見出し画像

正しさを知るために言語を捨てよう

※連休中に完成しなかったので途中で公開します。気が向いたら追記します。というか書いていてもう一冊読む必要が出てきて心が折れました。気、向くのか?(22/11/05)


    許せるか否かの基準は非常に曖昧だと思う。その時の状況に強く影響を受けていまう。自称おじさんから他称おじさんに変わってしまった僕は、昔に比べて許せることが増えたように感じる。今の僕は、我儘を言っても許される性別が我儘を言うことを許せるし、自己憐憫をしても許される方の性別が自己憐憫をしても許せるくらいに、寛容という名詞が似合う人間になった。ある種の構造的解釈を部分的にも採択したからだろうか。しかし人には絶対に許せないことが存在する。どんなに寛容さに蝕まれても、僕は「恣意的な引用」で自己正当化する輩が許せないのだ。
    「恣意的な引用」は所謂誤謬の一種であり、引用元の文脈を無視し、都合の良い形にして使用することである。僕はこれをもう少し発展させ、自己の主張に対して都合の良い引用ばかりすることの意味でも使用している。参考文献等から意図的に文脈を無視した引用を行い、主張の強化を行うことを散見しないだろうか。最近のSNSはこればかりな気がする。「エビデンス」という単語が膾炙して久しいが、誰も引用先まで見に行くことなどしない。僕たちのリテラシーはその程度なのだ。だがこのエントリーはそれをやる。僕も”正しい”ことを書いている錯覚を得て気持ちよくなりたいのだ。本エントリーはこれから重大な誤謬を踏み散らかし、全く意味のないテキストを与えることになる。時間を無駄にしたい人だけが読むことを推奨します。

正しさ

蠍の火

    蠍の火という話を知っているだろうか。宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」で登場する話であるため、知っている人も多いのではないだろうか。

「そうよ。だけどいい虫だわ、お父さんこう言ったのよ。むかしのバルドラの野原に一ぴきの蠍がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。するとある日いたちに見つかって食べられそうになったんですって。さそりは一生けん命にげてにげたけど、とうとういたちに押えられそうになったわ、そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないで、さそりはおぼれはじめたのよ。そのときさそりはこう言ってお祈りしたというの。 ああ、わたしはいままで、いくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだを、だまっていたちにくれてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらんください。こんなにむなしく命をすてず、どうかこの次には、まことのみんなの幸のために私のからだをおつかいください。って言ったというの。 そしたらいつか蠍はじぶんのからだが、まっ赤なうつくしい火になって燃えて、よるのやみを照らしているのを見たって。いまでも燃えてるってお父さんおっしゃったわ。ほんとうにあの火、それだわ」

宮沢賢治.『銀河鉄道の夜』(p.62).青空文庫.Kindle版.

    僕の好きな話の一つである。僕にはどうしたって蠍の思いが”正しい”と感じてしまうのだ。様々な見解があるだろうが、僕の知る限りこの話は自己犠牲の文脈で語られることが多い。例えば僕の愛する『輪るピングドラム』という作品では、ある少女を延命させるために、自己の命を分け与えているシーンが存在する(僕の解釈です)。自己の命を部分的に切り分けた灯火を「蠍の炎」と称しているのだ。(ちなみに同作24話においても「蠍の炎」という単語が登場しているが、意味は同じものと解釈している。とりあえず観ろ。映画は総集編+αであるため、劇場版を観ることもおすすめしたい。上坂す○れの声が許せるのであれば。)

分布的存在の思考

    僕も蠍に倣い、僕の役割を終えたその日には切腹することをここに誓おう。問題なのはその時に僕が自死を選択できるほどに”正しい”思考を維持できているかどうかである。日々老化を実感する中で、思考の連続性について考えることが多い。この件に関しては『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』という映画の台詞が印象に残っている。

