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私が大切にしている10のこと

  この文も以前に10回の連載でアップしていますが、note応募用に若干修正し一回にまとめてアップします。

 文芸春秋の新年特大号に、特集「私が大切にしている10のこと」と称して、各界の18人が自分の大切にしていることを紹介している。各人の経歴、経験、思想、性格などから出て来た多彩な話が述べられ、成程そうだろうなと思うことも多いが、中には、自分には思いつかないことも多々ある。
 
 自分も真似て、「私が大切にしている10のこと」をあげてみた。
 
①    全ての人と横の関係
②    妻には決して逆らわない
③    息子達に必要な援助はおしまないが、口はださない
④    二人で暮らせる限り人形町に住む
⑤    驕らず、転ばず、風邪ひかず
⑥    自分の病気のことはネットで徹底的に調べる
⑦    毎日リハビリ運動とリハビリ散歩をかかさない
⑧    いつも上機嫌なふりをする
⑨    日記を書く
⑩    本を読み、1行コメントを書く
 
 以下、順を追って述べてみる。
 
 
 ①    全ての人と横の関係
 
 大学を卒業して就職した時、会社は縦社会だと普通に思っていた。しかし勤務してみると、先輩が技術的に優れているとは限らず、訳の分からない上司が多く、理不尽に扱われることも経験して、疑問に思う日々だった。上司に諸々の疑問を呈すると煙たがられ、生意気な新入社員だと思われたに違いない。今思えば自分でも自負心の強い嫌な性格だったと思う。
 
 30歳を過ぎて、中間管理職になったころは、部下に嫌われたくないから、議論、相談などする・・・・ふりはしつつも、最後は全て自分が決めていた。自分の技術力を過信していた。
 
 40代後半から50過ぎまでは、左遷と抜擢を繰り返して経験した。突き詰めれば、社内の経営主導権、人脈争いの駒だったのだろうが、その過程を経て少しずつ大人になったような気がする。
 
 53歳で新潟の子会社に出向になったが、牛後より鶏頭だと、真面目に社員と共に頑張った。その頃には社長も社員も全員が、苦楽を共にする同士だと思うようになっていた。生意気この上ない新入社員から年月とともに随分変わったものだ。以降21年間、3社のトップを務め、会社にとって最も大切なのは言うまでもなく社員だと思って(少なくとも思っているふりをして)経営してきた。
 
 10年程前に、アドラー、ラカンなど(の入門書)を読み、改めて、そういうことかと自分なりに納得した。昨今、家庭内では、妻とも息子達とも対等な横の関係と思う事にしており、若いころの行状を密かに反省しているが、勿論決して口には出さない。
 
 
 ②    妻には決して逆らわない、

 妻とは、学生時代の20歳で知り合い、25歳で結婚、2人の男の子に恵まれた。2人は多少の事は別として、総じて順調に育ち、大学を卒業、就職して家出して一件落着。我々は53歳で新婚生活に戻った。その後、転勤、再就職などで新潟、東京、埼玉、姫路を、21年間渡り歩き、今は共に77歳、東京の日本橋人形町でひっそり(?)と暮らしている。

 妻は元々体が丈夫ではなかったが、特に新潟時代、体調が悪く、シェーグレン症候群と診断された。好きだったチェーンダンスも止め、友人とのお付き合いもなく、家事に専念して半引き籠り状態を今も続けている。だから土日に一緒にお出かけに励むことになる。ゆったりした工程を組んで北海道から沖縄まで全国を旅行して、心置きなく楽しんだ。
 
 お金の感覚は皆無で、私名義も自分名義も財産、預貯金の額なども分かっていないが、普段の生活は質素でブランドものや、身につける宝石類などには全く興味がない。テレビショッピングは大好きで少し買い過ぎるが、まあかわいいものだ。
 
 この2,3年、私の体調不良が常態化し、二人の攻守は完全に逆転、24時間私を見張り、通院、リハビリ散歩には常に付き添い、昨今は常勤の監視人だ。スマホで色々調べ、骨粗鬆症にはビタミンD、目にはルテイン、癌にはニンニクがいいとか、サプリメントを検索して購入し、私に強制的に服用させる。勿論自分も色々服用しており、言ってみればサプリの女なのだ。
 
 以前から妻が言うことには、基本的に逆らっていないが、昨今は絶対に逆らわないのである。
 
 
 ③    息子達に必要な援助はおしまないが、口はださない、
 
 当家の息子2人は就職して家出し、その数年後のある日、我家に女性を連れて来て、この人と結婚しますとのこと。その辺は2人とも全く同じだ。
 
 今、長男は50歳、女の子が3人、溝の口のタワーマンションの26階に住んでいる。次男は46歳、女の子1人、世田谷の低層マンションに住んでいる。4人の孫は全て女の子、西多摩にある当家代々の墓の行く末を心配しないでもないが、その時私はこの世にいない、息子達が何か考えるだろう。
 
