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大径管工場の建設

 この文章は、以前13回に分けてアップしたものですが、今回、創作大賞の募集に合わせて手を入れて再度アップします。


1.初めに

 1969年に22歳で大学の機械工学科を卒業して大手鉄鋼会社に入社した。製鉄所の設備部門に配属されて6年後、突然シームレスパイプ工場新設の担当を命じられた。所内にはパイプの設備部門に従事する経験豊富な先輩がいる中で、何故、全く建設経験のない自分が指名されたのか、不思議だったが、後々の情報では、所の設備部門を掌握する幹部が従来のパイプ部門の設備技術者に対する不信感があったようだ。

 当時は第一次オイルショックの真っただ中、世界中で争って油井(油の井戸)の掘削をしており、空前の油井管ブームだった。大手鉄鋼各社の利益の大半は油井菅、即ちシームレス鋼管によるもので、競ってシームレスパイプの製造設備を強化し、生産を拡大していた。

  なにはともあれサラリーマンとしては指名されたからには、何とかしなければならないし、当時は自分の技術力にうぬぼれもあった。過大な業務を背負い込み、最後は心身の極限状態だったが、兎も角完成し、30歳の冬、新設備の操業にこぎつけた。完成した大径管工場は私の最初の作品、それも会心作だった。

  苦労はしたが、普通の3年間では得られるはずのない経験を積み、技術力、マネージメント力を飛躍的に伸ばすことが出来た。

  以降、順を追って顛末を書いてみる。なお、文中の名前は全て仮名です。


  2.構想案作成

  素案作成チームは、工場操業部門から山上課長、設備部門が1年先輩の渡部氏と私(入社6年目)の合計3人。

  山上課長は中肉中背、名門国立大卒の40歳、シームレス操業部門の(自称)エース、我々に対して俺は君たちとは違うぞ、とのプライドが高い。(幸いなことに)普段どこかの誰かと話しをしているのか、殆ど席にいない。先輩の渡部氏は某工大卒29歳、会社の役員の息子さんで縁故入社、長身のスポーツマンで性格は明るい。私は某大学機械科卒、28歳、長身、スリム、この3人で構想案を三カ月程で作成することになった。

  目的は、現在稼働している製品外径13インチのシームレスパイプ製造のプラグミル圧延ラインを、設備更新して製品外形を16インチに拡大し、かつ省力化して効率を上げ、生産量を増やす。現在の設備を稼働しつつ、新たな設備を建設して最短の休止日数で置き変えて後工程につなげる。この条件を満たす工場レイアウトの素案を私が作成した。山上課長は設備の事は全くの素人、渡部先輩は専門分野が違うと、タッチしない。こんなことでいいのかとの戸惑いもあったが、他に誰もいないのだから仕方がない。

  私の構想は、最初に新しい加熱炉を建設、稼働させて現設備につなげて稼動を継続させ、旧加熱炉を撤去してスペースを確保して新16インチミルの主要部分を建設、あるタイミングで、旧ミルを休止、撤去し、新ミルに置き変える。当然ながら、計画の概要を上司や関係者に説明するのは、上司の山上課長の役割だ。意気揚々と説明して回ったようだ。

  この構想は如何にも理にかなっているようで、関係者の評判はいいのだが、限られたスペースに新設備を収め、最後に短期間(山上課長は2週間と言う)で切り替えるのは至難の業、もろもろの工夫を重ねて、ウルトラCを連発してなんとかせねばならない。しかしながら、他に適当な案はないし、上層部が計画実施の困難さを理解するわけではなく、我々が出来ると言えばそのまま決まる。私が考えた構想案で進めると大筋で決まり、改めて詳細に詰めて正式に予算化すべく、費用と工期工程の案を策定することになった。


 3.工期と予算の決定

  大雑把なレイアウトが決まり、次は工事項目をまとめ、工期と予算の詳細を作成する。詳細の作成も私が1人で担当した。山上課長は、ちょくちょく口を出すので、相手をするのが面倒だが、それも仕事だからやむを得ない。私の検討が進むにつれ計画の精度が上がるが、彼はその都度関係者に報告、説明していわゆる根回しをする。はからずしも役割が分担されて、効率がいい。