人間が人間であるための部品が決して少なくないように、自分が自分であるためには驚くほど多くのものが必要なの。 他人を隔てるための顔、それと意識しない声、目覚めのときに見つめる手、幼かった頃の記憶、未来の予感。それだけじゃないわ、私の電脳がアクセスできる膨大な情報やネットの広がり。それらすべてが私の一部であり、私という意識そのものを生み出し、そして同時に、私をある限界に制約し続ける。

押井守,1995,『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』,松竹

    この台詞は「記憶の一部と自身を構成する物理的なパーツを失えば自由になれる」という提言に対するものだ。つまりそれらを失えば、その前後での同一性を喪失すると考えているのだ。
    思考は脳により実行されていることは多くの人が同意するだろう。一方で最近は腸も「第二の脳」と呼ばれ、思考に影響を与えていると考えられているようだ。どの程度の影響を肉体内のパーツが担っているかは、僕には分からないのだが、少なくとも体調が思考に強い影響を及ぼしていることを経験している人は多いのではないだろうか。つまり実行をしているのが脳であったとしても、その脳に影響を与える要素は存在し、その要素すべてが僕たちの思考を構成しているのだ。これは肉体だけに閉じた話ではないと僕は考えている。影響を単に皮膚により区分しているだけであって、自身の置かれた環境やそれを構成する地域・国家・星とそれらが作り出した歴史は僕たちの思考に影響を及ぼす要素ではないと言うことができるだろうか。イメージとして”思考”は電子雲のように、皮膚境界面外にも薄く広く分布していると僕は考えている。
    仮に僕の考えが正しい場合、思考とは蜉蝣のように儚く脆いことになる。仮に”正しい”思考ができる状態になったとしても、それを維持することは、自身を取り巻く環境を維持する必要があるのだ。しかし多くの人はそれを可能にするだけの影響力などなく、ただ流されていくだけである。だからこそ僕は自身の思考が終了するタイミングを自分で決めたいのだ。井戸に入ってしまう前に自身を捧げる選択が取れるほど”正しい”思考ができなくなったとき、僕を介錯するのは誰なのだろう。そう、それはきっと僕の子孫だろう。

盲目の踊り子

    「子孫」と聞くと僕は必ず『Dancer in the Dark』という作品を思い出す。調べてみると20年も前の作品だった。知らない方のために簡単なあらすじを記載しよう。ある女性は先天的に視覚に障害があり、徐々に視力が衰え、最終的には失明してしまう。その障害は遺伝することを理解した上で、彼女は子供を産んだ。この話を読み、あるいは知っている人はこう考えるのではないだろうか。障害が遺伝することを知っていて何故産むのかと。優生思想とまでいかなくとも、僕たちは大なり小なり優れた遺伝子を残そうとする傾向がある気がする。もしその考えを肯定した場合、彼女の取った行動は称賛されるべきことではないだろう。だがその”優れた遺伝子”を僕たちはどのように判断しているのだろうか。この手の議論は反出生主義に関する議論で良く耳にするだろう(反出生主義の本質ではないでのこれ以上の言及は避ける)。僕は”優れた遺伝子”を決定するのは人間(少なくとも現在の人間)の役割であるという点に関して懐疑的である。最も注目するべきは”優れた遺伝子”の恣意性ではないだろうか。僕たちが勝手に感覚で決定し、子孫の特性の良し悪しを判断することは”正しい”のだろうか。遺伝と恣意性に関しては、僕が昔図書館で借りた『完全な人間を目指さなくてもよい理由-遺伝子操作とエンハンスメントの倫理-』という本が詳細に扱っているテーマの一つである。今回のエントリーに対して引用するために購入を検討したが、残念ながら電子書籍で取り扱っていなかった。今回は購入を見送ってしまったが、非常に面白い本であるため読むことをおすすめしたい。話を戻そう。だがこれはコミュニティの観点が抜け落ちている。確かに”優れた遺伝子”を決定するのは我々でないかもしれない。一方で”優れていない人間”を”社会的”に支えるのは”優れている人間”なのだ。Rawlsの「無知のヴェール」を被った状態では、人が恣意的に遺伝特性の優劣を判断するのは誤りだろう。しかし実在としてのコミュニティは、ある種のゼロサムゲームであり、短期的な存続を考慮すると、”必要悪の恣意性”を否定することは難しい。それらを踏まえた上で、僕は「ある特性が遺伝し、それが社会的にマイナスに働くと分かった上で、子孫を残す行為」を否定する気にはなれない。その理由は『Dancer in the Dark』の台詞を引用したあとに話したいと思う。