 息子2人とも、企業に勤めるごく普通のサラリーマン、その他大勢の範疇だ。会社内では色々あるはずだが、外からはうかがい知れず、真面目に淡々と勤務しているように見える(見せている)。家庭内でも妻子を大切にして穏やかに生活しているようで、我々が心配することはない・・・・ようにみえる。
 
 10年程前、2人が相前後して東京に転勤した時、マンションの購入をバックアップし、昨今は孫の教育費を援助しているが、奢ることなく贅沢せず、慎ましく生活しているようにみえる。私から見れば、まだまだなのだが、自分のその頃を振り返ると、そんなものかとも思い、文句を言うほどでもない。おまけに世間一般から見れば立派に一人前であることは間違いなさそうだ。
 
 だから、私も監視人殿も、諸々の細かいことには一切口を出さないことにしている。孫たちにはクリスマスも正月も何もあげないから、ケチなジージ&バーバなのである。
 
 
 ④    二人で暮らせる限り人形町に住む
 
 61歳で、東京の上場企業のトップに就任したので、新潟から横浜の自宅に戻って、人形町の本社に通勤し始めた。しかし、通勤時間は往復で3時間、朝早く家を出てラッシュの中を出社し、夜遅くに帰宅する、これはとても無理だと、取りあえず、人形町の会社近く(徒歩5分)に狭い仮住まい用のマンションを借りた。1年程の第一次人形町時代だった。
 
 1年後、会社の構造改革をすべく、本社機能を埼玉の工場に移したので、私も埼玉の大宮にマンションを借りて人形町から転居した。大宮も便利で住みやすいが、数年後のリタイアを考えて、横浜の家はそのままにして、人形町にも住まいを確保しようと、半年ほどマンションツアーを繰り返し、甘酒横丁から2筋入ったところに、気に入ったマンションが見つかって購入した。時間をかけてリフォームし、家具を購入して、半年後に人形町に住み始めた。第二次人形町時代だ。
 
 67歳で会社をリタイアすることになり、後は人形町に住み、晴ゴルフ雨読のつもりだったが、意外にも姫路の某社からぜひ来てほしいと経営者スカウトされ、応じることにした。今度は姫路の駅近くにマンションを借りて初の関西生活、仕事では色々あったが、土日の散策、小旅行などで楽しみ、あっという間に7年経過した。3年前、74歳で退任して晴れて無職になり、人形町の自宅に戻って、今、第3次人形町時代中だ。
 
 横浜、新潟、大宮、東京、姫路、どこも住めば都だが、中でも人形町は格別、一度住むと、よほどのことが無い限り、離れがたい。都心のオフィス街と旧い下町の味を併せ持ち、独特の風情がある。監視人殿は、普段着で外出してもその他大勢だから気にならないと言う。食べ物屋は、安さが売り物の大衆店から世に名の知られた高級店まで幅広く、いくらでもなんでもある。地下鉄が4路線、何処に行くにも便利この上ない。日本橋、銀座、築地、上野、浅草にはいずれも数分で行ける。
 
 住んでみると便利な事には驚くばかり。近隣にスーパーが数店、個人商店は何でもいくらでもある、クリニックは何科でも何軒もある、郵便局は2軒あり、中央区役所の出先機関もあり、全てが間に合う。水天宮、明治座が近く、休日には多くの人で賑わう。加えて、浜町の緑道、公園は絶好の散歩コースだ。今の我老夫婦の生活は、人形町に住んでいることが大前提、外では生きていけないのである。
 
 この先、二人で住める限りこの自宅にいるつもりだが、冷静に考えると先の事は分からない。世の夫婦の大部分は夫が先に逝くものであり、当家も例外ではなさそうだ。監視人殿が独りになったらどうするか・・・・考えておいて欲しいと言うが、私が考えても仕方がないのだ!
 