  最初に、新設備の主要圧延機の骨格を決める。新設する圧延機は基本的に現設備のサイズアップだから、現有設備の消費電力や圧延反力等の各種データを採取して、塑性加工解析を行い、サイズアップした新設備の骨格と主電動機の容量などを決める。本来、この検討は操業サイドの技術チームが対応すべきであろうが、彼等に塑性加工解析の素養はないから無理なのだ。だから、私が出した主圧延機のスペックには誰も口をだせず、そのまま決まる。多少の不安はあったが、そんなことはおくびにも出さず自信満々のふりをして押し通した。

  並行して主たる圧延設備一式の予算の目安はどの程度か確認するために、日本の重工業3社に参考見積をお願いした。当時国内鉄鋼3社が当社と同様にシームレスパイプ設備の増強に走っており、重工メーカー3社がそれぞれどの鉄鋼会社に対応するか、(暗黙の)話し合いがされていたようで、当社にはⅠ社が組み合わされていたらしい。私の作成した仕様書にのっとって、Ⅰ社と打合せが進んだ。

  設備の骨子を決めて全体スケジュールを作成し、電気、計装、土木、建築の各チームにデータを提供して工事工程と予算の作成を依頼、同時に機械の予算を算出して全体を纏める。私にとってすべてが初体験、見落としていることも多々あるだろうと、全体の予算はたっぷり水増しして300億円とした。諸々の不測事態への対応には、金で何とかなることが多い。工期は2.5年として正式な稟議書を作成した。

 
 4.建設チームの立ち上げ

  予算300億円、工期2.5年で正式に稟議が通り、改めて専任の建設チームが結成された。当初のメンバーは以下の通り。

 ・リーダー、山上課長、40歳シームレスの操業技術陣の(自称)エース
・副リーダー、稲山係長、33歳パイプ設備建設部門の中心的な経験者、
・機械チーム、
  秋山、私のこと、28歳パイプ部門の設備建設は初めて、些か軽率(?)
  西山、私と同年、鉄鋼短大出身、設備建設部門の信任が厚い実力者
・電気2名、土木1名、建築1名がそれぞれの部署で専任となった。

 山上課長は部下(特に私)に対して、何事によらず自分の方が上だとの意識が強く、相手がしにくかった。工事の進行に伴い何かのトラブルがあれば私の失敗で、上手く行けば自分の手腕だと、上司に報告していると、別ルートから何回か聞いたが、サラリーマンにはよくある事だし、それでは逆に彼の評価を下げるだけだろうと、気にしなかった。

  稲山係長は国立T大卒のエリート、中肉中背、容貌はお坊ちゃんだが、大学時代、学費を払えず、幼稚園の運転手をして学費を稼いでいたので、卒業まで5年要したとの苦労人らしい。酒が強く、たまに飲み過ぎて翌日は何も覚えていないことがあるが、普段の頭の回転は速い。私の仕事には、まったく口を出さず、確認もチェックもせずに任せて(放任して)いた。腹が座っているとも言える。

  西山氏は高卒で入社し、狭き門を選抜されて鉄鋼短大に留学した、ある意味で鉄鋼会社のエリート。私と同年だが、パイプ設備の建設部門が長く、周りからの信頼を得ている。溶接管設備の新設(20億円程度)を、2年上の修士卒の技術者と組んで担当したが、実際は彼が殆ど仕切って完成させたと言われており、今回は私と組んで主要設備の一部、油圧設備を担当した。当初は私の経験不足に不信感があったようだが、計画が進むにつれて、お互いの実力を認め、人となりを理解して、いい組み合わせだった、と思う。

 
 5.主要設備のメーカー決定

  先ずは圧延設備のメーカーを決めねばならない。発注仕様書を作成して重工3社に提示して競札した。上司の山上課長は競札前から、Ⅰ社の営業マンのT氏と旧知の間柄の如く振舞っており、怪しげだが、ともかく主要圧延設備のメーカーはⅠ社に決まった。発注価格はおおよそ70億円と記憶している。

