」

テントをくぐると誘いに来てくれた若い男が、笑顔で出迎えてくれる。参加費に、と家の棚に置いたままだったブランデーを手渡す。そのようにオヤジ臭い酒など飲まないであろう学生達が、手に手にビンを取ってものめずらしそうに眺めている。

「みなさんで」

「まずは一杯どうぞ!」

代わりに飲ませてくれた酒は安い焼酎であったが、若い男女と酌み交わす酒は趣深い。 酔いは気持ちよく回る。やがて歌が始まる。山の歌、流行歌、私にはわからない曲も多かったが、手拍子を打っているだけで十分に楽しめた。

「さ、次お願いします!」

お鉢が回ってくる。こういう場で歌を歌うことなど考えられない人生だったが、今ならできそうな気がした。もうほとんど残っていない酒でのどを潤し、父がよく歌っていた悲しい曲を歌った。静かに聞いていた彼らもいつしかそれに和していた。山で死ぬことを歌った曲なのに、明るく生きることへのエネルギーに満ちた曲の様に思えてくるのは、彼らがそうだからだろう。

心地よい余韻の中で、山の宴を反芻する。 

まだ聞こえてくる手拍子は懐かしいリズムを思い出させた。私がまだ小学生くらいまでは毎年時期を決めて父の山の仲間が集まっていた。山小屋の酒がなくなるまでのみ、肌脱ぎになってへたくそな歌をがなる。子供が思春期を迎えて親についていかなくなり、それぞれが仕事に忙しくなり体力も落ち、いつの間にかそうやって集まることも少なくなっていった。 

そして、父の仲間が一人、また一人と世を去っていく。 どこか生き急いでいる人が多い山の仲間の中にあって、父が懸命にブレーキを踏んでいた気がする。それでも突然に、また緩慢に、心を許した人たちが逝くさまを父はどのように見たのだろう。

伸ばした指先に、モンベルのリュックが当たった。父に贈ったものと色違いの同じものだ。還暦を迎えた父に私は毎年山の道具を贈った。ピッケル、アイゼン、登山靴、帽子……。

全部そろったら夢だったヒマラヤに連れて行ってあげよう、そう思っていた矢先、これで全てがそろう、とリュックサックを贈った年に父は病に倒れた。入院先の枕元にはいつもそれがおいてあった。

「なあ、せっかく買ってくれたのに使わんままじゃばちが当たるよな」

「そうだよ。 早く治してくれんと困る」

「遅れとらんように、しっかり鍛えとけよ」

「わかってるって」

しかし父も私もよくわかっていた。もう無理だと。それでも私が行くとどこそこの山に行きたい、と駄々をこねる。その夢は病が篤くなるのにしたがって遠く高くなり、

「エベレスト……行きたいなぁ……」

 とうわごとのように言うようになった。連れて行くからもう少しがんばってくれ、と頼むと決まって、

「航空券…買っとけよ」

 そう答えるのだった。

「ファーストクラス買っとくから」

そんな話をした数日後父は意識を失い、一ヶ月がんばった末この世を去った。喪主だった私は涙を流す暇もなく、父の棺のふたを閉める。棺の中にリュックと、ファーストクラスではないがカトマンドゥ行きの航空券を入れたのだった。

 そんなことを考えている間に眠りに落ちていた。

山の朝は早い。目を覚ましたときにはあの学生連中はすでに出発した後だった。頭に多少残ったアルコールを振り払いながら簡単な朝食をとり、テントをたたむ。

「さて、行くか」

誰にいうともなくつぶやいてリュックを担ぐ。沢を渡り、大きな岩をまくとすぐにハシゴ谷乗越の急坂だ。深い木立の中を白っぽい登山道がまっすぐに取り付けられている。今日は黒部ダムまでたどり着けばいいだけだから気は楽だ。一歩、一歩と足元を見て歩く。剣御前に至る道はへたに小屋が見えている分逆に苦しかったが、周りに見るべきものもない薄暗い山道では、無心に歩くほかない。