 
 ⑤    驕らず、転ばず、風邪ひかず
 
 新潟時代に年に一度、会社のOB会があり、先輩が70人程度出席して、いつも盛会だった。ある年、会長(80代半ば)が挨拶のなかで、我々老人は、「驕らず、転ばず、風邪ひかず」が3原則だと言う。時を経るに従い、特に近年は身に迫る言葉だ。
 
 53歳で新潟の会社に、61歳で東京の会社に、赴任した時、当初は両社とも業績が低迷し、先が見えない状況だったが、会社の構造を変えようとの私の方針を社員がよく理解して期待以上の力を発揮してくれた。時の運にも恵まれて、業績は急回復、両社とも業界で屈指の優良企業に変身した。その後を考えると、自信過剰だったかもしれない。
 
 67歳で姫路の会社に誘われて赴任したが、苦労の連続だった。自分の未経験分野の知識と経験を補うべく、ネットで調べ、勉強し、法令を読み、会社の方向性を考え、色々我慢して・・・・何とかなったとは思う。しかし、新潟・東京のような劇的な改善というわけにはいかず、なかなか思い通りには進まなかった。自己採点は70点くらいだろうか。「驕ってはだめだ」と実感した7年間だった。
 
 72歳ころから歩く時に不安定なのと、喋るときの舌のもつれを感じ始めた。姫路の病院で検査してもらったが、異常はなく、普通の老化だろうとのこと。違和感はあるものの特に不便は感じず、普通に過ごしていたが、3回転倒した。最初は右目の上を数鍼縫い、2度目は左肋骨を3カ所折り、3回目は左目の上を数鍼縫った。いずれも一言で言えば、ふらつきを軽く見ていた油断が原因、幸いいずれも治療して事なきを得たが、この後は分からない。
 
 リタイアして東京に戻ったので、都立神経病院に検査入院した結果、脊髄小脳変性症と診断された。ゆっくりとではあるが、確実にふらつきが進行する、基本的な治療方法はないが、リハビリの効果が期待できるとのこと。次に転倒すれば、大腿骨骨折かもしれないし、寝たきりになるかもしれない。兎も角用心するしかない。毎日のリハビリ散歩も慌てず騒がず、ゆっくり動くのが鉄則だ。
 
 2年程前からは、何かで体調を崩すと、一時的に歩けなくなるので、風邪もひくわけにいかない。スリムだから少々着込んでもそれなりの恰好は保てるから心置きなく厚着する。コロナワクチンは常に最初に接種したし、外出時、建物内では必ずマスクをしている。全てにおいて身も心も用心するしかない、先は長い(と思っている)のである。
 
 
 ⑥    自分の病気のことはネットで徹底的に調べる
 
 2年前の3月、体重軽減を心配して内視鏡検査を受け、食道癌が発覚した。えっ、自分が?と頭が真っ白にはなったが、幸いまだ食道の範疇に留まっており、転移はないとのこと。聖路加病院の医師は私の体調を鑑みて手術ではなく、放射線治療を勧める。
 
 胃がんや大腸がんの話はよく聞くが、食道癌は初耳、1週間程毎日ネットで検索して徹底的に調べた。食道癌はかなり厄介だ。手術するなら食道全体を切除し、胃の上部を引っ張り上げて喉に直結する。6,7時間に及ぶ大手術、体への負担が大きく、予後も心配。一方、放射線治療なら、食道はそのままだから体への負担は少ないが、反面、再発の可能性は手術より高い。
 
 放射線治療を受けるとしても、先進の陽子線治療がよさそうだ。患部に線量が集中出来るので、副作用が少なく、治療効果も高そうだ。陽子線治療は健康保険対象外だが、幸い、加入している医療保険に先進特約を付けているので、費用約300万円が補填される。千葉柏の国立癌研究センター東病院に設備があり、実績も多い。と言ったことは全て、ネットで調べた。
 
 4月末に陽子線治療を開始、最初の1週間は入院して抗がん剤投与された。ところが、退院した日から足が動かず歩けなくなり、舌も回らず、まともに喋れない。病院近くのホテルに逗留して2週間程、車椅子生活だった。ネットで調べて、抗がん剤の副作用ではないかと消化管内科医に言うが、そんなことはありえないと相手にされない。東病院に週に一度来ている脳神経内科医の診察を受け、抗がん剤の副作用だろうと言ってもらい、抗がん剤投与の2回目は中止となった。
 
 陽子線治療後、定期的に検査を受け、暫くは無事だったが、1年後に再発し、更に2月後に再再発した。放射線治療後の再発は通常は手術で撤去するのだが、出来れば手術は回避したい。医師は内視鏡によるレーザーを使った治療があるというので、又もネットで調べ、内科医が言っているPDT治療とはなにか、治療実績、更なる再発の確率なども理解した。結果、2度にわたりPDT治療を受けて、今は一息ついている。
 
 癌研東病院は癌の専門病院、私がかかわったのは、消化管内科、消化管外科、放射線科、内視鏡科などに細かく別れ、それぞれの専門分野に権威ある医師が連なっている。ところが、隣の分野のことは蚊帳の外、外科医は手術を勧め、放射線科医は陽子線治療で対応できると言い、内科医はそれぞれの話を聞いて自分で決めてくださいとのこと。
 
