ロジックに関する話

内田樹さんの教育に関する文章に面白いことが書いてありました

明治以来、教育行政の本務は「国民の就学機会を最大化する」ことであった。学校数を増やしていれば誰からも文句が出なかった。それが(少子化により)「学校を減らす」という前代未聞のタスクを負託された。「増やす理屈」は熟知しているけれど、「減らす理屈」を文部官僚は知らなかった。困り果てた文部省がすがりついたのが「市場に丸投げ=自己責任論」であった。

『3カ月でTOEICのスコアが100点上がる』という英語の参考書があったとする。買おうとしたら横に『1カ月で100点上がる』という本があった。当然、こちらに手を伸ばす。すると、そのさらに横に『1週間で100点上がる』という本があった。おお、これを買うしかないぜと思ったら、その横に『何もしないで100点上がる』という本があった・・・この本を「選ばないロジック」を消費者は持っていない。

(教育についての「いつもと同じ話」内田樹の研究室)より

これを見て「ロジックって面白いな」って思いました。特に2つめの引用箇所を読んだときにはおもわず笑ってしまいました

そんなニペタが、今日も何かを適当に書きたいと思います

ロジックとは

ロジックってとても説得力があって強いものですよね
A=B、B=Cのとき、必ずA=Cになります
これに反論するロジックは存在しません

その強さ、絶対性からか、人間はあらゆるロジックを立てて物事を体系化、脱不安定化しようと試みます
「ビジネス成功のロジック」
「恋愛のロジック」
「お金のロジック」
「人生のロジック」
本屋さんに行って啓発書コーナーにいったらこんな感じの本がたくさんあります。身の回りは実にたくさんのロジックで溢れています。

でも、人が関わる場面においてロジックが必ず成立するということはありません。なぜなら、人間は感情をもつ動物だからです。人間が関わるあらゆる場面において、あるロジックがその「ロジック性・ロジックらしさ」を保てるのは、そのロジックの強さからではなく、人間によるロジックの「維持努力の賜物」であるということです。

「大学を卒業すれば、将来安定になる」
「高収入になれば、幸せになれる」
「大企業に入れば、安定する」
「筋トレすれば、モテる」

僕自身、1人の大学生としてよく聞くロジックが上に挙げたようなことでしょうかね。

これらのロジックが絶対的でないことは明白です。低収入でも幸せな人はいるだろうし、筋トレしなくてもモテる人なんてたくさんいる気がします。「高収入の人が幸せになりやすいというデータがある!」なんて言われたところで、そんなものはただの傾向です。

上に挙げたようなロジックがその「ロジック性・ロジックらしさ」を保ているのは、反対のロジックから生じる「恐怖心」だと思います。

「大学を卒業しないと、将来安定になれない」
「高収入にならないと、幸せになれない」
「大企業に入れなければ、安定しない」
「筋トレしないと、モテない」

このような恐怖心が、人にあるロジックを信じ込ませ、そのように行動することを動機づけているのです。この行動のことを「ロジック維持努力」と呼べるのではないかと思います。

繰り返すと、その「ロジック維持努力」が空想のロジックに「ロジック性・らしさ」を与えているのです。

まとめると、人間は脱不安定化するためにロジックを作る。
そのロジックは傾向であって、絶対的ではない。
そのロジックを維持するために努力する。
その努力が、ロジックの形成に貢献する

こういうことです。

結局、何が言いたいのか

このロジックから個人が抜け出すのはとても難しいです。勇気と自信がないと、ロジックから抜けることはできません。

「経済発展しないと、未来がない」

このような、ロジックから抜け出す勇気と自信を育む教育が必要です。

「地球環境を大切にしないと、未来がない」

新しいロジックをみんなで作る必要があります。

人と違うことをする勇気と自信を、小さいころから周りの大人が教える「努力」が必要です。人間一人一人を「種子」として社会で育む「努力」が必要です。人間を「利益製造マシン」に変える今の教育・社会は変わる必要があります。

これは簡単なことではありません。
なぜなら「努力」が必要だからです。

人間には、自らの人生を決める自由があります。
でも、自由には義務や責任が伴います。

その義務・責任とは
「人間らしさを失わない努力」

人間が、人間であることを辞めたら、生きている意味がない。

これに尽きると思います。  

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