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潜水艦もの習作

「ミカ、交替だ。お疲れ」

 チェックリストの確認を行っていた私の背中に声がかかる。

「あら、もうそんな時間なのね」

「いま食堂に行くのはやめときなよ。“オヤジ”がいるぜ」

 きれいな青い瞳を片方ぱちりと閉じて、相棒のサム・ダイソンが私の肩を叩いた。 

気の張る当直勤務から解放されて、私は硬い席を立つ。この空間での仕事は時間の流れに鈍感になるようで、実は外にいるときよりも鋭敏にその経過を感じることがある。

人間の感覚は時間のわからない空間に放り込まれると二十四時間とは多少ずれていくというが、私の方がおかしいのか、時計を見ずともずれることはほとんどなかった。これから雀の涙ほどのお湯が出るシャワーを浴び、食事をしてしばらく眠る。次の勤務までつかの間の休息である。いま自分達がいる空間の異常さも、慣れてしまえば日常だ。

職場である発射管制センターを出て、狭い廊下を行くと居住区があり、中央指揮室の真下を通りすぎると、それなりに整備された食堂がある。とはいっても、防火塗料に塗り固められた白っぽい壁に四方を囲まれている、殺風景なカフェテリアだ。生まれ育ったシアトルの海岸沿いに並ぶシーフードレストランのような趣味の良い照明も、ジャズの生演奏も無いが、眠らない艦の胃袋を満たすだけの能力は過不足なく持っている。

(あ、ほんとにいた)

 たまたまなのかその人を避けてなのか、他に誰もいない食堂の中心部に、コーヒーカップを前になにやら考え込んでいる屈強な中年の男が座っている。漫画で見るような海賊髯を鼻の下から左右に伸ばし、士官服から伸びる腕はこの艦を動かすシャフトのように太い。

トライデントシステムを積み込んだ世界最強の原子力弾道ミサイル潜水艦、オハイオ級八番艦、USSアラスカの艦長、ポール・タトルは視界に入ってきた私を認識すると、目でこちらに来い、と合図した。

 乗組員からおそれと愛着を込めて“オヤジ”と陰で呼ばれている海軍大佐は、ポテトサラダにミートソースのパスタ、チキンのソテーが盛られた私のプレートを見て、地獄の釜の上で食う飯にも慣れたか、と少し表情を崩す。

「核の味もなかなかです」

 私はひるまず艦長の正面に座る。タトル艦長はまさに筋金入りの船乗りで、部下にも自分に厳しい。いつぞや指揮室で気の抜けたミスを繰り返したクルーを怒鳴り上げたときには、随伴するハンターキラー(攻撃型原潜を迎え撃つ潜水艦)のソナーにその声が捉えられた、との伝説がまことしやかに語られているほどである。

「昔の潜水艦なら似たようなことだ出来ただろうがな」

 ポール“シニア”タトルはがはは、と全長百七十メートル、総排水量一万九千トンの巨大な艦内に響き渡るような声で笑った。

「そういえばミカのお祖父さんは神風だったらしいが、本当か」

 表情を改めて艦長は思わぬことを尋ねてきた。

ブルーとゴールドの、二チームが交替で乗り込む原潜の任務は、七十日航海の後およそ一ヶ月のオーバーホールを義務付けられている。タトル艦長率いるゴールドチームに私が発射管制士官として着任してから二回目の航海であるが、彼と個人的にこのような話をするのは初めての事であった。何より、自分のような若い士官に親しく声をかけてくるようなイメージなど無かったので余計に驚く。

「祖父ではなく、曽祖父がそうだった、と聞いていますが」

「そうか……」

 タトル艦長は再び自分のカップを見つめたまましばらく黙った。意外なほど繊細そうに見える瞳である。

「ミカ、お前は神風についてどう思う」

 これはまた難しいことを聞いてきた、と私はひそかに身構える。曽祖父は第二次大戦末期に学徒動員で陸軍航空隊に入り、隼戦闘機に乗って鹿児島にある基地から飛び立つ寸前に戦争が終った。命を拾った曽祖父は荒れに荒れ、祖父はそんな姿に愛想を尽かして単身アメリカに渡ったのだと聞かされたことがある。シアトルのダウンタウンで、クリーニング屋としてささやかな地歩を築いた祖父と父に、軍との関わり合いは全くない。