 結局、最後は自分の病気の事は自分で徹底的に調べるしかない。幸い昨今はネットで調べると殆どのことは分かる。医師はそれぞれの分野の専門家、私の体調等、全体を見て相談できる医師は専門病院にはいない・・・・らしい。それぞれの専門家同士がお互いの分野には踏み込みにくいのかもしれない。
 
 
 ⑦ 毎日リハビリ運動とリハビリ散歩をかかさない、
 
 74歳でリタイアして東京に戻り、あとは旅行三昧と目論んでいたが、人生はそんなに生やさしいものではなく、都立神経病院で脊髄小脳変性症と診断され、行動が制約されてしまった。小脳の変性による運動神経の劣化らしい。なんとかならないかと、ネットで調べて大手町の某鍼灸院に3カ月ほど通い、大枚をはたいたが、効果は皆無だった。
 
 それではと、再度ネットで調べると、脊髄小脳変性症にはリハビリが不可欠とのこと。そう言えば神経病院の医師もリハビリで驚くほど効果のある人もいる、と言っていた。某サイトに、脊髄小脳変性症用のリハビリの体操と発声練習が写真、図入りで丁寧に解説してあり、自宅で充分できる。これだ!と以降、基本的に毎日リハビリ運動、リハビリ発声、リハビリ散歩を頑張っている。
 
 一時、スクワットなどのやりすぎで腰が痛かったこともあるが、回数を減らしてロキソニンを張り、今は大丈夫だ。昨年来の食道癌治療で3回入院した時は抗がん剤や鎮静剤の副作用で歩けなくなったが、一時的な現象で数日後に回復した。退院して自宅に戻ってから、リハビリを再開し、以降、毎日励行している。
 
 運動神経劣化の回復は出来ないが、これ以上の悪化を防いで現状を維持出来れば、まあまあ普通に生活できる。無理に運動回数を増やして頑張るのは逆効果、少しでいいから毎日欠かさないことが肝要なのである。朝起きて朝食前に、所定の運動を行う。時間にして30分ていど。朝食後、発声運動を行い、昼前に散歩に出かけて30分ほど歩く。歩数にすると3千歩程度だ。毎週のように千葉柏の癌研東病院に通院するのも、結構な距離を歩くし、色々頭を使うからボケ防止にもなる。
 
 今は、食道癌の治療が一段落し、ふらつきの進行もほぼ止まっている。人生はまだまだ長い(かもしれない)、最後まで楽しむのだ。
 
 
 ⑧   いつも上機嫌なふりをする、
 
 ジェームズ=ランゲ説によれば、「人は悲しいから泣くのではない、泣くから哀しいのだ、」そうだ。
 
 若いころから本来の自分の性格を考えると、けちで、見栄っ張りで、プライドが高く、自己中、自信過剰だけれど、気が小さい・・・・考えれば考えるほどこれ以上ない嫌な奴だ。社会人になっても若い頃は、ほぼこの性格のままに押し通し、周りの人にはさぞ嫌われていただろうと、今思い出しても赤面するばかり。仕事の何らかの問題に直面しても、俺に任せれば何とかなると大見えを張り、苦労したことが多かったし、たとえ結果がよかったとしても、周りからはあまり評価されず、ただただ疲れるばかりだった。
 
 それでも家庭を持ち、仕事の経験を重ね、このまま本来の自分を押し通すだけでは、生きていけない、少しは他の人を巻き込んだ方が上手くいくと思い始めて、徐々に変わった。人は全て対等だから、常に相手を尊重するのだ、とカッコよく振舞った方が上手くいく。本音を言えば、人が対等だなんてことはありえないのだが、それは決して口にも態度にも出さない(ことにした)。
 
 50歳を過ぎたころから何によらず、先ずは、ふりをする、形から入ることにした。まさに、人は悲しいから泣くのではない、泣くから哀しいのだ。どうやら、それなりのふりをしているうちに、本心も(少しは)変わるらしい。ふりをし続けるのに疲れることも多いが、そうしなければもっと疲れる。
 
 今は、監視人殿との会話を楽しみ、本を読み、noteで文章を書く、偶には同期とのお付き合いも和やかにこなし、全て面白いからいつも上機嫌。いや、上機嫌なふりをしているから、全て面白い!
 
