カオスな無垢と過干渉

    宮崎駿監督の『君たちはどう生きるか』を観た。以下は僕の勝手な解釈を垂れ流します。それを読みたいと思った非常にけったいで暇な方はどうぞご覧になってください。

 

    『君たちはどう生きるか』というタイトルであり、監督を考慮すると、この映画は2時間の啓蒙動画を観る楽しみ方が妥当だろう。そう考えていた。しかし蓋を開けてみるとどうしたことか、説教臭さを感じさせないファンタジーだった。それどころか僕にはこの映画が「戒め」であるように思えてならない。
    細かい設定の考察・解説や監督のプロファイル的な類は、自称教養者のような無知蒙昧な白痴共にお任せするとしよう。このエントリーは普段アルミホイルを頭に巻きながらSNSで怨嗟を吐き散らしている僕の怪文書である。

    構成は非常に理解しやすいものだった。悩みを抱えている少年がある事件をきっかけに異世界に行き着いてしまう。紆余曲折あった上で、少年の悩みに落としどころが見つかり、そして元の世界に戻ってくるのだ。このように書くと、非常に失礼ではあるが”形式的”ではなかろうか。だが”形式的”であることは悪ではないと、僕は考えている。それは多くの人が理解しやすい構成であることを意味している。つまり脳みそを空っぽにして観たとしても、ある程度”理解”できるはずである。語弊を恐れずに言えば、無垢でカオスな子どもたちに伝わる作品だろう。そのような意味で僕は非常に安心してしまった。彼が作る作品は子供向けであってほしいという勝手な願望が、僕の何処かに存在したのだろう。

    単純に観て面白いエンタメだったのかと言うと、僕はそうではないと考えている。「あらゆる人の創造物には制作者の”意図”があり、作品は”手紙”である」と僕は考えてしまう悪い”癖”がある。それは例に漏れず今回も適応されているのだろう。以下は考察ではなく、感受性豊かな電波野郎の妄言であると考えてほしい。妄言を語る前に少しだけ本映画の概要を補足させてほしい。

    少年が行き着いた異世界は、彼の大叔父が作成したものだと判明した。そして大叔父はその異世界で生きていたのだ。だが異世界と大叔父の体は限界なようで、少年に異世界の作り直しと管理者を引き継いで欲しいそうだ。しかし少年はそれを断り、元の世界で生きていくことを選んだ。そして当然異世界は滅びる。

   大叔父は自身の創造した異世界とその管理者の引き継ぎを子孫たる少年に託したいと考えている一方で、少年は元の世界に戻るべきだとも考えていた。大叔父は何故矛盾した考えを持っていたのだろう。複数の要因の描写があると考えている。異世界の必要性と少年の利益である。
    まず異世界はそもそも絶対に必要なものではなかったのではないだろうか。だが異世界が元の世界に影響を与えている描写はあり、大叔父は異世界の存続に大義があるように感じている描写もあった。単に美しい庭を作り、その面倒を子孫に押し付けている厄介な老人というわけでもなさそうなのだ。
    管理者を託すことは少年個人の得になるかというと部分的にNOである。管理者になるということは、大叔父と同じように異世界に拘束されることを意味している。それは少年が本来元の世界で経験するはずだったことを全て得られないことになる。このように考えると「世界の得」という全体のプラスと「少年の犠牲」という個人のマイナスが同時に大叔父の天秤に乗っていることになるのではないだろうか。なんと大叔父はベンサム的矛盾を抱えていたとは。
    一方で少年に少しの得もないかと言うと、ある時点ではそうでもないはずだ。彼は元の世界で悩みを抱えていた。悩みの詳細は記載しないが、とにかく彼にとって元の世界はそこまで魅力的には感じていない。少なくとも異世界を訪れる前までは。だから相対的に異世界に魅力を感じ、その管理者になることを肯定的に捉えることができたはずである。だが異世界で少年の悩みは根本的な解決はしないまでも、ある程度の落としどこを見つけ”納得”したのだろう。そのときには少年は元の世界がそこまで悪いものだとは考えていない気がした。そして大叔父は少年に尋ねるのだ。異世界を再構成し管理者になるか、元の世界に戻るかと。前述した通り、少年は大爺様の願いを断る。その際に大爺様は少年に確認をするのだ。元の世界は異世界より醜いもので溢れていると。だが少年には響かなかった。美しい異世界よりも醜い元の世界のほうが良いと思える何かかがあるから。