「俺のじいさんはグラマンに乗って神風とやりあってた。昔の戦闘機ってのは時折相手のツラが見えるくらいまで近くを飛ぶことがあったらしくてな。それでも時速五百キロは出てるんだからそんなことはないだろうと思うんだが、じいさんには見えたらしい。たまにじいさんとこに泊まりに行ったが、夜よくうなされてた」

 私の知っている限り、タトル艦長は生まれついての軍人だ。彼の祖父は空軍、叔父はベトナムで長距離偵察を行い勇名を馳せたLARPの隊員。そして彼の父は旧世代の戦略原潜イーサンアレンでポール・レーシー大佐指揮の下、南太平洋のクリスマス島に向け、核弾頭つきミサイル、ポラリスの発射実験を行ったクルーの一員である。

「頭の悪いなりに戦史を読んでみたんだが、どうにも神風ってのだけは理解できないんだ。あちらの血を引いてるミカなら何かわかるんじゃないかと思ってな」

 自分が何か試されているような気がして、私の中にはさらに警戒感が芽生えた。タトル艦長は来歴だけ見るとスーパーエリートというわけではない。しかし頭の悪い人間がオハイオ級の艦長になどなれるわけがないのだ。

「戦略としては最低です。戦術としては当時の状況を見れば致し方のないことだったのかもしれません。ただ、命令どおり飛んだ兵士は立派でした」

 慎重に言葉を選ぶ。彼はしばらく太い眉毛に縁取られた瞳を開いて私を見開いていたが、

「いかにも大学出の言いそうな意見だ。俺が聞きたいのはそういう事ではなくてだな……」

 と新たに何かを問いかけようとしたところで、艦長を呼び出す艦内放送が流れた。

「また話そう」

 そう太い腕を少し上げ、彼は出て行く。私は奇妙な違和感を抱きつつ、その広い背中を見送った。  

 

はっと気付いて時計を見ると、二○一○年八月十四日午後十時半である。私は蚕棚のようなねぐらからもぞもぞと起き出し、顔を洗って歯を磨き、自慢の黒髪をさっと首の後ろでまとめると、サムと交替するべく艦内を移動する。安眠したところを見ると、訓練はまだ始まっていないようだった。

「はい交替。万事異常なし?」

 コンソールをいじっていた手を止めてこちらを振り向いたサムの顔は、今一つ冴えなかった。というよりも何か恐怖に耐えているようでもある。

「どうしたの?」

 私はチェックリストに署名していた手を止めてふと彼のほうを見た。

「ちょっときなくさい感じがするんだ」

 オハイオ級を取り巻く空気が平穏であることなど無い。ヒロシマ型の三十倍の威力を持つ弾頭を八発内蔵する、トライデントD―5ミサイルを二十四基搭載しているこの潜水艦は、そこにいるだけで人の神経をすり減らすような存在だ。世界のあちこちがなんとなくきな臭いのも、ここ数年常態となっていてさして珍しいわけでもない。それにしてもいつも朗らかな発射管制士官がこのようにうろたえるのは非常に珍しかった。

「カンポ、あんたサムを口説いたんじゃないでしょうね」

 既に交替している火気管制士官のインド系将校を私はからかった。彼は外見こそ男であるが、性的にはバイセクシャルである。

「ご冗談。船の上で色恋ごとは無しって決めてるの。そういうけじめのないの、“オヤジ”さん嫌うでしょ?」

 肩をすくめる彼に構わず、サムは私の肩を掴んでゆするように言った。

「お、俺副長たちが話してるの聞いちまったんだ。緊急行動指令が出るかもしれないって」

「そんなのいつものことじゃないの。サムは私より先輩でしょ? しっかりしてよ。ちょっと疲れてるみたいだから早く休んで」

 絶対的な閉鎖空間といえる潜水艦内は娯楽にも乏しく、平常の精神状態を長期間保つのは非常に困難だ。艦自体は数年の潜航にも耐えられるにも関わらず、一任務が七十日と決められているのもそのあたりに原因がある。

 選び抜かれ、鍛え上げられた潜水艦乗りでも、艦内に詰め込まれた核の力に気が遠くなってもおかしくはない。もちろん、そうならないように訓練が繰り返される。“擬似”緊急行動指令による核ミサイル発射訓練も、自分達がシステムの一部と同化できるようになるまで、徹底的に行われるのだ。

