8月9日

考える事とタイピング(特に青軸)が趣味の自営絵描き

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考える事とタイピング(特に青軸)が趣味の自営絵描き

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ただ在る、という事しかできない

人生については散々に煩悶してきたのだけども、結局突き詰めると「ただ在る」しかないのだろうなって思う。 人間の能力はこの宇宙を知るにはあまりにも矮小で、だから宇宙を知ろう知ろうとすればするほどに虚しいし、真実を知ろう知ろうとすればするほどに虚しい。 理性でごちゃごちゃと計算して小賢しく真実に肉薄しようとすればするほどに虚しい。 この世には所謂賢人と俗人がいて(ショーペンハウエルとかオルテガとかエドワードギボンとか、古今東西の賢人たちが散々に語り尽くしてきた“アレ”である)

    • 天性のハードワーカーはやり切る事でしか幸せになれない

      改めてフと思うに、天性のハードワーカーはやり切る事でしか幸せになれないのだと思う。 徹底的にやり抜いて、「どう足掻いてもこれ以上は無理!」って領域までやり抜かないと安心できない。 少しでも余力を残す事を許せない。 「その気になればもっとやれるのに、やらない自分」を許せない。 これは、いわゆる完璧主義ともちょっと違うと思う。 少なくとも僕の場合は、「徹底的にやり抜いた上で尚、自身の力不足で満足いく成果が得られなかった時」は別にシンドクならない。 僕の場合は成果が良かれ悪

      • 街行くジジィのように自分もなりたい

        僕はややセクシャリティが曖昧なのだけど(強いて言うなら軽めのノンバイナリー。だからサンリオやカービィのグッズを収集してたりする)、でも基本的には「肉体は男、心は男」の普通の男だ。 なので僕はこのまま年を取れば普通にジジィになる。 そんな僕が思うのは、ジジィのロールモデルは結構充実しているなって事。 僕は所謂地方の辺鄙な街に住んでいるのだけど、そんな場所でもイカしたジジィはたくさんいる。 「イカした」ってのはハイブランドを身に付けてるとかじゃなくて、いかにも年金生活してま

        • 『イージーライダー』の馬鹿馬鹿しさとパ〇ゴニアの馬鹿馬鹿しさとポリコレの馬鹿馬鹿しさとEVの馬鹿馬鹿しさと

          先日、“環境企業”パ〇ゴニアを冷笑する旨の記事を投稿した。 で、上の記事で述べたような馬鹿馬鹿しさというか薄っぺらさを、映画『イージーライダー』にも感じた。 『イージーライダー』の馬鹿馬鹿しさは即ち当時のアメリカの反動的ムーブメントの馬鹿馬鹿しさでもあるし、それは引いては日本における全共闘の馬鹿馬鹿しさであるとか、現代のポリコレ狂騒の馬鹿馬鹿しさ、「EV」はじめ環境の事考えてますよごっこの馬鹿馬鹿しさにも通底していく。 つまり、人類の表層の馬鹿馬鹿しさに通じていく。 い

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          『自分は年寄りだけど若者の「好き」が分かってますよオジサン(オバサン)』の、吐き気がするほどのダサさ

          『自分は年寄りだけど若者の「好き」が分かってますよオジサン(オバサン)』は、吐き気がするほどにダサイ。 いやほんと、ダサイ。 吐き気がする。 僕はこういう人種、大っ嫌いだな。 何がダサいって、それによって若くなれている気でいる事。それと同時に、「老い」という生物の宿命から必死にみすぼらしく逃げ回っている事。 そして何より、結局別に若者の「好き」なんて分かってないって事。 そもそもが、この手の年寄りが理解しなくてはならないのが、「若者」だって一枚岩ではないって事である。