 こういう薄暗い山道で、私がちょっと心細い顔をしていると、父は自分が体験したという怖い話を始める。

「八峰の大キレットにさしかかったとき、おれらそこで吹雪に行く手をさえぎられた」 

山の難所で遭難が多発するというその場所には小さな避難小屋があり、父とその友人は小屋の中にテントを張って吹雪をやり過ごすことにした。

「避難小屋といってももうあちこち穴が開いてるようなぼろ小屋で、雪がどんどん吹き込んできて寒かった」

木材に強風が当たって気味の悪い音がする中、父達は疲れもあってすぐに眠り込んでしまったという。

「何時だったか、足音がして目が覚めた。俺達と同じように避難してきた人だと思って

テントから顔を出そうとしたんだが、体が動かない」

金縛りにあった父は恐怖に駆られて横の仲間を起こそうとするが、いびきをかいて起きる気配がない。

「そのうちな、五六人だと思うんだがざくざくざくとテントの周りを回りだすんだ」

翌朝起きたときには吹雪はやみ、父達は無事にそこを脱出したが、結局その足音の主がなんだったのかはわからずじまいだった。

それだけの話なのに、夜眠れなくなるくらい怖かった。山はそれだけ死ということに近いのか、そういう話のストックはたくさん持っていた。だからといって面白おかしく語りたいというわけでもなく、結局そういった怪奇現象よりも目の前にある山が一番怖いんだ、とそれが言いたかったのだろう。

「山で死んだらいかん。死なせてもいかん」

顔見知りの著名な探険家が山で消息を絶ったとき、一言父はそうつぶやいた。ニュースの第一報を見たきり、何もいわずテレビのスイッチを切った父に抗議しようとして母に止められる。

「山で死ぬやつはばかだ。死なすやつはもっとばかだ。でもそれを下界のやつがとやかく言う資格はない」

低い声でそういうとぶらりと家を出て行った姿をよく憶えている。納得のいかない私に母が後に教えてくれた。

私が生まれる前、父がリーダーとして率いたパーティーから死者が出たこと。病死であったにもかかわらず父の名前を出されて非難されたこと。それからその新聞や系列のテレビ局、山に関する記事を一切見なくなったこと……。

自分の手の中で命が消えていくことなど子供に理解できるわけもなく、ましてやマスコミに名前が出て非難されるきつさなどわかるわけもない。日ごろ乱暴な言葉を使わない父が吐き棄てるようにいった言葉の苦味だけが胸の中に残った。

 暗くて急な坂道はまだまだ先が見えない。

 昨日の疲れと酔いがまだ足に残っていて、なかなか前に進まない。しかし私には予定がある。こんなところでへこたれるわけにはいかなかった。反対側から二人連れの登山者が降りてくる。まだ若い。夫婦のようだ。

「こんにちは」

「こんにちは。もう少しですよ」

苦しそうな私に言葉をかけ、二人は軽やかに急な坂を降りていく。

妻は雪明かりより街のネオンが好きで、私が買ってやった山の道具も新品のまま押入れの中だ。遠ざかっていく若々しい背中がちょっとねたましい。

「結婚しないのか」

息子の私生活には無関心のように見えた父がそんなことを言い出したのはやはり自分の死期が近いことを悟っていたからなのだろうか。かなり年がいってから私が生まれたせいもあって父は孫の顔を見ることが出来なかった。

私も父の結婚の遅さを言い訳にして逃げていた部分もある。今から考えれば親不孝だったのかもしれない。父の結婚が遅かったからこそ、自分が早く結婚すると言う選択肢もあったのに、それをしなかった。

機会がなかったわけではなかった。父が死ぬまでに結婚しようと思った人が二人いた。一人目はお互いが若すぎ、二人目は長男の嫁はいやだといって去っていった。

「焦ることはないんだ」

 と息子を慰めながら、やはり父はさびしかったのではないかと思う。人並みにおじいちゃんになってからこの世を去りたかったような気もする。いまさらどうなるものでもないが。

