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勢いのままに書くこと

自分の中にある勢いを信頼している。

何か他の外的な力がなければ、ものは動かない。歩くためには地面や重力が必要だ。自分一人だけでは、進むことはできない。自分一人だけで何とかしようとしなくてもよい。

毎日書くと何となく決めている。その先に何があるのかは知らない。ただ、言葉の勢いに任せて書いている。だんだん、本当に何も考えずにパソコンに向かうようになっている。書く前にネタは思いつかないし、上手く書けるかどうかもよくわからない。まさに「勢い」という言葉が持つ勢いだけで書いている。

能動的に何かをする事がいい事だと思われる。もちろん人間は能動的な生き物だという事ができる。自分の足で歩き回り、いろいろなものを作り、他の人と交流する。むしろ能動性がなければやってられない。赤ちゃんだって、受動的に見えて能動的だ。お母さんや、周りの庇護を受けるために全力で泣き声をあげる。

さて、能動的とは何だろうか。何かをするときの力の源泉は何だろうか。

エネルギーと言いたいわけではない。確かにエネルギーがあるから行動できるわけだが、それがあるから行動しなくてはならないわけではない。エネルギーがあっても行動したくない時がある。

「こうしよう」という意志の問題でもない気がする。私たちが「こうしよう」と考える前に行動は始まっている。

言葉を書く行為の前に、できる限り何も設定したくない。純粋に「書く」という行為が発火するところを捉えたいからだ。それは、言葉が本来持つ勢いだと言える。

文法のことではない。書いているときには、あまり文法など意識していない。おそらく文法とは、言葉が書き連なっていく様子を外から見たときの法則性にすぎない。言葉自身が持つ、言葉の形ではない。だから、詩は文法から脱出して言葉の勢いを作動する事ができる。言葉が持つ根本的な質感を考えると、決まり切った文法のルールを守ることは目を曇らせる。過去に定められたルールではなく、今自分の目の前の言葉がどこに行きたがっているのか、何を意味しているのかが詩的な空間では重要なのだ。

そのときには、自分の身体的な限界も言葉の世界を捉えるのには邪魔になる。だから、詩人はギリギリまで自分の詩を推敲する。自分が書いたことを信用しない。自分が書きたいことではなく、言葉が書かれたいことを書く。言葉が言葉によって作り出す純粋な世界というものがあるのではないか。人の感情や、都合とは無関係に展開される言葉だけの世界。

書く人が、言葉の限界を定めてしまうと、言葉そのものの形は見えなくなる。それは書く人が切り取った形にすぎない。言葉の純粋な世界を想定すると、言葉が求めている形は、書く人の限界とは無関係だ。それは、とても一日で書けない量の言葉であったり、自分の頭ではどうしても思いつけない言葉であったりする。

大抵のことは、その両極の間にある。つまり、言葉それ自体が持つ法則などわかるわけがないし、人に伝わる文章であればそれでよい。むしろそれで満足だ。そのような言葉の運用も、限界と向き合うということの一つだろう。

今まで私は、書くことが好きだと思っていたが、実は好きだという言葉で表現するのは相応しくないのではないか。おそらく書くことは、それでも手段に過ぎなくて本当は言葉そのものが好きなのではないだろうか。

「書きながら考えること」は、書くことを手段ではなく目的とする。書くために書く。しかし、それを続けていると書くために書くという円環が別の何かを作っているように思う。閉じているはずの円環が外側からの力を受けて動いているように思う。だから、無目的であることを装いながら、実はどこかに到達したいのではないか。それがうすうす見えてきたから、「書きながら考えること」は何かの手段になろうとしている。だから、書く事が好きだと単純にいうことは相応しくないのではない。自分を書くことに向かわせ、突き動かす勢いというものに身を任せるのが好きなのではないか。

勢いに任せて書く。枠に収めようとして書いていないから、散逸する。途中で終わる。 ただ、これが書くことの本来的な形であると思う。何かの力を借りるということの宿命なのだと思う。自分のものではないから、思い通りにできない。そのことに謙虚にならなければ、それは表現にならないだろう。身を任せつつも、それが自分の望んだ動きであるかのように踊らなくてはならない。

最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!