    僕が着目したい点は「少年の変化」と「大叔父の幼稚性」である。「少年の変化」とは冒頭の悪い意味での「子供じみた」少年の行動を、少年自身が「悪意」があったと自覚する。「子供じみた」行動と悪意の正体の詳細は記載しないが、少年は自身が善性のみを持った存在でないことを知った。「悪意」の自覚とその行動により他者にどのような影響を与えてしまうのかを学習したのだ。僕はこの成長は少年が責任を負う準備ができたのだと感じた。
    「大叔父の幼稚性」とは、おそらく大義はあるのだろうが、異世界を作り引きこもっている点を指している。何故そのように感じたかと言うと、異世界の調律の描写が、異世界全体を表しているであろう特殊な積み木を少し動かす程度なのだ。どれほど高度なことであるのかわからないが、あえて知育玩具をモチーフにしたその意味は、大叔父が行っていることの幼稚性を表現したかったからなのではないだろうか。そして大叔父自身が元の世界を良く思っていない点にもある。僕は大叔父が元の世界から逃げ出して異世界を作り、引きこもっているような気がしてならない。

    僕がこの映画を観て受け取ったことは「少年の成長を認め、たとえ彼の選択が自身の考える”正解”でなくとも、それを尊重する姿勢の大切さ」である。短い文章でまとめるとどうしたってチープになっていけない。だが、これができる程に自身の無知さを自覚できている人間は少ないのではないだろうか。
    本エントリーを書き始める前にいくつかレビューを拝見した。僕自身も触れているようにタイトルの『君たちはどう生きるか』に引っ張られて、そのままレビューを書いているようなものが多くあった。また前作の『風立ちぬ』もあり、どうも身構えたままの方が多い印象である。だが僕にはどうしたってこの映画から「子供たちを”正しく”導いてやろう」というメッセージを見出すことはできなかった。それは僕に文化的な教養が無いからなのだろうか。だとしたら僕は教養人でなくて心底良かったと思った。
    レビューの中には複雑で一度観ただけでは理解できないストーリーという評価があった。前述した通り、僕はこの映画を”形式的”なファンタジーと評している。骨格は非常にわかりやすいはずだ。だがこの物語は各描写に細かい明文化された説明は無い。そのため今の描写は何が起こっているのかを完全に理解することは難しい。だから異世界の詳細な設定は数度観ただけでは理解できないと思う。だがそれがどうしたというのか。わかる必要がないことはわからなくて良い。わからなくとも異世界のイメージはそこから受け取れるはずである。輪郭がぼんやりした状態で良いのだ。映画の詳細な設定を全て理解しないと、本来伝えたかった内容がわからない訳ではないだろう。省いている箇所は省かれるべくしてオミットされたのだ。むしろ全てを説明したとして、それは本来伝えたいことが過度な情報量により埋もれかねない。そう僕は考えている。
    本筋とは何も関係ないが、映画冒頭に死亡した少年の母親が、異世界で少年より若い姿で登場した点について少し触れたい。と思ったのだが、あまりにも本筋と関係ない上に良くない文章になりそうなので別の機会に書きたいと思う。
   こんな怪文書を読んで映画を観てみようなどと考える奇特な方は多くはないとは思うが、是非とも肩の力を抜き、リラックスして観ていただきたい。

    僕が大叔父だとして、彼のように子孫に選択を委ねることができるのだろうか。子孫の成長を認め、その選択を受け入れる事ができるほどに”大人”になれるのだろうか。僕が考える”理想的な優しい世界”は子どもたちにとって”理想的”なのだろうか。そう考えると僕はこの映画を「戒め」だと思えてならないのだ。僕の脳が壊れないうちに、僕が僕を”正しい”などと勘違いしないうちに、僕の子どもたちには”大人”になって欲しいものだ。

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