「わたしではないわたし」制作日記2021/01/13

最近のわたし、と言っても三日ぐらいの範囲をわたしは「最近」と書いているのだが……(最近ってなんだろう、という話に行く前にちょっと書くことがある)。

最近のわたしの書くことを進めているものは、「どうしょうもないこと」だと思う。

「どうしょうもないこと」をそのまま書くと、文章になると思っている。ただ書いていると、腰が痛くなって疲れてきたり、指が痛くなったり、窓際でぽかぽかとしながら心地よくなったり、眠くなったり、昔のことを思い出したり、時間が来て書くのをやめなきゃいけなかったり……する。それをただ単に書いていればいい。

ただ書く、ということをやっていると書くために何かをこしらえる、という発想がなくなる。ただ書くことをやっていると、「書く」ことのしょうもなさに気がつく。下手でもなんでも言葉を並べれば書くことなのだ。そうした諦めの中に、言葉がにじみ出してくる源泉があるとわたしは見つけた。

「書く」ことがしょうもなくても言葉を思いついてしまうのである。何も書く気がなくても、なんだかnoteのエディターを開いて見つめていると、勝手にキーボードを叩き始めている。「思いついちゃった」のだからしょうがない。これが書きたいから、という理由ではなく、湧き出たもの、しみ出たもの、漏れ出したもの、それがわたしの言葉である。

でも、それでもいい。「しょうがない」ことには不思議な説得力がある。あんまり人は動かさないけど。「あくび」が出てしまったら、あくびするしかない。「トイレに行きたい」と誰かが言ったら、「いやいや」と否定する人はいない。(トイレを我慢する人はいるかもしれないけど。)眠くなったら、寝る。noteを開いてエディタを開いたら書いてしまう。

最も低いハードルから言葉を出す。

高いハードルを超えてきた、「すごい言葉」よりも、生み出すのが簡単だ。「すごい言葉」は伝われば「すごい」のかもしれないが、たまに伝わらなかったり、「すごい」だけで避けてしまったりする。それに、しょうもない言葉の方が多分誰かに頷いてもらいやすい。「おはよう」と言ったら「おはよう」と返してくれる感じで、浅く伝わる。

自分の全てを、正確に伝える必要はないのかもしれないな。いや、その前に、わたし自身でさえ、「自分の全て」を知らない。むしろ、自分の全てを伝える、と思ってた頃は、「伝える」というのは、ただの手段だったんだな、と思う。「自分の全て」を見つけるための。それが素晴らしいものであり、誰かに伝える価値があると思うための。しかし、そんなものがなくても書くことができる、と「自分の全て」を書き尽くそうと思っているうちに気がついてきた。

わたしの最近、というのはほんの三日間ぐらいのことを言う。わたしのわたし、とは、このディスプレイに表示されている「わたし」という文字列のことを言う。たった、三文字。「私」と書けば、たった一文字。そのことを、わたしはわたしだと言う。肉体も思い出も、精神も重さもない。「わたし」がわたしと言うことでいいのではないだろうか。それが「わたし」の全て。そして、他は、他の文章にあれこれ書いてあるのは全部おまけで、しょうがなく書いてしまったもの。それでいいのではないだろうか。

わたしの最近、がほんの三日間ぐらいならこの「わたしではないわたし」の中に、わたしは十個ぐらいの最近を詰め込んだのだと思う。うつらうつらしているのがわかっていたから「制作日記」を書いた。くだらないとわかっていながら、くだらなさを記録することを文章に託した。くだらないからこそ書くし、そこからしみ出てくる言葉を待った。「わたし」と書かれるたびに「わたし」が違うのならそれはどんなものだろう。

しょうがなく書いてしまう、というのはなんだか心強い。

最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!