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#10 意識高くない系女子

昔から、胡散臭い人間を毛嫌いしてきたと思う。

むやみやたらに、世のため人のためにとか、自己成長のためにとか、張り付いた営業スマイルで綺麗事を並べ立てるキラキラしたような人間をどこか冷めた目で見ていたのは、小学生の私でも大学生の私でも変わらない。

「休日はボランティアで町のゴミ拾いに参加しています。」という小学生時代のクラスメイトも、SNSに度々登場する「国際支援を行う学生団体で活動しながら、ビジネスの勉強もしていて、学生のうちに起業するのが目標だ」というスーパー大学生も、どちらの存在も私にとっては「なんかよく分からんけど意識高くて、やたらと横文字ワード使ってきそうな関わりたくない人」でしかなかった。多分、今もこういった類の人間は苦手。


「意識高い」と言う時は、大抵は皮肉を込めてそう言っていると思うけど、そこに暗に込められた意味は、

必要以上人生や社会に対する意識が高いために周りと温度差がある」

だと思う。人生において勝ち/負けとか成功/失敗という感覚を認めていたり、社会に対して強い正義感を持っていてさらにそのために積極的に行動することで目立っている人が、「意識高い」と言われがち。
やっていることは褒められるべきことなのに、それでもむしろ皮肉られるのは、「意識高い人」が近くにいると、周りの人間は湧き上がる若干の焦燥感や劣等感を認めたくない気持ちの逃げ道を求めているからかもしれない。


というのは、私が常に「意識高いよねw」と言う側の立場だった時に感じていたこと。
この一年くらいで、私の活動範囲が広がり行動や考え方も大きく変わった。どちらかというと、私自身が「意識高い」と言われる側になったかもしれない。
学生団体でイベントを運営したり、ビーチクリーンに参加したり、昔の自分だったら、今の自分のことを「意識高い」と思っただろう。

でも実際には、自分が意識高くなったわけでもなければ、人生に成功したくなったわけでも、社会に貢献できる素晴らしい人間になりたくなったわけでもない。

ただ、私の中での普通の生き方の幅が少し広がっただけだ。

環境を守らないといけない現実を知ったから、環境に少しでも優しい生活を心がける。珊瑚が死んでいく事実を知ったから、ビーチクリーンに参加して少しでも海を汚している焦燥感を打ち消す。力を尽くしたい活動を見つけたから全力で打ち込む。
なにも、世のため人のためではない。自分の知識や感覚がアップデートされるにつれて、私の生活も少しづつ変わっているに過ぎないのだ。


「意識高い」と言われる側に近づいて気づいたこともある。それは、「意識高い系」と思われてしまうのはとてももったいないということ。なぜなら、自分自身の世界の幅が少し広がった結果何か行動を起こしたり発信していても、相手との温度差がありすぎると何かを伝える前に、距離を置かれてしまう。
「自分とは違う世界にいる人」となり、その時点でまともに話を聞きたいとも思わなくなる。この温度差の壁は大きい。
片方の熱が上がれば上がるほど、もう片方はどんどん冷めていく。引いていく、とも言える(笑)

最初に書いたような「意識高い系」の人たちは今でも苦手。それに、「人生に成功するために/世の中を変える為に活動をする人」を意識高い系と呼ぶなら、私はどう考えても意識低い系だ。
それでも私が取った行動で私を「意識高い系」と周りに思われたなら、それは私の発信の仕方が原因で彼らが私との間に温度差を感じたという証拠。

だから私の当面の目標は、活動的にはなっても、意識高くならないこと。
自分がいるコミュニティで盲目的になって、気づけば周りに温度差を感じられるのではなく、周りから見ても素敵なことをしている素敵な人間になることだ。

私は私の感覚で、あくまで私という人間としてひとつひとつの行動を選び、またそうしていることをうまく表現できればいいとおもう。
難しいけど。笑

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