  ただし、正式な発注先はアメリカのE社で、Ⅰ社は形式的にはE社の下請けだ。E社が作成した圧延機本体の構想図を基にⅠ社が詳細を設計して製作する。他の重工2社もそれぞれ海外メーカーと提携している。私は、Ⅿ社が提携しているドイツメーカーの基本構想に惹かれてはいたが、向こうが真剣に相手をしてくれなかった。

  主圧延設備の発注に続いて後工程の冷却設備、矯正機、検査設備などの基本構想を作成して競札し、各メーカーを決めた。ここまでは全て私が担当したが、その後、チームが増員され、私はⅠ社が受注した主圧延設備とその付帯設備に専念することになった。

  電機メーカーはT社に決まった。こちらも重電メーカー3社の話し合いの結果だったと思う。土木、建築なども受注会社が決まり、それぞれ設計打ち合わせがスタートした。

 
 6.設計打ち合わせ

  Ⅰ社からの提案で、最初の構想設計の打ち合わせと称して、当社の数人がアメリカのE社に出張することになった。Ⅰ社の営業と設計の課長が随行する。わが社のメンバーは山上課長、稲山係長、工場操業部門から上田部長と沼山係長の4人で、私は員数外、数のうちに入っていないらしい。操業技術の沼山係長は名門国立K大卒、私より4年先輩だから稲山係長と同期、英語が堪能でいわゆるバイリンガル、シームレスパイプの操業技術部門では、文句なしに誰もがエースと認めている(らしい)。

 10日程度でメンバーが帰国したが、E社との打合せに関しての説明は何もない。不思議に思っていたが、後から知った話では、アメリカ到着初日の歓迎会で、稲山係長が飲み過ぎたらしく、その晩、ホテルのバスルームで転倒し、目の上を数針縫う結構な怪我をしたらしい。帰国当初は眼鏡のフチで隠していたが、よく見ると確かにまだかなり腫れている。結局まともな設備打ち合わせはされなかったらしい。

 ともかく時間を無駄には出来ず、余計なことは考えずに設計打ち合わせを進めた。Ⅰ社からは数日おきに承認図が多量に届けられる。図面を丁寧に見て全てを理解し、こちらの要望を書き込んで私の日付印を押して返送する。私の要望は細部に及び、例えば、ある部分の溶接構造を鋳造構造に変える、重要なガイドの軸径を150ミリから220ミリにアップする、厳しい環境にさらされる軸の材質を指定するなど、こまごまと承認図に手書きした。この段階で決まる設備の詳細が、稼働後の生産効率、メンテナンス性、設備の寿命を左右するので、細心の注意を払いつつ対応したが、何しろ初めての経験、不安の入り混じる日々だった。

 そのうち、Ⅰ社の設計責任者、木山課長が、私がⅠ社の横浜工場に出向き、各設備の設計担当者と直接打ち合わせをしてもらえないかと申し出があり、私が出向くことになった。連日のようにⅠ社で朝から晩まで設計打ち合わせをする。各設備の設計担当者が入れ替わり立ち代わり出てくるから、その場でこうしてくれ、ああしてくれと即決する。Ⅰ社の各設計者も辛抱強く応じてくれて、打ち合わせを重ねるうちに私の基本的な考え方を理解してくれるようになった。

 

 7.設計打ち合わせ、その2

  設計段階ではプラグミルのプラグ自動交換装置が重要なポイントの一つだった。現有設備のプラグ交換は人が機側に張り付いて人力で頑張っている。直ぐ脇を1200度の真っ赤に加熱されたパイプが通過し、潤滑剤の黒煙が舞うなか、重さ10キロ程度のプラグを圧延一本(10数秒)毎に引っ張り上げて所定の位置にセットする。これぞまさに、高熱重筋労働の極致、世界中のプラグミル共通の課題だが、新設備ではなんとしても自動化せねばならない。

 E社の基本構想をもとに、Ⅰ社設計陣と議論を重ねたが、私がプラグの動きに確信が持てず、納得できなかったので、Ⅰ社はE社に私の疑問をそのままぶつけた。数日後にE社のポスゲイ氏が、プラグの挙動を詳細に解析した手書きの計算式をⅠ社に送ってきて、秋山(私)にこれを提示してくれとのこと。微分方程式を駆使した解析は難解だったが、なんとか理解し、E社の構想に納得した。ポスゲイ氏は私よりずっと年配だが、E社の頭脳であり、なんとなく分かりあえる同士のような気がした。

