機運

    僕の嫌いな単語の一つに「権利」がある。あるいは「資格」でも良い。これらの言葉を錦の御旗として、ないしは諦念に対する肯定に使用することに違和感を感じてしまう。辞書的な意味に加えられたニュアンスは主観的な解釈にすぎないけれど、その単語に堆積した泥の意味を考えてしまう。古い新明解国語辞典には一体どのように記載されていたのだろうか。山田忠雄氏の解釈が気になってしまう。もし図書館に行く際は確認してみよう。

    結果という現象には原因が必要だという考え方は人間中心的な考え方だと思っている。ましてやそれら全てを観測できるという自惚れはあまりに謙虚さとは程遠い。勿論少しばかりの真理が含まれてはいるだろう。しかしそれを人が語るにはあまりにも無知の棚上げが必要なのではないだろうか。僕たちが観測できる事象はあまりにも少ない。それは結果とラベリングされた事象と、原因とラベリングされた事象のどちらにも言えることだろう。

    僕が"世界"を知りたいと思った時、僕が頼る感覚器官はあまりに低級だ。目は350nm~700nm、耳は20Hz~20kHz、鼻は数十万種類程度のレンジしか無いらしい。分解能まで考えるとあまりに頼りないセンサーではないだろうか。つまり僕が観測できる事象はせいぜいその程度のレンジと分解能によってのみ得られる範囲のことでしかない。きっとダニング=クルーガー効果として頻繁に紹介されている数学的なグラフは嘘なのだろう。後半は0に対する漸近線になるはずだ。論文にもあのグラフは記載されていないそうだ。であればあれは一体何……?

    あらゆる因果関係は少なくとも観測した範囲の事象関係で判断したものだろう。秘匿された交絡因子を無視して断定されている。しかし自然科学はそれら無知の棚上げによって断定した関係性に法則を名付けて発展し、また僕はその無知の法則による恩恵を受けて生活をしている。それらを含めて否定したくなる白痴さが、僕を幼稚たらしめる根源なのだろうか。

    「無知の自覚」をした上で事象から因果関係を見出そうとすると、そこにはただただ結果という事象を引き起こすのためにその時点で必要な要素がたまたま揃っていたと解釈することが正しい気がしている。つまるところある種の「運が良かった」に過ぎないと。だからこそ結果に対して「権利」や「資格」という単語を使うのに抵抗が出てしまうのだろう。それらは後付けでしかなく、単に機運によってのみ決定されるのだから。少なくとも僕はそう信じている。


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