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『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』を、エヴァとの馴れ初めから考察までいろいろ語ってみる話

 あの~、いきなり馴れ初め語っちゃっていいすか(笑)

 まあ今回エヴァを語るんですけど、僕にしても読んでいただいている方にしても、それぞれのエヴァとの出会いってもんがあると思うんですよね。

 僕で言うと出会ったのは今から20年前の中2の夏。テレビ東京で放送していた頃は子供過ぎてスルーしていて、社会現象になっていた時期をポケモンで費やしそのまま小学校を卒業。庵野作品で言えば正直エヴァよりも先に『彼氏彼女の事情』で入った口なんですよ。

 さすがに名前は知っていたのですが、当時は配信サイトなどなかった時代。興味はあったけどレンタルビデオで借りるにもお金がかかるし…と躊躇していたのですが、中学2年の時に親がJ:COMに加入しまして。

 地上波しか観れなかった環境から一気に様々な番組を観れる事になり、中でもアニメ専門チャンネルがあったのが当時の僕として凄く衝撃で。アニマックスとキッズステーションというチャンネルを主に観ていたのですが、そのおかげでいろんなアニメを知るきっかけになりました。

 そのキッズステーションである日『新世紀エヴァンゲリオン』の一挙放送をやってくれた事がありまして、時間帯は確か0時から朝までだったのですが眠気なんて忘れて貪るように観ていたのを覚えています。

新世紀エヴァンゲリオン


 そこからちょっと経って『Air/まごころを君に』を観、その何年か後に『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』が公開され、終わり方にモヤモヤしていた僕は「ちゃんとした終わりを観せてくれるんだ」と期待に胸を膨らませていました。

 まさかそれから15年もかかるとは思いもせず。

 今月3月8日に『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』が公開されたわけですが、多分皆様それぞれに複雑な思いがあったと思うんですよね。そもそもこれまでの経緯からしてちゃんと終わらせてくれるのかもわからない。そもそも終わると言っておきながらまた続編が出るのかもしれない。その続編も今度いつになるかわからない。

 そもそもエヴァってこれまでに2回、個人的には『破』も含めて3回最終回を迎えたと思っているんですが、それにも関わらず続行しまくって今日まで来たわけじゃないですか。

 しかもテレビシリーズの『世界の中心で愛を叫んだケモノ』、『まごころを君に』、『破』と3回とも違ったエンディングを迎えている為、今回のエヴァで終わらせるのって相当大変だなと思ってたんですよ。

 まずテレビシリーズの最終話『世界の中心で愛を叫んだケモノ』では、かなり強引とはいえハッピーエンドで終わらせたんですよね。有名な「おめでとう」です。

 人類補完計画というものを「人と人との心の繋がり」として描き、最後にシンジくんが心を開いた事で物語を完結させた。正直流れも糞もない展開で当時は「どゆこと?」って感じでしたが(笑)当時観ていた人も皆様そう思ってらしたようでファンの間で論争が起こった。

 テレビ放送から1年半後、『Air/まごころを君に』で庵野監督が行ったのは「エヴァンゲリオンの徹底的な破壊」でした。

Air/まごころを君に


 ところでファンの皆様なら全員わかっていらっしゃるでしょうが、エヴァは庵野秀明の精神世界みたいな作品です。

 ストーリーとしてはわりと無茶苦茶なんですが、庵野監督が作品に半端ないほど自己投影しているおかげで不思議な魅力が生まれる。それが良い方向にも出るし悪い方向にも出るというわけで、『Air/まごころを君に』ではそれがめちゃくちゃ悪い方向に出ちゃったわけですね(笑)

 誤解しないように言っておきますが、僕はこの作品非常に好きです。最初のオナニーシーンから最後の「気持ち悪い」まで、当時の庵野監督がいかに追い込まれていていかに世間に対して、そして自分に対して批判的だったのかがよくわかるからです。

 何せキャラクターは全員死に、世界が完膚なきまでに破壊され、これ以上のストーリー展開ができないくらいに終わらせた。そして最後のアスカの「気持ち悪い」で、そんなものを作った自分自身への批判を表現したわけです。いや~、病んでますよね~(笑)

 で僕が3回目の最終回と言った『破』なんですが、これがなぜ最終回かと言いますとこれが『天気の子』だからなんですよ。

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破


 なんですかこのポスター(笑)

 ともかく『破』でシンジは綾波レイを救う事でサードインパクトを引き起こした。当時の僕らファンがまさに望んでいたラストだったと思うのですが、これを次の作品である『Q』で全否定してしまったわけです。

