人の星座を生きる。
友人が共有していた、心理学者・河合隼雄さんの最終講義の動画をみた。
タイトルは「コンステレーションについて」。
「コンステレーション」とは「星座」という意味で、河合先生は「布置」と訳されていた。「ああすればこうなる」という因果関係をこえて、人と人との間に現れてくる星座のようなもの、だろうか。
ちょっとつかみかねるところはあったけれど、それでも随所に魅力を感じる語りがあった。
「人間が生きてるということは、もう現象の中に私が入ってるんです。」
因果関係を把握して事象をコントロールしようとするとき、人は自分を状況の外に置こうとする。そして、頭だけ、指先一本だけで物事を処理しようとする。けれど、そんなことはありえない、と河合先生は言う。
その具体例として、子どもを学校に行かせたい父親の話が語られた。
「ワンタッチ、自分の子どもをワンタッチで学校行かしたいわけですね。本当にそう言われたお父さんがおられますからね。
来られて、私に『先生、これだけ科学が発達して、ボタン一つ押せば、ロケットが月に行ってるんでしょう。うちの息子を学校行かすボタンはどこにあるんですか』って、言われた方があります。これ、非常によくわかります。どういうことかっていったら、父親は外におって、ボタン押して、子ども学校に行かしたい。
で、これはできないんです。
なぜかというと、子どもは生きていますから。
子どもは生きているってことは、命をもってるってことは、ワンタッチで動かすことができないし、命をもったものと命をもったものが遭うっていうことは、もう関係ができてくるわけです。」
「子どもは生きていますから」という言葉を聞いたとき、なんだかちょっとじんとした。
子どもが学校に行かない事を憂う父親は、その現象の中に入っていて「全体がお互いに不思議な関係を持っている」。
そのとき、外から解決のボタンを探すのではなく、自分を含めたその家、その社会にどういうことが「コンステレート」しているのか、という見方をすることで、生き方が変わると言う。
「全体的なコンステレーションを読むと『そうだ!そうすると、私はこう生きねばならない』とか『うちの子どもが学校に行かないことの意味は、私にとってなにを意味をするのか』というふうになってきまして、自分が動いていこうと、こういうことになります。」
現象の外にいる分析者なのか、中に入った当事者なのか。
そのものの見方、位置のとり方によって、物事の進み方も生き方も大きく変わってくるという。
「なにもしないっていうのは、余計な手を出さない。余計な手を出してないですけども、心はですね、本当にそばにかかわっていくわけです。」
自分と現象を切り離して、因果関係を見つけてコントロールしようとしない。自分も含めた「コンステレーション」を読み、関わっていく。
この話をしたあと、河合先生は関わっていくけれども「何もしない」という話をしているのが面白い。
「心理療法家は開いた姿勢で待っているわけですね。何事が起ころうと大丈夫というように開かれた態度をもっているということ。そして、できるだけ開かれた態度でコンステレーションを、ま、読めたら読みましょうと思ってると。
そして、言ってみると、もっともコンステレートしやすい状況というのは、我々が余計なことをしないということだと思います。
これは簡単なようで、ものすごい難しいことです。自分が考えましても、反省しても、どうしてもなにかしてしまうんですね。どうしてもしてしまう。困った人を助けようという気持ちが、すぐに出てきて、本当は助けられるなんてことはないんですけど、どうしても助けたくなってくるんですね。
私が助けるんではないと。この人の心の中になにかできあがってくるんだってことがもっともっと分かれば、相当なときでも待てると思うんですが、やはりそれは、なかなかそうはいきません。
ぼくの仕事、例えば『「あなたの時間」に起きたこと。』
なんかで文字起こしを読んでいく「未二観」では、相手の話を口を挟まず、ずっと聞いて(辿って)いく。
すると、言葉が言葉を呼んで、ひとりでに世界を広げていく。
ちょうど布にこぼした水が、染み込んで広がっていくみたいに。
たった15分でも、語りは重層的になって厚みを増していく。
そして、15分経った後、ぼくたちはその「星図」を共有することができる。
これは「何もしない」ことが為せるわざだ。
聞き手は何もしない。
しかし「辿る」ことで、言葉に非常な注意を向けている。
「対して、何もしないって言うと本当に何もしないんだと思う人がおりまして、ちょっと困るんですが、そんな単純なことではなくて、何もしないっていうのは、余計な手を出さない。余計な手を出してないですけども、心はですね、本当にそばにかかわっていくわけですから。
だから、どなたかの方が「私はもう死にたい」って言われるときには、その「死にたい」っていうところに、私の心は全面的にかかわっていかなくちゃならない。
その「死にたい」という表現によって、この人は、どのようなコンステレーションを表現しようとしているのか。そのようなコンステレーションの中に、私はどう生きるのかというふうにはなってるけれども、「死にたい。それじゃ助けましょう」とか、死にたいからすぐに「やめときなさい」っていうふうには、すぐにはいかない。
私の力の及ぶ限りは、その人の「死にたい」というほうへ付いていこうとするわけです。」
この力の及ぶ限り、付いていこうとするという感じと未二観の「辿る」感じはとても近いように思う。
そして、この語りの中の「そのようなコンステレーションの中に、私はどう生きるのか」という部分がさらに興味深い。
「死にたい」と言っているクライエントのコンステレーションを読みながら、療法家の河合先生は「その中でどう生きるのか」を考えているというのだ。
「そのときに、私が心が切れてしまって『この人の中になにがコンステレートしてるだろう』というふうな見方をしても、絶対にこれは通じません。
私も含めた、全体としてなにがコンステレートしてるか。もし、そういうコンステレーションがあるならば、私もその中に生きるというふうになります。」
私も含めた全体として、コンステレートしているものはなにか。
その中を、私はどう生きるのか。
全然、別のところから話を持ってくるようだけれど、これが「責任をとる(responsibility)」ということの本来の意味ではないかと思われた。
そして、それは身近な関係のみならず、あらゆる人との間で起きている。
「現代っていう時代は、こういう全人的な関わりがちょっと少なくなりすぎてるっていうふうに思います。あまりにもいろんなことが便利になりましたから。」
頭だけで、指先だけで、ワンタッチで解決する便利なものが増えて、それが人間関係にも影響を及ぼしている。
紹介した動画は、1992年のものだけれど、その傾向はますます加速しているかもしれない。LINEだけで、メールだけで人間関係を済ませるようなことも増えている。
そのカウンターとして「全人的な関わり」を求める波に、ぼくは乗っているのだと思う。人の星座の中を生きながら、観測者のように他人事にする愚をしばしば犯しながら。
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