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飯食って泣いた話

 皆様は、飯を食って泣いた経験はございますか?

 飯を食ってる最中に感動する映画を観て泣いたとか、そういう事ではございません(笑)サムネで使った『千と千尋の神隠し』の有名なシーンのように、食べた瞬間に涙がボロボロこぼれ出して止まらなくなった経験ですね。

 恥ずかしながら二岡せきぬ、飯食って泣いた事が今までの人生の中で二度ほどございます。ちょうど『千と千尋の神隠し』が映画館で期間限定公開されていて、その拍子にふと思い出したので、今回書いてみようかなと。忘れたくない思い出でもありますので。

 一度目は小学校低学年の時。僕はその日学校が終わってからすぐに友達の家に遊びに行きました。

「しら」と呼んでいたこの友達は僕が小学校に入学してから初めてできた友達で、大変仲良くさせていただいていました。またしらは当時学校すぐ横のアパートに住んでいたので遊びに行きやすかったんですよね。ランドセルを背負ったままよく家に転がり込んでゲームをしていたものです。

 僕は小学生の時、家に帰らず友達の家に遊びに行くことが多かった。というのも親父が友達と遊ぶのを禁止していたからです。

 子供の頃、親父が怖くて怖くて仕方なかったんですよ(笑)まず外見が怖い。顔中謎の傷だらけでバキに出てきそうな風貌をしておりまして、目は一重で殺人鬼のように鋭く、声も低い。元暴走族の男で一時期プロボクサーを目指していたらしく、腕っぷしも強い。それで優しけりゃいいんですが、まあ子供でも容赦なく殴るんですよ(笑)で酒飲んで暴れるんですよ(笑)笑いながら書いてますが当時まったく笑い事ではなかった。

 そんな親父ですが僕が生まれる前に囲碁に出会ったらしく、大変感銘を受けたらしいんですね。囲碁というのは黒と白の石を使った陣取りゲームみたいなものです。

 自分の趣味として留めてくれれば良かったのですが、事もあろうにこの親父、こんな決心をしてしまったんですね。

 自分の子供を囲碁のプロ棋士に育てよう!

 …まったくね、いい迷惑ですよ(笑)

 つまり親父は僕と2歳上の姉を囲碁のプロ棋士にする為徹底的に育てようとしたんですね。朝夜の指導は当たり前。学校が終われば吉祥寺にある囲碁教室に行かねばならず、休日も当然囲碁漬け。囲碁以外の行動はほとんど禁止されておりました。

 例えば囲碁の指導時間以外の短い時間にゲームをやったり漫画を読んだりするのは「息抜き」として認められていたのですが、友達と放課後に遊ぶのはダメ!といった具合ですね。「友達が遊んでる時に修行した奴だけがプロになれるんだ!」というのが親父の口癖でした。誰の受け売りなんだか(笑)

 遊びたい盛りの時期でして、正直言って僕は囲碁なんか興味なかったんですよ。対局はまあ面白いんですが、昔のプロ棋士の対局を記録した"棋譜"と呼ばれるものを並べて技を習得する練習であったり、"詰碁"という練習問題みたいなもんですね、そういうのをやらされたり、対局した後で自分が打った手を最初から並べてどういう意図があったのか説明させられたり、まあ面白くねえ練習が多かったんですよ(笑)僕なんかはだいたい何も考えずに打ってるので当然自分の手も覚えておらず、それでよく殴られました(笑)

 家に帰ればつまらない囲碁の修行が待っていて、しかも殴られる。一方友達は学校が終われば友達と遊んで、夕方になればアニメ観て、バラエティー観て、宿題をして寝れる。こんな羨ましい事はなかったですね。

 …というわけで、家に帰らず遊んでいたわけです(笑)姉がそのへん凄く要領よくやっていて、僕もそれを参考にしてました。親父には「授業が押した」の嘘を吐いてぎりぎりまで遊び、何食わぬ顔で帰ると。もちろん毎日やるとバレるので、数日に一回くらいしかやれませんでしたが。

 そして、その日も友達のしらの家で遊んでいたのですが。

 しらの家の電話が突然鳴りました。

 もちろん家電が鳴る事など珍しくはないですし、僕も気に止めてはいなかったのですが、電話を取ったしらのお母さんが、なぜか僕に話しかけてきたんですよ。

「せきぬくんのお父さんが、早く帰ってこいって」

 その時の恐怖感、わかりますか?まずバレてるわけですよ。そして親父が、僕を家に呼び戻している。そこから先僕は自分がどうなるかわかるわけです。とんでもない目に遭う事は間違いないんですね(笑)

