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生に形を与える技術

普段フツーに生きていて、生(せい)の根本に触れる機会はそうそうない。
あまりそれを意識しなくても生きていけるし、それは普段は隠されているものだから、目に入る機会も少ない。
生の部分に直接触れるというのは、頭や言語では理解できないものが多すぎるし、あまりにも不条理なものだからそこに触れるのは、こちらもそれなりの覚悟を持っていないと中々辛い。
だから、日常の中にはそれはキレイに隠されて、整備されている。
婚活・終活など「〜活」という言葉が出てくるのもその一つだし、スーパーに行けば完全に商品化された肉が並んでいるし、生の先に必ずある死も、墓場などは外からは見えない形で生活から切り離される。
それは頭の中だけで「だいたいこんなものだ」という言葉で処理できる形に矯正されている。


先日、岡本太郎美術館に行って、岡本太郎の作品を改めて見る機会があったが、観たあとは気持ちがかなり興奮していたと共にかなり疲れていた。
そこにあったのが矯正された生ではなく、一人の人間が限りなく生に近づこうとしたエネルギーそのものがあったからだ。
それは普段あまり触れる機会のない裸の状態のパワーだから、グサグサ刺さってかなりキツイ。

けれど、生の持つエネルギーというのはそもそもこういうものじゃないか。
あちこちに拡散する捉えどころのない力で、不規則で流動的な力。
そんな自由な力の生は、形を取ることが難しい。
それを言葉や論理で圧縮することはさらに難しい。そもそも正確にそれを捉えることは誰にも不可能ではないか。
それを、なるべく生(なま)そのものに近い形で取り出そうとする試みとその技術がアートの根本的な行為だったはずだ。
生そのものは、あまりにも生々しすぎて、日常的に常に接しながらフツーに生活することはできないから避けられたり隠されたりするけれど、だからこそ同時に皆そこに惹かれる部分もある。実はそれを見たい。
その見えないものを、形にして見える形にするのがアートの役目だ。

現代美術はしばらく前から西洋を中心にコンセプチュアルが重視される流れになっている。
自分の作品をまずは言葉で説明できなければ、まず相手にされないと聞く。スタートラインにすら立てない。
西洋文化が、まず論理や意識を大切にして、その説明を言葉ですることに重きをおく文化であるというのはよく聞く話だ。僕は西洋に行ったことがないので実感としてそれが本当かどうかは分からない。けれど、近代哲学がヨーロッパで盛んだったことを考えるとそういう文化は実際に根深く存在するんだろうと思う。

意識や論理を重視すれば、当然そこには圧縮が生まれる。
そして整合性や妥当性も審議されることになる。
そこには意識をまずは先頭においた「言葉」の世界が表れて、きっちり整理、分類できる形をとったものとなる。

それはそれで、作品を観る側が理解をする上での入り口としては必要な手続きかもしれない。
でも、「生そのものに近づく」ということがアートの目指すべきところとした場合、言葉や意識で捉えようとすること自体に無理がある。

生の働きそのものとしての身体には、そんな意識で捉えきれない部分が必ずあると思う。
日常的にも身体はよく誤作動を起こす。意識とは別に、捉えきれない生の活動に身体はいつも正直だ。
例えば、花粉症でも、意識はそんなこと望んでいないし、身体にとっても本来害がそこまでないはずのものなのに身体は勝手に拒絶しようと鼻水や痒みを催す。
心が動かされた時だって、意識とは関係なく勝手に涙が流れることもある。
緊張だって、意識を始める前から鼓動はすでに早くなっている。

僕は軽い自律神経失調症だから("失調症"という響きがよくないので少し前から「敏感症」ということにしている)、意識とは関係なく勝手に喉が痛くなったり、顔から汗が吹き出したり、寒いのにも関わらず手足の汗が止まらなくなったりするからよく分かる。
身体は意識とは別の働きで勝手に動いているし、その身体に意識も影響を受けているはずだ。
この身体の働きは、まぎれもなく制御できない生の働きの一部分だろう。

音楽のライブだって、圧倒的なパフォーマンスを見せられると、そのエネルギーに言葉が浮かぶ前に身体がもうすでに反応してしまって感動をする。
身体を使って表現される、今目の前に起こっている非日常的なパワー、それに反応して一体となっている観客側のパワーが一つの方向に向いている奇跡を目の当たりにする。
それは、生のエネルギーが目に見えて、身体で直接感じる形で表に出てきている空間ではないか。

だから、僕は現在のコンセプト主体のアートの潮流に疑問を覚える。
確かに、昔から生そのものに近づこうとするアートはあったし、そこからの脱却としてのコンセプトアートという流れもある。実際コンセプトアートはそれはそれで面白さもあるし、僕も観るのはすごく好きだ。
しかし、元々生の為の技術だったアートが、面白さだけにフォーカスされていくのは納得いかない。そして論理と意識先行なのも納得いかない。
それは、化学や哲学がやることではなかったのか。

もっと生々しくて、観るのをためらうような角が立ったものが観たいし、やりたい。
岡本太郎美術館の、「岡本太郎の軌跡」みたいなアーカイブ部屋の壁には、岡本太郎が海外のインタビュアーから受けた「色々なメディアで表現をされていますが、あなたの本業はなんですか?」質問に対して、
「それを分けることに意味がない。しいていえば本業は岡本太郎だ。」(書いてあったそのままの言葉ではない。正しくは覚えてません。)
というあの言葉が岡本太郎の芸術をまさに表している。

自分の人生で行われる生の活動そのものが表現だった。
言い換えれば「岡本太郎」という一人の人生そのものが表現であり、芸術というものだったんだ。
あの場に展示されていた作品には、生が持つ無秩序と、その捉えきれない暴力的な力強さを確かに感じた。
そういう生そのものに向かう生き様こそ、アートの本来の姿であり、目指すべきところではないだろうか。

今後、AIなどが人間をはるかに超える論理で芸術も語り始めた時に、また人間が生の曖昧さへ向かうことを期待している。




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