「ちょっと、大丈夫かしら」

少しよろめきつつ去っていく若い将校の背中を見ながら、カンポが男性にしてはやけに優しい顔を近づけてささやいた。ターメリックのようなにおいがふわりと香る。

「軍医さんがカウンセリングしてくれるでしょ。誰にでも疲れが出る時くらいあるわ。とにかく、今回の訓練は私たちがやることになりそうね」

 気にせず私は作業を進め、前任者がうろたえつつも仕事はきちんとこなしていたことに満足した。

 日付が変わったあたりで、予想通り警報が鳴る。艦内に警告一が発令、戦闘配備が命じられる。私はマニュアルに従ってブリッジからの指揮を待つ。

ネブラスカ州オファット空軍基地にある、核兵器を統括する戦略軍司令部から、タカモと呼ばれる通信中継機E6Bに命令は伝えられる。その機体の後部から伸びる八百メートルと八千メートルに及ぶアンテナから海中のUSSアラスカまで超長波によって届いた緊急行動指令は、通信士官によって特別なコードと照合されて解読され、艦長に伝達される。

「ねえミカ、あんた戦略軍に入りたいって本当? 変わってるわよね」

 待っている間、カンポが尋ねてきた。

 それはアナポリスの海軍大学校にいるときから私の夢だった。アメリカがアメリカである理由がそこにはある。自由でも民主主義でもなく、大量生産でも星条旗でもなく、減らしても減らしても圧倒的な破壊力を誇るその兵器こそがこの国を支えていると信じている。私はそれに触れてみたいと考えていた。極東の島国にルーツを持つ祖父は私の進みたい道を聞いて露骨に嫌がったが、自分のナショナリティーをそこに置くことは、私にはもはやできない。

「まあ変わってるかな。さ、私達も忙しくなるわよ。そろそろ“クッキー”が割られているころだから」

 極秘認証システム、SASカードに記載されたコードによって緊急行動指令が認証されることを俗に「クッキーを割る」という。その後も当然ながら私が引き金を引くまでに長いプロセスがある。艦内に設置された三セットの鍵は複数の士官が取り出し、最後の四つ目は私とカンポが座るミサイル管制センターの背後にある小さな金庫にしまわれている。艦長がミサイルをコントロールするパネルの鍵、CIPキーのコードは艦内にはなく、緊急行動指令が出てから戦略軍より伝達される。

「標的の座標セット。航法センターより現在位置の算出を待ちます」

 普段とは違う事務的なカンポの声が室内に響く。私はその横でトライデントミサイルと発射管の状況をモニターする。この段階で既に発射管に鍵が差し込まれている状態になる。それでも二十四本の海神の矛はまだ静かに眠ったままだ。

「航法センターより発射地点の座標入力。発射準備予備段階完了」

 カンポの言葉を合図に、私はミサイル発射管の上蓋を開く。

「ミサイルは1SQの状態にある。ミサイルを全弾発射する」

 ヘッドフォンを通じてタトル艦長の命令が発せられた。大統領命令が下っている。三百六十キロの水が急激に蒸発する圧力とロケットエンジンの力で五十九トンのミサイルを打ち上げる準備は完全に完了した。普段ならこれで終わりのはずだ。

「ガイダンスシステムに位置情報を転送」 

 ここで初めて私の胸はどす黒い重さに覆われ始めた。いつもならこの段階で正面の画面に映るのはシミュレーターの画面である。しかし二十四基のトライデントには“本当の”命が吹き込まれ、電気系統が稼動し始めている。

「発射許可が下りました。発射準備開始、了解」

 私は命令を復唱する。

「指示一、指示十三」

「地上爆発を命令。準備一、準備十三」

 私はトリガーを握る。これを引けば、一番管と十三番管のトライデントD―5が三十メートルの海水を押しのけ空中に飛び出す。アリアンロケットシステムによる三段のブースターは大気圏外まで飛び、星を目印に正確な位置を定めると、核弾頭を切り離す。音速の二十五倍で標的に向かう弾頭は指示された半径九十メートル以内に着弾し、破滅的な損害を与えるのだ。誰も止めることは出来ない。

 訓練中止の声は聞こえない。私はとっさに横の火器管制士官を見た。

「ミカ……」

 愛嬌のあるドラヴィダ系の顔が苦渋にゆがんでいた。自分達の作業が究極的に国を守ると共に、また滅ぼすことなどわかっている。それでも結果を考えないように手順をたどるように訓練を重ねてきた。当然最後の一ステップもためらいなく行わなければならない。五秒、十秒と時間が経つ。トリガーを握る手のひらは汗にぬれ、私を見つめるカンポの額にも脂汗が浮き始めている。

