選択と評価

    久しぶりに漫画を買った。読み終わったら怪文書ができていた。怪文書はネットに流す形で供養しましょう。電子葬?

    『AIの遺電子』というシリーズの漫画がある。基本的に一話完結形式で描かれている。その中の一話を取り上げて自説を書くことにした。

    人間の脳より高度なAIが誕生した世界では、既に安楽死を選択できるようになっていた。ある一人の老爺はその選択を肯定的に捉えていた。彼にはポリシーがある。それは自身が"正常"な判断ができるうちに自身を「終了」させたいという考えだ。彼は妻と息子の理解も得られている。しかしある出来事を境に状況は一変する。最終的に彼は「自然な死」を望んだ。

    僕も近いポリシーを持っている。このエントリーを書いている令和5年の段階では選択できない行為ではあるが、きっと僕が長く生きれば可能になると考えている。長生きできなければ自動的にポリシー通りという算段だ。完璧だろう?だが老爺はその選択をしなかった。そして僕もこの漫画を読み終えたときにこう思った。それが"正しい"のだろうかと。そのきっかけとなる出来事を説明しよう。

    疎遠であった娘が突然帰ってきた。老爺が安楽死を行うことに反対するためだ。彼女は老爺を説得できないことを察すると、彼を連れ去った。彼女は「親孝行だ」と言いながら、彼をクルーザーに乗せたのだ。彼はクルーザーに乗りながら、娘がまだ小さかった頃を思い出すのだ。小さい頃の彼女は「無鉄砲・頑固・見通しのなさ」で周囲をしばしば困らせていた。それは家族も例外ではない。様々な"楽しくなかった"出来事が思い出された。当時は彼女の育て方が間違っていたと思うこともあった。だが老爺は言うのだ。「そうやって…楽しくなかったはずなのに、思い返すと何故か笑ってしまうんだ。」

    この出来事に言及する前に、作者のコラムを引用したい。

(前略)
幼い頃の記憶で残っているのは、やはりトラブルです。
(中略)
なので、私にとってトラブルは、おぼろげになっている自分の過去や人との繋がりが、確かに存在していたということを自分に印象付けてくれる、人生のスパイスの1つなのです。トラブルをそう捉えるられることは、よほど幸運な部類の人生を送ってきたからなのかもしれませんが、それが素直な実感なのです。

山田胡瓜『AIの遺電子 Blue Age 6』(少年チャンピオン・コミックス) Kindle版、
2023年、位置No.45。

    「選択によって生じる結果の評価は時間依存性がある。そして"正常"を成立させる要素は、自身が観測できる要素より膨大だ。"正常"と"正常ではない"の境界は、究極的には個人の恣意性を除外できない。だからこそ過去の"正常"だと認識した状態で判断した結果を"正しい"と保証できる根拠は無いのだ。」
    上記が僕がこの話を読み終えた直後に受け取った内容である。しかしコラムを読んで少し考えるべき要素が増えたようにも思えた。作者の考える「トラブル」は発生した後に影響が弱いものを指している。つまり「娘の育て方」という選択によって生じた「トラブル」という結果は、老爺の現在に強い影響を与えていないのだ。もし彼の選択が現在に影響するほどに強いものであった場合、つまり彼が現在も引き続きそれを後悔していた場合は、「そうやって…楽しくなかったはずなのに、思い返すと何故か笑ってしまうんだ。」などとは思えなかったのではないだろうか。そして今回の安楽死という選択が同様の思考により棄却されるべきことなのかというと、僕は懐疑的である。
    一方で結果の評価は時間依存性があり、評価を行う時間によって流動的であるのだから、選択という行為には意味がないとも考えられる。安楽死という判断をすることで生じる結果は、その後の評価タイミングに依存してしまう。その判断が良かったか悪かったかは「誰が」「いつ」評価するのかによって変化する。加えて問題をややこしくしている点が、評価を行う候補に老爺は含まれない点である。

