同じ月をみた日 #0

友人であり、現代美術家の渡辺篤さんが新たに立ち上げた「同じ月をみた日」というプロジェクトに参加している。

同じ月をみた日とは
孤立感を感じる全ての人を対象とし、「月の観察/ 撮影」をきっかけとする遠隔交流や、困窮する不可視の他者へのまなざしや想像力を誘発する、「コロナ禍」及び「アフターコロナ」に対するアートプロジェクト。 
(同じ月をみた日 https://www.atsushi-watanabe.jp/onaji-tsuki/ より引用)

最初に渡辺さんのTwitterでこの企画の募集を見た時、単純に面白そうだと思った。元々、渡辺さん自身がとても面白い人なので、こういう面白い企画を思いつくことにも納得した。

新型コロナウイルス感染症の影響で、世界的に人々の暮らしは一変した。それは私も同じで、当たり前のことが当たり前でなくなったことは多い。と。同時に、私は5月から初めての一人暮らしを始めた。このコロナ禍に。

昨年、前の職場をを辞めて、一月に30人近くの友人に毎日会っていた私は、気軽に会いたい人に会えないことに嘆いている。リモート飲み会も何度もやったけれど、やはり埋まらないものは埋まらない。リモート飲みが自分に合わない点は、時間制限がないところと、相手のペースを見て飲めないので、どうしても飲むペースが上がってしまうところと、終わった後の虚しさがすごいところだ。私はできればやっぱり、同じ空間で同じ空気を吸いたいと思う。私にとって、今の状況下では、人とのコミュニケーションが非常に取りづらい。言いたいことが、うまく言えない、そんな感じがする。

プロジェクトに参加した理由は、渡辺さんの企画だったという部分も大きいけれど、それだけではない。私自身はひきこもりを経験したことがないけれど、それでも、過去、そして現在において、意味合いこそ違ど、何かしらの理由で「孤立」を感じてきた。過去には「どうして自分だけがアルビノなのか」と自分自身を責め立てたし、今は人と上部のコミュニケーションしか取れていないような気がして、結果的に誰かと深いつながりができていない感覚で、LINEをしたりオンライン飲み会をしても、結局お互いの寂しさの埋め合わせに感じてしまってならない。だから、やりとりが終わった後に虚しくなっちゃうんだろうな。

それと、渡辺さんはプロジェクトの紹介文に次のように書いてあった。

「月」は古来、ここに居ない人を想う媒介として見つめられていました。あなたが今見ている月は同じ時間に別の誰かが見ています。
また、「コロナ」の語源は、太陽の周縁の一部を指します。私たちは普段、太陽の光を受けることで月を見ることができています。

ファーーーーーーーーーーー!!!!!!!!

なんとロマンチックなんだ。正直、この文章に落とされたと言っても過言ではない。私は人と何かを分つことを大事にしたいのかもしれない。

それに、女性である自分にとって、生理は月の周期と大体同じだし、満月の夜は出産が多いとも聞く。子どもの頃はセーラームーンや満月をさがしてなど、月をテーマとした漫画やアニメを観て育った。特に、アルビノの自分は日焼けをしやすいことから、紫外線が大敵で、つまりは、その紫外線を放つ太陽が大敵なのだ。一方で、夜は私の味方になってくれる。その夜にあるのは星や月だ。だから、月は私にとってすごく身近で居心地の良い存在なのだ。

今日は、ずっとずっと引き合わせたかった人たちとオンライン飲み会をする予定だったが、諸事情でリスケになった。同じ区に住む友人が、食糧を分けてくれるはずだったが、仕事が伸びて来れなくなった。こう、2件も振られると正直寂しい気持ちになったが、その寂しさを人で埋めてはいけないような気がした。ご飯を食べ、本を読み、そういえば、届いたまま放置していた月を観察するための単眼鏡に手を伸ばした。

スマホに装着するための単眼鏡で、話に聞いていた通り、確かに装着が難しい。撮影以前に、触り慣れるところから始めなければいけなそうだ。

ベランダから夜空を見上げてみたけれど、月は見当たらない。そういえば、満月の夜から一度も月を見ていない。

方角がいけないのかと思い、眠気覚ましに外を歩いてみることにした。単眼鏡を装着したスマホは、一見、バズーカや拡声器でも持っているかのような、そんな雰囲気があった。

大通りに出てみたものの、月は見当たらない。曇っているのか?よくわからない夜空だ。

このまま帰るのもアレなので、近くのコンビニに寄ることにした。店の前には、何人かの若者がうんこ座りしながら屯していて、自分の住んでいる地域は割と都市部だと思っていたけれど、コンビニで屯する若者がいることに少し驚いた。それに、全員がうんこ座りなところも不思議だった。私だったら、地面にお尻をつけて座っちゃうと思う。私的には、うんこ座りという名前を口にしたくないほど恥ずかしいので、その恥ずかしい名称の体勢を取りたくはない。それに、アスファルトにお尻をつけて座って、お尻が汚れた経験は滅多にない。

そんな彼らを「ダサいなあ……」と横目で見つつ、どこか羨ましくもある。

彼らの行動は、「密集」「密接」で、決して褒められる行動ではないだろう。しかし、人に会いたいと思う私からすれば、その行動はうらやましく見える。彼らが私がしたいようなコミュニケーションを取り合っているかは知らないけれど、私がしたいのは、対面による対話なんだ。人とうまくコミュニケーションが取れなくなった今、無性に誰かを傷つけたいし、誰かに傷つけられたいとも思う。それは、悪意による傷ではなくて、人と人とが向き合ったときにできる傷。

お互い傷つけ合うことによって、関係性を深めることは、対面でだって難しいのに、リモートの場合はもっと難しいだろう。もしくは、今まで以上に簡単に気軽に、傷つける自覚がないままに傷つけてしまう可能性だってあると思う。それはそれで恐ろしい。

これからどう人と関わっていくか、今はまだきっと手探りの状況。だけど、やっぱり人に会いたい。

同じ月を見て、「私はああ思った」とか「こう思った」とか、そういう話がしたい。

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