 この「ヒロインを救う代わりに世界を終わらせる」というのって結構凄くて、セカイ系としてはまあまあありそうに見えて実はこの終わり方をしている作品って全然ないんですよね。

 大抵「ヒロインを救ったらなんだかんだ世界も元通りになった」というご都合展開で終わる作品が多く、もしくは「世界を救う代わりにヒロインが犠牲になった」という鬱エンドですね。『イリヤの空、UFOの夏』や『最終兵器彼女』なんかがそうなんですが、名作ですしイリヤは僕の中では一番好きなくらいの作品なんですがまあ救いはないと(笑)

 つまりご都合主義か現実路線しか打ち出せなかったところを『破』で新手を打ったのが庵野監督だったわけですね。ところが先程書いたように『Q』でその終わり方を自ら否定する展開にしてしまったと。

 そして2019年、新海誠監督が『天気の子』で同じ手を繰り出したわけですが、やっばこの「ヒロインを救って世界を終わらせる」エンドってエヴァでやるにはどうしても難しいんですよね。

 エヴァな続きものであって、元々三部作とか四部作とか言われていた中の2作目でやったわけですから当然そこで終われるはずがない。それに今までの経緯があるわけで、綾波を救った場面での瞬間的なカタルシスはともかくサードインパクトを起こしたらいかんよなあと、冷静考えるとそうなってしまう。

一方『天気の子』は単発作品ですから、後の責任を取らなくて良いし前作品のカルマにも囚われていない。おまけにめちゃくちゃ上手く面白く作ったもんだからあれでセカイ系作品の答えを出しちゃったわけです。

 言ってしまえば新海監督は『天気の子』で今までのセカイ系ヒロインを全員救ったんですよ(笑)でこの時点では個人的にエヴァですら少し古いと言わざるを得ない作品になってしまった。20歳年下の監督に半ば負けた形になったわけですね。

 で、それを踏まえての『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』なんですよ。

シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇(ここから先ネタバレ)


 もうキャッチコピーからして凄いですよね(笑)観終わった今からすると特に。

 結論から言いますと、この作品で庵野監督は僕の想像を遥かに超える、新しい形のエンディングを見せてくれました。

 ハッピーエンドを潰し、バッドエンドも潰し、ヒロイン救出エンドすら潰した庵野監督が今作でどう終わらせるのか本当にわからなかったのですが、観た後「この手があったか」と。

 いろんな方が考察していらっしゃって、だいたい皆様仰るのが「これはエヴァンゲリオンの卒業式である」という事なんですが、僕も概ね同意です。

 ただ卒業式というよりは、どちらかというとクランクアップと表現した方が正しい気がするんですよね。

 クランクアップというのはドラマとかで自分の撮影が全部終わった俳優さんが、スタッフに拍手されたり花束を渡されながら退場する事です。俳優さんは出演分を撮り終える事で役の人物からただの1人の人間に戻れるですよね。

 じゃあアニメキャラはどうなのかと。

 先程も書きましたように、庵野監督はエヴァに自己投影をしまくってます。テレビシリーズでも、旧劇でも新劇でもそうですし、庵野監督じゃなくてもキャラクターに己の人格を分け与える行為はどの監督さんもやられています。

 つまりシンジくんであっても綾波であってもアスカであってもゲンドウであっても、言ってしまえばエヴァに出てくるメインキャストは全員どこか庵野監督であり、庵野監督が言わせたい事を言わせ、やらせたい事をやらせているわけです。

 そしてアニメである以上、キャラクター達はこれでもかというほど痛い目に遭います。一度も死ななかったのはシンジとアスカくらいですし、シンジは何度も絶望させられますしアスカなんか酷い目に遭わされまくってるじゃないですか(笑)最後なんか人間じゃなくなってましたからね。

 そういうのってドラマならクランクアップして終わりなんですがアニメだとそうはいかない。アニメキャラはアニメキャラであり、その世界に永遠に存在し続ける宿命を背負っている。アニメキャラを演じているのはあくまで声優さんであって、存在自体を背負ってはくれないんですね。

 少し話を逸らしますが(後で戻ります)今回の『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』って今までのエヴァの中でもかなり不思議な作品でして、ストーリーとしては「シンジくんが絶望から立ち直って父親と対決する」という流れなんですけど、俯瞰して見るとこの作品でドラマチックな展開って何もないんですよ。

 シンジくんが立ち直ったのは「人の優しさに触れた」からであり、使徒に立ち向かっているわけではない。この下りをめっちゃ丁寧にやるじゃないですか。1回目観た時は全然気付かなかったのですが、2回目観て「なるほど」と。

