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70%|みたことのないもの

西和賀だった理由


4月末、東京で桜が終わった頃、
岩手県の西和賀町にある、ネビラキカフェでおてつたびをしてきた。

「岩手わかすゼミ」で
カフェのオーナー瀬川然さんのお話をお聞きしたのはもう3年前。
https://www.facebook.com/events/243929633638779/

画面越しでも息を飲むような美しい西和賀の自然に惹かれて、
その後も情報を追いかけ、ある時noteに辿り着いた。

そこで紡がれる然さん瑛子さんの文章は鋭くて深くて。

暮らしていると慣れて"あたりまえ"になるはずの日常が、
"あたりまえ"と"とくべつ"の狭間で、
色褪せず新鮮に切り取られていた。

そんな文章を書く人に会ってみたかったのだ。

そしてもうひとつ、
美しいものに日々感動しながら生きる、
そのヒントを貰いたくて、西和賀に行ってきた。

登山部に入って初めて感じた、
生きててよかった、という素朴な感覚

この世界ってこんなに美しかったんだ、
深く息ができるところがあるんだと思えた。

そういう感覚は、山に行かなくても暮らしと共に在れるのだと釜石で知った。

西和賀はそれがもっと顕著なように見えた。

行くまでにnoteを何度も読んで、
こんな風に緻密に言語化できる人たちのところへ、言語化が甘々な私なんかがフラッと迷い込んでいいものだろうかと勝手に緊張していた。
文章上での饒舌なイメージと違って、会ってみると拍子抜けするほど穏やかで優しいお二人だった。

「自分、喋るのは苦手で書く方が得意なんです。じっくり考えたくて」
(もっと違う言い方だった気がする)
早朝、カヌーの上で話してくださった言葉の通り、直感や身体感覚をとても大事にするから、言葉を焦って探そうとしないのが心地良かった。

たった3日間のうちに、
ほんとうに色んな人と繋いでもらった。

カフェでアルバイトしてたキラキラJKも何でも屋のお姉さんもいちご農家のお兄さんも演劇のお兄さんもライターのお兄さんも元食べる通信のご夫婦もみんな、

穏やかに軽やかに
深く広く浅く狭く、
根を張って
地に足つけて生きていた。

会いに来てよかったと心からほんとうに思った

春紅葉の山の色
エメラルドグリーンの川の色
空を映す湖
ぜんぶ違って聞こえる鳥の声
おっきなたんぽぽ
ふきのとうの綿毛

見たことのない自然ばかりで、
知らない世界だった

中島みゆきの『一期一会』がハマるくらいの、
見たことのない世界感があった

暴露

頑張って少し気を張っていたいとき、
西和賀には帰れないと思う。

瀬川さんご夫妻が引き合わせてくれた森さんは、
「演劇は、自分という人間すべて暴露される」と言っていたけれど、

演劇でなくても、
西和賀に行けば
全て暴かれると思った

取り繕っていたもの全て剥がされて
心臓しか残らない

は、ちょっと言い過ぎかもしれないけれど、
そんな怖さが少しある。

素直になれてしまうから、疲れていることを自覚したのか
行きの電車の中で、
車窓の向こうの美しい山や水田や植物や空を見ながら
気づいたら涙が出ていた

多分、少しずつ溜まった寝不足とそれゆえの情緒不安定と、緊張がほぐれたことと色々あるんだろうけれど

帰るべき場所に戻ってきた感覚があって、すごく、ほっとした

久しぶりに聞く、落ち着いている時の自分の低めの声
思わず緩んでしまう頬

でも旅先で少し強がって自分の疲れに鈍感になる自分もいて。

一日目は電車の中で泣いて、
二日目は陽子さんの前で泣いて、
最後の日は朝散歩しながら桜の木の下で泣いて、

なんでこんなに楽しいし嬉しいのに涙が出るんだろうか
ほんとうに不思議だった

(冷静にただの情緒不安定笑)