 新設備の建設用地では、最初に土木工事が始まる。Ⅰ社が設備の基礎資料を作成して、土木工事担当のB社に提示する。それを元に基礎の骨格を決めて現場の掘削が始まる。Ⅰ社の資料は何度か提示され、徐々に完成度が上がる。全体の基礎構造は複雑怪奇、主圧延機の下は大きな基礎だが、その部分以外は巨大な地下室となり、主として油圧の発生装置、バルブスタンドが設置される。そこからそれこそ無数の油圧配管がトンネルを通って地上に伸びて、各設備のシリンダーに接続される。

  そうするうちにⅠ社で圧延設備の製作が進み、横浜工場で圧延機毎に仮組が始まった。その都度立ち合いをして動きや仕上がりを確認した。自分の考えで設計された設備が、頭に描いていたイメージ通りに巨大な圧延機として出来上がっていくのは、改めて胸に去来するものがあったが、そんな素振りは見せずに仕上がりを確認し、気になることを、なんだかんだと口にした。

 
8.資料の作成

  設計打ち合わせが一段落し、圧延設備の概要が決まったところで、諸々の資料を作成した。それを元に電気チームその他の会社が関連設備を製作する。

  先ず、全の設備の動きを示す運転方案を作成した。機械は人間でいえば体・手足で、それを動かす頭脳がシーケンスだ。私の作成する運転法案を基に電機メーカーがコントローラーの中身、頭脳を組みたてる。設備は各種電動機と油圧装置が各種センサーの情報で自動的に動き、シームレスパイプを連続的に製造する。設備の構成、特徴を全て完全に理解し、かつ操業のポイントも熟知しなければ運転方案は書けない。

  ともかく、運転方案を作成しなければ先に進まないから、作り始めたが、動かす設備点数が云百とあり、作業量は膨大、出来た資料は紙の枚数で500枚くらいになったと記憶している。それを元に実際に操業する現場の運転マン、保全マンに圧延機毎に詳しく説明する。その都度、操業マンから様々な意見と要望が出て、資料を細かく変更する。この繰り返しで完成度が上がり、いいタイミングで、電気チームを経由して、T電気に渡された。

  同時期に、安全設備と称して、操業マン、保全マン用の作業通路を計画する。稼動時の操業マンのやるべきことを把握し、効率よく動けるように、又保全マンの点検作業や、修理時の工事業者の動きなども考慮して、作業通路、機側の作業床、点検用の通路等を計画し、概略図を作成して、製作する業者に渡す。同時に各圧延機の運転室の構想を決める。運転者が設備の動きや熱間の半製品を充分に確認できるよう、視野図を書いて、細かい位置や高さを決めて建築担当に渡した。

 各資料を作成し、改めて設備と操業の理解度が進み、苦労はしたが、私自身の収穫も大きかった。膨大な作業量だったが、(初体験だったこともあり)それなりに面白く、如何にもベテランで何度も経験しているが如く(一見)淡々と進め、必要な期限内に関連部署に提示した。

  その頃、建設予定地のすぐ近くに仮設事務所をつくり、山上課長以下のチーム全員がそちらに引っ越した。隅には簡易キッチンがあり、奥の和室には布団も用意され、泊まり込んで生活出来るようになっている。現地工事に備えての臨戦態勢だが、不吉な予感がしていい気分ではない。

 

  9.据え付け工事

  基礎工事がほぼ終了し、設備の据え付け工事が始まった。スケジュールに従って設備が搬入され、順次据え付けが進む。Ⅰ社は工事部門と設計部門が駐在する仮設事務所を建て、こちらも臨戦態勢だ。実際に据え付けてみると、設備同士が干渉するなど諸々の不具合があるので設計担当も常駐する。

  据え付け工事をするのはⅠ社だけではなく、諸々の設備工事や、電気、建築などの工事も同時進行で進む。作業スペースが限られているし、据え付けに使う工場の天井クレーンは2台だけだから、使用時間の調整も必要になる。連日16時にⅠ社の事務所に集まってもらい、私が司会して翌日の工事調整を行う。各社から作業内容、作業スペース、クレーンの使用希望を聞いて、作業が錯綜するようなら、足して2で割るような感じで調整する。各人とも忙しいから、手際よく10~20分程度で打ち合わせを終える。