          『自分は年寄りだけど若者の「好き」が分かってますよオジサン(オバサン)』の、吐き気がするほどのダサさ

          有望な人が結局宗教に“逃げちゃった”ときの「ああ、まぁ、そうね」感

          きわめて有望な人が結局宗教に“逃げちゃった”ときの「ああ、まぁ、そうね」感というのは、同じくきわめて有望な人ならよく分かる事だと思う。 結局の所いわゆる三大宗教とか言われてるような思想ほか各種すぐれた宗教思想というのは、結局は「人類の叡智の結晶」であり、結局は「人類の知性の到達点」なのである。 だから結局、知性を突き詰めていくと、その人が優秀であれば優秀であるほど結局は宗教にいきつく。 当然と言えば当然でこれらの思想はながいながい時間の淘汰に耐え、各時代の傑出した高知能

          有望な人が結局宗教に“逃げちゃった”ときの「ああ、まぁ、そうね」感

          結局、バカには関わらないのが吉。バカは見捨てるべし

          生半可な理想主義者はやたらとバカを救って“あげようと”するのだけども、色々な経験をしてきた僕から言わせると、そんなの全て無意味である。 彼ら生半可な理想主義者は得てして苦労知らずの甘ちゃんで、それ故に「バカ」を知らなすぎる。 はっきり言ってバカに救う価値はないし、救う意義もない。 というより、バカを救おうとする営み全てに意義はない。 なぜなら肝心のバカ当人が救われようとする意欲を持っていないためである。 生半可な理想主義者がなぜこの事に気付いていないのかと言うと、上にも

          結局、バカには関わらないのが吉。バカは見捨てるべし

          クッソかしこい人たちマジでがんばれ

          クッソかしこい人たち、マジでがんばれ。 僕は世間一般の水準から頭ふたつ抜けて知能指数が高いと自負しているけども、それでもせいぜい上位3パーセントとかそれぐらいだと思う。 だから当然、少数ではあるけど僕よりも少し頭のいい人や、僕よりもうんと頭のいい人は存在する。 そういう人々と出会うと、僕は本当に感動する。 でも、得てしてそういう人々はあんまり対外的評価に恵まれていない。 頭ふたつもみっつも抜けて頭が良すぎるせいで大衆の理解の範囲外にいるためだと思う。 彼ら彼女らもそん

          クッソかしこい人たちマジでがんばれ

          結局、世の中はなるべくしてそうなっている

          結局、世の中はなるべくしてそうなっている。 それが僕の思想の根本にある。 世間の多くの秀才達が『「世の中を変える」「世の中を良くする」的な事を我々はやってます!』的にアピールするのだけど、上の要因から僕はこういうのが物凄くどうでもいい。 結局世の中はなるべくしてそうなっているのだから。 何かがある様態を示す場合、そこにはそこに行き着いただけの合理的要因がある。 だから、その様態を改めようと考えた場合は根本にある合理的要因自体を刷新してしまわないとどうしようもない。

          結局、世の中はなるべくしてそうなっている

          noteの「なんかすんごい名文」が過小評価されてるのはなぜなのだ?(ハムたろ)

          noteをフラフラしてると思うけど、ぶっちゃけ、noteって客層のレベル低くね?っていう。 なんか典型的な「意識高い系」っていうか。 ふワっ!!?ってビックリするぐらい筆者の知能指数高めな文章とか、如何にも頭良さげではないのだけど着眼点がナチュラルに鋭い文章とか、紙の書籍や他のメディアでは補えないような素人創作ならではの属人性を備えたプレミアムな文章とか、そういう、ぱっと見では分からないなんかすんごい名文の存在感が、noteは、ものすごく低い。 すんごい名文に全然いいね

          noteの「なんかすんごい名文」が過小評価されてるのはなぜなのだ?(ハムたろ)

          僕は環境企業としてのパ〇ゴニアを信用しない

          以前からパ〇ゴニアは意識高い系の秀才達から「ソーシャルビジネスが~」等と何かと持ち上げられているけども、僕は「環境の事を考えている、今までにない、他のアウトドアギアメーカーとは一線を画する、全く斬新な企業であるパ〇ゴニア」を信用しない。 「単純な営利企業としてのパ〇ゴニア」は時々僕の好みドストライクな商品を出してくるので好きだけども。 なぜ信用しないのか? それは…………直感だ。 などと言ってしまえばただの頭のおかしい人(いや事実、僕は頭おかしい人だけども)なので、以下で