    課題を整理しよう。今回の選択が"正しい"かどうかを判断する上での課題は二点考えられた。

① 選択した結果の評価に時間依存性がある
② 安楽死後の結果を評価する人間に、安楽死を選択した本人は含まれない

    ①は判断するタイミングと評価するタイミングにおいて保有する情報量の差が原因として考えられる。つまり評価する際は、判断したタイミングと同じ情報量にすることができれば解消する。勿論これは判断する際に生じる揺らぎが発生しないことが条件に挙げられる。加えて既に得られた情報を、過去の特定のタイミングまで削減することは非常に困難である。しかし情報量の差を考慮して判断を評価することは可能である。過去に判断したタイミングの自分が、別の判断ができないと考えられる、ある種の納得感を得られれば良い。それはすなわち同一の情報量において、判断が揺らがないと思えるほどの思慮深さが必要となる。
    ①の解決法は判断者と評価者が同一である前提がある。しかし今回のケースは同一ではない状態を考える必要がある。何故ならば判断者は判断が終了したタイミングで評価者の資格を失う状態が存在するためだ。それが②の問題になっている。少し今回の漫画の補足をする。

    老爺はクルージング中に痴呆の進行で判断能力か欠如した。それは安楽死の決定を行えるレベルより下がってしまった。この場合は自身の活動データを学習したAIが判断することにしていた。老爺のデータを学習することで完成した、彼が"正常"な思考が可能であった時期の複製と呼べるAIは、彼と"対話"を行うことで次のように結論付けた。安楽死ではなく、自然な死を推奨すると。

    今回のケースではどの選択をしたとしても、老爺が評価者にはなり得ない。②は今回のいかなる状況でも成立する課題と言える。この場合は評価者が判断者の判断状況を正確に把握する必要がある。そうでなければ①の課題に引き戻されてしまう。つまり老爺だけでなく、その家族も判断者の一部となる必要がある。チープに言えば「互いに寄り添う」ことが条件に含まれると考えている。残された家族が未来で納得できるだけのコミュニケーションは、きっと後悔に対するリスクを下げるのだろう。

    判断とそれにより生じる評価は、時間的な非対称性により生じる情報量の差を起因とし、判断に対する評価を下げる可能性がある。これは判断時の情報量の差を考慮に入れた評価を実施することと、同一の情報量の場合に判断が揺れないほどの思慮深さを合わせることで解消する。しかしこれは判断者と評価者が同一である前提を持つ。
    判断者と評価者が同一でない場合は、それぞれが十分な情報の共有を行うことを追加で実施し、判断者も評価者も十分な理解を求められる。
    今までは自身の判断は自身に対する結果という形でしか反映されてこなかった。しかし安楽死のようなケースでは、その影響範囲は自身以外も含まれてしまう。つまり自分の死は自分だけでは決められないのだろう。現代の価値基準ではそれは当然であるのだろうが。
    子孫に迷惑をかけるくらいなら身を引いたほうが良いと考えていた。しかしそれは子孫、そしてパートナーと共に考えるべきことなのだろう。そう考えると安楽死を自分だけでは決められない不自由さというものは、存外悪くは無いと感じた。



以下蛇足

    『AIの遺電子』シリーズは『AIの遺電子』『AIの遺電子 RED QUEEN』『AIの遺電子Blue Age』の3部構成になっている。どうやら雑誌の都合で3部作になっているそうだ。『AIの遺電子Blue Age 5』のコラムで不満を漏らしていた。よく編集はこのコラムで通したな。いや修正済みか……。無印版と『Blue Age』は基本一話完結形式である一方で、『RED QUEEN』は正当SFという感じの5巻で一つのストーリーになっている。3部目の『Blue Age』で一話関係形式に戻ったので、やりたかったことはこっちなのだろうか。個人的にも一話完結形式のほうが好きである。少なくともこのシリーズに関しては。あくまでも僕個人の感想であるが、どこか『ブラック・ジャック』を感じてしまう。一話完結形式であり、読んだ後にしばらく考えさせられる、そんな漫画だ。そのように感じつつ読み進めていると、漫画内のコラムでも『ブラック・ジャック』の話題が出てきた。なんだか嬉しくなってしまった。そもそもチャンピオン繋がりだね。『RED QUEEN』自体も好きな内容ではあったのだが、途中から爆速で物語が進んでしまったことが不満点であった。コラムによると『RED QUEEN』は「あと4話で終わらせてください」と言われてしまったそうだ。漫画というものはなかなかに難しいものだな。こんなに面白い漫画であるのに途中で終了させる必要があるなんて。これも特定の時間での評価ということなのだろう。
    蛇足だからといって好き勝手書いていたら本物の怪文書ができてしまった……

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