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変わり続ける現実、変わらない写真

毎日更新とかいいながら、また3日もサボってしまった。
お酒のせいもあるかもしれないけど、ほとんど自分の性質の為の結果だと思います。
まあ、人間思ってることや言っていることなんてコロコロ変わってしまうものなので気にしないことにします。
「なるべく毎日」でただただ続けます。

今回は単純な写真の話。



写真はよく「時間を止める」と言われます。
その時そこに存在した時間や空間を、その瞬間のまま永遠にそこに留めておくことができる。
言い換えると、「変わり続けるものを、変わらないものにする」ということだ。

現実の世界は常に動いています。時間も進めば、状況や環境も常に変化しながら姿を変えます。昨日見たいつも通る道でも、注意深く見ると今日は絶対違うものになっているはずです。
天気や気温も違えば、時間も少し違う、そこに落ちているゴミも違う、吹く風も違う。そしてそれを感覚する「自分」も昨日とは心の状態も違う。

そういう「諸行無常」の世界で流れているのが現実で、こちらの意識なんて関係なく、ただひたすら周りとの関係の中で変化を続ける。
その、「変化を続けているはずの現実を一生変わらないものとして固定化する」
というのが写真のそもそもの原理であり、素晴らしい技術であり、ある意味では暴力的な力でもある。

だから、その「変化を続けているはずの現実」というのは写真で正確に捉えることはできない。それはある程度の時間が経ったあとに事後的に分かることで、撮ってすぐの時点ではそれは絶対に真実ではない。


たとえば今日の朝起きた自分の写真を撮ったとする。
1枚だけで見るならば、ただのセルフポートレートとしての自分です。
その瞬間にそういう顔でその身体だった自分が写っている、記録としての自分。言い換えればその瞬間を固定化した「情報」としての自分。
それは、少なくともその中だけでは一生変わらないものとしてそこにずっと留まり続ける。
しかし、翌日に同じ時間に同じ格好でまた自分の写真を撮ったとする。
そこにいる自分は、「名前としての自分」では同じだけど、必ず違う自分が写っているはずだ。
ほとんど変わらないとしても、顔色や寝癖や顔のむくみなど注意深く見れば絶対に違う。

それを長い年月やってみると、そこには擬似的に「変わり続ける自分」という現実の部分が少しだけ見ることができる。
実際にはもっと色んな影響を受けているかもしれないが、毎日同じ時間の1枚の限定された範囲の中でも、変化を続けるという真実が表れることになる。

だから写真は、「変わり続けるものを変わらないものにする」という性格上、
1枚では真実から離れる。真実というと大げさだけど、ようは現実がそこには無くなるということです。
しかも、その写真をその後見る人も存在するわけで、そうなってくると見る側の主観にもかなり左右される。その写真が撮られた瞬間に関わった人は特に、その瞬間の「記憶」としての写真となるから、さらに現実とはかけ離れたものになる。(それが写真の素晴らしい力でもある。)


でも、写真はその性質を逆転することもできる。
それが「集合体」としての写真だ。

1枚では現実から離れたものにならざるを得ない写真が、他の写真と関係をもってある程度の厚みをもつことによって、現実に近いものとして見ることができるものになる。
上で言ったセルフポートレートの話でいえば、現実には、体温や匂いや音もあるはずで、それを写真で写すのは不可能だから1枚では現実から離れたものにならざるを得ない。
しかし、それをもし50年という長い時間の厚みで見たならば、相変わらず匂いや体温は伝わってこないけど、「変わり続ける自分の身体」として流れ続ける時間の表れの部分では現実に近づくことができる。
現実ではこく一刻と変化しつづけるから、そこに気づくことはできない。
動画ではそもそもそんなに長い時間まわしてられないし、見る側もかなり時間に縛られることになる。それに流れる映像を追うのに必死で、1枚を凝視する時間を与えられることもない。


現実は忙しく変わっていくから、その変化に気付くことはなかなか難しい。
変化の真っ只なかにいる時には、その動きは意外と見えないものかもしれない。
でも、写真に撮ることによって、後からそれをじっくり注意深く見ることができる。
そして、1枚1枚が集合体となることによって、そこにあった変化を取り出すことができるんです。

しかも、現実ではあり得なかった関係性を、見る側がその集合体の中でつなぎ合わせることで、それぞれの真実を作り出すこともできる。
現実を写しているけれど、現実からさらに飛躍できる力。
それも写真の大きな魅力だと思っている。



実際には、世界の中にはイメージとしての写真が溢れている。
自分の頭の中にある想像や映像を、再現する手段という意味での写真が数多くある。
別にどちらがいいというつもりは全くありません。それはそこで都合がよかったから写真を使っているんであって、そういう「手段」としての写真ももちろん存在してなければいけない。
ただ、イメージとしての写真というのは撮られたその瞬間から「変わらないもの」として固定され続けることになる。
その前も、後もない、それがそのものという性質の写真。頭の中の固定化としての写真。

頭の中の具現化(固定化)としての技術は、それを見るひとと共有しやすいし、伝わりやすい。
それをする為なんだから当たり前といえばそうなんだけど、それは少なくとも現実ではない。
現実はもっと流動的で、捉えどころのない変化しているものだ。

イメージばかりの写真になるのは別にいいし、そこにとやかく言うつもりもないけどやはり寂しい。
少しでも現実に近づけるような写真があってもいいし、そういう写真の本質的な力を信じてやるしかない。



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