愛するジーン、あなたがそばにいる。だからもう、何も怖くない。忘れていたわ。私はひとりぼっちじゃない。これは最後の歌ではないわ。バイオリンの音もしなければ、コーラスもない、ダンサーもいない。これは『最後から2番目の歌』。それだけのこと。ママの言いつけを守るのよ。忘れないで、パンを包むこと

これは最後の歌じゃない。わかるでしょう。私たちがそうさせない限り、最後の歌にはならないの

Lars von Trier,2000,『Dancer in the Dark』

    子供を産んだ彼女が死ぬ直前の台詞だ。彼女にとって死は「最後から2番目の歌」であった、彼女がそうさせない限り。遺伝を考慮し自ら”種”を断つことは、コミュニティにとって英断であるかもしれない。だがどうしたってこの台詞が脳裏から離れないのだ。僕はこれを”正しい”と感じてしまう。もし熱心なBentham主義者が読んでいたのなら申し訳ないと謝っておこう。
    そもそも我々は自ら”優れた遺伝子”を選び、それを増長させてきた時代があったのだろうか。主流の進化論では、絶滅を引き起こすのは「自然による抜粋」である。僕の知る限り、それは生存闘争や自然淘汰という名前がつけられている。

生物の生存にとって有用な変異が実際に起こるとすれば、そのような形質をもった個体は、生存闘争において保存される可能性が間違いなく最大になるだろう。そして遺伝という強力な原理により、それらの個体は自分とよく似た形質をもつ子孫を生むことになる。このようにして個体が保存されていく原理を、私は略して「自然淘汰」と呼んでいる。

ダーウィン. 種の起源(上) (光文社古典新訳文庫) (Kindle の位置No.2251-2254). . Kindle 版.

    もし生存闘争や自然淘汰による絶滅のみが正しいのであれば、我々が恣意的に選び取る行為は正しくないのだろう。だが一方で種の起源には次のような記載がある。

動物の雄と雌が一般的な習性は同じなのに形態、色、飾りなどの点で異なる場合、そうした性差が生じた原因は主に性淘汰にあると信じている。すなわち、世代を重ねる中で、武器、防御手段、魅力などの点で他の雄よりも少しでも有利な雄が出現し、その利点を子孫の雄に伝えたのである。とはいえ、そのような性差のすべてをこの性淘汰の作用のせいにするつもりはない。

ダーウィン. 種の起源(上) (光文社古典新訳文庫) (Kindle の位置No.1638-1642). . Kindle 版.

    これは性淘汰に関する記述であり、紛れもない「個」の選択によって生じるものだ。そして恣意的な”優れた遺伝子”の選択も、性淘汰と同様に「個」の選択の範囲ではないのだろうか。
    そもそもこれを自然淘汰的メカニズムとして解釈すること自体が間違っていることも考えられる。『UNIVERSE 25』という有名なマウス実験では、食料・水が補給される空間に何対かのマウスを放つものである。僕のような素人では、そのような環境は空間の制限の中で、マウスの数が爆発的に増え続けるように予想してしまう。しかし実際には異なる結果をもたらすようだ。