 

ふっと息を吐いて目を上げると、尾根筋にかなり近づいていた。ハシゴ谷乗越をこえるといよいよ道は黒部川の本流に向けて一気に下る。とはいっても山腹をいくつか巻かなければいけないので見えるわけではない。それでもここまでくると目途がたったような気がしてちょっと安心だ。 

剣岳に連なる山々とはここでお別れだ。灌木を切り開いただけの道をまたゆっくりゆっくりと降りていく。体がほぐれてきたのか、歩き始めた当初はあったひざや腰の痛みがひいていった。とんとん、と靴の底がリズミカルに岩を蹴る。私はいつしか小走りに近いペースで道を駆け下っていた。

「大またにならず、細かくピッチを刻め」

背も低く、短足だった父はまるで山道をすべるように駆け下りていったものだ。耳の横で風がなっている。こんな経験は久しぶりだ。 登ってくる人もいない山道を、勢いに任せて走った。

がくんと急にひざから力が抜ける。目の前の光景が一回転して、私は茂みの中に突っ込んだ。頭が自分の状態を把握するのにしばらくかかった。ごとごとと心臓が頭の中で鳴っている。

青空がすぐそこにあって、飛行機が長い軌跡を引いて飛んでいた。背中に背負った荷物がクッションとなって頭や腰は打たなくてすんだようだ。がっちりとした登山用の装備は擦り傷や切り傷からも己を守ってくれている。ただぶつけたところがあちこち痛い。手足を動かそうとして、手が震えていることに気づいた。私は怖がっている。

右手の小指から順に折り曲げていく。手首もひじも曲がる。左手も大丈夫だ。寝そべったままでひざを曲げてみる。何とか普通に曲げることができた。何とか上半身を起こし、茂みに引っかかっていたストックを杖にして立ち上がる。ひざががくがくと揺れて立っているのがやっとだ。

もう一度ひざを曲げてみる。打ち身になったところが痛むが、歩くには支障がない。大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。目的地の黒部ダムまでは必ずたどりつかなければならない。

道はやがて緩やかになり、前方から水音が聞こえてきた。かすかだった音が歩を進めるにつれて大きくなっていく。それが腹に響くような残響音に変わるころ、黒部川の流れまでたどり着く。二枚の垂直の壁の間を白く波を立てながら流れている。上流に向かって右側の壁には黒部川第四発電所建設当時に拓かれた、ひと一人が歩くだけの幅を持った道がつけられている。

「この向かい側の山の中にはな、発電所があるんだぞ」

山の交友関係のコネで普通の人が入れないような発電所の奥に入ったことがあることが父の自慢の種だった。タービンの大きさ、蒸気を噴き出すトンネル、建設時のエピソードや、何かを達成すると言う話が大好きだったくせに、自分自身の苦労は子供の前ではまったく見せなかったし、子供に愚痴を聞かせなかった。

私は自分の愚痴を家族の前で延々としたくせに、家族の愚痴はほとんど聞いてやることがなかった。人間の器の違いだろう。そんなことだから、いま私は一人でこんなところを歩いているのだ。

 父の後を継いだのはそんな小さい自分への反発だったが、家族からは理解されなかった。

「だからあたしは言ったんですよ。亡くなったお義父さんに義理立てして会社勤めをやめるなんて。しかもいまどき下請けの鉄工所なんて、はやるわけないでしょ」

「……」

「来年は娘も受験だっていうのにどうするんですか」

父の亡き後、経営していた小さな町工場は徐々に経営が傾き、倒産の瀬戸際にあった。

戦後の焼け野原の何もないところから、祖父や父が営み続けてきたその小さな城をつぶすには忍びなかった。

 もちろん感傷だけで跡を継ぐことを決意したわけではない。そこそこの大企業に就職し、ある程度出世もした自分なら傾いたこの会社も再建できる。そういう成算も自信もあった。