          僕は環境企業としてのパ〇ゴニアを信用しない

          秀才型の論考はもういいよ……流石に我慢の限界

          以前から度々秀才型の論考には苦言を呈してきたのだけども、相も変わらず世の中には秀才型の“薬にはならないが毒にはなる”みたいな論考が多すぎて、流石にちょっと怒りが湧いてきた。 いやさ、もういいよ……。そういうの……。っていう。 分かりやすい例が下記の記事群なのだけど、 なんかもう、THE・秀才!って感じでウンザリしてしまう。 いやだからさ!!!そういう思想は!!!その手の思想は!!!!もうとっくの昔に挫折してんじゃん!!!? そういう思想は机上の綺麗事であって、リアルで

          秀才型の論考はもういいよ……流石に我慢の限界

          同志は全員自殺しちまった

          同志は全員自殺しちまった! 悲しくて仕方がないッ!! 寂しくって仕方がない!!! でも僕は生きねばならない。 生きねばならないっていうか、あんま自殺しようという意思がない。 僕には物凄く確固たる自殺論があって、だからあんま自殺への意思がない。 なにせ、こんだけ同志たちがぽろぽろと自殺したのだから、それを見せつけられると食傷してしまって、自分まで自殺しようという気に至らない! 僕はひとりぼっちだ。 ってのは言い過ぎで、実は無論存命の同志だってチラホラいるのだから、僕はひ

          同志は全員自殺しちまった

          おい!お前の死因ゼッテー自殺だろ!!

          おい!絵描きの○○!お前の死因ゼッテー自殺だろ!! 遺族は死因濁してたけど、ゼッテー自殺しただろお前!! 俺はな!他人の絵にはほとんど感動しないけど、お前だけは「この絵描きすげぇな…」って畏怖してたんだよ!! 天才過ぎて逆に苦しかったのは分かるけども!!自殺せんでも良かったろ!!才能に比して過小評価気味ではあったけども、それでもしっかり必要十分の客観的評価も得てたろ!!!お前と比べたら俺なんかぜんっぜんだぞ!!!!からっきしだ!!!!!財布も口座もカラッポだ!!!!! 確

          おい!お前の死因ゼッテー自殺だろ!!

          謙譲語を多様する人間は信用できない

          謙譲語の多様は、僕は嫌いだ。 逆に、却ってその人の自己愛の強さや自意識過剰さがにじみ出ている。 平たく言えば、「どんだけ自己保身したいんだよ」「どんだけ自分が可愛いんだよ」「どんだけ自分が偉いと思ってるんだよ」「どんだけ自分が注目されてると思ってるんだよ」っていう。 「そんな必死にへりくだらなくても、お前はそもそも大した人間じゃないから大丈夫だよ」「そんな必死に謙譲語使って謙虚アピールしなくても、お前が偉い人間じゃない事は皆知ってるよ」っていう。 美大時代のちょっと自己

          謙譲語を多様する人間は信用できない

          その保険かけまくった文体をやめなさい!

          以前から度々思ってたんだけど、いつ頃からか、「馬鹿みたいに保険をかけまくった文体」が増えたなって思う。 とにかく嫌われないように、嫌われないように、読者の存在にビクビクビクビクおどおどキョロキョロキョロキョロして、何重にも文章に保険を掛ける。 だから何言いたいのか分からない。 「何かを言いたい」よりも「僕を嫌わないで」という幼稚で肥大し切った自己愛だけが滲み出ている。 個人のブログとかはまだしも、ライターが書いたネット記事や書籍にもこういう文体が散見されるから、ウンザリ

          その保険かけまくった文体をやめなさい!