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【鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎】壮大な寓話。深い絶望と、確かに提示された救いの契機【アーカイブ】

※2023年12月10日にX(ふせったー)に投稿した記事です。

原作好きの家族に連れられて『ゲゲゲの謎 鬼太郎誕生』を観に行った。

ゲゲゲの鬼太郎のことは本当に何も知らず、主題歌と、鬼太郎が前髪長い少年のイメージなことと、目玉おやじとネズミ男の名前くらい。
目玉おやじのビジュアルも検索してあーこれか!となるレベルだった。
当然鬼太郎と目玉おやじの関係や「水木」なる人物の存在についても知らなかったので、映画館に向かう道すがらそのあたりの基本情報を教えてもらった。

目玉おやじが鬼太郎の実の父親(の目玉)だと聞いて「えええええ!!?そうなの?!!!!」となり、その父親が目玉になる前(表現…)に、鬼太郎の育ての親である水木と出会う話、いわば鬼太郎誕生までの前日譚が今回の映画なのだと聞いて、それはエモーションが爆発するやつでは????となった。
俄然興味を惹かれつつ、ともあれ映画を観た。

想像を遥かに超える映画だった。

まずもって水木とゲゲ郎のキャラと関係性がめちゃくちゃ良い。全方位に良い。多数派と少数民族とのバディ的関係性が最高に良い。
お互いがお互いと出会って変わっていく様子、背反する関係性の中でそれぞれの目的を持ちながらも、共通の敵を見出し共闘するという流れがたまらない。

それ以外のキャラの良さ、哭倉村の吐き気のするほどのリアリティ、昭和31年という時代の緻密な描き方、タバコや吐き気を催す水木といった「信頼できる」語り方、入れ子の構造に原作との鮮やかすぎる接続、映像と音の美しさなどなど、原作をほぼ知らなくても関係ないほど完成度の高い映画だった。

でも個人的に何よりも強く感じたのは、この映画はこの国の壮大な寓話である、ということだった。
深い絶望と、同時に救いの契機も示した作品だと思った。

2023年というこの年に、どういうふうに感じたのか、できる限り書き残しておきたい。

なお、映画は(まだ)一度しか観ていないので記憶違いがあるかもしれないということと、あくまで一鑑賞者の感想であり、感想や解釈に正解はないことを断っておきたい。妄想も多分に入っています。

まず、映画全体としては主に3つの時間軸がある。

①水木が経験した戦争の時代
②水木とゲゲ郎が哭倉村でたたかう昭和31年(「もはや戦後ではない」の年)
③鬼太郎が哭倉村の廃墟に乗り込む時代

これに

④我々が公開された映画を観ている2023年

を加えた時間軸を下地として置いておく。あまり使わないかもしれないけど。

その上で、この映画を動かす原動力のことを軸に考えたい。
龍賀時貞の真の力の源泉であり、沙代さんの力の源泉でもあり、もしかしたら水木を否応なく駆り立てるものでもあり、あの世界の原動力。

そしておそらくは『ゲゲゲの鬼太郎』という世界自体を駆動する力。

それは「怨」。
怨念である。

●水木と怨念

冒頭、夜行列車に乗る水木には「大勢憑いて」いる。ゲゲ郎が指摘する。

何が憑いているのか、明確にはわからないけれど、終盤で沙代さんには彼女が殺した人々が憑いていたことを思うと、きっと彼の参加した戦争と無縁ではないだろう。
戦争の経験を経て、弱き者は容赦なく踏みつけられることを知った水木は「力」を求めた。自分の力で這い上がる。「それ以外のことは俺には」と。
そんな水木の背後には、大勢の怨念が憑いていた。死相が出ていた。「この先地獄が待っておる」。

死相とは、なんだろうか。

この後哭倉村に乗り込んだ水木が、生命さえ危ぶまれるほどの何かに巻き込まれる、ということの予言めいた暗示だろうか。
たしかにそれもある。でもこの言葉にはもう少し深い広がりがあると想像したい。

戦後以降の水木のようなサラリーマン、高度経済成長を支えた「24時間戦えますか」的サラリーマン(つまり平成のおじさん世代)の多くには、ゲゲ郎に言わせれば、死相が出ていた、のだろうと想像する。