600日以降でも、社会崩壊は継続し、個体数は絶滅に向けて減少していった。この時期には雌は繁殖をやめていた。同時期の雄は完全に引きこもり、求愛動作、戦闘を行うことはなく、健康のために必要なタスクだけに従事した。食べる、飲む、寝る、毛づくろいをするなど - すべて孤独な作業として、である。このような雄はつやつやとした傷のない健康的な毛並みが特徴的で、「ザ・ビューティフル・ワン」と呼ばれた。繁殖行動は再開されることはなく、行動パターンは永久に変わってしまった。

Wikipedia,『ジョン・B・カルフーン』,https://ja.wikipedia.org/wiki/ジョン・B・カルフーン

    僕はこれを超社会性獲得の傾向であるように感じた。実際に哺乳類でもハダカデバネズミは社会階層によって身体的特徴の差が生じているようだ。勿論この実験が全てではないが、超社会性に関しては現社会に思うところがある人もいるのではないだろうか。
    ”優れた遺伝子”を規定し、自ら子孫を残す資格が無いとし、ある種の非生殖カーストに自分を当てはめてしまうことは、自己犠牲に相当するものではないだろうか。それが長期的なコミュニティの繁栄に寄与しなくとも、少なくとも超短期的な効果はある程度期待できそうだ。だが僕にはどうしたってこの自己犠牲が「蠍の自己犠牲」と同質であると感じることができない。この「予感」はどこから来るのだろうか。我々が淘汰的に蓄積された感性であるのか、ないしは累積された洗脳の賜―道徳心―であるのか。単に”正しさ”について僕が何も知らない、ただそれだけであるような気がしてしまう。現に僕はこの言葉を正確に説明することはできない。”正しさ”について語るにはアリストテレスまで遡る必要が出てきそうだが、残念ながら僕には荷が重い。少し別の観点から探ってみよう。


言語思考

アンコンシャス・バイアス

    どうやら僕たちは皆バイアスを持っているようだ。しかし生命活動を営むなかでそれを実感として得るのは難しいように感じる。少し前に流行った本で『FACT FULNESS』があるが、覚えているだろうか。なんとも頭の悪そうな本であるが、世のインテリ共はこぞってこの本を読んでいた。どうやら自らのバイアスを自覚するツールとしての側面を評価されていたようだ。時代的にデータサイエンスとも融和性が高いのだろう。しかし読むべきは25ページまでのイントロダクションのみで良い。僕もそれ以外は全く覚えていない。この本のイントロは13題の3択の設問から始まる。目隠しをして解いたとしても33%ほどは正解できそうなものだが、僕たちのバイアスによりそれは叶わない。

仮に、このクイズを動物園のチンパンジーに出したとしよう。まず、A・B・Cのいずれかが書かれた大量のバナナを用意し、囲いの中に放り込む。私は囲いの外からクイズの問題文を大声で読み上げる。チンパンジーが最初に選んだバナナの文字が答えというわけだ。
もちろん実際にはやらないが、想像してみてほしい。チンパンジーの正解率は33%に近くなる。つまり12問中だいたい4問正解する。先程書いた通り、人間の平均点は12問中2問正解だった。チンパンジーが適当にバナナを拾うだけで、高学歴の人たちに勝てる。
また、それぞれの3択問題には不正解の選択肢が2つあるが、チンパンジーはどちらも同じ確率で選ぶ。かたや人間はと言うと不正解の2つのうち、よりドラマチックな方を選ぶ傾向が見られた。ほとんどの人が、世界は実際よりも怖く、暴力的で、残酷だと考えているようだ。

ハンス・ロスリング,
『FACTFULNESS 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣』,p.16,日経BP社