  私は他部門に提示する各種資料の仕上げにも追われ、事務所と現場を往復して些か疲れていたが、外向けにはまだまだ余裕があるが如く振舞っていた。見かけは大事なのである。夕食はⅠ社に頼んでお弁当を用意してもらい、Ⅰ社の現場事務所で食べた。通勤時間がもったいないので、連日仮設事務所の布団部屋に泊まることになり、誰かの罠に嵌ったらしい。

 

  10.試運転調整

  据え付け工事に続いて配管、配線工事もほぼ完了し、1977年の年初から各設備の試運転調整がスタートした。主圧延設備はT社がシーケンスを組み、各設備の動きを確認して私の運転方案通りに自動で動くように仕上げる。

  T社のシーケンス調整チームが3カ所で同時に作業を始める。調整は電気だけで行えるものではなく、機械側が各チームに対応する必要がある。逐一説明し、動作限界の寸法を現場で指示し、リミットスイッチの位置を調整するなど、やるべきことはいくらでもある。ところが、機械担当は私1人、3か所を回りながら口をだしていたが、T社チームの待ち時間が増えるばかり。毎日夜一段落した時に調整チームからの進捗報告を聞く反省会をするのだが、T社調整チームを統括する責任者に、秋山さん(私のこと)があと3人いないとどうにもなりませんと開き直られた。

  設備の調整中でも、細かいトラブルが限りなく発生し、全てに対応しなければならないから、更に調整が進まない。どうにもならないので、機械保全に頼んで、現場の保全マン3名を借りて対応することになった。直ぐに3人が選ばれて私が概略を説明して調整に参加してもらった。3人は驚くほど優秀で機械設備はもとより私の作成した運転法案も理解して、仕事をすすめてくれた。T社のチーフも、漸く軌道にのりましたねとほっとしたようだ。保全マンの3人にとっては初めての体験だし、判断の難しい局面もあるので、私は連日、3チームの全てがその日の計画を終える夜中の1時、2時まで現場にいた。ともかく余裕がなく・・・・知力、体力を振り絞って頑張った。

  この時期は、知力、体力を酷使し、殆ど限界だった。家に帰らないから一月ほど風呂に入らず、多分、変な匂いを発していただろうが、それでも垢にまみれて死ぬことはないのだと公言していた。季節が真冬なのが幸いだった。外向けには普通にふるまっていたつもりだが、私がずっと泊り込んでいることが所内上層部にも知られることになり、山上課長の上司、つまり私の3段階上の上司にあたる小山室長が何度か現場に現れて声をかけてくれた。

 
 11.ホットラン

  各設備が出来上がり、試運転調整も最終段階まで来たので、実際の材料を使って熱間での試運転をすることになった。

  既設の圧延ラインを一時止めて、加熱炉から出た1200度の鋼片をクレーンで新圧延ラインのピアサの前面に運び、各圧延機(ピアサ・エロンゲータ・プラグミル)で順次圧延する。全て自動運転とし、設備の基本的な性能、自動シーケンスの完成度を確認する。この確認で完成度をブラッシュアップし、最後に旧設備を休止して新設備を稼働させる。

  新設備で初めての圧延をするとのことで、世間(製鉄所内)の注目度が高く、普段あまり見かけない上層部の何人かが見学に来た。結果は大成功、4本の熱間鋼片はあっと言う間に圧延機を経由して、立派なシームレスパイプになった。

  私は作業通路の上ではらはらしながら見ていたが、真っ赤に加熱された鋼片が思い描いた通りに次々とパイプに変わるのを見て、思わず涙ぐんでしまった。誰も見ていないだろうと油断していたが、あとで誰かにあの(いつも冷静な)秋山さんが泣いていたと言われて、しまったと反省したものだった。