血液製剤Mは、国力で劣るこの国を日清日露の勝利に導き、経済的な発展の基礎も築いた。戦争が終わってからも、特定顧客にのみ卸される形で流通は続く。
血液銀行の社長は、何とか我が社もMをと願い、「戦争はまだ続いているのだよ」と語る。

その通り、銃器と兵器による国同士の戦争は、経済発展という戦争として、企業という軍隊の中で継続する。「もはや戦後ではない」というメッセージとは逆説的に。
弱き者は相変わらず踏みつけられ、使い捨てられる。戦えない者に価値はない。戦争のしわ寄せは銃後の家庭へと向かう。
企業戦士たちは「Mを打つ」という例えで表現されうるような形で、限界を超えながら働くことを半ば自ら選択していくようになる。その結果の経済発展である。

そういうふうにして、水木本人が語るように、のし上がって「力」を得た先にあるのは一体何か。

強いて言えば「死」である。「力を得たうえで死ぬ」ということである。
そこからこの思想は、「何かを成し遂げて死にたいと願う思想」「死の瞬間に何者かでありたいと願う思想」にもつながっていく。

戦争という巨大な暴力に晒されたあの時代の人々は、きっと水木のように数知れぬ怨念を背負って生きていた。
怨念は死を囁く。「殺せ……俺を殺せ……!!」。
死ぬならば、せめて何かを成し遂げて死にたい。捨てられるのではなく堂々と死にたい。死してなお、後に何かを残したい。

あるいは行き着く先は「代わりの誰かの死」かもしれない。
戦地で部下に大義と本望を説き、自分だけは生き残ろうとしたあの男のように。
「力」が強ければ、自分は生き残ることができるかもしれない。
では生き残ることができたなら。何が待っている?

終盤に斧を引きずって対峙する水木に対し、時貞は「会社を二つ三つ持たせてやる」と言う。良い服を着ろ、高い車を買って美酒と美食に美女を楽しめ。

「これぞ、人生ぞ!」

「力」を得た先にはたかだか、こんなものしかない。こんなものしか。

時貞の言葉に対して「時貞……お前つまんねえな!!」と唾棄する水木は、時貞の言葉にかつての彼自身が辿ろうとした道が行き着く先を見たかもしれない。

「この先地獄が待っておる」

ゲゲ郎には水木の乗ったレールの先に、そういう終着が的確に「見えて」いたのかもしれない。

ゲゲ郎が岩子さんを想う巨大な力を目の当たりにして、目の前で救いを求めてもがき苦しむ沙代さんを目の当たりにして、水木は「生き延びるための思想」を手にした。
目前にある愛しさや苦しみに向き合いながら、つまらねえ方向にではなく、血の通った道の上で生き延びていくこと。

それがのちに、鬼太郎の物語へと繋がっていく。

●沙代と怨念

沙代さんは最もわかりやすく、怨念に駆動されている。

改めて書くのもおぞましい所業(それは直接的な行動だけでなく、そのようなことを可能にする価値観や視座すべて)によって沙代さんは依代、怨念と繋がる存在となった。怨念を従えて、正当防衛的に復讐を果たした。
ただし元凶たる時貞には手が届かなかったし、復讐に身を滅ぼす結果となり、救いある最期だったとは言えない。銀座のパーラーにも行くことができなかった。行かせてあげたかった。

この家で沙代の置かれた立場を「おぞましい」と言うのは簡単で、「特異な因習村の出来事」として外部化するのも簡単だ。
でも、いみじくも沙代自身が「知っていた。東京もこの村と同じ」という言葉で語るように、これは決して「特異な因習村の出来事」ではない。

ニュースになっているかどうかにかかわらず、現代でもこの国のそこここで起こっていることであり、かつ沙代の経験そのものと同じ形はとっていないように見えても、常に起こっている。
今もこの小綺麗な社会の中で多くの沙代が、死ぬ思いで生きている。

不穏と謀略に満ちた哭倉村において、終盤まで、沙代の描かれ方はある種異様だった。
簡単に頬を赤く染め主人公に助けを求めて縋るような「純粋無垢な美少女ヒロイン」というアニメ的ステレオタイプの描かれ方が、終始不穏な空気漂う村の中では浮いていたし、同時に解像度の高い緻密に考え抜かれたこの映画自体の中でも明らかに浮いていた。
万が一にもこのまま終わってしまったら、他がどんなに面白くても沙代に関してはモヤモヤした後味が残るだろう、と思いながら自分は見ていた。

