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毎日ちょこちょこ、35mmでいこう

最近は新潟に雪の写真を撮りに行ったり(ほんの一瞬しか降らなかったけど)、写真のプリントをしたり、キャンプ行ったりしていてずっと更新を怠っていた。
なんとなく書く気がしなかった、といえばそれまでで、一切キーボードを打つ気がしなかったし、それ以前に「何かを書く」をいう思考に全くならなかった。思考停止ともいっていいような状態で、ただ写真を撮っていただけで帰ってそれを見返すこともせずに毎日で過ぎていく。
小さい時からそうだが、一年を通して、何かを考えてしまう時期と、何も考えられなくなる時期の波がとても激しい。それはやる気というよりももっと根本的な気力のような段階のもので、身体も思うように動かなくなる。精力といってもいいかもしれない。とにかく何をやってもそこから感じる力がとても低くなる時があるし、それは定期的にやってくる。日常との相関と条件を考えてみたけれど、それはよく分からない。不定期に、でも必ずやってくる。

この倦怠期を無くす為に、やはり毎日少しずつでもちょこちょこ何かを言葉にして、それを書くということをしていこうと思う。何も考えられなくても、文字通り何も考えない日などないのだから、キーボードを触りさえすれば書けるはずだ。

でも、何も考えていない時ほど写真は撮れたりする。
写真は考えなくてもただ指先に力が入れば何かは写るし、「ただ反応して押す」ということが一番写真に近いと思っているから、それはそれで大事な感覚だとは思うけれど。


普段、都内で写真を撮っている時にはだいたい標準レンズの単焦点一本しか使わない。35mm判のカメラなら50mm、6x7の中判なら90mm(35mmでいうところの45mm)。
一般的に50mmのレンズというのは人の視野に一番近いと言われる意味で標準レンズとされている。
でも、最近これは何か少し違う気がしている。

50mmは、確かに視野に近いけれど、それは「主観」の入った視野に近い気がする。ものを見ている時に、ある部分に少し意識をフォーカスしながらその空間を把握している時のものの見え方に近い。
そのまま50mmで撮れば、自分が『見ている』ものそのものに近い範囲でフレームに収まるから、少しフォーカスしているというその状況で周りのものに邪魔をされずにキレイに画角に収めることができる。キレイに整理することができるともいえる。

しかし実際には、目の前の空間を見ている時には視線は常に動き回って色々な場所を移り変わりながら、ざっくりとなんとなくその空間を把握しているはずだ。
だから、実際には「見ている」のではなく『見えている』の方が近い。
その目の前の状況そのものを捉えたいと思ったら、主観の部分が強い『見ている』の状況より、なんとなく把握している『見えている』の状態のまま捉えたい。
その場合は、50mmのレンズよりも、35mmくらいのレンズの方がいい。

これは、東京が狭いということもあるだろうと思う。
東京は所狭しと空間が埋め尽くされている為、空間の中で実際に動ける範囲が制限されてくる。そうなると、50mmでは『見えている』の状態まで引くことができない。それで何度も悔しい思いをしたことがある。    
50mmだと、周りの風景を切り落としすぎてしまうことが多い。収まりがキレイにはなるけど、実際にはその周りに存在する環境や状況があって、それを不必要に排除することはやはり写真的ではない気がする。

あるものを見た時の、『見えている』感。言い換えれば『見えてしまっている』という意識に入る以前の風景そのものを、できるだけ切り取ってしまわずに逆に写してしまった方がいい。それこそ写真にしかできない部分ではある。
これから35mmを使おう。



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