この人と_

なぜ、僕にはこの人だったんだろう。

今朝、カバーにした写真にこんな文章をつけて、フェイスブックに投稿した。

この影舞、やりきれた手応えがあって、うれしかった。

そして、この人との関係において、ぼくは誰がみてもわかるくらい変わった。

自分を守るための(人とかかわらないための)分厚い殻。
それを破れるのは、師匠、先生といった「すごい人」だと長年思っていた。

でも、おそらくヒビはたくさん入れてくれたんだろうけれど、最後の決定的な「痛恨の一撃」を加えたのは、奥さんだった。

この人と、この関係の中に入らなければ、そこまで踏み込まなかった。

それは人に説明するときには「修羅場」という言い方になると思うけれど、ぼくの人生においては、なくてはならないターニングポイントだった。

ぼくが「すごい」と思って助けを求めた人たちに比べると、圧倒的に「ただの人」である奥さんが、人生を変える恩人になったことに、いま、とても驚いていて、

もしかしたら自分を救う人は、日常生活の中にいる「ただの人」ではないか

そして、人はちゃんと「この人」と選んで、その人と出会っているのではないか

という気がしている。

ゆりちゃんとでなきゃ、できないこと。出せない本気。
それはどんなに人にいい顔をしようと思っていても出せないし、そこって、ごまかせないんだろうなあ。

人は、ちゃんと人を選んでいる。
頭ではなく、もっと奥深くで。

そして、その人だけが起こせる奇跡がある。

と言ったら、言い過ぎかなあ。

言葉って難しいところがあって、ある線を強調するとある線が薄くなる。

こう書いたからといって、師匠や先生が関わってくれた恩の大きさは変わらないし、むしろ、日増しに大きくなるくらい。

それでも、トドメを刺すことができたのは、そうした「すごい人」たちではなく「ただの人」である奥さんだった。

いま、そのことを大声で伝えたくなっている。

ぼくはこの四年間、悩む奥さんを前に何度も「すごい人」に相談して、問題を解決したらどうかと提案した。その方が早いし、ぼく自身もたまったストレスを被弾せずに済む。

奥さんは、何度かその提案にのってくれたけれど、だんだん強く拒むようになった。時には「すごい人」のところに行こうとするぼくを非難さえした。

「もうさっさと解決しちゃおうよ」と思っていたぼくは、その反応をずっと不思議に思っていたけれど、いまなら、なんとなくわかる。

「すごい人のところに行け」というとき、ぼくは同時に「自分は無力だ」と強調していたのだ。

共に暮らす旦那が「無力だ」と言っていたら、そりゃ腹も立つ。

そんなやりとりがあって、金銭的にも厳しくなって「すごい人」のところにはだんだん行けなくなった。

自分たちで解決するしかなくなって、手持ちの札だけでやっていくしかなくて、

でも、いま、なんとかやっている。

どうやら、ぼくたちは無力ではなかった。

ぼくのトドメを刺したのは「すごい人」たちではなく、「ただの人」である奥さん。

このことを強調しながら、ぼくは「自分は無力ではなかった」ということを言いたがっていると、いま気がついた。いまだに半信半疑なところがあるけれど、でも、そう、無力じゃなかったよな。

そして、そういうことに気づかせてくれるのは、やっぱり奥さんと暮らしているからで、本当にありがたい。

ぼくはよく奥さんが心配のあまり「もう終わりだ」というのを「まだ生きてるね」と冗談めかして言うけれど、ぼくも「自分は無力だ」っておんなじことをしてたんだな。

つくづく、人は人の鏡だなと思う。

それにしても、なぜこの人だったんだろう。
でも、奥さん以外入れない領域があるし、ぼくじゃなきゃアクセスできない場所があるのがわかる。そのことで、ぼくらは自由になったと思う。

そのことが一番ふしぎで、ありがたい。

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