メリトクラシーの先に正しさはあるのか

  「自己肯定感」という単語はいつ頃から発生したのだろうか。

「自己肯定感」という言葉は1994年高垣忠一郎によって提唱された[20]。高垣は自身の子どもを対象にしたカウンセリングの体験から、当時、没個性化(不登校・無気力・自殺などの根底にある、自己・個・人格・生きる意欲の喪失化)が生じていた子どもの状態を説明する用語として「自己肯定感」を用いている[20]

[20]吉森丹衣子「大学生の自己肯定感における対人関係の影響 : コミュニケーションを重視して」『国際経営・文化研究』第21巻第1号、淑徳大学国際コミュニケーション学会、2016年12月1日、179-188頁。

https://ja.wikipedia.org/wiki/自己肯定感

もう30年近くこの世に存在していた単語とは驚きである。定義が複数記載されていたが、提唱者の定義を引用したいと思う。

高垣忠一郎[2]
「他人と共にありながら自分は自分であって大丈夫だ」という、他者に対する信頼と自分に対する信頼

[2]大事な忘れもの―登校拒否のはなし. 高垣忠一郎. 京都: 地方・小出版流通センター. (1994). pp. 50. ISBN 4938554852

https://ja.wikipedia.org/wiki/自己肯定感

「自己肯定感」と自己を冠しているが、他者が定義に組み込まれているのは何かの皮肉なのか。しかし東京都教育委員会の見解は少し異なるようだ。

東京都教育委員会[9]
自己に対する評価を行う際に、自分のよさを肯定的に認める感情。

[9]“自尊感情や自己肯定感に関する研究”. web.archive.org. 東京都教育委員会 (2009年). 2019年8月7日閲覧。

https://ja.wikipedia.org/wiki/自己肯定感

「評価」という概念が追記されている。最早全く違う意味に感じてしまうのは僕の浅はかさが原因なのか。とは言え僕の中に存在している「自己肯定感」という単語の意味は東京都教育委員会のそれに近いような気がしてならない。実のところ自己評価の結果がポジディブである状態が「自己肯定感の良さ」を示していると考えていたからである。これは僕が生きてきた中でこの単語使用者の文脈から導いた主観的解釈の平均化に他ならないのだが、皆さんもそう遠くない解釈であったと信じたい。僕が受けさせられていた義務教育過程ではしばしば「自己評価」を強要させられていた気がする。これが原因なのだろうか。高垣忠一郎氏の定義にも他者が組み込まれている。どちらの解釈を採用したとしても、「自己肯定感」なるものは自己だけでは完結しないようだ。だが人は社会的な動物であると言われているように、僕たちは他者の観測なしに自己を規定できないというのは理解に苦しくはない。客観などという概念は実在しないし、俯瞰などいう状態は有り得ない。僕たちは常に主観のみしか持ち得ないし、得られた情報は全て自身のみが観測者として存在している状態を前提としている。だが他者の観測情報を僕たちは得る手段を持っている。コミュニケーションにより劣悪な精度で伝搬された観測情報を組み込むことで擬似的に他者の”視点”を得る錯覚を感じることができるだろう。そうして他者のフィルターを通して観測・評価された「自己」を、さらにコミュニケーションと自身のフィルターを通して観測した『自己』を評価しているのではないだろうか。これが正しいと仮定すると、なんと不正確な情報によって自己を評価しているのだろうか。この仮説の反駁として他者観測情報無しに自己を観測することが可能である点が挙げられる。勿論僕たちは僕たちが考えている内容を把握することができる。しかしその自己観測情報は”社会的存在許容”に対してどれほどの価値を持つのだろうか。自己観測情報は他者観測と他者評価を経由することで初めて社会的な意味を持つのではないだろうか。「自己肯定感」が真に自己の内部情報のみによって完結する概念であれば、きっとその反駁は正しい。すぐさま僕の仮説は棄却されるだろう。しかし残念ながら「自己肯定感」は他者を必要としているようだ。このように解釈すると高垣忠一郎と東京都教育委員会の定義から大きく外れたものにはならない気がする。

    もし形而上学的に正しい評価基準を持った判断装置があり、またそれが観測者として必要十分であり、その評価結果を正確に僕たちの脳にインプットする手段があるとしたときに初めて真なる自己評価ができるのではないだろうか。勿論こんな机上の観測者はいないため、全ての自己評価は”誤り”であり、「自己肯定感」は他者の中だけに存在する”正しさ”の影響を受けてしまう。少なくとも僕はそんな「自己肯定感」に魅力を感じないのであるが、残念ながら完璧な社会などなく、完璧な制度など有り得ないために、「自己肯定感」を無価値と判断できない。そしてきっと僕も「自己肯定感」の影響を少なくない程度に受けてしまっているのだろう。誰も形而上学的に正しい評価基準を持っていないが、不完全ながらも不完全な思考で不完全な社会を回していくしかない。そんな不完全な社会で他者から肯定されるためには「自己肯定感」という名の他者観測情報を重要視する他に術はないのだ。