 しかし僕には家に帰る以外の選択肢はない。地獄の一本道です。処刑台に登る死刑囚の気持ちと似たようなものでしょう。

 子供の頃って、自分の中の世界が家か学校かしかないじゃないですか。凄く狭い世界の中で子供は生きていかなければならず、しかも自力で生活する能力もないので親が生命線になる。そして僕の親は残念ながらハズレだったと(笑)

 帰ろうとする僕があまりにも蒼白い顔をしていたのか、「ちょっと待って」としらのお母さんに呼び止められました。そして差し出されたのが、真っ白くて真ん丸なおにぎりでした。

 本当にこのような真ん丸なおにぎりで。

「帰る途中に食べて」

 そう言って、持たせてくれて。

 お礼を言ってしらの家を出て、家に戻る道中、どこかに腰かけておにぎりを頬張りました。

 本当に一口食べた瞬間、こんなに涙出るのかってくらい泣きましたよね。もちろんおいしかったですし、何よりあたたけぇじゃないですか。しらのお母さんの心が。人に優しくされるありがたさ、尊さをまさに噛みしめましたよ。もう20年以上前の記憶を未だに覚えてるくらいですから、当時の感動たるや相当なものだったのでしょう。

 本当に心の底から、しらのお母さんの子供になりてえと思いました(笑)

 ま、当然のようにこの後親父に殺されかけたんですけどね(笑)

 まあただですね、当時の親父の年に近付いてきてわかったんですが、親父がバカだったのもなんとなくわかるんですよ。

 当時は大人=凄い人みたいなイメージがあったんですが、考えてみると僕が生まれた年に親父は25歳でありまして、25歳って今の僕からしてみたらまだ半分子供くらいの感覚。で僕が中学校を卒業するまで親父は30代だったと考えると、子育て失敗してもしょうがないかなとは思うんですよね。

 親父って今考えると凄く純粋な人で、それ故に思い込みも激しかった。自分がこうだ!と決めた事を信じて、それを子供にも押し付けてしまった。まあ酷い親父なんですが、じゃあ僕が今ちゃんと子育てできるかと言われると自信がないですし、親父を責めきれないところではあります。

 17の時に家出してからもう長い事会っていなくて、まあ会う気もないんですがなんとなく許せるようにはなってきましたね。

 …さて、冒頭で僕は「飯を食って泣いた事が二度ある」と書きました。一度目は親父絡みのエピソードだったわけですが、二度目はおふくろ絡みのエピソードでございます。

 おふくろの成り立ちを書きましょう。福岡の田舎で育った彼女は、その地で一度目の結婚をしました。そこで二人の子供を設けたのですが、本人いわく「姑のいじめに耐えきれず」失踪。一人東京に行き、そこで親父と出会って二度目の結婚をしました。

 ま、出会いっつっても水商売ですよ(笑)

 親父とおふくろは姉と僕を産んだわけですが、子供の頃の僕は言ってしまえばマザコンでありました。まあ親父が説明したとおりの方なので当然といえば当然ですが、逃げどころを母親に求めたわけですね。

 彼女も僕を愛してくれていたとは思うんですが、振り返れば当時から不審な点もいくつかございまして。

 小学生の頃、僕はおふくろの「友達の」知らないおじさんと何回か会ってたんです。毎回別のおじさんだったんですが、時には野球を観に行き、時には食事をしというように、なぜか母親と僕と知らないおじさんの三人で会ってたわけです。まあ変じゃないですか。おふくろの友達なら親父がいたっていいわけですし、親父が知らない友達にしても姉がいても良かった。

 それに、おふくろは家に帰ってこない時がちょくちょくありまして。飯も三日に一度はハンバーガー。手抜きをする母親でありました。

 また物心ついた時から親父とおふくろは仲が悪く、数日に一度は喧嘩をしておりましてよく離婚だなんだと騒いでおりました。僕も姉も慣れっこで、またかと思いながらやり過ごしてたんですが。

 まあ、伏線だったんですよね。

 僕が小学5年の夏、彼女は他の男の元へ行き二度と家に帰ってはきませんでした。

 当時、愚かにも、僕はおふくろが帰ってくると信じてました。突然親がいなくなるなんて現実、信じたくはないじゃないですか。僕が現実を受け入れたのは結局翌年の春、両親の離婚が成立してからになります。

