神風特攻

 日本人は私も含めてどこか神風特攻隊を美化しているように思われる。実際神風特攻隊をモチーフにした小説がベストセラーとなり、夏には彼らを特集したニュース番組が毎年流れている。私もそうした作品を見てしばしば涙を流すのだが、それはなぜであろうか。

 彼らの勇壮さに心を動かされると言う人がいるだろうがそれは違う。ではなぜ911テロに対して、「敵ながらあっぱれだ!」と言う人がいないのか。勇壮さは、傍目から見れば蛮勇でしかなく、恐怖しかないのである。

 西洋の価値観が浸透している現代社会で、自由の価値は最上となっている。人を殺してはいけない理由は、被害者が生きるか死ぬかという最も生きるうえで必要な選択の自由を剥奪されるからに他ならない。しかし、殺される以上に、自らの死を選択させられることは、自らの人生を自らの足で歩く自由を奪われた恥辱の中で生命を終わらせられることを意味する。それは想像を遥かに超えた生命への冒涜である。

 ミルグラムは著作「服従の心理」の中で、普通に生きている人が立場の上の者の命令によって残虐行為を行うようになることを突き止め、アウシュビッツの刑務官が特別に残虐性を持ち合わせていたわけではなく、普通の人間だったことを詳らかにした。しかし、この事実を我々日本人やドイツ人はあの戦争を通して理解していたように思われる。彼らは、我々ときっとあまり変わることはないだろう。私達があの時代に生まれてきていたら、恐らく彼らと同じように、つまりは自らの生命に対する自由を行使することなく神風特攻隊として殺されていたであろう。そんな彼らと私達との違いはただ生まれた時代だけである。彼らの人生は、きっと我々の人生なのであろう。だから我々日本人は神風特攻隊のその悲壮さを涙するのである。

 彼らは命を賭して戦争の中に散った。そんな彼らを称えるのはもっともな行為である。しかし、彼らの勇敢さを称えるのが正しいとは思えない。ブラック企業で働く者を誰が称えるのか。彼らは異常な戦争の中で、強く生き続けた。それだけがあの時代の事実なのだと思う。


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