  ホットランが成功裏に終わった直後、いつもの通り試運転調整の打ち合わせを行ったが、所の設備部門トップの奥山部長が顔を見せ、ホットラン成功のお祝い会の様相を呈した。珍しく稲山係長も参加し、突然、今日は俺がやるからと、いつも私がやっていた打ち合わせの司会を自分がやっているかの如く始めた。普段参加している他の人も何が起こったのかと、驚いたようだが、無難に打ち合わせが終わり、流石に頭の切れる稲山係長だった。

  後日奥山部長が、私に、やはりいざという時に頼りになるのはイナちゃん(稲山係長のこと)だなと、真面目に言ったのには、何とも返事のしようがなかった。今は、奥山部長も、山上課長も、稲山係長も、とっくに亡くなっているからこういった文が書けるわけで、長生きするといいこともあるのだ。

 

  12.新設備稼働

  新設備のホットランが成功し、更に諸々の準備を終えて、計画通りに現設備を休止して2週間程の工事で新設備に切り替えた。休止期間は2週間、事前に様々な工夫をして機械と電気の工事を行い、配管、配線、試運転調整を終えて、新ラインでの生産を開始、晴れて新大径管工場が稼働開始した。

  当然のことながら、立ち上がり時はトラブルの連続だった。細かいトラブルは保全マンが対処してくれるが、大きなトラブルには建設チーム(つまり私)が主体になり、場合によってはⅠ社などメーカーの協力も仰いで対応した。

  稼動して2週間程経過したころ、チーム長の山上課長が、熱海一泊の懇親旅行を発案し、全員で行くことになった。会費は5千円と格安、山上課長がⅠ社と交渉した・・・・らしい。ところが、旅行前日の夜、工場の機械保全の責任者から私に電話があり、プラグミルのロールの昇降装置が動かずに、すでに10時間程ラインが止まっている、ついては今から出社して対応して欲しい、とのこと。

  それは大変だと直ちに車を運転して出社した。現場に行くと昇降装置が取り外されていて、分解整備中だった。一度同じことをしたが、動かないので、再度整備しているとのこと。そんなことを繰り返しても解決するとは思えず、直ぐに組み立てて本体に組み入るよう依頼し、並行して電機保全にシーケンス変更を依頼した。油圧シリンダーの動きを変更して機械抵抗を減らせば楽に動くはずだ。

  機械の組み立てを待つ間にシーケンス変更を終えて、組み入れて試運転すると順調に動く。それに応じて私自身が油圧回路を調整して、無事に稼働を再開したのは翌日の昼過ぎだった。土曜日だったが、設備工事全体の責任者、小山室長が朝から会社に来て、現場で私が油圧調整しているのをじっと見ていた。

  話しは少々脱線するが・・・・稼動再開を確認して夕方帰宅した。朝から何も食べていないが、その日は我チームの熱海懇親旅行の日、山上課長以下全員が熱海に行っているはずだ。夜は豪華食事と美酒が待っているから、行かねばならないと直ぐに車を運転して出かけた。後から思えば前夜寝ていないから危険極まりない。当然行くべきではないのだが、豪華食事と美酒が頭から離れない。

  道が混んで時間がかかり、宿に着いた時は夜の8時過ぎ、勇んで宴会の場に行くと、とっくに宴会は終わり、誰もおらず、食べるものは何もない。全員で2次会場に行き、女性を交えてバカ騒ぎしている。時間が時間であり冷静に考えれば当たり前だ。私が来るとは誰も思ってもいなかったし、期待もしていなかったようだ。寝室に行くと夜食用のおにぎりが置いてあったので2,3個食べた。誰も悪くはないが、何故か悔しくて涙が浮かんできた。

 

  13.最後に、

  2.5年と総額300億円をかけた新大径管工場が稼働して3カ月ほど経過し、操業が安定したとのことで、建設チームは解散した。稼動は順調で、その年末には月間生産量6万トンを超えて世界新記録達成だと工場長が威張っていた。

  大径管建設時の上司、稲山係長は、40歳代である日突然倒れてあっけなく亡くなった。酒の飲みすぎとのこと。山上課長は50歳過ぎに出向し、直後に癌を発病して亡くなった。お二人に限らず、今は当時の関係者で私より年上の方は殆ど故人になられている。だから私としても個人情報云々を気にせずにこういった文を書けるわけだ。

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