 
 ⑨    日記を書く
 
 2000年に53歳で新潟の子会社に転勤になった。明らかに左遷ではあるが、小さいとはいえ独立した会社のトップではあり、挫折感と高揚感を併せ持っての就任だった。最初は業績回復に苦労したが、3年程で急激に改善、絶好調になった。業績さえ良ければ親会社は何も口を出さない。時間的にも、気分的にも余裕がタップリ、暇に任せて時々日記を書き始めた。子供のころは絵と作文が苦手で、劣等感を持っていたのだが、人生の経験を重ねていつの間にかそれなりに書けるようになっていた。
 
 以降、新潟から東京、埼玉に転勤、更に最後はスカウトに応じて姫路に行き、74歳まで働き続けた。この間、住めば都と、その土地を楽しみ、旅行し、ジャズライブに行き、風情ある土地を歩き、諸々の新鮮な経験をして、その都度日記を書いてきた。昨年までは書いた日記を「趣味人倶楽部」に投稿、コメントを交換して楽しんできた。勿論この件の詳しいことは、監視人殿も知らないし、サイトで知り合った人と実際に会うこともない。
 
 昨年8月から過去日記をnoteにアップし始めた。この15年くらいで書き貯めた日記を多少手直しして毎日アップすれば当分続けられる。時々はその日の日記も織り交ぜたが、基本的には過去日記特集を続けて来た。しかし、15年分とは言え、やがて尽きる。少し内容を変えたりして誤魔化してきたが、この夏にはほぼ出尽くした。
 
 何とか毎日のアップを続けようと、いくつかのシリーズを作成し、回数を稼いできたが、この先毎日書き続けられるか。自信はないが、日記を書くとそれなりに頭を使うから、ボケ防止にはなるだろう、と当分頑張るつもりだ。
 
 
 ⑩    本を読み、1行コメントを書く
 
 子供のころ、それなりに本を読んでいたが、いわゆる本の虫ほどではなかった。むしろ工作が大好きで、ナイフで木片を削り飛行機や船、今でいうプラモデルのようなものを作るのが好きだった。小型ナイフで指を傷つけたことは数知れず、今でも傷跡が残っている。その後、中学生ころからは徐々に工作から読書に比重が移っていった。夏目漱石、森鴎外等古典物を読んだのは主としてこの時期だった。
 
 無難に高校、大学を終えて鉄鋼会社に入ったころは、主として機械工学、それも材料、熱処理、力学などの専門書を読み、知識、手法を身に着けるのに夢中だった。ところが会社の技術系の諸先輩が殆どそういった専門書を読まず、会社内の経験だけでベテラン技術者とされているのは意外だった。
 
 30代、中間管理職になった頃は、技術的な基礎知識はほぼ習得し、その道の専門書を読むことが減り、時間に余裕もでて、海外作家のスパイもの、法廷物等を読んで楽しんだ。ジョン・ル・カレ、ブライアン・フリーマントル、ケン・フォレット、ジョン・グリシャム等々、今思い出しても懐かしい。ところがその後ベルリンの壁が崩壊し、東西冷戦が過去となり、スパイものの現実感がなくなって熱が冷めてしまった。
 
 そうなると逆に、読む本のジャンルにこだわりがなくなり、手当たり次第に何でも読むようになった。いつの間にか、暇なとき、電車に乗っている時、旅行先でも本を読むのが常態化した。結果、次に何を読むかが、最大の悩みとなる。だんだん目が肥えて来たのか、読後、もう一つだと満足できないことも増えて来た。要するに、生意気になったのだ。
 
 60代後半、姫路に転居したころから、哲学系、物理学系を読むようになった。哲学系とは言っても専門書は難しすぎて理解できないから、主としてやさしく解説した入門書のようなものを読み漁った。何となく人生を振り返るようになり、すこし・・・・悶々としていた時期だ。一通り読むと、次は量子力学、宇宙物理学だ。こちらも専門書は難しすぎるから、初心者用の入門書が主体、それでも今までぼんやりとしていたものが、ハッキリと見え始めた事もあり、人生感、世界観が変わり、それはそれで面白かった。
 
 2年前に東京に戻って、常時暇になり、日々何を読むか考えながら過ごしている。色々捜して考えてアマゾンポチするのだが、当たり外れがある。外れの時は時間を損した気になるが、当たりの時は気分よく、その作家の他の本も読むことになる。
 
 長く本を読んできたが、振り返ると大半を忘れていて、書評を読んでも思い出せないこともあり、損した気分になる。だから2年前に東京にもどってからは、読んだ本をエクセルの1行に記録し、5段階の勝手評価を付け、1行コメントを書いている。それでも1年前に読んだ本をすでに忘れてしまっていることもあり、我年齢を実感する。今後は3行コメントにしようか。

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