 自分は捨てられたのだと感じた瞬間、心に大きな傷ができたのを自覚しました。同時に「ああ、親といえども他人なんだ」って理解できましたね。人は自分の思う通りの行動をしてくれず、コントロールもできない。

 当時こんな具体的には考えてませんでしたが、今の思考の基礎みたいなものは子供の時に作られたといって間違いないです。

 この後親父との地獄の6~7年間を経て、僕は家を出ました。友達の家に転がり込んだり、住み込みで新聞配達をしたりして、とにかく死なないよう必死でしたね。当時友達と一緒に借りた家がとんでもない幽霊屋敷だったり、新聞屋に強烈な基地外人間がいたりとかめっちゃ面白い話があるので後日書きます(笑)

 2年で金をたんまり溜め込んで新聞屋を辞め、自由になったタイミングで僕は自分の部屋を持とうと考えていました。友達とシェアしたり寮に住み込んだりするのではなく、自分の金で借りた自分の部屋を持ちたかったんですね。金はありますし、後は保証人だけ。

 で、僕はこの保証人をおふくろに頼んだんですよ。

 おふくろが失踪してから何年も近く音信不通でして、まあ会いたくもなかったんで別に良かったんですが、新聞屋で働いてた頃にいきなり電話してきたんですよね。

 姉がおふくろと繋がっていてそれで僕の携帯電話の番号を聞いたみたいなんですが、そこで思いがけない事実が発覚しまして。

 知らぬ間に7歳の弟ができてたんですよ(笑)

 まあ男作って出ていったわけですから、当然セックスもしますわな(笑)だから僕、4人も兄弟がいるんですよね。3人は種違いで、上の2人とは会った事すらないという(笑)これ飲み屋で初対面の人と話す時の鉄板ネタなんですよ(笑)まあ面白おかしく話さないと引かれますが。

 話を戻しましょう。ひょんな事からまた接点が生まれたおふくろなんですが、やっぱり裏切られたという思いもあったのでなかなか好きにはなれなかった。とはいえ一人暮らしには保証人が必要なので、断腸の思いでお願いしたわけです。

 それで無事家を借りられまして、入居当日。僕はおふくろとアパートの上の階に住んでいた家主さんに挨拶をし、そこでおふくろと別れる事になったのですが。

「あんた、これ食べな」

 なんか差し出してきたんですよね。

 それは、お弁当箱でした。

 こんな形のシンプルな弁当箱。

  おふくろが帰った後、弁当箱を開けてみると白米とわりと凝った手作りのおかずが入っておりました。でまあ何も考えず食ったんですよ。

 嗚咽を上げて泣きましたね。

 一口食べて気付いたんですよ。これがおふくろの味だという事に。

 何年も食べていなかったですし、子供時代だって3日に一度はハンバーガーでした。それでも舌はちゃんと覚えていたんですよね。

 まさか泣くとは思ってなかったんですが、考えるに子供時代の裏切られた思いと、現実にまた帰ってきた「おふくろの味」というのが繋がっちゃったんでしょうね。泣きながら飯を食ったというのはこれが最後です。味は…もう覚えてませんが(笑)

 おふくろとは今でも会っております。このババア3回目も離婚しやがりまして(笑)今は弟と2人暮らししているのですが、却って会いやすくなったというのはあります。弟とも会えますしね。

 以上で、今回の話は終わりになります。僕の両親は決して良い親ではなかったのですが、今にして思うと子供の頃にメンタルがこれ以上ないまでに鍛え上げられたので結果良かった気がします(笑)誰に何を言われても滅多には傷付かなくなりましたし、自力で生きていけるだけの覚悟も持てました。

 20代の頃はそれでも運命を呪ってたりしたんですが、そんな事しても無駄だなと気付いた時、憑き物が落ちたかのように人生が身軽になりました。

 家と学校しかなかった世界から解放されたのに、ずっと縛られたままではもったいないと気付いたのかもしれません。

 それでも飯を食わせてもらった、人の温かみに触れた思い出だけは忘れないでいようと書かせていただいた次第です。

 僕も誰かに優しさを分け与えられるような行動をしていきたいものであります。まあ、悪意を持って接してきた人間には当然分け与えませんが(笑)

 今回も最後までお読みいただきありがとうございました。来週は多分書かないと思いますが、気が向いたらなんか書きます。

 では、良い週末を。

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