だから終盤それが見事にひっくり返され、沙代の宿した怨念=狂骨が、囚われた人間たちを解放しながら全てをグロテスクに破壊した時には、辛いながらもどこか安堵するような気持ちもあったのは確かだった。

そういえば、このシーンで屍人たちはベッドから解放された後いったん沙代の狂骨の下腹部に集まる。下腹部は膨張し、ついには弾けて小さな狂骨(?)たちが生まれ、人間たちを取り殺す。
どうして彼らはいったん集まったのだろうと思っていたけれど、沙代の狂骨が(龍賀の子、ではなく)巨大な怨念をこそ腹に宿し、そして復讐、殺戮の徒として生まれ直させたのだと考えるとすっきりする(すっきりはしない)。

それから沙代が時麿以下親族たちを殺害するにあたり、必ず左眼を潰していることにも気がついた。
鬼太郎の潰れた左眼、ゲゲ郎の左眼から目玉おやじ、というところときっと繋がっているのだろうと思いつつ、それ以上は深められていない。

ただかつて名探偵コナンオタクだった私には「執拗に左眼を狙う」というフレーズで思い出される人がいる。ものすごくどうでもいいのですが。
人の左眼って何か特別な意味や由来があるんだろうか。

閑話休題。
ここに至るまでに沙代の行動がもたらしたグロテスクな景色の数々は、そのまま沙代を取り巻くグロテスクな景色の写し鏡である。
それはまさにこの社会の沙代たちを取り巻くグロテスクさであり、沙代に宿るのはそうしたグロテスクさに魂を取り殺されてきた怨念たちであった。
だから半ば現実離れしたグロテスクな描写が現れれば現れるほど、恐ろしいほどに「リアル」だと感じて、背筋が寒くなった。

沙代がすべてを破壊して、自らも灰となって消える。
ここで映画が終わったとしても、それは一つの終わり方としてあり得たかもしれない。復讐を遂げて、世界を破壊して終わる。水木とゲゲ郎の結末の方をうまく処理すればたぶん形になる。

でもそうではなかった。

●時貞と怨念

水木とゲゲ郎が時貞と対峙するラストは、とりわけ寓意に満ちていた。

時貞は、長田や沙代とは比べ物にならないほどの数の怨念=狂骨を使役することで自らの脆弱な肉体を補っている。
この無数の怨念の正体については、たしかこれまでに捕らえられ殺された幽霊族たちだということが示唆されていた。ということを前提にはしつつも、これはあの戦争で亡くなった人たちの怨念を含んだ概念ではないか、と思った。

暴力のもとでは、弱い者ほど犠牲になる。
まるで「井戸に捨てられるように」奪われた命たちの怨念が、遥か昔からあの穴蔵には溜まっていった。戦争によって財を成した時貞は同じ戦争によって殺された人々の怨念=狂骨を使役することになった。と自分は考えた。

もちろん、人間が増えてから地下に隠れて暮らすようになり、最終的に裏鬼道に殺されることとなった幽霊族たちもまた、弱い者、周縁者であった。

①の時代の戦争が終わってから、②の時代、「M」の力によって龍賀家は栄華を極めた。同様にこの国も、躍進的な経済成長を遂げ、人々は豊かになった。文化も発展した。
その繁栄の象徴が、あの「妖樹」血桜である。
この木が他ならぬ桜の木であることはもちろん偶然ではない。

水木とゲゲ郎が何本もの鳥居を潜り抜けたその先には、満開の巨大な桜が咲き誇っていて、その根にはたくさんの幽霊族が拘束されていて、その人たちは死なない程度に苦しみながら生かし続けられていて、その血が少しずつ吸い上げられて桜の紅を一層色づかせていて、時貞が一人高みでくつろぎながらその桜を愛でている。

この光景は、もう、どこからどう見ても戦後の、現在の、この国の姿そのものである。

先にも書いたように、幽霊族とは、外部化された周縁の民に他ならない。弱い立場に置かれ、特権階級的支配者層に生き血を啜られる者たち。
でも実はこの者たちの血こそが、龍賀を発展させ、富ませている。《税》や《労働力》のような具体的なイメージを挙げなくても今の時代を生きる者であれば様々に思うところがあるはずだ。