    重要であるのは他者による評価をベースに僕たちは結果を付与されているのだが、その評価は正義など持ち合わせていないという認識である。他者評価はあくまでもその他者の基準によって判断されラベリングされた情報であるのだ。勿論チェリーピックは別の歪みを生むだろうが、この認識だけは真実であると信じたいものだ。一方で現行の制度と評価体制である程度の成功を成し遂げている社会が存在するのもまた真実である。残念ながら間違っていると知っているが、その間違った評価はある程度の再現性を持っているようだ。メリトクラシーが一向に衰退しない原因だろう。そして僕はこの間違いだらけの社会に生かされ、恩恵を受けている。またこの制度から抜け出したときの真に動物的な社会で生き残れないことも理解できている。だからこそ納得は到底できないが、腐敗した評価基準に従い、腐った評価を受けるために藻掻いていくのだろう。

    自己肯定感なる概念が出てきたのは最近であるのは何故だろうか。サピエンスが狩猟民族から農耕民族になってからかなりの時間を要しているように思える。浅学ながらアダム・スミス的な解釈を採用するのであれば、食料生産の余剰によって発生した非食料生産労働が原因であるのではないだろうか。また現社会では非常に高度化した分業化が行われている。これら非食料生産と高度分業化は、労働者の社会的貢献を観測しづらくさせている。本来コミュニティを成立させるために必要な労働は――そのコミュニティの成熟度によって様々ではあるものの――十分な食料とインフラ関係のみではないだろうか。第二次産業と第三次産業は第一次産業が十全である前提があって初めて成立するのではないだろうか。そして多くの人は第三次産業に分類される仕事に属している。その仕事が本当に社会に必要かどうかを問われたときに、自信を持って説明できる人間はどれ程の数存在しているのだろうか。僕自身も自分の労働に社会的な真なる価値があると説明するのは難しい。この世に必要のない労働があると言いたいわけではない。その必要性を理論的に他者に説明できる方法が著しく少ないということを言っているだけである。(経済学的は全ての労働の必要性を説明できるかも知れないが、多くの人はその知見を持たないと予想している。)また現在の教育と労働の関与度が低い点も要因の一つとして挙げられるだろう。必要性を与えられていない教育過程で、自身が社会に必要である説明をどうやってできるだろうか。少なくとも僕はその答えを持っていない。

    間違った評価基準を持つ社会と、必要性が不透明な労働によって、自身の存在を肯定できるだけの他者評価を受けづらい構造がある気がしてならない。この構造は最早努力なんて微力なものでは到底太刀打ちできないのだろう。それは資質を持たないものが努力した時に強く実感することができる。なぜならメリトクラシーが蔓延る社会では、結果の原因は努力であるという刷り込みが行われているからだ。そして結果は特定のフィールドでのみ判定されてしまう。その個が持つ適正とは無関係の場所でだ。残念ながらそれは悪意を持った黒幕が裏で糸を引いているからではない。メリトクラシーには一定の成果があるためだ。そしてそれは僕たちが望んでしまったものでもある。この構造を破壊する銀の弾丸など無く、資質のない人間もまたその社会の恩恵を少なくない程度受けてしまっている。

    「自己肯定感」の低下原因として理想の自分と現実の自分(他者観測された自分)とのギャップが指摘されているようだ。東京都教育委員会のレポートは意外と興味深く、包括的に調べてから書き下されていた。

自尊感情については、多くの研究があり、自尊感情を自分にとって「価値ある領域」における願望を分母に、成功を分子とする分数で表現し(成功/願望)、願望と成功との間に大きな差があれば、自尊感情は育成されないと述べているものや、自尊感情を「自己概念に含まれて いる情報を評価することであって、今の自分に関するすべての事柄について自分が抱いている 感情から出てくるもの」と位置付け、現実の自己と理想的な自己との矛盾(ズレ)の大小が自尊感情の高低に影響すると述べているものもある。

“自尊感情や自己肯定感に関する研究”.
web.archive.org. 東京都教育委員会 (2009年). 2019年8月7日閲覧。

残念ながらこのレポートでは「自己肯定感」を別の定義で捉えているため、これ以上の言及はない。少しだけ僕も触れておくと、「理想の自分」といっても、その人物像はどこから湧いて出てきたものだろうか。産まれた瞬間に既に内包されていたとは到底考えにくいものだ。これもまた他者により生成されていったものであると考えられないだろうか。期待や憧れはそれを成立させるのに十分な要素である気がする。

    僕たちにできることは少ないが、一つあるのは、受け入れる他者評価を選ぶことだろう。チェリーピックしろと言っているのではない。全て間違っている中で、比較的正しそうな評価に重みをつけるべきだという話である。そしてそれは”結果”とは完全に区別されるべきだ。結果も評価も運だが、少なくとも自己評価のための他者評価は重みつけるべきものを選ぶことができる。それが正しい行いであるかは今の僕にはわからないが、少なくとも全てを平等に受け入れるよりかは多少真理の量が多そうな気がする。

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