見出し画像

型を続ける

最近はマルチになんでも活躍する人が珍しくない時代になってきた。
流行りの言葉で言えば「多動力」を如何なく発揮して、一つのことだけでなく各方面で自分の能力を発揮して、枝のように四方に才能を伸ばしていくような人がどんどん増えていっている。

今は「掛け算の時代」とはよく言われる。
一つのことをできる能力が100ある人より、50の能力を業界を超えて2つ持っていたほうが、その掛け合わせで他の人にはない付加価値が生まれて交換不可能な存在になれるというもの。

それぞれの領域は、そこに今までいた既得権益層ともいえる保守派に守られた慣習があって、それを根本から変えていくのは中々難しいことだったけど、最近はそういった境界線もだんだん緩くなっていっている気がする。
というより先人をきった圧倒的な成功例の周りで、少しずつそういう動きをもった意欲的な人達が増えているんだろう。
垣根を超えて、他のものと組み合わせでコラージュしながら自分なりの色を作っていけばいい。

それはそれで流動的な時代に合った、柔軟な生き方だと思う。
色んなことにチャレンジできる機会も昔に比べてかなり転がっているし、その動きをサポートするツールなど、インフラもかなり整っている。
文字通りやろうと思えば何でもできる時代になったといえる。

でも、最近友人と話していて思ったのが、そういう生き方が日本人に果たして合っているんだろうか?

確かに垣根を軽々飛び越えてその能力を拡散させることが得意で、実際それが実行できる人も多くいるだろう。
それができる人はどんどんやっていけばいいと思っている。そういう人がいてこそ進化は加速するし、そこからこそ新しい価値は生まれる。

しかし、日本人は昔から「型」を大事にしてきたという文化がある。
能も、狂言も、歌舞伎でも、落語でも、
それを始める時はまずはなにより「型」を究めることからすべてが始まる。
まず、最初にある決まった形式のかたちがあって、それを模倣してひたすら繰り返してそこに近づこうとすることが道を追求するということ。

その模倣的な動きを繰り返し何度も何度も続けることで、だんだんと自分がなくなって「型」そのものに近づいていく。
でも、その自分が無くなった先にこそ、本物の個性は表れてくる。
身体に正直に、同じことをひたすら続けていると無意識のレベルにまで降りてくることがある。これはスポーツをある程度長くやったことがある人なら分かるはずだ。

この、自分が無くなったその先の個性は、いくら「型」に近づこうとしても必ず残る。身体と意識、その両方ともいくら無意識に近づいても必ずクセや個人に特有の特徴が出てくる。身体や意識は意外と正直だ。

意識的に、個性を出そうとがんばってみても、それは結局今まで見てきたものの組み合わせや自己解釈の誇張にしかならないことが多い。
見たきたものや聞いたものに縛られて、結局その中での上手だ下手だの競争にしかならない。
それは自分の外に、見栄えのいいものをその都度貼り付けていって、豪華に飾り立てる見せかけのファッションのようなもので、裸になればなんとも面白くないただの身体だということになりかねない。
主張としてのファッションはいいけど、見せかけのファッションとしての個性は力として外からしか身につけられない、それはふとしたことで簡単に剥がされる。そう思っている。

人間は外から常に影響を受け続ける。
その周りから受けた影響が自分の意識の中に、自分でも気付かないうちに深いところまで刷り込まれていれ、その影響を受けた意識から中々抜け出せない。
けれど、同じことをただただひたすら繰り返す。
そうすることで身に付いた無意識に、自然と残った部分のものが内から出てくることがあるだろう。それこそが個性で、それこそが身体から直接生み出された表現だ。

最初に話した、掛け算のような個性も確かに存在する。それはそれで、他の人にはない特徴をもった個性だろう。
別にどちらがいいという主張もない。
ただ、同じことを繰り返し続けた先にある、横ではなく縦に掘り続けた深さを持った個性というものも確かに存在するという話。
だから、僕はずっとイチローを信じている。
ああいう境地は、ひたすら同じことを繰り返し続けて自分の意識の深いところまで注意深く降りていかなければできないことだろう。

なかなか、出来ることではないけれど。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?