 これってめちゃくちゃ長いフリなんだ。

 つまり今回の話ってドラマチックな宿命を背負わされたアニメキャラが一人のモブに戻る話なんですよ。まあそれを卒業式という言葉で皆様表現されていらっしゃるんですが、クライマックスのゲンドウから始まるキャラクターが1人1人退場していくシーンって、庵野監督による人格回収なんですよね。

 だから本来綾波だってアスカだって、アニメキャラでなければもっと違った人生を歩めたわけじゃないですか。庵野監督によって作り出されたキャラクターであってそもそもエヴァの登場人物以外の生き方はなかったわけですが、それでもシンジ以外のキャラを好きになる可能性だってあったわけですし、ストーリーの目的の為に死なされなくても良かったかもしれないわけですよ。

 なぜ綾波やアスカがシンジを好きになったのかと言えば庵野監督がそうさせたかったから。なぜカヲルくんや加持さんが死ななければならなかったのかと言えば庵野監督がストーリー上必要だと思ったから。なぜゲンドウが無茶苦茶やってたかと言えばそれも庵野監督がそうさせたかったから。

 そのキャラクター達から1人1人庵野秀明という人格を解放してやる事で、もうエヴァのキャラとして不幸な目に遭わずに済ませてあげたわけです。ゲンドウは「ユイを探し求める」という宿命から解放され、アスカは『まごころを君に』のラストシーンでシンジと和解する事で解放され、カヲルくんも「シンジを救う」という謎使命を「救われたかったのは自分」と置き換える事で役から降りる事を許され、レイもテレビシリーズからの長い長いカルマから自由にさせてもらえる。

 シンジとゲンドウが戦うシーンで精神世界に入っていろいろな場所で戦うじゃないですか。しかも明らかドラマのセットみたいな環境で、わざわざ安いCGみたいな場所でも戦って。

 あれって多分『うる星やつら2~ビューティフルドリーマー~』のパロディーというかオマージュなんですよ。

うる星やつら2 ビューティフルドリーマー


 この作品の中で主人公の諸星あたると敵キャラの夢邪鬼が夢の中を転々としながら喧嘩し続けるシーンがあるんですが、おそらく「今から精神世界に入りますよ」をオールドファンに説明する為にわざわざあんな感じのシーンを入れたんじゃないかと思うんですよね。そうでないと少し不自然ですし。

 あのシーンからメタ展開に入る事でキャラクターの卒業式、クランクアップというものをぶっ飛んだものではないようにした。もっと言えば序盤から「この作品はアニメキャラを普通の人間に戻す物語ですよ」というのを散々仕込む事で僕のような人間レベルでもわかる作品に仕上げてくださったわけですね。

 これが1つ目の考察でして、キャラクターの卒業式というならなぜミサトさんは死んだのかって話じゃないですか。

・なぜミサトと冬月は死んだのか

 加持さんが退場する時カヲルくんに「葛城と一緒に老後は農作業でもやりますか?」と言っていたのでもしかしたら加持よろしく生き返られてもらえたのかもしれませんが、作中では爆破に巻き込まれて死ぬじゃないですか。

 これ不自然で、本来ミサトさんだって救われる側のキャラクターであるべきなんですよ。他のキャラクターと同じく散々酷い目に遭わされてますし、加持の言葉だけで済まさずにちゃんと退場させてあげるべきキャラなはずなんです。

 1回目観終わった後、なんでミサトさんだけ死んだのかな?と考えたのですが、答えは意外とあっさり出てきました。

 ミサトさんがシンジくんの育ての親だからです。

 ミサトさんはテレビシリーズではシンジくんの次に出てくるキャラクターであり、ずっと自分の家でシンジくんを預かり続ける。

 旧劇では無気力状態になったシンジくんを自分が身代わりになる形で助ける。

 新劇になってからも保護者としての立場は変わらず、決定的に変化するのは『Q』からじゃないですか。

『Q』で彼女はシンジくんを徹底的に突き放します。それは『破』で彼の行動を止めるどころか後押ししてしまった事だったり、サードインパクトを引き起こした責任を全部シンジくんに押し付けてしまった事への後悔故なんですが、やはりミサトさんにとってシンジくんは他人ではないわけです。

 今作でミサトさんに実の息子ができているんですが、一度も会わず存在すら知らせずに暮らしている。ケンスケから送られてくる映像と写真だけが彼の現在を知る唯一の手段なのですが、その息子の写真になんでかシンジくんも一緒に写ってるんですよ。