 しかし、自分の実力は、自分自身の実力ではなく、それまで名刺の右上に印刷されていた会社の実力であったことに気づいたときには、すでに手遅れになっていた。

 小さくなったマーケット、古い慣習、古い技術、高すぎる人件費、安すぎる外国製品……原因はいくらでもあった。そんなものは言い訳でしかないことはよくわかっていた。

 父が健在のときも同じ問題があったはずで、それをうまく処理できなかったのは結局私に実力がなかったからでしかない。まだしもうまく現金が回っていたころは気前よく融資してくれていた銀行も、私の経営者としての能力に見切りをつけると一斉に財布の紐を締め始め、後はお決まりのコースである。

 使うべきでない金を使い、借りるべきでない所から借り、そして破綻した。切れるべくしてさまざまな期限が切れ、昨日で私は全てを失ったことになっている。

眼前には黒部川第四発電所のダムサイトが姿を現している。両側の山壁のほうがはるかに巨大なはずなのに、人工的なその灰色の方が、圧倒的な威圧感を持って目の前に立ちはだかっていた。 

自分とサイズも年齢も変わらない男達が、よくわからない熱情に突き動かされて山を削り、川をせきとめ、コンクリートを積み上げて作り出したモノは、子供のころに見上げたときと寸分変わらない姿でそこにある。

徐々に近づいていくにつれて、昔とは変わっていることに気が付いた。点検用につけてある鉄製の階段や通路にはところどころさびが浮き、コンクリートの巨大な壁面にはあちこちしみが浮いていた。

ダムサイトのつづら折の道を登りきり、トロリーバスの黒部ダム駅にたどり着いた。

室堂と同じく、団体客や年齢の高い夫婦連れがちらほらといるくらいで、穏やかな静寂を保っている。

 岩壁をくりぬいて作ったトンネルを通り抜け堰堤に真ん中あたりまで歩き、これまで通ってきた道を振り返る。黒部川が深い渓谷を削るように流れている。渓谷の向こう側の空は結局最後まで雲もほとんどない青空だった。

 そんな様子をぼんやり眺めていると、一人の男が川沿いの道を歩いているのが見えた。二百メートルの堰堤の上からはアリの這うような速さで進んでいるようにしか見えない。私は次第に、彼から目を離せなくなってきた。知っている人のような気がしてきたからである。彼らの背負っているリュックサックには見覚えがあった。

 先頭を歩いている男性は私が父に贈った色と同じだ。もう少しよく見ようとして目を凝らす。

三人は川沿いの道を徐々に登って、ダムの下にある丸木橋に差し掛かった。そろそろ老眼の始まった目にはリュックサックの色と性別以外わからない。彼は丸木橋の上で歩みを止めた。私には彼がダムを見上げているように見えた。そして、なぜか私を見ているような気がした。その男が手を振っている。親父があそこにいる。いかなきゃ。

私は疲れた全身の力を振り絞り、堰堤をよじ登った。視界が一気に広がり、空が大きくなった。周りで人が騒ぎだすが、やがてその声も聞こえなくなる。目線を下げた先には先ほどの老いた男の姿がある。

 堰堤のコンクリートを蹴って私は跳んだ。青空に身を委ねた私を風が包み込む。橋の上にいる人影は徐々に近づいてくるのに、風のせいで涙を流している私の瞳には彼らの顔ははっきりと映らない。もう少し、もう少しで見えるのに! 目を懸命にぬぐって焦点をあわせようと試みる。 

そうだ。やりなおすんだ。 

思い出が、逆回転していく。父が私に向かって手を差し伸べる。それは抱擁の形にも見え、糾弾の形にも見えた。でも、もうどちらでもよかった。 私も精一杯自分の腕を伸ばす。

親父の声がする。最後に聞こえたのは、山で死ぬやつがあるか、という悲しげな呟きだった。

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