ニリンソウ
カタクリ

Wildernessぽい自然


いちごスカッシュ(美味しい!)をご馳走になって荷物をおいて、すぐカタクリの観察に連れていってもらった。

林に足を踏み入れてすぐ、
ここは私が来たことがない世界だと思った
今まで見たことない自然だった

人の力のとても及ばない
人間であることをすごく非力に思えるような、
決まった規則に従って生きているいきもののせかい

踏み込む人間の自覚
ただの人間、ですらない
無力ないきもの

今、新しいものと出会っていると思った

自然には道具的な価値しかないなんて、
どう考えてもどこを見回しても言えないと思った

年を重ねていくということ


初日の自由時間、
Googleマップで見つけた謎のギャラリーに向かうと、
オープン1日前のツキザワの家にたどり着いた。

そこで陽子さん強さんと出会った。

自然科学の知識を豊かに持ち、
素朴な疑問を持ちつづけ
考えることをやめずに、
感受性を豊かに、むしろ強めている生きる。
宮沢賢治に重なって見えた。

ヨタカややまなしやカイツブリや、
そういう動植物も童話の世界そのもので。

賢治はどうやら西和賀は通り過ぎてしまったらしいのだけど、
賢治の世界に入り込んだような気がして、とてもわくわくした。

自然観察会を30年以上も続ける陽子さんが、初めは虫すら触れなかったということもお聞きして、
(ただし可哀想だからという理由なので、気持ち悪いという理由とはだいぶ違う笑)

歳をとるごとに、むしろ好奇心を強めていくことはできるんだ、人は出会い次第で、どうにも生きられるんだと、ほんとうに感動した。見た目も心も少女のような人だった。

しばらく流行っているアンチエイジングは、老いが否定され、その対極にあるものとしての若さが志向される。しかも身体統制を伴って。

でもそうではなくて、年齢に応じた身体変化を受け入れつつ、心が若返っていくような。そのことで寧ろ身体も若々しさを保つような。
老いと若さの両存する、そんな生があるんだなと思った。

wildernessぽい自然と暮らしの共存とも出会ったし、二項対立に見えていた幾つかの事柄の二項対立で語れなさを見れた気がする

朝ごはんもご馳走になった、、!
ちょうど桜の時期

そして私がいなくなる

世界が私を愛してくれるので
(むごい仕方でまた時に
やさしい仕方で)
私はいつまでも孤りでいられる



私はひとを呼ぶ
すると世界がふり向く

そして私がいなくなる

谷川俊太郎『六十二のソネット』「62」

西和賀に行って、
あるものがそこにあることに気づいて、その正体を知ろうとしていくことの豊かさを教わったと思う

足元に咲く花は草は
あの青々とした木々は
あの鳴き声の主の鳥や虫は

どうしてあのように在るのか
どんなルールに従って生きているのか

そうやって疑問を持ち続け知ろうとし続ける努力は、わたしやあなたや世界の計り知れない「分からなさ」の前で謙虚な気持ちにさせてくれると思った

世界を目の当たりにして
私の論理は世界の論理に組み込まれて消える

そしてもうひとつ、
自然の前で非力な人間の自覚を持ちながら、足元の日々の暮らしを自分たちで描いてつくっていくことの豊かさ楽しさ美しさを少しだけ教わった気がする

スプリング・エフェメラル


ツキザワの家で読んだカタクリの絵本に書いてあった。
一年のほとんどを、根を張ったり栄養を蓄えることに費やし、春にだけ花を咲かせる山野草。

冬の豪雪があるから、
春の雪解けや芽吹きが尊い。
一瞬一瞬、日々が尊い。

日々是好日

日常の忙しさに忙殺されているとすぐ忘れてしまう

誰かが言っていた「気を抜くと忙しくなる」のだけれど、
そういう日々の感動を、忘れずに生きていたいと思うのだ。


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