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フルボリュームで生きてくれ

人生で忘れられない人というのがいると思う。

自分に何かしらのかたちで影響を与えてくれて、その影響が今の自分を形づくる要素として明確な色で残っているような人。
そういう人が話した「言葉」っていうのもやはりいつまで経っても覚えている。
言葉はその人の人格そのものだ。
逆に人の色はその人の振る舞いで決まる。
どちらもその人そのもの。


大学生の時、卒業前最後の授業で学科長だった先生が言った言葉を今だによく思い出す。

「常に感性のチューニングをフルボリュームにして生きろ。常に何かを感じなさい。」

学生時代聞いた言葉で今だに何度も思い出す言葉。
あの時はほんとになんにも分かっていなかったから
「色んなものに"感動"したり、感じたりし続けるアンテナを張っておく」
ってその言葉通りの、表面の部分でしか受け取っていなかったと思う。
ほとんど生に向いた感情のことしか考えてなかった。


ただ、最近になってこの言葉はもう少し広い意味で言われたことなんじゃないかと思う。


「感動」っていう言葉はその字の通り「"動き"を感じる」ということ。
感性をフルボリュームしておくということは、
心が動いたそのことを注意深く感じて考える、ということ。

それはおそらく気持ちのいい感じだけに限ったことではなく、
なんとなく嫌な感じだ。っていう不憫な気持ちな方も常に感じなさい。という意味も含まれていたような気がする。


悲しいニュース、痛ましい事件、身の回りに起こった小さな不幸。
そういう負の感情にも"鈍感"になってはならない。

毎日これだけたくさんの情報が流れてくる中で、
個人にとっては人生を狂わせるようなことであっても、分かりやすく処理をしていかないとこの社会はそれらを整理することができないから、簡単に数字に置き換えられたり、名前を付けられたりする。
そもそも数字や名前で置き換えられるようなものではないその複雑な色を持った空間を、グリット状に圧縮してすべてのものが整理されていく。

絶望を味わった人のその感情の大きを、たった「1」だけで表すことに慣れすぎてはいないだろうか?当たり前になりすぎて、あまりに鈍感になってはいないだろうか?
その周りには、その人が深く関係性をもつ人間がまた何人もいるはずなのに。


絶望まではいかないような小さな悲しみや寂しさ。日々の不憫さ。
そういう小さなことにもいちいち心を動かして、感じて、憐れむ。
人の悲しみを真正面から受け止められるような心を常にフルボリュームで。

自分の中にある小さな動きを注意深く見つめて、
きっちり向き合い続ける。

それが、あの言葉をもらった僕なりのふるまいかた。



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