暴力のもとでは、弱い者ほど犠牲になる。
資本主義と自己責任論に基づく支配もまた、暴力である。

何より登場人物たちの台詞の端々に、この寓意を物語る構図が仕込まれていると感じる。

時貞は自らを「国」の目覚ましい発展の立役者であると言う。乙米も同様に、父親こそがあの屈辱的な敗戦からこの「国」を立ち直らせ、再び栄光をもたらすのだと信じて疑わない。その大義のための犠牲なら本望であろうと。
時貞や乙米が着るモビルスーツは、龍賀の家ではなく、この国、なのである(劇中では具体的な国名ではなく「この国」という言葉が一貫して使われていたような気がする)。
事は「特異な因習村」の中だけの話では全くない、むしろ「国」の問題であることが明らかになっていく。

岩子さんの妊娠が発覚した場面では、時貞は「欣喜雀躍」という四字熟語がぴったりの様子で小躍りしながらこういう。

「手間が省けた」と。
これでまたこれからも血を取り放題だと。

「手間が省けた」。
②や③を含んでいた寓意は、もはやここに極まり、どこからどう見ても現代、つまり④に至った。少子化を嘆く為政者(家父長)が「手間が省けた」と小躍りしている姿とオーバーラップする。

その後にゲゲ郎が叫ぶ「お前に命を預かる資格はないわ!」という言葉。

最初、命を預かる資格、という表現に違和感を覚えた。ゲゲ郎から見て、時貞は命を預かっているわけではなく、単に無法に拘束しているだけではないのか、と思ったから。
でも、上に書いた流れを踏まえると、この台詞は、もはやここに極まった寓意が一段メタになって、思わず飛び出してしまった言葉ではないか、と考えた。
つまり④の時代に「命を預かる」者たちに対して、制作者、そして水木しげるの魂を背負ったゲゲ郎が渾身の力で投げつけた言葉だったのではないかと。

水木が根に斧を入れると鮮血が吹き出し、それと呼応するように妖気にあてられた水木自身からも血が吹き出る。

戦争の経験を元に「力」を得ようとして必死でのし上がろうと働く水木は、時貞から見れば、国から見れば、ここに囚われた幽霊族たちと同じだった。戦争が終わり、今度は自分自身のために身を削っていたつもりが、結局は国の「力」になっていた。そもそもMの調査のために過去にも社員を送り込んでいたことが示唆される冒頭の血液銀行の場面を想起するまでもなく、水木もまた使い捨ての駒でしかない。「戦争は続いているのだよ」。軍隊と同じだった。血が吹き出せば吹き出すほどに、そういう現実の残酷さ、グロテスクさが画面から迫ってきた。

時貞の姿かたちもグロテスクだった。
子どもの無垢な魂を追い出して身体を乗っ取り、身体がいつまでも子どものまま生き長らえる。開き直ったような喋り方も含めてとてもとてもグロテスクで、同時に嫌に既視感があった。
死の直前、制御を失って襲い来る狂骨に対し、度を失った時貞は「かよわい年寄りを……」と命乞いする。これもまあよく見る変わり身の術である。


ここまで、怨念という軸で、この作品に込められていると自分が感じ取った寓意を書き連ねてきた(ここまでの文章自体が「怨!」という感じでなんとも暗くなってしまった感は否めずすみません)。

実際、映画を観ながら暗澹たる気持ちになった。血に塗れながら岩子さんを探す場面などは絶望感が押し寄せた。

でも、戦争に始まり現代に至るまでの怨念たちをフィクションとして描くにあたって、この絶望感はむしろ誠実さでもある。怨念たちを取り巻くリアルを誠実に、解像度高く掬い取ること。この映画はしっかりとそれを行っていた。だからこそ、どれほどネガティブでも、どれほどグロテスクでも、過剰だとは感じなかった。
絶望と同時に怒りを感じた。それは制作者が相当な立体感を持って感じ取っている怒りであり、そしておそらくは、原作者が抱いたであろう怒りでもある。

