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チャンスの神様に前髪しかない理由

「チャンスの神様には前髪しかない」という諺がある。これは、「チャンスは向こうから来たときにしかつかめない」という意味だ。去っていくときには後ろに髪がないのでつるつる滑ってしまい、つかめないという意味である。

違う言い方をすると「チャンスは一瞬しかない」ということだ。それを逃すと、もう同じチャンスはめぐってこない。また別のチャンスがめぐってくるときもあるだろうが、それもやっぱり前髪しかないことには変わりがない。

なぜそうなっているかというと、おそらくこういう原理からだ。人間というのは、絶えずつき合う相手を選別している。自分にとって得があるかどうかを判別しながら生きている。特に、できる人ほどそういう判別をする。そして、できる人は人の判別が上手いし(だからこそ「できる人」なのだ)、逆にいえば、できる人から「こいつはつき合う価値がある」と判断されれば、それだけでチャンスをつかんだといえるだろう。

そうなると、「チャンス」とは「できる人からこいつはつき合う価値がある」と思われることと言い換えることもできる。では、どうすればできる人からこいつは価値があると思われることができるのか? それには、「できる人の人の判別の仕方」を知るのがいい。

できる人がどういうふうに「こいつはつき合う価値があるか否か」を判別しているかというと、それはノリを見ているのである。感性が合うかどうかを判別している。また、その人の勇気や行動力を見ている。

そのため、できる人はよく「試すような問いかけ」をしてくる。そうすることで、相手を判別しているのだ。できる人にとって、誰とつき合うかは死活問題でもある。そのため、人を判断するような行為、人を試す行為はきわめてナチュラルに行われる。

では、実際どういうふうに試すような問いかけをするかというと、基本的には「軽い無茶ぶり」をする。そして、それに対するリアクションを見るのである。そのリアクションを見て、ノリがいいか悪いかを判別する。あるいは、行動力があるかどうかを判別する。さらには、自分と相性がいいかどうか、感性が合うかどうかも判別する。

ぼくも、若い頃にそういう判別を受けたことがあった。あるとき、できる先輩から「岩崎、今度旅行行かない?」と言われたのだ。実は、これがチャンスだった。前髪しかないチャンスの神様だった。ここが人生の分かれ道だった。ここで正しい選択をできたから、ぼくは今でもこうして生きていられる。

そこでぼくは何と答えたか? それは「はい、行きます」だった。しかし、普通の人はこうは答えない。だいたい100人いたら99人が「え、どこへ行くんですか?」と答える。

しかし、それではダメなのである。それではチャンスを逃してしまう。その先輩は、「どこへですか?」と聞き返されたら、「あ、嫌ならいいよ」とすぐに提案を取り下げてしまう。そういうふうに、どこへ行くかによって行くか行かないかを決めるノリの悪い人間とはつき合う価値はないと思っているからだ。そういうふうに情報を闇雲にほしがる人間は、行動力も勇気もない人間と判別され、以降のつき合いを控えられてしまうのである。

しかしぼくは、そこで「行きます」と即答した。だから「よし、行こうぜ」となり、実際に旅行に連れて行ってもらった。そして、その旅行での経験やそこで築いた人間関係が、以降のぼくの仕事の全ての土台になった。その旅行がなければ、今のぼくはなかった。

これは何も、旅行だけではない。例えばご飯の誘いもそうである。「ご飯行こうぜ」と誘われたとき、チャンスをつかめる人間は「行きましょう。どこへ行くんですか?」と返す。しかしチャンスをつかめない人間は、まず「どこへ行くんですか?」と返してしまう。

これはほんの僅かな違いである。しかしその僅かな違いが大きな運命の分かれ道となる。そういう構造になっているから、チャンスの神様には前髪しかないといわれるのだ。

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