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変化の過程にこそ価値がある

自分が書いている文章は、深いというより浅い。その場限りのことしか言っていない気がする。重いというよりも軽い。文字数は多いが、対象の表面をなぞっているだけで、深まらない。

その場限りの価値を求めている。ライブ感を文章に求めている。目の前で話されたような言葉で文章を作りたい。読んでいる人と、同じ時間を生きたい。

これから書かれる言葉は変化していくだろう。

何かを記録することが、言葉を書くことの本来の目的だった。これにより、過去の人の考えたことを保存できる。読む人は、時間を超えて書き手と関われる。言葉は古びる。しかし、その淘汰の中で古典が生き延びて読み継がれる。生き延びるのは強い文章だけだった。どの時代にも普遍的な価値を持つ文章だけだった。

例えば、その歴史の中では何気ない言葉はないことになってしまう。誰かが残した日記や、メモ、手紙はいつか文脈となるものを失い、断片的な情報になってしまう。

今、言葉が生まれた瞬間に読まれることが可能になった。インターネットによって、誰もが言葉を発信できるようになった。紙の上ではなく、電子の空間では誰もが本を作り出すことができる。書いてから、読まれるまでの速さはほとんどゼロにまで縮小された。

書かれた言葉は、記録するためのものから姿を変えようとしている。それは、声のように発された瞬間に消える。物理的な質感ではなく、通り過ぎた感覚が残る。それは、死んでいく言葉であり、また同時に生きている言葉である。書き言葉が、声のように同時にその場にいる人だけに届く形態で運用されるようになった。

未来を想像する。声ではなく、テレパシーで会話するようになった人間。その時、書き言葉は何をしているのだろうか。離れた場所への情報の伝達としての役目はなくなる。テレパシーは、おそらく話し言葉で行われるだろうから。おそらく残るのは、スローな価値だ。簡単には伝達できないこと、すぐに理解できないことを示すために書き言葉が残る意味があるだろう。動くことがないものの余白に意味を見出す取り組みは、少数派になれど、アイデンティティを失うことはないだろう。

書き言葉は、変化の途上にある。読まれ方と、書かれ方が急速に変化している。速く書かれた文章はスローな価値を生み出せない。どこまでも、その場限りである。声のように柔らかく、書き言葉は揺れ動いている。時間の流れる速さにしがみつくように、変化を強いられている。書き手は歌い続けなくてはならない。歌ったらまた、明日も歌い続けなくてはならない。スローではない価値から決別した書き言葉は、ライブ的な価値を追求するようになる。今の場で書かれていること。その一瞬の輝きを発して言葉は、生まれて、死ぬ。

やがてその繰り返しの果てに、書き言葉は完全に私たちが話している「声」と同じになってしまうだろう。テレパシーで繋がる世界では、わざわざ書き言葉で話す必要はない。例え、文語体で話したとしても、書き言葉風の口調に過ぎないとみなされてしまうだろう。その時に、刹那的な時間に適応しようとすることは実は新しいものを生み出さなかったと気がつくだろう。残るものは、変化の過程だけだ。すなわち、書き言葉と声の中間。人々が、時間の流れの中で書き残し、忘れ、また明日同じように書き続けた言葉が、残るだろう。

その変化の果てに、声と書き言葉はもう一度、決別する。今まで静かに深いところで身を潜めていた古典たちが、重低音で唸り出す。めくるめくメロディーの裏に隠されていた基層が、響き渡るだろう。

その変化の途中で、私は迷っている。どちらに進むべきか。ゆっくり行くか、はやく行くか。今は、書いていくことしかできないだろう。選ぶことはできないだろう。そうやって、言葉の大河の流れに流されているのを感じる。

私にできることは、書くことを楽しむだけだと、思う。大きなことを忘れて、ただ自分の胸の高まりを味わいたい。いくら考えても、ひとまわりしてここに帰ってくる。

書くしかない。その変化の過程にこそ、価値があると信じている。

最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!