これが直視しなければならない現実である。見事なまでの寓話。

でも、この映画が本当にすごいのは、そこからさらに一段進んでいるところだと思う。怒りや絶望の深さと同時に、考え抜かれた「救い」の道を提示してくれている。

「救い」の中心となるのが、これまであまり触れてこなかったゲゲ郎という存在であり、そして鬼太郎に連なる「子どもたち」の存在である。
ここからは明るい話をしたい。

●救いの契機

思えば、この映画は冒頭から救いの契機を孕んでいた。

村へと向かう列車の中、タバコの煙の充満する車内で咳き込む女の子が印象的に描かれる。
「昭和31年の夜行列車の車内はタバコの煙で満ちていた」という事実を元に、それを正確に描くことは簡単だ。事実を描いて何が悪い?と開き直ることも。でも、そこにあの女の子を登場させることで世界は一変する。それこそが人の手による「表現」というものだと思うし、我々の普段の発話一つ一つにまで通ずる本質的な点だと思う。

Mの製造方法も同様に「表現」だと感じた。
幽霊族の血をそのまま精製することでMができる、という設定にしても良かった。それでも大筋やラストは変わらない。

でも間に人間を噛ませた。幽霊族の血を直接人間に打つと屍人化してしまう。だからいったん屍人化した人間から採った血を精製することでMを作る、とした。しかもその人間とは、村の外側の人間である。

ここにおいて我々は、傍観者ではなくなる。
「かわいそうな幽霊族」の話でも、「特異な因習村」の話でもない。我々も当事者である。となる。
特に「かわいそうな幽霊族」的認知は、マジョリティ属性の人間によく見られるもので、この先にあるのは「彼らにはそうなる原因があったのだ」という公正世界仮説の昏い淵だ。
その道を遮断し、そうではない、誰もが当事者になり得る、ということを明確にした。Mの精製過程に屍人を噛ませるという「表現」が、ここでも本質を衝いていると感じる。

こういう「表現」の端々が、絶望に落ち込まない、救いへの契機を作る。端緒となる。細かいことのように思えるかもしれないけれども、細かい部分にこそ魂が宿る。マイクロアグレッションという言葉もある。

●ゲゲ郎

そしてゲゲ郎である。

端的に言えば、彼を通して、これまた救いの契機となるような未来の成人男性像を見た気がした。

仕事をせず、企業の論理に乗っていない。争いを忌避し、戦争の論理に乗っていない。行動原理は戦争ではなく、力ではなく、直截的な言い方をすれば「愛」である。岩子さんのことを想い、そのためにこそ行動する。目の前の人、とりわけ弱き者に対する愛が彼を動かしている。④でもわりとそうだけれど、とりわけ②の時代にあっては、こういう成人男性は稀有な存在だったことだろう。「こいつは負け犬だな」という水木の言葉。

中盤までかなり距離感のあった水木とゲゲ郎の関係、特にゲゲ郎から水木への、憐れみ以外は無関心を貫くような態度からすると、墓場で突然ゲゲ郎から水木を飲みに誘った行動には唐突な印象も受ける。

でも、これはまた個人的な解釈だけれども、ゲゲ郎を動かす唯一の行動原理、弱き者への「愛」が、彼を動かしたのではないかと思う。
彼の言葉のその通り、沙代さんから水木に向けられた真剣な気持ちを水木が無下にしようとしているのを、どうしても見逃すことができなかったのではないか。
「それだけはやっちゃいかん」。この言葉がすべてであって、そこから二人の仲が深まったのはあくまで副産物だったように思う。

そして終盤。

時貞が斃れた後(ぷにぷにになった後)、あれほど捜し求めた岩子さんを水木に託し、彼はここに残ると言う。放っておけば狂骨が国を滅ぼしてしまうからと。
軍隊の論理から解放された水木は(「ツケは払わなきゃなァ!!」)、それでも良いではないかと言う。こんな国どうなろうが放っておけばいい、お前が犠牲になることはないんだと。観客の多くもたぶん一瞬彼に同意する。自分も。ゲゲ郎、あなたは十分頑張った、時貞も巨大な狂骨も倒した。あれほど捜していた岩子さんも解放できた。もう良いではないかと。

でもそれに対してゲゲ郎は、我が子の生きる世界だから、自分が引き受けなければ、と答える。子どもがこれから生まれ落ちて生きる世界を、どうなろうが放っておけばいい、と投げ捨てるわけにはいかない。