    人間の正解率は17%ほどであり、チンパンジーよりも悪いらしい。ざまあみろ高学歴共。お前らは所詮ペーパーテストで点数を稼ぐ能力が高いだけで、世の中の解像度は低いミジンコなのだ。ちなみに僕もチンパンジーに負けました。だがこの本は僕たちに強い影響を与えることができなかったようで、最近あったパンデミックではデータに基づかない決定が繰り返し行われていたように感じる(僕の解釈です)。
    これほどに僕たちはバイアスによって支配されている思考しかできないのであれば、恣意性を取り除いた”正しい”選択などできるのだろうか。自然淘汰により生得的に獲得したバイアスと、少しばかりのプロパガンダを含んだ情報を積み重ねて得た後天的なバイアスにより、僕たちは常に歪められた思考をしてしまう。

奇跡の人

    目と耳に障害があるヘレン・ケラーの話をしたいと思う。僕は別に彼女の人生に何か物申したいわけではない。彼女の崇高な人生に唾を吐くほど、僕の人間性が地に落ちてしまったわけではない。単に彼女があの有名な「気付き」を得る前後の思考の在り方の変化が知りたいだけである。

先生は私の手を井戸の口にもっていきました。冷たい水の流れが手にかかると、先生はもう一方の手に、はじめはゆっくり次に速く「水」という字を書かれます。私はじっと立ったまま、先生の指の動きに全神経を集中します。突然私は、なにか忘れていたことをぼんやり意識したような、思考が戻ってきたような、戦慄を感じました。言語の神秘が啓示されたのです。そのとき、「W―A―T―E―R」というのは私の手に流れてくる、すばらしい冷たいなにかであることを知ったのです。その生きた言葉が魂を目覚めさせ、光と望みと喜びを与え、自由にしてくれました。

筑摩書房編集部.ヘレン・ケラー ――行動する障害者、その波乱の人生
(ちくま評伝シリーズ〈ポルトレ〉)(pp.31-32).筑摩書房.Kindle版.

    この気付きの前、つまり言語を獲得する前の彼女は思考していなかったのだろうか。否、それは僕たちのスキームとは別の”何か”で思考はしていた。ただ、コミュニケーションを取る手段が言語しかないだけだったに過ぎない、と僕は考えている。そもそも言語は世界を恣意的に区分した単語で記述するものだが、彼女はそれをしていなかった。僕はそれが高度であると感じている。これ以上言語に関して踏み入れるならば、Ferdinand de Saussureについて言及する必要があるだろう。残念ながら僕は無学であるため、シニフィアンとシニフィエくらいしか知らないのだ。勘弁してほしい。話を戻そう。気付きの前後の思考をそれぞれ「非言語思考」と「言語思考」と名付けることにする。非言語思考は言語的な分解能の制限を受けず、それは真に僕たちの観測から生じる分解能により、その解像度を決定しうる。この仮説が正しいのであれば、僕たちの思考の根幹を担っているはずの言語が、その天井を押し固めていことになる。ここで気になってしまうのは自然言語の種類により、思考の分解能は異なるのだろうか、という点だ。異なるコミュニティでは重要とするものが異なり、それが自然言語の、とりわけある領域の単語の種類という形で表れるのだろう。よく日本語よりも英語の方がロジカルに記述できるとは聞くが、それはどの程度信憑性がある説なのであろう。僕からすれば、語順をFixすることで意味を付加しているはずであるのに、前置詞を使用して拡張させてる言語にロジカルな思考ができるのかは、かなり疑問であるが(僕の解釈です)。ならば初めから格助詞により語順の制限を持たない言語の方が良いのではないだろうか(僕の解釈です)。とはいえ語順の制限を持たないことは、高い親和度を持つ修飾語を同一のセンテンスに含めた際に注意が必要となる。親和度に関しては『日本語の作文技術』の3章に詳しい解説があるため、そちらを読んでいただきたい。自然言語の優劣などではなく、単に得意とする領域が異なるということだ(丸く収まるだろう)。だがそのような話がしたいわけでは決して無い。そもそも言語と観測から生じる分解能にどの程度の差が存在するのか、という点である。


語り得ぬもの

非言語思考

第7世代のプロトコル

クオリアの伝搬

真なる共同体

参考文献



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?