「があああ!」

 突然、獣のように叫び声が聞こえ、誰かが私を突き飛ばした。

「やめろ! やめろおお!」

 いつもはきっちりと撫でつけてあるブロンドを振り乱して、コンソールに拳をたたきつけているのはサムであった。私達に、おまえらは何をしているのかわかっているのか! とわめきつつ問い詰めながら何とか発射管制システムを破壊しようとする。

「やめて、サム」

 私は狼狽しながらも、発射へ猶予ができたことを喜びつつ、落ち着くように説得を始めた。心の一部が急速に温度を下げつつあった。

「ここで暴れても艦長がブリッジでCIPパネルを操作して発射するわ。いまならあなたは誰も傷つけてない。艦長も見ていない。戻って。お願い」

 おびえた犬のように唸った彼は、血走った目を私に向けてじりじりと迫ってきた。拳銃の類は持ち込めない艦内において、体格に勝るサムに格闘で勝てる自信はない。

「やめて!」

 と飛びついた小柄なカンポはあっけなく壁にたたきつけられた。彼の鼻から吹き出す血の色がさらに私を冷静にさせる。私はゆっくりと態勢を立て直し、サムを刺激しないように後ずさった。

後退する私の背中に何かがぶつかる。分厚い筋肉の壁。視界の左隅からまっすぐ前方の腕が伸ばされている。その腕が部下に銃をつきつけ、ためらいなく引き鉄を引いた。私にはそう見えた。

 乾いた音がしてサムの大柄な体は崩れ落ち、硬い表情をした士官二人が担いで行く。

異常な世界だ。私は異常な世界に迷い込んでしまった。朦朧としそうな心を奮い起こして私はカンポを助け起こすと、所定の場所に座らせた。任務はまだ中途なのである。

「ミカ、できるか」

 私がやらなくても、結局誰かトリガーを握る。タトル艦長の言葉は穏かだが、規律を守るためなら部下をも撃つ。その瞳はガラス球のように感情を映していない。オハイオ級の艦長にふさわしい、冷徹さに覆われていた。私は軍人として撃たれることへの恐怖心よりも、サムが抱いた狂気に近い「正しい」感情を共有することを恐れた。

「ミサイル発射を続行します」

「続行を承認する」

 私は発射準備状態になっているミサイルのトリガーを引いた。艦体が小さく震え、四百七十キロトンの弾頭を八つ詰め込んだトライデントD―5が上方へと飛び出していく。

「一番、発射を確認」

 後ろに艦長の気配は既にない。一つ終わってしまえば、後はもう惰性だった。私は淡々と作業を繰り返した。一番の次は十三番、そしてその次は二番、十四番……。そのたびに艦体が振動し、およそ六十トンずつ軽くなっていく。二十四基、百九十二個の弾頭を吐き出し終えたUSSアラスカの艦内は、異様な静けさに包まれていた。

「発射を完了。発射システムに異常は発見されませんでした」

 そう報告して私はヘッドセットを外す。ミサイル発射管のふたを閉じ、一連の作業は終わる。カンポは大きくため息をつき、コンソールにひじをついて手を合わせ、何事かを祈っている。

『ご苦労だった。本艦はこれより母港、キングスベイに帰投する』

 艦長の落ち着いた声が艦内に流れる。

 標的になっているのは軍事目標だ。私は教えられたとおり、自分に言い聞かせた。海軍の核兵器はかなり前から、産業施設や大都市ではなく、相手国の核ミサイルサイトや軍事施設を狙うようになった。ではその周囲にいる一般市民は? そこで働く人々は? その家族は? そんなことを考えてはいけない。

 我らの兵器は必要最低限の破壊だけを目標としているからだ。なのに、私の体は震えだす。ヒロシマ型の三十倍が振り下ろす威力を、それが二百個近くがそれぞれ異なった標的に向かったことを、そしてオハイオ級の潜水艦は最低でもあと十隻は海上にいることを考えてはいけない。

『我々は神風ではない』

 タトルのあやすような話し声が続く。ああ、そうか。ここで私は初めて納得がいった。戦略型原潜の標的は出航前、既に与えられている。タトル艦長は今回の航海で自分達が海神の矛を投げる役割を担う可能性を感じていたはずだ。私への問いかけは、抗いたい命令への対処方法だったのか。

『帰ろう、故郷へ』

 アメリカが全力を挙げて報復する事態になった時に、故郷が自分の知っている姿で残っているかどうかを想像したくはなかった。ただ、あの洗剤の香りとアイロンのスチームが立ち込める中で寡黙に働く、父の顔だけが無性に見たかった。

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