そう、子どもこそが救いなのだ。どんなに絶望的な状況でも、どんなに深い怨みを世界に対して抱いたとしても、すべてを滅ぼして終わるわけにはいかない理由。「このクソみたいな世界をいっそ壊してしまおう」という、明快で爽快で安直な道ではなく、不確かで面倒な、地べたを這いずりながら一縷の希望を見出すような選択をしなければならない理由。

お腹の中の鬼太郎の泣き声が、瀕死の幽霊族たち、ご先祖たちの力を呼び覚ましたように、子どもの泣き声こそが力になる。
死と地獄への道である血液製剤Mの裏返しであるかのごとく、子どもの泣き声こそが人を動かし、力を与え、生を与える。相も変わらず続けなければならない、未来を与える。

ゲゲ郎の行動原理は最後まで一貫していた。
自分と同じ幽霊族たちを、迫害し続け、ほとんど絶滅に至らしめた人間たちの国が、このまま放っておけば滅びる。ゲゲ郎の中に人間への怨みというものがどの程度あったのかは計り知るべくもないけれど、その状況で国を救うことと引き換えに自分一人が身を滅ぼすという選択を迷いなくできるのは、彼が常に愛する者、弱き者のために行動してきたからに他ならない。その行動原理は、おそらくは岩子さんから。
瀕死の自分とお腹の子を残してそのような選択をしたゲゲ郎のことを、岩子さんはきっと理解しただろう。
これはヒロイズムではない。むしろその対極にある。

生まれる子どもが生きるこれからの世界のため。
「それに、」と言いかけたゲゲ郎の言葉の続きは、
水木の生きる世界。「おぬしが生きる世界。この目で見てみとうなった」。

もう。言葉もない。

軍隊の論理から解放された水木。かつ、世界を滅ぼすのではなく、不確かでも厳しくても格好悪くても、生き延びて、未来の子どものために「引き受ける」道を選ぶということ。その道を示したうえで、生き延びること、生き延びさせることを水木に託す。かつて戦場で戦い、暴力に晒され、今度は企業戦士となり、絶えず怨念たちが囁く死の呼び声と戦いながら生きてきた水木という相棒、おぬしはこの先どう生きるのか。

その水木の中には、同じように戦ってきた戦後以降の人間、特に成人男性の姿が含まれていて、彼らが、この映画で提示された、地獄への道とは別の道を、選び取り、どう生き、どんな世界を作るのか。

これは作り手から、原作者の魂を水木の中に描き込んだ作り手から、④の時代の観客に託された「君たちはどう生きるか」という言葉でもある。

目玉おやじとしてその後の世界を「この目で見る」こととなるゲゲ郎。
彼の目に世界はどう映っているのか。

その一端はエンドロール後のラストに垣間見える。

●ラストシーンと「忘れない」こと

ラストシーンについて、最後に少し。

復讐のために「世界を滅ぼす」道を採らず、なおも生き延びて子どもたちのために、世界を可能な限り良いものとして残す。
ゲゲ郎によって示された救いの道には、どうしても向き合い切れない相手がいる。と思う。

それは、この文章でずっと取り上げてきた、「怨念」たち。
計り知れない苦しみや痛みを受けながら死んでいった、死してなお怨念として残った、無数の怨念たち。井戸に捨てられるように軽々と捨てられ狂骨となった命たち。未来を絶たれた子どもたち。沙代さんや時弥くん。
彼女ら彼らにそんな仕打ちをした世界をそれでも滅ぼさない、という選択をする時、彼ら彼女らの怨念はどうなるのか。

ラストシーンは、我々にできること、いや、これしかできない、ということを示してくれている。
「忘れないこと」である。

彼女ら彼らがたしかにここにいたこと。その苦しみ、痛み。恐れ。それを想像し続けること。名前、顔、残した言葉。沙代さんの少し恥ずかしそうな笑顔、真剣な眼差し、涙。時弥くんの聡明さ、瞳の輝き、夢、「頑張り甲斐があるってことだよね」という言葉。

それらすべてを「忘れない」こと。
それしかできない。

どうにか続ける生活の先にある未来で、それしかできないそのことを忘れたくない。

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