 これってなんか変じゃないですか?送られてきた写真にシンジくんが一緒に写っている必要は何もないんですよ。自分の息子じゃないんですから。

 つまり自分の息子と同様、シンジくんもミサトさんの中では息子と同格なんですよね。シンジくんがエヴァに乗る前にミサトさんがシンジくんを銃弾から庇い、「全責任は私が取ります」と宣言して背中を押してあげるのですが、彼女はそこで親としてシンジくんの犠牲になる覚悟をしたんですよね

 庵野監督が今回自己投影したキャラクターって、ミサトさんであり冬月でありユイなんですよ。今作って「庵野監督がエヴァを卒業する話」じゃないんですよ。「庵野監督がキャラクター達をエヴァから卒業させてあげる話」なんですね。

 冬月にしたって、なんですべての元凶であるゲンドウが死なずに冬月が死ぬんだって話じゃないですか。彼もまたゲンドウの身代わりになって死んだんですよ。言ってしまえば冬月はゲンドウの父なんですよね。

 で最後すべてを背負ってエヴァとともに眠ろうとしたシンジくんをユイが救った。母親として自分が身代わりになる事でシンジくんをカルマから解き放ったわけです。

 庵野監督はエヴァを封印する役目に親を選んだんですね。

 そして最後。

・なぜシンジはマリを選んだのか

 ラストシーン。大人になったシンジくんの前に現れたのは綾波でもアスカでもなく、マリでした。

 綾波はラストでカヲルくんと良い感じになっていましたし、アスカは作中でケンスケを"ケンケン"と呼ぶほどに仲良くなっていた。

 これが先程書いた「モブにする事でシンジを好きにならなくて良くなった」という事なんですが、じゃあマリは消去法でヒロインになったのか?と。それじゃ結局カルマから逃れきれてないじゃないかってなる。

 ここについてまともな考察がまだ出てきてないのが不思議なんですが、なぜマリだったのかという事に関してはちゃんとした理由があると思ってまして。

 だってマリだけカルマの外にいるキャラクターじゃないですか。

 マリが登場したのは新劇の『破』からであって、社会現象を巻き起こしたテレビシリーズ~旧劇では存在すらしなかったキャラクターなんですよ。

 しかもマリってエヴァの中で異質なくらいずっと前向きで、能天気で、苦労を知らないような顔をしている。おまけにストーリー上そんなに…というかぶっちゃけいてもいなくてもいいくらいの立ち位置にいる、無駄キャラなんすよ。

 つまりマリの中には最初から庵野監督に与えられた人格がないんですね。

 だから彼女だけがシンジくんと一緒に現実の世界に行けるわけです。これも前フリと言える部分があって、シンジくんが海辺で1人体育座りをしているシーンがあるじゃないですか。だんだんと絵がラフになっていって消えかかる。そこへマリが登場するという流れなんですが。

 あれもやっぱりメタで、要するにシンジくんは"アニメキャラ"なんですよ。アニメキャラであるから、絵なんですよ。絵だから、誰かが描いてくれないと存在できないんですよ。だから彼ってそもそも生きてなくて、エヴァという作品が終わる事で彼も永遠に終わってしまう、そんな存在なんですが。

 そこにマリが助けに来た事で再び絵に色が戻り、シンジくんも絵ではなく"碇シンジ"というキャラクターに戻る事ができた。

 最後シンジくんとマリが手に手を取って駅を出ると、実写になっている。しかもシンジくんの声が神木隆之介さんになっている(笑)というところで、彼はアニメキャラとか絵から解放されて、1人の現実の人間になった。

 アニメキャラという枠から脱出する事によって、彼はエヴァからも脱出できたわけです。

 そしてそんなシンジくんと一緒にいられるのが、エヴァのカルマに囚われていないマリだけだったというわけですね。

 以上、感想でした(笑)ちょっととっ散らかっちゃったかもしれませんが、だいたい説明したかった事は説明しきれたと思います。

 今作個人的には凄い満足で、「キャラクターから監督の人格を解放する」という新しい手を打ってくれた事に加えて、これって幾度もシリーズを積み重ねたエヴァでしかできない手法じゃないですか。新海誠監督でも庵野監督の師匠である宮崎駿監督でもできないんですよ。やるにはあまりに尺が足りなすぎるんで。

 言ってしまえば『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』って史上最高の内輪ネタであり、エヴァという作品を考えるとこれ以上ない終わり方をしたのではないかと思います!

 今回も読んでいただきありがとうございました。そして庵野秀明監督、エヴァという凄い作品を作りきってくださり、本当にありがとうございました。

 では皆様、「さよなら」。

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