枯れていった花たちのために

人はなぜ花を贈るのだろう。

先月、児童館を退職するときにもらった花が、枯れてしまった。

毎日、水を換えて「がんばれがんばれ」と呼びかけてはいたものの、花はいずれ枯れる。その意味では「がんばれがんばれ」もちょっとかわいそうだったかもしれない。

「燃えるゴミ」にする気には、とてもなれなくて、今朝、いいところを探して、お墓にした。感傷的すぎるかもしれないけど、そうして気持ちが収まった。

いま、すこし花たちの不在を感じている。それは「花たちがいた」ということのなによりの証拠だ。

そういうふうに人も人の中に刻まれていくのかもしれない。
時の長さは違えど、咲いて散るものとして「いたよ」ということが。

花はなぜ
枯れると知りながら
青い空を目指すの

間違えず 間違えずに
高く 高く

人はなぜ
枯れると知りながら
人に花を贈るの

咲くいのちの 輝きが
大事なひとに 宿るように

さよならだけが 人生じゃない
生きてた時間 いない時間
ひとりぼっちの この部屋にも
きみの面影 のこるから

忘れないよ

人はなぜ 尽きると知りながら
このいのちを 燃やすの
絶やさずに たゆまぬように
大事に いま......


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