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尊敬する父

父が他界して10年以上経ちました。

私は親不孝で散々迷惑をかけてきました。高校3年の時、最初の夫と出会い中退して結婚。莫大な借金があることが分かり財産整理をした後他県へ移住しました。

結婚はもちろん反対されましたが、その頃は若すぎてお互い助け合えば大丈夫だと思っていました。

夫の借金の原因はパチンコでした。子どもも生まれて生活はギリギリ💦真面目に頑張ってくれると思ったのが甘かった…。

根本的なところは何も変わらず夫は遊び続けました。

家の電化製品がごっそり無くなっていたり、財布の中身を抜かれるのはしょっちゅうでした。お金を隠すのにも狭い部屋でしたから一苦労、気が休まる日はありませんでした。

反対を押し切って結婚した手前、簡単に親に泣きは入れたくなかったのですが半年も経たないうちに生活出来ない状態になりました。夫の実家には仕送りをしているのに、私は両親にお金の無心をするなんて…。

電話も無かったので、お隣にお借りしてコレクトで苦しい状況を説明しました。

翌日、父が来てくれました。一緒にスーパーで買い物をして私の作った夕食を食べ「別れるかどうかは自分で決めなさい」と帰っていきました。

 その後もなにかにつけて助けてくれ、私が盲腸の手術をする時にも病院まで来てくれました。まだ娘が小一で心配だったのだと思います。

34歳で子宮癌を患い入院した時には母も一緒に来てくれて高校生になった娘の面倒を見てくれました。

退院して半年後、妹から父が肝臓癌で入院していたと連絡がありました。
退院して元気にしているとの事でしたが大好きなお酒をやめなければならず、辛かっただろうと思います。

回復し、娘の結婚式にも来てくれ嬉し涙を流してくれました。

娘の初めての子どもは生後2ヶ月で肺炎で亡くなっています。その時には弟が宮参りの時に使った着物を棺に入れてくれ、曾孫の名前を絶叫しました。ほんとは飲んではいけないビールを1口飲んで見送ってくれました。

その後、癌の再発が続き4度の手術をし嘱託で仕事を続けました。

父は野球をやっていて弟が少年野球を始めた時にはコーチをしていました。
弟の子どもも野球をしていましたが週末の練習や試合には殆ど足を運んでいたようです。
お酒をいつでも飲みたくて免許を取らなかった父はバスや電車、徒歩で通っていました。

癌が見つかって10年経った頃、母から頚椎に転移したと連絡がありました。

いよいよ心の準備をしなくてはいけません。年末の帰省の時、娘には最期になるかもしれないと告げ、2人の孫と共に帰りました。

元気そうでしたがかなり痩せていました。生野菜や果物が禁止で蒸し野菜やきのこ類を摂取していました。夕食には栄養ゼリーも食べていました。
曾孫達と笑顔で接し、帰る時には「またね」と言っていたのですが…。

それから約1ヶ月後、父は帰らぬ人となりました。危篤の連絡を受け、直ぐ店を閉め娘達と実家に向かったのですが臨終には間に合いませんでした。弟からは見なくて良かったかもと言われました。

朝、戻ってきた父はとても穏やかな顔をしていました。湯灌で綺麗にしてもらい母も満足していました。

お通夜には沢山の方々が来てくださっていました。弟も少年野球の指導をしていましたが他チームの子ども達も来てくれていました。
 供花も会社関係や政治家、何より野球チームからが多く驚いたものです。

葬儀が終わり、実家でひと息ついた時、母が大学ノートを幾つか持ってきました。孫の試合が掲載されたスポーツ新聞のスクラップ、練習や練習試合、公式戦を観ての感想、相手チームに対してのコメントもたくさん書かれていました。子ども達がお通夜に足を運んでくれたのは、こういうことだったのだなと改めて感じました。
そして…終活に向けての日記が綴られていました。

そろそろ定期を解約しなければ…みたいな事が書かれていました。

ちょうど立川談志さんが亡くなられた年で、自分の最期と重なるような感想を書いたりしていました。

日記の終わりのほうでは段々と記憶が無くなっていくこと、思った事がうまく書けない歯がゆさなどが淡々と書いてありました。

「ちくしょう」

これが最後のメッセージでした。

自分の死期を悟り、なるべく母に迷惑をかけぬよう着々と準備を進めていた父に脱帽です。私が父のように振る舞えるか、正直自信がありません。

本当に私はダメな娘で馬鹿な女だけどあなたの子どもで良かったです。心から尊敬しています。

ありがとう、お父さん。


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